「伏見健二講演会―RPGで開かれる世界―」レポート

2013年7月21日に開催された「伏見健二講演会―RPGで開かれる世界―」というイベントの模様を、ゲストとして編集者の中森しろさまにレポートしていただきました。中森さまはカードゲーム『コレクタブルモンスター』のデザイナーでもあります。(岡和田晃)

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「伏見健二講演会―RPGで開かれる世界―」レポート

中森しろ (協力:伏見健二、成人発達障害者当事者会イイトコサガシ、齋藤路恵、岡和田晃)

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2013年7月21日(日)豊島区心身障害者福祉センターで「伏見健二講演会-RPGで開かれる世界-」が行われました。主催は、東京都成人発達障害当事者会イイトコサガシ。イイトコサガシは、コミュニケーション・ワークショップに特化した成人発達障害当事者会です。講演会は、伏見健二氏が開発したRPG『ラビットホール・ドロップス』をイイトコサガシで運用できる形にした『ラビットホール・ドロップスi(アイ)』の体験会と合わせて開催されました。当日は、午前中に伏見健二講演会、午後からは『ラビットホール・ドロップスi』の体験ワークショップが行われました。ここでは、伏見健二講演会のみをレポートします。

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講演会は、前半が伏見健二氏の講演、後半がイイトコサガシ代表の冠地情氏との対談というプログラム。この日の聴衆は約30名。その後のアンケートを見ると、RPG経験者は少数で、多くはRPGを経験したことのない方々でした。

講演は、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』に始まるRPGの歴史から始まりました。最初は淡々と聴いていた観客も「世界で最も売れたコンピュータRPGはなんでしょう?」という質問で「ドラクエ」「ウルティマ」「ファイナルファンタジー」「ポケモン」と様々な答えが出て、一気に場が和みました(正解は「ポケモン」)。

その後、日本でのRPGの展開が語られ、RPGが構造的に持っている一つの欠点として“ゲームの場から浮いてしまいがちなプレイヤー”の話へと進みました。

講演中、もっとも来場者の方々の関心が強かったのがこの箇所でした。というのも、その問題のある“浮いてしまいがちなプレイヤー”の特徴というのは、発達障害の特性とも重なる部分があったからです。

発達障害の現れ方はさまざまであり、こうした特徴を持たない発達障害の人もいます。しかしながら、たとえば“シングルフォーカス”(特定の事柄へ過剰に集中してしまうこと)の特性を有した発達障害者は、しばしば“空気が読めない”あるいは“協調性がない”とみなされ、コミュニケーションの場から排除されてしまうこともありました。

そういったプレイヤーも自然に溶け込めるユニバーサルなRPGをデザインしようというコンセプトで開発されたのが、『ラビットホール・ドロップス』、そして『ラビットホール・ドロップスi』であるということで、それらについてのより踏み込んだ話は、後半の冠地氏との対談の中で語られることになりました。

後半の対談の中では、RPGと発達障害との出会いについて語られました。これはまさに伏見氏と冠地氏の出会いによって『ラビットホール・ドロップス』が生まれてきたという歴史が披露されたのです。

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そういうこともあって、当日の午後に行われた『ラビットホール・ドロップスi』の体験ワークショップには、事前の申し込みの無かった方も含めて観客のほぼ全員が参加していただけるといった盛況ぶりでした。

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中森しろ(なかもり・しろ)
1964年兵庫県生まれ。法政大学卒業。在学中に『Advanced Dungeons & Dragons』にハマる。その後、出版社勤務を経て、1992年遊演体に入社。PBM『夜桜忍法帖』、『蓬莱学園の休日!』、『鋼鉄の虹 -Die Eisenglorie-』で会誌の編集を務める傍ら、『ファー・ローズ・トゥ・ロード』、『鋼鉄の虹 パンツァーメルヒェンRPG』、『蓬莱学園の冒険!!-復刻版-』などの編集にも携わる。その後、アニメ製作会社を経て、2003年エルスウェア入社。『ライトノベル完全読本』、『超解! フルメタル・パニック! 2007』などのムックや単行本の編集を手がける。現在は、フリーの編集者として、活動中。

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※RPG『ラビットホール・ドロップスi』の、「Role&Roll Station」等、都内のゲーム専門店、およびAmazon.co.jpでの取り扱いが始まりました。

この作品はAnalog Game Studies(AGS)の齋藤路恵氏がメイン・デザイナーをつとめ、成人発達障害当事者団体イイトコサガシと、ゲーム創作者集団エテルシア・ワークショップ(グランペール・ブランド)、およびAGSのコラボレート作業で完成に至った完全新作です。

★ご注意ください!

この冊子は成人発達障害当事者会「イイトコサガシ」のワークショップにおいて用いられる会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)のルールと、そのガイダンスです。一般的なゲーム商品とはその性質が異なりますので、ご理解の上、お読みください。ラビホアイ”で、お話づくりを通してコミュニケーションを楽しく試そう!

やさしいRPG「ラビットホール・ドロップス」から生まれた、完全に未経験者向きのRPGワークショップ「ラビットホール・ドロップスi」のすべてを解説。7つのステップと「リドラー」システムで、みんなが即興のお話作りを体験する2時間半のプログラム。
ハプニングに笑い、みんなのいいところを見つけて、とても心が解放されるような、素敵なひとときを過ごしませんか?(裏表紙より)

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また、2013年11月10日に「発達障害ラビットホール・ドロップス・アイRPG IN 神奈川県川崎市」が開催されます。リンク先の詳しい情報をお読みのうえで、ぜひ参加をご検討ください。

12月14日にも、「発達障害ラビットホール・ドロップス・アイRPG IN 神奈川県川崎市」(同形式のイベント)の開催が告知されています。

12月8日には、「TRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)が好き、もしくはTRPGに興味のある、発達障害のある成人当事者や発達障害支援にかかわる支援者・専門家と、TRPGの専門家とが一堂に集い、TRPGを楽しむコラボレーションイベント」である「Mission Impossible04~発達障害と想像力の世界~」が東京大学本郷キャンパスで開催されます。『ラビットホール・ドロップスi』にクレジットされている、明神下ゲーム研究会とイイトコサガシが主催するイベントで、Analog Game Studiesメンバーもゲームマスターとして参加します。申し込み方法はリンク先をご参照ください。

SF乱学講座「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える(2009年7月5日) 第1回

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【テーマ連載】「ゲームと文学をリンクする」

SF乱学講座「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える(2009年7月5日) 第1回

岡和田晃 (協力:草場純、田島淳)
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【但し書き】

本稿は2009年7月5日(日)に東京・高井戸で行なわれた市民講座「SF乱学講座」(前身たるSFファン科学勉強会から数えると、半世紀近い歴史を持つ市民講座で、「SFマガジン」に毎号告知が載っています)での講義を録音し、文字に起こして整理したものです。本講義は“ゲームと文学をリンクするという目的”で行われました。原則、細かな点には手を入れてはおりません(なので、以下の自己紹介等の情報は、2009年当時のものとなります)。

テーマ連載「ゲームと文学をリンクする」と題し、複数回に分けて公開していきます。聴講者の方の感想と併せてご参照いただき、ゲームと文学のよりよき関係について考えるよすがとしていただけましたら、幸いです。

【事前の内容紹介文】

SFがテクノロジーと人間との関わり合いに焦点を当てた文学形式であることは論を待ちません。しかし、「情報」として作品内にテクノロジーを組み込むだけではなく――J・G・バラードや筒井康隆らが示してきたように――爛熟したテクノロジーが人間を、ひいては表現そのものをもダイレクトに変容させてしまうところにも、SFの面白さは宿るものと私は考えます。

それゆえ、SFの在り方を考えるには、SF内で描かれる情報の種類だけではなく、SFを規定する表現そのものの在り方についても思考の幅を広げる必要があるのではないでしょうか。

