伝統ゲームを現代にプレイする意義(第1回)

草場純

「伝統ゲーム」とは何のことを言うのだろうか。単に古いゲームのことを言うのだろうか。案外そうかも知れない。

伝統ゲームとしてイメージされるものには、どのようなものがあるのだろうか。思いつくままに並べてみよう。

囲碁、将棋、連珠、双六、麻雀、花札、かるた、などは「日本の」伝統ゲームと言ってあまり異論はないだろう。これにトランプのいくつかのゲームを加えてもいいかも知れない。もっとも、これらも古い時代に伝来してきたことが逆に確実で、そういう意味からはむしろ「伝統」とは何か?という問題を孕む。

例えば麻雀は百年ほど前に伝来したものである。一方『モノポリー』は五十年ほど前には伝えられている。では『モノポリー』も伝統ゲームなのだろうか。それとも、五十年と百年の間のどこかに線が引かれるものなのだろうか。

『オセロ』が商標を取ったのは四十年ほど前だが、リバーシが「返し碁」などという名で日本に伝わったのは明治期であり、その後「源平碁」の名で広まった時期もある。筆者も子供の頃にやった覚えがある。リバーシがロンドンで特許を取ったのは1888年のことだから、百年を越えている。すると『オセロ』(リバーシ)は伝統ゲームなのだろうか。

トランプは、三度ほど日本に伝えられた。16世紀にポルトガルから、18世紀にオランダから、19世紀にイギリスやアメリカから。だから第三波から数えてさえ、軽く百年を越えている。だがトランプ全体を日本の伝統ゲームと言うのは、何となく抵抗がある。これはなぜなのだろうか。

上に挙げたゲームは、どれも日本ではそれなりに広く知られている。例えばいかに『カタンの開拓者たち』がブームになったとは言え、日本全国つつうらうらまで知れ渡り、子どもから大人までこぞってやるというようなことはない。一方、退潮傾向にあるとは言え、将棋を知らない日本人は少ないのではないだろうか。もちろんここで言う「知っている」は「存在を知っている」ということであって、「ルールまで理解して普通に指せる」ことを要求してはいないが。

だが、必ずしも伝統ゲームが、「よく知られている」とは限らない。例えば盤双六は江戸時代末には忘れ去られてしまったし、藤八拳は滅びてこそいないが、殆ど知られていないのではなかろうか。

つまり、一口に伝統ゲームと言っても、広く膾炙されているものあり、忘れられようとしているものあり、滅んでしまったものありで、その相は多様である。だから「伝統ゲームをプレイ」する場合も、そのゲームがどのような相にあるゲームかによって、意味づけは大きく異なることになるだろう。

似たような位置にあるのが「外国の」伝統ゲームである。

本来ゲームは、国家などとは無関係であるはずだ。インドで2から8世紀の間に生まれたとされる将棋(チャトランガ)は、国境も民族も越えて世界中に広まった。例えば古代ギリシアでアストロガロスと呼ばれていたダイスゲームは、殆ど同じものがブリューゲルの絵にも描かれ、モンゴルで現在も遊ばれていたりする。

ところが逆に、世界の多くの国で遊ばれているチェッカー(ドラフツ、ダーメ)は、日本ではあまり遊ばれない。こうした外国の「伝統」ゲームは、また少し違う相にあるとも言える。同様に日本で知られていないが外国では盛んな伝統ゲームの例としては、天九牌、マンカラ、などが挙げられる。

更に、外国の伝統ゲームで、衰亡しているものもあり、これらはまた別の相のゲームと言える。名前をあげても仕方がないかも知れないが、ファノロナ、スラカルタ、六博などがその例になろう。