かような問題意識のもとに、参加者の方々と一緒に、SFという表現の可能性について考えてみるつもりです。

具体的には、私が近々上梓する評論「青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」(『社会は存在しない』所収、南雲堂近刊)と、ロールプレイングゲームについての単著『ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド』の両者(編注:ともに2009年に刊行された)がいかなる問題意識のもとに書かれているのかの解説を軸にして、「ナラトロジー」(批評理論としての物語論)と「ルドロジー」(批評理論としてのゲーム論)の両局面から、SFという表現の在り方が今後いかように深化しうるのかを考察しようと思っています。

「いわゆるハードSF的なアプローチの他にも、アクチュアルな表現としてSFに接することは可能だ!」ということを知っていただけましたら幸いです。

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●はじめに

皆様、はじめまして、岡和田晃と申します。今回はお忙しいなか、また日本SF大会と日程が重複しているさなか、わざわざ足をお運びいただきまして、ありがとうございました。

今回は皆様に「「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える」と題した講演をさせていただこうと思います。岡和田の話すことそのものをフィーチャーしたイベントというのはこのSF乱学講座が初めてとなります。拙い部分も多々あるでしょうが、なにとぞ、お手柔らかにお願いいただければと思います。

 

●自己紹介

さて、私はゲーム、特に「ロールプレイングゲーム」(RPG)という分野のライティング仕事を文芸批評と並行して行なっています。RPGのライティングとは、ゲームのシナリオを書いたり、設定を翻訳したり、チェックしたりする、という仕事でして、ほかにもイベントの取材をして結果をレポートしたりと、色々な仕事をしています。後述しますが、ゲームライティングといっても、会話型のロールプレイングゲームの場合、ゲームの運用そのものにもクリエイティヴィティが求められますから、ジャーナリストよりは小説家に近い仕事かもしれません。

一方、文芸評論・SF評論の仕事は主に「speculativejapan」という、ワールドコン・Nippon2007という世界規模のSFイベントを契機として結成されたグループをベースに活動しています。かつて「NW-SF」という雑誌を主催していた山野浩一さんや、山野浩一さんとの論争が日本SF史の基礎となった荒巻義雄さん、そして「NW-SF」で翻訳家としてデビューし、今も精力的に活動を継続している増田まもるさんらが活動しています。

「speculativejapan」には「ニューウェーヴ/スペキュレイティブ・フィクション・サイト」とありますが、わかりやすく言えば「純文学」と「SF」の境界線上にある作品についての批評を掲載していくプロジェクトなのですね。その活動の延長線上で、「SFセミナー2009」というイベントでは「若手SF評論家パネル」というパネルに出演し、合宿では「Speculative Japan (J・G・)バラード追悼『楽園への疾走』読書会」、「仁木稔さんというSF作家の『HISTORIA』シリーズを語る」なるパネルを主催いたしました。

商業ベースの批評では、『社会は存在しない』という共著が南雲堂から刊行されました。なにやら危険な題名ですが(笑)、マーガレット・サッチャー、そう、「鉄の女」こと、イギリスの元首相の有名なセリフ「社会は存在しません。あるのは国家と個人だけです」という有名な文句を下敷きにした本なのですね。つまり、サッチャーが推し進めてきた――現在ではネオリベラリズム(新自由主義)と呼ばれる、社会保障を切り捨て「小さな政府」を推進する経済政策が特徴的なグローバル資本主義が、日本のフィクションにいかなる影響を与えたのか、それを特集的に論じている評論集です。

こちらに私は、「青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」という400字詰め原稿用紙換算で80枚ほどの論考を寄稿しました。商業媒体において批評の肩身は、年々狭くなってきておりまして、文芸誌を見ても掲載される内容の多くは「広告」であっても「批評」と呼べるものではなくなっています。そうしたなかで、ようやく書きたいことが書けた、という手応えがあります。

また、ほぼ同時期に、私の初めての単著であるところの『アゲインスト・ジェノサイド』という本を出させていただきました。『アゲインスト・ジェノサイド』は、RPGの「リプレイ」という分野に属する本です。なかでも、ジャック・ヒギンズやジョン・ル=カレらの仕事、つまり「冒険小説」を意識した長篇小説のような内容になっています。新書サイズですが、その実、内容はぎっしり、かなりのボリュームがあるんです。

『社会は存在しない』に収録された批評と、RPGリプレイ『アゲインスト・ジェノサイド』。これら二篇は、一見まったく異なる作品ではありますが、実は共通した問題意識に基づいて書かれています。そのことを中心に、お話を進めさせていただきます。

 

●在野で批評をするということ

私の仕事のうち、フリーライターとしての仕事は、わかりやすいものだと思いますが、批評の仕事については、もう少し、説明が必要かもしれません。
身も蓋もない言い方になりますが、そもそも批評とは、ある意味において図々しいものです。日本における近代批評を拓いた重要な立役者に小林秀雄という人がいますが、小林の時代から、自分がそれと直観したことが――たとえそれが通説に反していたとしても――社会において普遍的な価値を持つ、意見として提出するに足ると信じ、言葉を磨いていくことが根本的な出発点となっています。その問題意識がいかなるものであるのかをなるべく噛み砕いて説明していくことで、何らかの思考のヒントを提示できたらと考えています。

なお、私は批評の仕事をしているといっても、学会にも所属していなければ、大学院で指導教官を得ているわけでもありません。在野の批評の徒として、ここに来ているつもりです。私が大学にいたころは、アカデミズムに安住せず、在野で批評をすること、それ自体が、状況に対しての批評的な態度となる、そのような選択が許された時代でした。

在野であることのメリットは、まったく組織にいることの恩恵を受けられないということです(会場笑)。つまりはフリーランス・ライターですね。この立場にこだわりはないつもりですが、フリーランスでいることの長所は、学閥のような面倒くさい「しがらみ」に対して、できるだけ批評的な位置を崩さないでいられることでしょうか。反対に、自分の発言の保証を自分で取るしかないとも言えるわけで、自分の発言の前提を常に疑わなければなりません。つまり自分が、自分の指導教官なのです。必然的に言葉は重くなります。今回の講義は、そうした疑義の繰り返した結果の産物だとご了解ください。在野であることを自己目的化しているわけではないので(笑)、将来的には、どこかに所属することもあるかもしれませんが、出発点が在野にあるので、この精神は保持していきたいと考えています。

 

●「SF」は「近代」の産物

さて、今回は「SF乱学講座」ということもあり、これらの前提を「SF」に引きつけてお話をさせていただきます。「SF」がテクノロジーと人間性の関係を主軸とした文芸ジャンルであるということは、多言を要さないでしょう。

むろん、広義の「SF」、ひいては「幻想文学」という括りでは、私たちが思い浮かべるような「SF」の成立以前にも、優れた作品は多々存在します。例えば、旧約聖書。あるいは、『オデュッセイア』。モーゼの十戒で海が割れたりだとか、一つ目の巨人キュクロプスに出くわすだとかいった内容は、現実離れした荒唐無稽な内容ともいえ、その荒唐無稽さは「SF」として解釈できるようにも思えます。

ですが、ここでは「SF」を「近代」の産物として理解することにしましょう。それは、「SF」を「SF」と認識する姿勢が、産業革命と出版産業の拡充を経て、生まれた考え方であるからです。「実は何々がSFだった」という遊びは、私も好きでよくやりますが(笑)、話をわかりやすくするためにこうした文学史的な経緯を重視します。

さて、「近代」とは何なのかを具体的に措定するのは難しい行為ですし、そもそも実証主義的な歴史学では「近代」という概念が具体的な形として成立するかどうかすら、怪しい面があるのもまた事実でしょう。しかし、ルネッサンスにおける人間観のドラスティックな変化を経て、官僚と常備軍を備えた「国民国家」や、国民のアイデンティティを規定する「近代文学」が成立は、「近代」の重要なキーとなります。

いわゆる「近代文学」の登場人物は皆、際だった個性を有しています。ロシアの作家・ツルゲーネフは、「近代文学」の類型を、シェイクスピアの戯曲に登場する「“ハムレット”型」と、セルバンテスの小説の主人公である「“ドン・キホーテ”型」に分けています。ハムレットにせよ、ドン・キホーテにせよ、それぞれ病的なまでに極端な人物造形ですね。でも、彼らは「近代人」の典型、すなわち「国民国家」のパーツの一部分として受け入れられる。つまり、著名な批評の言葉を借りれば「ハムレットは我らの同時代人」、というわけなのです。それは、「近代文学」へ本質的に根ざした特性と言い換えることもできます。

「近代文学」を定義づける条件のひとつに「内面」の「発見」があると言われますが、一方で「近代文学」と「SF」の違いとは、「社会」における「個人」の内面だけではなく、「社会」の変動と「個人」の関わりについて、より主題的に考察したところにある。そう、私は考えています。

 

●社会システムへの思考実験としての「SF」

主題的とはどのようなものでしょうか。ダルコ・スーヴィンというSF評論家がいるのですが、彼は『SFの変容』という著作で、16世紀のトマス・モア『ユートピア』を、SFの端緒のひとつと見ているわけです。『ユートピア』には、当時のイギリスで行われていた「囲い込み」運動(エンクロージャー)、地主が羊毛の取り引き量を増やすために牧場を拡大し、そこに住んでいた民を追い出す運動ですが、それを批判する下りが出てきます。

モアが描くユートピアには「囲い込み」のような、非人道的なことをする者はいない。ひとつの島に批評的なイメージを集約しつつ、それを国家と対比するわけです。宇宙船も光線銃も『ユートピア』には出てきませんが、社会をめぐる環境の変動という意味で、『ユートピア』は「SF」の祖型であると言えるでしょう。

事実、現在も「SFマガジン」で樺山三英という優れた作家が、『ユートピア』やオーウェルの『1984年』や、ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』など、ユートピアを主題に連作を書き続けています(注:2012年、『ゴースト・オブ・ユートピア』と題して早川書房より刊行)。樺山さんがSFという枠組みのなかで「ユートピアSF」を書いている、その問題意識には、スーヴィンと相通ずるところがあると思います。『ユートピア』が体現している、現実とは別の社会システムを思考実験として導出すること。それが「SF」というジャンルの枠組みを決定づけているのではないかと私は考えています。

作家・批評家のブライアン・オールディスによれば、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』から始まるとされるSF史の流れも、こうした、「近代文学」の一面としての「SF」の流れと密接に関わってきます。「SF」が文学ジャンルとして大成したのは、産業革命と出版産業の興隆、特に一般大衆への出版文化の浸透という経緯を経た後、すなわち、アメリカのパルプ・フィクションの勃興を経ているのですが、優れた「SF」は『ユートピア』が体現していたような、文明批評、社会批評的な側面を強く保持しているのではないかと思います。

架空のモデルを設計することで、テクノロジーや社会システムの工学化を問題にすること。事実、『ユートピア』で槍玉に挙げられた「囲い込み」も、明らかに近代社会における工業化の産物ですが、それと人間性の変化を主題とした思考実験。ここに、SFの特性は根ざしているのではないでしょうか。

 

●テクノロジーとフェティシズム

ただ、20世紀の「SF」には独自の特徴があります。ひとことで言えば、今までに類を見ない、テクノロジーの高度化による社会のドラスティックな変化です。例えばアポロ11号が月面に着陸したのは1969年、今からちょうど40年前のことで、それまで人間が月の上を歩くことはできませんでした。

「SF」の黄金時代は、1940年から50年頃だという意見があります。アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインライン、レイ・ブラッドベリ、フィリップ・K・ディックら、「SF」というジャンルを大成させた巨匠たちが、本格的に活躍を始めたのはこの頃のことです。彼らは自分たちが小説で考察したヴィジョンというものが現実として具体化する様子を、目の当たりにしてきました。ただ、「SF」というジャンルが成熟していく過程で、工学的なヴィジョンだけではなく、テクノロジーと社会の変化の内部で人間性がどう変容するのか、という問題も真摯に問われはじめました。

「SF」内で、そうした問題について考察した最初の作家は、先日亡くなったJ・G・バラードです。バラードの作品は「SF」の枠を内側から食い破るようなもので、時代の病理を赤裸々に暴き、私たちの世界認識を更新させてくれます。現代社会を理解するにあたって、バラードの小説は、必須の教養としても過言ではないでしょう。

20世紀に入り、ロケットの到着によって宇宙が開発され、気象衛星や衛星放送などのテクノロジーが具体化するわけですが、20世紀的な科学技術の発展は、ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾による大量死といったような悲劇をも生んでしまいました。ロケットや原子爆弾といったテクノロジーが、どこか手の届かないところにある遠いものではなくなったときに、現代人の心性としては、日常生活の延長線上にあるものとして、テクノロジーは一種のオブセッション、フェティシズムの対象となるようです。

バラードの小説でテクノロジーへの執着を端的に表しているのが、1964年に書かれた「終着の浜辺」という短編です。B-29で日本を爆撃した元飛行士がエニウェトニク環礁の水爆実験場を訪れ、日本人医師の死体と、哲学的とも言える内的な対話を交わすという作品ですが、内的な対話と言っても、内面描写は、全然ありません。そもそも、会話がほとんどない(笑)。ただ見ているだけ、歩き回っているだけ。もちろん、ストーリーらしいストーリーもありません。ただただ、水爆実験場の荒涼とした、しかしながら蠱惑的な風景を執拗に描き出すバラードの筆は、なまなかなメッセージ以上に、私たちのテクノロジーへの執着を明るみに出してくれます。

「終着の浜辺」では語り手が、テクノロジーの内容(例えば原爆のメカニズムだとか)について詳細に説明するのではなく、原爆と人間の関係についての関係性そのものを、あくまでも「語り」によって表現しています。これは、珍しいことです。私は「SF」について書かれた評論へできるだけ目を通しているつもりですが、なぜか「語り」の性質が問われる機会が少ないように思えてなりません。

黄金期の「SF」が、宇宙旅行のような古典的な「SF」のテーマを主題にしていたとしたら、バラードのような作家は「内宇宙」、すなわち人間の内的世界を主題としました。それが、60年代のSFを特徴づける要素と言ってかまわないでしょう。きわめて大雑把なまとめになりますが、続く70年代には「フェミニズム」が重要なテーマとなり、80年代にはコンピュータ・ネットワークを中心にした「サイバーパンク」がブームとなる。以後は「ナノテクノロジー」や「シンギュラリティ」が着目されるといったように、主題となるテクノロジーそのものに目を向けられる機会は比較的多いような気がしますが、一方で、テクノロジーや主題、作品に籠められた思想や、肝心の「SF」という物語ジャンルの「語り」については、批評的に問い直される機会が存外少なく、それが「SF」をかえって畸形化させているようにも思えます。

 

●ナラティヴの定義は難しい

それもそのはず。「語り」について考えることは、なかなか困難な仕事なのです。そこで私が補助線として用いるのが、「ナラトロジー」という考え方です。ナラトロジーとは、英語のnarrativeについての学問ということで、いわゆる「お話」についての理論です。思い切って大胆にパラフレーズしながら、その本質を考えたいと思います。

大学や教育機関において、物語論や言語哲学について学んだ人は、エクリチュールやパロール、シニフィアンやシニフィエといった術語を耳にしたことがあるかもしれません。これらの術語を駆使して内実に踏み込むことも可能ですが、今回はそのような方向の議論はせず、あえて「ナラトロジー」を、“開かれた”理論として考えてみます。「ナラトロジー」は自由な理論で、誤解を承知で言えば、みんながみんな、好き勝手なことを言っていると思っていい、というのは放言が過ぎるでしょうか(笑)。