こうした、あまり知られていない「外国の伝統ゲーム」を遊ぶことに、何か積極的な意味があるのだろうか。 そこを考察してみたい。

ゲームの概念は近年大きく変わってきた。現代日本で「ゲーム」と言えば、一般には電源ゲームと言ってよさそうだ。伝統ゲームは少なくとも電源ゲームではない。(例えばコンピュータ将棋などを、どう考えるかの問題はあるにしても。)そればかりか「ゲームの理論」などというときの「ゲーム」は、それ以前のゲームの概念より広く捉えている節がある。ではそうした現代において、「伝統」ゲームはどのような意味を持つのだろうか。

私はそれには二つの側面があると考える。一つはゲームの内実の面であり、もう一つはゲームの受容の面である。

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◆第2回はこちらで読めます◆

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地方のアナログゲーム(RPG)事情:「沖縄」編

 Analog Game Studiesでは、アナログゲームを中心とした理論的な探究を志向しつつも、同時に理論では往々にして忘れられがちな“現場感覚”についても、同じくらい重視していきたいと考えています。
 アナログゲームを定期的に楽しんでいくためには、そのための環境を構築・維持していく努力が必要不可欠ですが、この点、苦労されている方も多いはず。
 仕事で取材を重ね、あるいは実際にコンベンションなどで数々のゲーマーとお話をさせていただく機会が増えてきますと、「政令指定都市レベルの大都市(とりわけ、関東圏)を離れると一気に環境構築のためのハードルが上がってしまう」という声をよく耳にすることに気づきました。
 もちろん地方でも充実したゲーム環境を構築されている方は多いのですが、地方ならではの独特の苦労があるのも、また事実。私自身、上京してからこそ悩む機会はなくなったものの北海道の人口11000の小さな町の出身ですので、(やむをえない部分があるにせよ)こうした状況には昔から悩まされてきたことを思い出した次第です。
 そのような折、沖縄県でアナログゲーム(特に会話型RPG)を遊ぶことための環境作りに尽力されている近藤誠さまに寄稿をお願いし、沖縄においてゲームサークルを立ち上げるまでの経緯と現在、今後に向けての意気込みをお話していただくことができました。(岡和田晃、文責は下記の解説部分を含む)

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地方のアナログゲーム(RPG)事情:「沖縄」編  
 近藤誠 

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 Analog Game Studies 立ち上げおめでとうございます。 

 私は現在、沖縄に在住していますが、地方のアナログゲーム事情を紹介することにより、都市圏の人には、地方の現状を知って頂き、地方の人とは、お互いに励ましあい、この趣味を継続されている人には、ライフワークとして誇りをもって続けて頂き、残念ながら一時離れている人には、再びこの楽しみを再開して頂くきっかけになれば幸いです。 


● 1、沖縄以前 

 私事ですが、私は、アナログゲームは、同級生と『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下D&D。この時に遊んだのは1985年に株式会社新和から日本語版が発売された『D&Dベーシックセット』、いわゆる“赤箱”ってやつです。)からはじめて、様々な会話型RPGを経験し、アナログゲーム(主に会話型RPG)に慣れ親しんできました。(多くの方々と同様?)しばらくは、身内のみで、小ぢんまりと遊んでいました。就職してからは、2~3年毎の転勤で住まいを転々としたこともあり、年に数回、地元へ帰ったときしかプレイできませんでした。

 オープンにいろいろな人と交流を持ち始めたのは、関東に転勤してからです。きっかけは、とあるオープン・コンベンションに参加してから。そこでは、参加者が皆、楽しむことに貪欲だったのです。そして、はじめて参加した私も楽しめるよう気遣ってくれたのです。お互いが刺激をし合い、助け合い、それはそれは楽しいゲームでした。また、別のゲーム会へも誘って頂き、そこでも良い環境でゲームを楽しませていただきました。それからは、いろいろな人と一緒にプレイすることが楽しくて楽しくて。ほぼ毎週ゲームです。 