どういうことかと申しますと、「物語る」行為は、神話的とも呼べるほどの、人間の本能の一つだと私は考えておりまして、客観的に定義付けても、そこから逸脱するところがあるのではと考えているのです。つまり理屈としては筋が通っているように見えても、どこかそれをはみ出す余剰がある。上手、下手は問わず、「物語る」ことはできるのだとしたら、「物語る」ことは本質的に開かれた、普遍的な営為でなければいけないのです。

 

●昔話や物語の原像が示すもの

「近代」に入って、文学やあるいは人間の形が問い直された際に、物語の原型として、昔話であるとか、伝承の収集が盛んに行われました。誰でも物語ることは可能であるならば、その紀源を探れば、近代に穢されていない、理想的な人間の原型像のようなものが手に入るのではないか。そのような思惑が、どこかにあったのかもしれません。

ドイツで言えばグリム兄弟が、「赤ずきんちゃん」など、ドイツの民話を集めました。フィンランドでは神話的な民族叙事詩の『カレワラ』が、エリアス・リョンロートによって集められました。アイルランドでは、『オシアン』のマックファーソンや、詩人のイェイツが、ケルトの民話を聞き書きで集めました(『ケルトの薄明』)。日本では、柳田国男の『遠野物語』などが、特に有名ですね。

さて、ロシアのウラジミール・プロップという批評家がいまして、その人はこうした民話を読んで、あることに気がついてしまった。こうした物語は、みんな同じような構造をしている、と。ストーリーはいくつかのパターンに分けられる。日本の「浦島太郎」と、ドイツの民話を起原とする「リップ・ヴァン・ウィンクル」は、登場人物こそ違うが、同じ構造だ。こうして、有名な、物語のパターンをカードにして分類するという作業が生まれたと言います。ただ、いささか誤解されているのですが、プロップはその先にこう付け加えています。「確かに同じ話だ、なのに面白い」と(会場笑)。

なぜ面白いのでしょう。それは、各々のお話に、物語を収集してきた土地独自の、土地柄だとか、匂いだとか、そういうものが現われるからです。むしろ、語りは、そうした実体化しづらいものを表現させなければならないのではないか。

なので「SF」に引きつけますと……。「ナラティヴ」の仕組みに着目すれば、テクノロジーの種類だけでは見えなかった、テクノロジーと人間性についての新たな着眼点が得られるのではないでしょうか。このような問いが、立てられます。つまり、学問的に正確な「ナラトロジー」、つまり「ナラトロジー」の定義とは何かをこねくり返すのも大事ですが、また一方で、特定の作品を語る際に、作品を構成する「語り」の仕組み、ひいては作品の表現そのものを、より現場的な視点で考えるのも重要です。

繰り返しましょう。「ナラトロジー」とは何かを一面的に定義することは困難です。
今まで、長々と「SF」とは「文学」とは、ということを語ってきたのも、結局は「ナラトロジー」の「語り得ないもの」について輪郭を描く、苦肉の策というわけです。

『ギルガメッシュ叙事詩』から考えれば、人間が記録に残る形で物語を記録し始めてから、およそ5000年は経過しています。そのなかには、幾多もの歴史があります。この歴史を無視して、ナラティヴは成立しえない。「ナラティヴ」を考えることは、個人のナラティヴの背景に根ざした、無数の先人たちの「ナラティヴ」に耳を傾けることでもあるのです。

(続く)

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※11月6日に、岡和田晃による、初の批評の単著が発売されます。
11月4日(月・祝)の第17回文学フリマでも、特別価格で先行販売されます(オ-25「幻視社」)。

この講演の問題意識を引き継いだ内容となっていますので、お読みいただければ幸いです。

岡和田晃『「世界内戦」とわずかな希望 伊藤計劃・SF・現代文学』(アトリエサード/書苑新社)

※同じく11月4日に開催される「ゲームマーケット2013秋」で、RPG『ラビットホール・ドロップスi』が頒布されます。Analog Game Studies(AGS)の齋藤路恵氏がメイン・デザイナーをつとめ、成人発達障害当事者団体イイトコサガシと、ゲーム創作者集団エテルシア・ワークショップ、およびAGSのコラボレート作業で完成に至った新作です。

★ご注意ください!

この冊子は成人発達障害当事者会「イイトコサガシ」のワークショップにおいて用いられる会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)のルールと、そのガイダンスです。一般的なゲーム商品とはその性質が異なりますので、ご理解の上、お読みください。ラビホアイ”で、お話づくりを通してコミュニケーションを楽しく試そう!

やさしいRPG「ラビットホール・ドロップス」から生まれた、完全に未経験者向きのRPGワークショップ「ラビットホール・ドロップスi」のすべてを解説。7つのステップと「リドラー」システムで、みんなが即興のお話作りを体験する2時間半のプログラム。
ハプニングに笑い、みんなのいいところを見つけて、とても心が解放されるような、素敵なひとときを過ごしませんか?(裏表紙より)

ゲームマーケットブース情報 11月4日(月・祝)332番 エテルシアWS

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アナログゲームのユニヴァーサル・デザインに向けて:RPGのナラティヴとコミュニケーションを考える

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アナログゲームのユニヴァーサル・デザインに向けて
――RPGのナラティヴとコミュニケーションを考える――

冠地情×岡和田晃
(冠地情:ピアサポート・グループ「イイトコサガシ」主宰)
(岡和田晃:Analog Game Studies代表、ゲームライター/文芸評論家)

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去る2011年11月23日に「Mission Imposible 01――発達障害と想像力の世界」というイベントが開催されました。
こちらは、「会話型RPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム、TRPG)が好き、もしくはRPGに興味のある発達障害の当事者、発達障害支援に関わる支援者・専門家と、RPGの専門家とが一堂に会し、会話型RPGを楽しむコラボレーションイベント」のことを意味します。

ピアサポートグループ・イイトコサガシ、そして、広汎性発達障害に関わる精神医療の専門家が参加する明神下ゲーム研究会(旧称:明神下TRPG研究会)の共催となっているこのイベントに、アナログゲームのクリエイターや研究家からなるプロジェクトAnalog Game Studies も協力させていただきました。

Analog Game Studies では、明神下ゲーム研究会に参加し、「会話型RPGと教育」、「会話型RPGと発達障害」、「会話型RPGとナラティヴ」などの観点から、ゲスト講師を交えつつ、さまざまな議論を重ねてまいりました。その経験を実地で活かそうというのが、今回実現した「Mission Impossible 01――発達障害と想像力の世界」というイベントなのです。

「Mission Impossible」では、Analog Game Studiesからは岡和田晃、齋藤路恵、田島淳がゲームマスター、八重樫尚史がプレイヤーとして参加しました。またAGSからの協力者はイベントの開催に先駆け、ピアサポートグループ・イイトコサガシの代表、「冠地情」(かんち・じょう)さまの主宰する発達障害ワークショップに参加し、発達障害の方々と現場でコミュニケーションを交わしてきました。

以下の記事は、発達障害および精神保健について、読者がある程度の関心と基礎知識をお持ちいただいていることを前提に書かれています。『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?』など、各種資料等をあらかじめご参照のうえ、読み進めていただけましたら幸いです。
また、以下の記事は各種アナログゲームを治療行為に使うことを一般に推奨するものではありません。Analog Game Studiesの情報をご利用になったことによって生じた損害・トラブル等に関しまして、Analog Game Studiesおよびイイトコサガシは一切賠償責任を負いかねますことをあらかじめご了承ください。

イイトコサガシのワークショップは、「コミュニケーション能力向上ワークショップ」と題し、演劇的な要素を交えながら、発達障害の当事者と支援者が対等な立場でコミュニケーションを楽しく試す、というものです。

ワークショップの流れは下記のとおり。

・参加のしおりの説明(10分~15分)
・自己紹介(15分~20分)
・アイスブレイキング(コミュニケーションのウォーキングアップ)(30分)
・休憩(5分)
・ワークショップの説明(30分)
・会話によるコミュニケーション能力向上ワークショップ:二人バージョン(50分~60分)

アイスブレーキングでは「アイコンタクト」や、「昨日あったことを15秒でまとめて話す。そして話が途中でも、体内時計で15秒だと思ったところで手放す」。会話によるコミュニケーション能力向上ワークショップでは、与えられたテーマで相手に2回共感し、2回質問するという目標。そして、他人の会話でよかった点をわかりやすくほめるというような内容が行なわれました。

特に興味深いのが、ワークショップで学習できる楽しくコミュニケーションを進めるための方法論が、会話型RPGのテクニック、とりわけ「ナラティヴ」(語り)のあり方に深くつながりそうなところです。

もちろん、RPGの「ナラティヴ」が治療行為ではないように、イイトコサガシのワークショップも治療行為ではありません。イイトコサガシのホームページでは、ワークショップの形式について、下記のような説明がなされています。

形式:当事者会(自助会)であり、セルフケアグループ(ピアサポート)です。
トラブルが発生しない運営を*最優先*しています。
ワークショップ内でトラブルが起きたことは一度もありません。

【お願い事】後々のトラブルを回避する意味で、このワークショップに参加した場合の影響について、事前に主治医、専門医に相談していただくことを強く推奨致します。
(当事者が主催している会であること、当事者同士で行うワークショップであること、支援する専門職の同席が原則ない等を、ワークショップ資料(http://iitoko-sagashi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_23.html)を基に説明していただけると助かります。参加の是非、参加した場合の影響はイイトコサガシでは判断できませんし、その後の責任も負いかねます)。
未診断の方もご参加いただけますが、イイトコサガシでは参加後一切の責任を負いかねます。あらかじめご了承の上、ご参加下さい。

そこで、2011年10月23日に東京都練馬区で開催された第151回イイトコサガシ・ワークショップ終了後、イイトコサガシの代表である冠地情さまに、「発達障害当事者会のワークショップと会話型RPG」という観点から、お話をうかがってみました。ちなみに冠地さまは、『ルーンクエスト』など、海外ゲームを遊びこんできたベテラン・ゲーマーでもあります。

 ※すでにAnalog Game Studiesでは、顧問の草場純氏による「会話によるコミュニケーション向上ワークショップ(イイトコサガシに参加して)」を公開しております。併せてご覧ください。

■イイトコサガシの出発点

岡和田:はじめてイイトコサガシのワークショップに参加させていただき、とても感銘を受けました。とりわけ、日常生活で意識を向けることのない「話し方」(ナラティヴ)のあり方について、改めて考えなおすきっかけとなったように思います。
冠地:ありがとうございます。
岡和田:このようなワークショップを企画された背景は?
冠地:中学3年生の時に演劇のワークショップに参加したのが出発点です。宮沢賢治の「ツェねずみ」という作品を発表するワークショップでした。そこに参加して良かったのは、親以外の大人とコミュニケーションできたことですね。高校では、「青梅青年の家」というところで、『竹取物語』を全12回で上演するという宿泊型のワークショップに参加しました。そこで、「あーでもない」「こーでもない」と試行錯誤してかぐや姫のいち場面を創り上げるのがとても楽しかった。こうした活動が、僕の原点です。
岡和田:演劇経験を福祉の分野に活かそうという意識は、いつ芽生えたのですか?
冠地:僕が32、3歳の時に「燃え尽き症候群」的になって、偶然『ジャイアン・のび太症候群』という本を表紙だけ見て「中味を見たいけど、開けたらブラックボックスを覗いてしまう」という恐ろしさを自覚したのが最初です。その本についてネットで調べたのですが、そうしたら「発達障害」の説明に行き当たって、まさに「俺じゃん」と。つまり、発達障害を自分の問題として捉えられるようになったのですね。その後、発達障害関連のオフ会に出るようになって「コミュニケーションに関して言えば、僕は経験も素養も恵まれていたんだな」と思うようになりました。出会いや自分を試すチャンスに恵まれていたんです。そこで、僕のような相対的に言えば「恵まれている」人間が動く必要があるだろうと。自分のコミュニケーションのベースを活かして、当事者会をやるべきだろうと。
岡和田:立ち上がられたわけですね。
冠地:ええ。僕をオフ会に誘ってくれた人は「コミュニケーションが苦手だけれども、そのような自分をどうにかしたい」という動機で、オフ会をずっと継続開催していたんです。その人がある日、僕を遊びに誘ってくれて、何も言わず2時間くらい歩きました。その後に、「情さんはなぜ当事者会をやらないのですか?」と言われたんです。
岡和田:冠地さんが適任だと見込まれたわけですね。ただ、試行錯誤をしていくうちに、おそらく、さまざまな問題も生まれてきたと思うんですが……。
冠地:トラブルが起きて、運営が疲弊して、当事者会が解散して……。という流れを、僕らは1年半の準備期間のうちに、すごくたくさん耳にしていたんですね。そうならないようにするにはどうしたら……という点からイイトコサガシの運営はスタートしました。
岡和田:イイトコサガシは何年から始まったのですか?
冠地:2009年の11月ですから、まだ2年経っていないんですが……。
岡和田:それで151回のワークショップ開催ですから、アクティヴなミュージシャンのライブ本数みたいですね。(編注:※2012年7月現在で250回以上。)
冠地:9都府県ですから、さしずめツアーといったところですか(笑)。で、トラブルが起きないようにと気を配りつつ、「なぜそもそもトラブルが起きるのか?」という点を追究していくと、「ルールが曖昧だから」という点に行き着いたんです。発達障害の当事者会って、よく言えばフリーダムなルールで運営していたところがほとんどなんですが、それだと問題が起きた時に、当事者会の運営にぜんぶしわ寄せが来ちゃうんですよね。(※2012年7月現在で28都道府県で開催。)
岡和田:運営側の監督問題にされてしまう。
冠地:ええ。口幅ったい言い方かもしれませんが、僕はトラブルシューターとして当事者会に参加したいわけじゃありません。カスタマーズ・サポートをしているわけでもありません。当事者の中には往々にして「無意識に、自分を被害者にして、ある誰かを加害者にすることで、自分に興味を持ってもらう」という処世術をとってしまう人がいます。もちろん悪気があってのことではないのですが、そういう人が入ってしまうと、トラブルが起きる頻度が上がります。だからルールを明文化して、「こういうことが起きたら、こういう対応をしますよ。それに納得した人だけ参加してください」と方針を、リスク・ヘッジの基本として掲げてきました。納得した人に来てもらうことで「ワークショップを楽しくやりたい。安全にやりたい」という理念を守ることができます。
岡和田:よくわかりました。それでは、当事者会に参加することで、発達障害の当事者の方には、具体的にどのようなメリットがあるとお考えでしょうか?
冠地:人に共感してもらうことができます。イメージでいえば、アルコール依存症の「断酒会」のようなものですね。心に傷を持っている同士が、そこで癒されます。「自分と同じように苦しんでいるんだなあ」と。発達障害の人は、極端な思考に走ってしまう部分がありますが、それを、みんなで話すことで、和らげるという効果があります。
ただ、最初はいいんですが、共感してもらうだけだと、苦痛を和らげる効果しかありません。次のステップに行けるかというと、難しい面があります。最終的には、個人の「能力」の話に行き着いてしまいます。就職するのは能力だし、恋人とうまくやるのも能力だし……といった具合に。
だから僕は「次のステップ」へたどり着くための場として、イイトコサガシがやっているような演劇の要素があるワークショップを提示しているのですね。それと、イイトコサガシが発足する当時、オープンでやっている当事者会って少なかったんです。同じ思いを抱く仲間を見つけるまで苦労したので、「イイトコサガシ」で検索すれば、すぐに出てくるようにしたかったのです。
岡和田:「次のステップ」について、もう少し詳しくお聞かせください。
冠地:みんな就労支援や(具体的な)能力開発を期待してしまうんですが、うちのワークショップに出ることが直接就労に結びつくことは、普通に考えてありえません。でも、逆にいえば、うちのワークショップで行なっているようなコミュニケーションを楽しめないと、友だちができる可能性も、就労ができる可能性も少なくなってしまうと思います。
僕がいつも説明しているのは、ワークショップで養成されるのは「自分のことを、わかりやすく相手に伝える能力」。自分の思っていることや考えていることを正しく説明することへの気付きになるんですね。それが不十分だと、社会生活を行なううえで、いつもすれ違ってしまいます。
もう一つは、「自分のわからないことを質問して埋められる能力」。これができると、職場や友だちとの人間関係もうまく築けるようになります。この2つの力をいかに養成していくかが、ワークショップのテーマになっています。