●2、沖縄 

 さて、この4月に沖縄へ転勤となりました。実は、沖縄への転勤は2回目でしたが、以前は、新たな人との出会いが億劫で、ゲームサークルへ参加していませんでした。でも今回は、新たな人となるべくたくさんゲームを楽しみたくて早速オープンなコンベンション、ゲームサークルを探してみました。 

 幸い沖縄でも、「Worldwide D&D Game day」(ウィザーズ・オヴ・ザ・コースト社が、D&Dのアドベンチャー、マップ、ミニチュアやトークンを無料で提供し、全世界で開催される『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のイベント。日本語版提供はホビージャパン社)が、6ヵ所開催されており、全箇所に参加申込をして、なんとか1ヵ所で参加することができました。 

 また、オープンなボードゲームサークルが3ヵ所ほどあり、そのうち1ヵ所は会話型RPGもプレイできました。残念ながらサークルの例会日が重なってしまい、参加できるのは月1~2回。 

 しかし、毎週ゲームをしていた私には、物足りないのです。そこで、新たにゲームをするメンバーを集めることにしました。もっと遊びたい人が、もっと楽しめるようにです。 

 ウェブで掲示板を立ちあげ、Twitter、mixi、TRPG SNSなど様々な媒体で呼びかけを行ないます。興味ありそうな人へ、SNSで個別にメッセージを送ったりもしました。しかし、最初の1週間は、まるで反応がありませんでした。ゲーム人口が多い関東では考えられない事態だったので、かなり不安になりました。幸運にも1週間後に掲示板への最初の書き込みがありました。しかし、それから1週間は、またもや反応がありません。

 ゲームサークルで話を聞くと実は、携帯電話以外でインターネットへアクセスする方法を持っていない人が結構多いようです。ならばと、掲示板はなるべく文章を短く、携帯電話でも閲覧しやすいように改良、携帯で閲覧可な旨を伝えて、興味をもってくれそうな人にアドレスを連絡するなど、地道な活動を続けます。 

 この間に思ったのは、自分も同様なのであまり強くは言えないのですが、皆、結構、内向きで、過去の思い出にひたり、新たな出会いを求めていなくて、現状が最高だと思っているということです。私も、以前に新たな出会いと良い環境を体験していなければ、声も挙げず、転々と転勤していた頃のように年に数回遊べるだけで満足していたでしょうが……。

 次第に何らかの書き込みをしてくれる人が増え、幸運にも最初の立ちあげから約2ヵ月後、日曜日に第1回定例会が開催です。会場は何と病院!そう、入院されている人もメンバーです。その後は、毎月、順調に回を重ね、もっと遊びたいという人が出てきて、11月からは、土曜日の会もスタートしました。 

 先日も都合がついたので一緒にプレイしてみたいという書き込みがあり、今度、単発のゲーム会も催します。 

 最近の悩みは会場の確保です。 

 オープンな会なのでなるべく公共施設で開催したいのですが、近くの公民館は、スケジュールが詰まっていたり、アナログゲームへの理解がなかったり、使用者の居住地域に関する制限が厳しかったりと、未だに使用できていません。カラオケボックスや誰かの自宅での開催となってしまい、仲間内で開催しているのとあまり変わらない状況。これは何とかしたいと思っています。 


●3、今後に向けて 

 地方と言っても、声を上げて2ヵ月後に新たな会を開催できた恵まれた奴が何言っているんだと思われるかも知れませんが、皆さん、一歩前に進んで、新たな楽しみを求めて声を上げてみませんか。

 そのきっかけとして最適なのが、今月、日本全国各地で開催される「D&D“赤箱”Game Day」です。
 これはかつての新和版の“赤箱”と同じ――小説『ドラゴンランス』シリーズのアートワークでも有名な――ラリー・エルモアのカバー・アートをそのまま活用しつつ、中身をD&Dの最新第4版対応にアップデートさせた入門ルールセットである『D&D第4版スターター・セット』、通称“新赤箱”に対応したWorldwide D&D Game Dayのことを意味します。