■ナラティヴ・スタイルに必要なもの

岡和田:ところで、冠地さんはイイトコサガシでのファシリテーター(促進役)経験を生かす形で、ナラティヴ(「語り」)を中心に据えた会話型RPGのデザインや運用について考えておられるとお聞きしました。奇しくも門倉直人さんの『ローズ・トゥ・ロード』の最新版など、リアルに物理的事象を表現するだけではなく、「語り」を通して私たちの世界観を異化させ、「リアル」の定義を刷新させるタイプのRPGが、近年注目を集めつつあります。こうしたスタイルを私は「ナラティヴ・スタイル」と呼んでいますが、この点、いかがお考えでしょうか。
冠地:まず「語り」を大事にするという意味合いからすると、「ルールシステムを理解できないと参加できない」という敷居の高さは無くしたいところです。
岡和田:なるほど。ナラティヴの観点からRPGを考えた際、まず共通した問題点として存在するのは、ナラティヴそのものに共通したノウハウそのものが、まだまだ足りていないということでしょうね。
冠地:ええ。それは結局、有能なマスターが個人の能力をもとに運営していく。ゲームマスターのパーソナリティに担保していたものとなっています。
岡和田:もっとコミュニケーションに寄り添った形で、マスタリング・テクニックを再整理していく必要性があるのかもしれません。
冠地:イイトコサガシのワークショップは、いわばナラティヴの枠組みを明文化する作業なんですね。
会話型RPGは枠を作ります。ですが、枠を創ったから狭い世界というわけではなくて、枠を創ったからこそ世界が広がる面もあります。つまり枠そのものを、より「クリエイティヴ」なものとしていきたいんです。
岡和田:非常に面白い考え方です。壮大な作業が必要となると思いますけれども、まずは、相手に向きあって話すナラティヴ・スタイルでのプレイ経験を少しずつアウトプットしていくところから、始めた方がよいかもしれません。
冠地:機会を増やし、ノウハウを蓄積していくということですね。
岡和田:ええ、起こりうる行動パターンがルールにおいて網羅され、厳格に成否を判定できるルールが搭載されたゲームよりも会話を中心とするナラティヴ・スタイルのゲームのことを、より運用が難しいと思う人もいます。
冠地:確かに、そういう面がありますね。
岡和田:そのあたりの溝を埋めるために、コミュニケーションのためのガイドラインというものが存在していると思います。だとえば『ダンジョンズ&ドラゴンズ』第4版の『ダンジョン・マスターズ・ガイドII』には、コミュニケーションのための手引きが沢山載っています。子どもと遊んだ例なども紹介されています。そうした実例も参考になりますし、一方で「コミュニケーションとはこういうものです」という一般的な規則や指針から、少し距離を置き、いったん深く潜ってものごとを考えてみるのも大事かと。
冠地:あるいは、コミュニティの安定感を保つためのルールと、コミュニケーションを促進させるためのルールを切り分けて考えることで、得られるものもあるでしょう。
岡和田:ええ。それに、冠地さんのように、発達障害当事者の方が、RPGをプレイして、「発達障害の人とコミュニケーションすることの意義」ことをアピールすることは、個々のプレイヤーにより向き合っていく姿勢にも繋がると思うんです。そうして「ナラティヴ・スタイル」の考え方が技術として共有されれば、もう成功したも同然です。
今回はじめてワークショップで当事者の方と対等な立場でお話しましたが、当事者の方は、ともすると支援者の方以上に、「よりよいコミュニケーションとは何か」ということを考えていらっしゃいますね。そのような改善のための問題意識というものから――私たちが学べるものも大きいと思います。
冠地:アウトプットを蓄積していきましょう。マスターとプレイヤーに、楽しんでもらう。プレイリポートを書いてもらう。支援者さんに書いてもらい、当事者さんにも書いてもらう。そうして、どうすればもっと楽しくコミュニケーションができるのか考える。
岡和田:「Mission Impossible」コンベンションのような場が、そうしたきっかけになれば、嬉しいですね。
冠地:特に当事者と支援者、あるいは障害の立場、共有されたルールがどのようなものかを明確化したうえでのレポートがあればいいですね。
岡和田:障害の実体は、普段、関わる機会が少ない人には見えづらいと思いますので、余計に重要かと思います。
冠地:発達障害の人と支援者さんが同じ卓を囲んでRPGを遊び、そのフィードバックの積み重ねが、ナラティヴ・スタイルの「初級者コース」に連結できたらと思います。いきなり熟練者としての「語り」を求めてしまうから、ナラティヴ・スタイルが万人向けではない、ということになってしまう。しかし、ナラティヴの技術は上達できます。個人差はありますが、段階をふんで行けば、必ず。
岡和田:イイトコサガシのワークショップでは、「昨日は何をしていましたか」というように、自分のことを話す機会が多かったのですが、自分について語るのが得意な人もいれば、私のように(笑)、極端に苦手な人もいると思います。
ただ、それらもいわば個性ですよね。そこから、新しい物語が生まれるとも思うんです。
冠地:標準的なコミュニケーションとは異なる視座から「キャラクター・メイキング」を行ない、仮想の人格を構築することで、話すということに意味が生まれることもあります。
岡和田:自分を掘り下げるという内省的なイメージと、自分を積み上げていくという構築的なイメージが交わる地点を会話で見つけ出すことでしょうか。
冠地:はい、積み上げていくことが、自分を掘り下げていくことと実はイコールということもありますから。

■クリエイティヴな雑談の形成

岡和田:能楽師として、引きこもりの青少年の支援をされてきた安田登さんの著作『身体感覚で「芭蕉」を読み直す。 『おくのほそ道』謎解きの旅』には、門倉直人さんの『ローズ・トゥ・ロード』が大きな影響を与えており、参考文献にも明示されています。同書についてはいずれ詳しく紹介したいところですが、実際、まったく分野で活躍しているように見えながら、安田さんと門倉さんの問題意識には共通した部分が、かなり多いように見受けられます。
また、ゲームデザイナーの方で、昔から「ナラティヴ」と福祉の問題について、伏見健二さんが考えてこられました。お二人の問題意識にも相通ずる部分があります。
ここで面白いのは、それぞれのお仕事を追求した結果、ナラティヴ・スタイルへたどり着いたという点ではないでしょうか。だから、冠地さんが考えるよきコミュニケーションのあり方が、より明確になっていけば、より緊密な連携ができるかもしれませんね。
冠地:伏見健二さんとは、普段からゲームや発達障害の話について、色々とお話をさせていただいています。(編注:そのひとつの成果が、伏見健二氏の新作『ラビットホール・ドロップス』に結集。クレジットにはイイトコサガシが「協力」として記載されています)
岡和田:まずはナラティヴ・スタイルの基本を第三者が理解できる形に技術としてまとめることが必要かもしれません。メンター替わりになるような、ナラティヴ・スタイルのマニュアルが必要かと思います。ナラティヴ・スタイルって良いことばかりではなく、きわめて抑圧的な部分もあると思うんですよ。
冠地:マスター主導で抑圧してしまって、プレイヤーが伸びなかったり。
岡和田:そうです。一方、うまいマスターは、相手から面白いリアクションを引き出すスキルに長けています。乗せ上手というか、絶対に技術があるんですよ。
冠地:技術論としてはピラミッド式のコースを考えています。「雑談がしやすい」がスタート。それが第一段階、次の移行手段としては「クリエイティヴな雑談」、ゲームの枠のなかで試行錯誤できる雑談がメイン。次は、「場面を創作できるような」RPG。
岡和田:そのステップアップ方式はわかりやすいですね。ジャン二・ロダーリという児童文学の作家が、机や椅子をゲームの道具に見立てる形でのお話の作り方をマニュアルにしています(『幼児のためのお話のつくり方』)。その延長線上で考えてもよいかもしれません。
RPGという方法には、ともすれば自分の抱えた偏見を強化してしまうというマイナス面も、確かにあります。ですから、ナラティヴによって、個々の偏見に向き合いながら、お互いのスタンスの違いを「話合い」で解決するというのが……。
冠地:僕のイメージに近いんですね。
岡和田:イイトコサガシのワークショップでは「Yes, and……」という、相手が投げかけてくる質問をいったんは肯定するところから始めるコミュニケーションのトレーニングがありますが、これも、自分の殻を破るトレーニングになりますね。
冠地:RPGに近づけると、「Yes,and……」の方法論は「リアリティのある話をつくる」訓練かと思っています。話を振る方も、面白い、ウィットある振り方が求められます。面白い話を振って、面白い答え方を模索する。とにかく、そうした言葉の転がし方の検討から入って、馴染んでもらわないと、ナラティヴ・スタイルのRPGには行き着かないかもしれませんね。それがコミュニケーションをクリエイティヴしていく、クリエイティヴな雑談の形成能力の構築方法に繋がると思います。
岡和田:コミュニケーションに大事なのは、必ずしも流暢に話したり書いたりする技術ばかりではなくて、真摯さを伝えるのが大事かと思います。そう考えると、クリエイティヴな雑談とは、単にウィットの利いたことをいうだけじゃなくて、いかにして真摯さを伝えるのかという作業なのかもしれません。
冠地:発達障害の人は、相手の言っていることを受け止めたうえで、ユーモアを重ねるという形のコミュニケーションをしない(できない)ことが多いと思います。相手の意見を受け止めて円滑に会話を膨らませるという行為が必要なのかもしれません。
岡和田:コミュニケーションは、勝ち負けとは違いますしね。だから、譲るべきところは、譲ってしまってよいと思います。
冠地:ただ、折れてばかりでは傷ついてしまう面もあります。イイトコサガシでは、他人の良いところをふくらませる作業をみんなでやることで、コミュニケーションを創造的にしていく。その経験を共有するというのを目標としています。
特に、発達障害の方とコミュニケーションをとったことがない方は、「障害者」というイメージを、頭の中で肥大化させてしまいやすいと思います。イイトコサガシのワークショップに参加し、当事者と対等な関係でコミュニケーションを試してみていただければと幸いです。

発達障害の当事者として、コミュニケーション能力向上のためのワークショップを主催し、その技術のより普遍的な応用を模索している冠地さまのお話をうかがいながら、会話とコミュニケーションに焦点を当てた「ナラティヴ・スタイル」のRPGの理解を促進していくためにも、障害がある人も、そうではない人もともに楽しめる、いわば「ユニヴァーサル・デザイン」の発想が必要不可欠であると感じました。
今回は会話形RPGを通して「ユニヴァーサル・デザイン」の必要性を考えましたが、この「ユニヴァーサル・デザイン」のあり方は、アナログゲームの今後を考えるうえでも、重要なものだと思います。
先日、Analog Game Studiesでは、「Mission Impossible」参加のほか、すでにイイトコサガシの協力のもとで「現代によみがえるわらべ遊びの数々」というワークショップを開催しました。これは、当事者の方と支援者の方が、一緒にわらべ遊びを楽しみ、コミュニケーションを試すといったイベントでした。

 この「現代によみがえるわらべ遊びの数々」、来たる8月22日には、第2回の開催が予定されています

今後の冠地さまのご活躍を期待するとともに、Analog Game Studiesにおいても、アナログゲームの「ユニヴァーサル・デザイン」のあり方について、思索を深めつつ、さまざまな活動を行なっていきたいと考えています。(岡和田晃)

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冠地情(かんち・じょう 本名)
1972年生。東京都成人発達障害当事者会「Communication Community ・イイトコサガシ」代表。自分が対人関係を苦手なこと・同様のことで悩んでいる当事者が多いことを実感。過去に行っていた演劇表現ワークショップをヒントに、コミュニケーションを楽しく試す当事者会を立ち上げる。各種ワークショップの開催、発達障害ラジオ「ピカッと生きる!」等の啓発活動、全国各地の当事者会立上支援等、幅広い活動を行なっている。
マンガと海外ドラマ、プロレスをこよなく愛する。

【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1.5回)

【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1.5回)

伏見健二、岡和田晃

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Analog Game Studiesに、伏見健二さまによる「CBT的アプローチのセッション運営(第1回)」(初出:「ブルーフォレスト通信1」、グランペール、2010)をテーマ連載の第1回として再掲したところ、各方面より大きな反響をいただきました。すでに、(公式窓口である)Analog Game Studiesの公式メールアドレスに寄せられたご意見「私がTRPGをセラピーとして使わない理由」(早瀬以蔵)を、対論として全文掲載させていただいております。

続く本記事は、主として早瀬以蔵さまのご批判に対し、執筆者である伏見健二さま、Analog Game Studies代表の岡和田晃が応答を行なうとともに、本連載「CBT的アプローチのセッション運営」の今後について語るものです。(岡和田晃)

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●伏見健二の応答

寄稿くださった早瀬以蔵先生、WEB上にてご指摘とご教示をくださった滝野原南生先生をはじめ、本論へのご意見やご批判、危険性についての迅速なご指摘に感謝いたします。

論の進行と共に、その実運用、危険性や限定性についてと段を踏んで言及する予定でありました。

しかし本論が治療をテーマとするものであることを踏まえ、そのリスクに対してより慎重に扱うべきものであるということ、それはむしろ『最初に』提示するべきであった、また、この論が「独り歩き」する危険が多大にある、とのご批判はたいへんに的を射たものであり、首肯いたします。

よって、以下、危険性について強調しておきます。

この論を全論、非公開化するべきだとのご意見もありますが、欠点を確認し、その修正を共有する、という意義もふまえ、また、今後とも会話型RPG(TRPG)シーンにおいて精神保健の知識の啓蒙と、問題共有するという意図において、反論や危険視の声も含めての継続公開をAnalog Game Studiesにお願いいたしました。

・本論は、知識の未熟な者をもって治療行為・医療行為をするようにと誤読させる危険をおおきく孕んでいる。

・TRPGのセッションが、治療効果をうたって人を集めることにより、政治活動、宗教活動、あるいは詐欺をはじめとする犯罪等に悪用される恐れがある。

・セラピーセッションが成功するとは限らない。このセッションによって、クライアントが治療効果を得られなかったために悲観を深める危険性がある。そのときに、ゲームコミュニケーションだけではその方への継続的な支援の手が届かない。

・セラピーセッションはTRPGそのものの楽しみとはまったく異なる目的手法であり、TRPGという娯楽の形式を誤認させ、その理解と拡大を歪める危険性がある。

一方、TRPGの有効性/特殊性に対して、また「娯楽」の概念定義に関しては異論、異説もある件かと存じます。私も考えを深めてゆきたいと思います。

そして、以下の形を現在の持論として述べさせていただきたいと思います。

・TRPGをはじめ、対人コミュニケーションをその娯楽の根幹とする趣味においては、障害や疾病の理解を深め、受容を高めるべきである。

・障害や疾病を持っていても、ほとんどの場合、本人はそれをコントロールできており、また、良質な娯楽を必要としている。彼ら/彼女らは愉快で魅力的な仲間であり、なんらかのコミュニケーション障害を理由として過度に危険視する必要はない。

・基本的な知識を持つ者が配慮をもってTRPGを一緒に楽しむことで、大きな相互支援効果を上げることができる。

最後に、この論考について、より多くの方に周知され、説を深めるべきとの意図を持って掲載を決断され、また、識者各位からの意見を集めてくださったAnalog Game Studies代表岡和田晃氏に深く感謝いたします。早瀬以蔵さまのご批判をふまえたうえで、今後Analog Game Studies上で公開していく内容につきましては、ソーシャルワークとTRPGとの関係を主軸とした研究と実践の模索という形に方針を変更させていただき、公開すべき進展がありましたら、その成果をご報告させていただきたいと考えております。

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伏見健二(ふしみ・けんじ)
1968年東京生まれ。武蔵野美術大学基礎デザイン学科卒。作家、ゲームデザイナー、介護福祉士。
日本の主要なアナログゲームクリエイターのひとり。21歳の時に代表作であるテーブルトークRPG『ブルーフォレスト物語』(ツクダホビー)を発表。小説家としても多数の作品を発表する。冒険企画局に所属の後、テーブルトークRPGの専門集団(有)F.E.A.R.の設立、小規模出版によって多様なゲームシーンを発掘紹介する(株)グランペールの設立と相次いでゲーム企業の設立に携わる。またインターネット黎明期に千人の会員を持ったWEB上ゲームサークルG99の主催者でもあった(現在は解散)。
介護を本業とする現在も、福祉資格取得の講師やスキルアップセミナーの講師を行いながら、ゲームデザインや出版やイベントに携わり、ことに小規模出版の支援や障害者支援に力を入れて幅広い活動を行っている。

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●岡和田晃の応答

本テーマ連載は、Analog Game Studies代表岡和田晃によって企画・推進されました。

岡和田晃が「CBT的アプローチによるセッション運営(第1回)」(以下、「本稿」)をAnalog Game Studiesでの公開に値すると判断したのは、次の3点を理由とします。

・会話型RPG(TRPG)の運用メソッドを、新たな社会的文脈へと繋げていること。

・会話型RPGの運用メソッドという形式を通じ、精神保健の啓蒙を推進していること。

・会話型RPGの現場では往々にして見過ごされがちな事態について、改善の契機となりうること。

本稿の再掲にあたっては、Analog Game Studies内の当記事への査読担当者による査読を行ないました。結果、原則として文面を変化させる必要はないという結論に至りました。その理由は、大きく分けて以下の4点になります。

・「ブルーフォレスト通信」の他の記事とは内容的に独立した記事であり、例えば『ブルーフォレスト物語』を知らなくても理解することができる。

・初出のままで掲載したほうが、本稿の先進性が読者の方に伝わりやすい。

・本稿の鋭角的に打ち出された問題意識、ならびに会話型RPGという表現を通じて「前に進む」意志は、それ自体として固有の価値がある。

・本稿はすでに、(精神科医を含む)精神保健や臨床の専門家、あるいは相互支援の現場にいる方々から高い評価をうけていた。

これらの理由から、伏見健二さまと相談のうえ、原則として初出のままで公開することとした次第です。

岡和田晃、ならびにAnalog Game Studiesにおける「CBT的アプローチのセッション運営」査読担当者(以下、「私たち」)は、公開後も本稿で問われた問題についての議論を重ねてきましたが、私たちは、これまで会話型RPGにおいて、プレイヤーマナーの問題としてのみ考えられ、プレイヤーへの批判や排斥につながってきた問題が、「CBT的アプローチのセッション運営(第1回)」によって、神経由来の障害や疾病の問題、ひいては個性の違い(*)とも受け止められる事例だということが明らかにされたところに、本稿の最も大きな可能性を見ています。

(*)現在、障害の分野ではICFの考え方(http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/08/h0805-1.html)というものが主流となっています。すなわち、障害(や疾病)があっても、それは機能において評価されるべきである、また機能への支援がなされるべきであって、障害(や疾病)があることと「人格」に欠点・問題・欠損があることを混同しないという視点です。

それゆえ私たちは、伏見健二さまの指摘はゲームの場に起こることを説明するうえで、大きな一歩たりうると考えております。そして受容や解決の道のりの模索がなされていることは、古くから存在している問題を解決するための、新たな視点であるのは間違いありません。

近年、福祉の現場において、(「医者‐患者」という関係に留まらない)クライアント同士の相互援助の重要性が説かれ、また実践が模索されています。とすれば、相互支援の考え方を前提としたうえで、会話型RPGが選択される可能性もあるのではないでしょうか。会話型RPGが独特で他に代えがたいものであるなら、それは固有のベネフィットたりうる可能性もあるのではないでしょうか。

しかし私たちはまた、寄稿された対論にある早瀬以蔵さまのご指摘をも真摯に受け止めます。

そして私たちは、伏見健二さまが「CBT的アプローチのセッション運営(第1.5回)」で改めて強調した、危険性についての問題意識を共有します。そのうえで、会話型RPGをはじめとしたアナログゲームと精神保健の問題について、継続して思考の材料を提示していくこともまた、アナログゲームの可能性を広げることにもなると考えます。

それでは本応答をもちまして、「CBT的アプローチのセッション運営(第1回)」についての対論・対論への応答の流れはいったん締めさせていただきます。ただし、ご意見は継続して承りますので、ご意見をお持ちの方は、「活動趣旨」にも掲載されている公式窓口analoggamestudies1★gmail.com(★→@)にまで、メールにてお寄せいただけましたら幸いです。

寄稿依頼に応じてくださり、また数々のご配慮をいただきました伏見健二さま、対論をお寄せいただいた早瀬以蔵さま、ならびに読者の皆さまに深く感謝いたします。

一方、「CBT的アプローチのセッション運営」(第1回)、および「私がTRPGをセラピーに使わない理由」の議論を通じ、精神保健の基礎的な知識の習得に関心が生まれた方は、その一助として、以下のウェブサイト等の情報を参照されてはいかがでしょうか。

・「発達障害者理解のために」(PDFファイル)
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/hattatsu/dl/01.pdf

・「みんなのメンタルヘルス総合サイト」
http://www.mhlw.go.jp/kokoro/index.html

一般書店で容易にアクセス可能な入門書を一冊挙げるとしましたら、星野仁彦『発達障害に気づかない大人たち』(祥伝社新書 190)が参考になります。
発達障害に気づかない大人たち (祥伝社新書 190) [新書] / 星野仁彦 (著); 祥伝社 (刊)

その他、関連分野の専門書にも触れていただければ幸いです。

なお、「ブルーフォレスト通信2」(グランペール、2010)には、本稿の続編「CBT的アプローチのセッション運営(第2回)」が掲載されています。

これは「ブルーフォレスト通信2」に掲載されたもので、「軽度の不安神経症を抱え、コミュニケーション障害の悩みを抱えるクライアントをモチーフに、ソーシャル・スキル・トレーニングの視点で、その行動の積極性を高めるため」の実例を、会話型RPGのセッションを通じて考えるものとなっております。

イメージしてください。あなたに、軽度の不安神経症を抱え、コミュニケーション障害の悩みを有している友人がいたとします。その友人が会話型RPGをプレイしたいと言ってきた場合、あなたはどのようにふるまうべきでしょうか?

こうした問題を、「CBT的アプローチのセッション運営(第2回)は、コミュニケーションの位相から考えるものとなっております。つまり、介護の現場での経験を通して試行錯誤を続けてきた、一人のクリエイターによるシミュレーションが提示されているのです。

「CBT的アプローチのセッション運営(第2回)」は、第1回の内容を前提として書かれた記事ですから、早瀬以蔵さまのご指摘、ならびに本稿で強調された「危険性」の確認は、第2回を読むうえで大いに役立つでしょう。

「ブルーフォレスト通信2」も、併せてご覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)
ブルーフォレスト通信2 / グランペール

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
CBT的アプローチのセッション運営(第1.5回) by 伏見健二(Kenji Fushimi)、岡和田晃(Akira Okawada) is licensed under a Creative Commons 表示 – 継承 3.0 Unported License.