 私も沖縄県名護市で、「D&D“赤箱”Game Day」にいちプレイヤーとして参加します。楽しみにしているのは、新たなる出会いです。 

 皆さんと一緒にプレイできる日を祈念して。 



・D&D“赤箱”ゲームデイの案内
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/news/dnd_gameday/201012.html

・D&D第4版Webリプレイ「竜(ドラゴン)の予言に選ばれし者たち」
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/article/web_replay_eb/index.html

・D&D第4版Webリプレイ「妖侠デイン流離譚」http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/article/web_replay/index.html


ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版スターター・セット [大型本] / ジェームズ ワイアット, ジュレミイ クロフォード, マイク ミアルス, ビル スラヴィクシェク, ロドニー トンプソン (著); 桂 令夫, 岡田 伸, 北島 靖巳, 楯野 恒雪, 塚田 与志也, 柳田 真坂樹 (翻訳); ホビージャパン (刊)



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近藤誠(こんどう・まこと) 
 1973年名古屋生まれ。公務員。中学時代からアナログゲームに親しむ。
 好きなゲームは『D&D』と『指輪物語ロールプレイング(MERP)』。
 年齢を重ねて社会や個人が変化する中、どのようにアナログゲームを皆と共有し、続けていくか日々試行錯誤。 

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
地方のアナログゲーム事情(沖縄編) by 近藤誠(Makoto Kondou) is licensed

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 なお近日発売されるアナログゲーム総合情報誌「Role&Roll」Vol.75には、去る10~11月に開催された「Worldwide D&D Game Day 『プレイヤーズ・ハンドブックIII』」についてのレポート記事(文:岡和田晃)が掲載される予定です。
 ここには近藤誠さまに情報提供をいただいた沖縄においてのWorldwide D&D Game Dayの模様をはじめ、東京、大阪、徳島といった全国各地でのGame Dayの様子が、参加者の声を交えて報告されています。
 今回の記事をお読みになられた方は、どうぞこちらもご覧いただけましたら幸いです

『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた

 Analog Game Studiesでは、狭義の評論、コラム、論考等に限定せず、さまざまなタイプの記事を掲載していく予定です。
 その一環として、東條慎生さまの『ローズ・トゥ・ロード』(通称『Wローズ』)体験記を寄稿いただきました。先だって東條さまのウェブログで公開されていたものですが、ご本人の快諾を得まして、若干の加筆修正を加えたうえでAnalog Game Studiesに転載させていただきます。
 私は常々、アナログゲームと広義の文学(物語)は相性がよいと思い、両者の折衷点を模索してまいりました。そして今回、まったく会話型RPGに触れたことのない、しかしながら継続的に読書や執筆活動を続け、長年文芸同人を主宰しているような“アナログゲーム初心者”の方が、まったく新しいコンセプトの会話型RPGに触れたらどのような想いを抱くのか。その結果をレポートとしてまとめていただくことができました。
 もちろん、いわゆる「ゲーム畑の言葉」も面白いものですが、そのような表現からは見えてこない何かがこのレポートには現れていると感じます。
 『ローズ・トゥ・ロード』や会話型RPGをご存知ない方も、ぜひ、お読みになっていただけましたら幸いです。(岡和田晃、文責は下段の解説部分を含む)

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『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた
 東條慎生

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ローズ・トゥ・ロード (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / 門倉 直人 (著); エンターブレイン (刊)

 もうずいぶんと時間が経ってしまったけれど、十月頭の某日、岡和田晃さん、編集者の吉原さん、みなぱとさんらと一緒に、『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやった。岡和田さん以外は全くの初対面で、どういう人なのかも知らない状態だった。

 『ローズ・トゥ・ロード』というのはゲームデザイナー門倉直人氏によるRPGで、1984年に最初のものが出て、その後いくつかバージョンを経て、今年新版が出た。今回プレイしたのは今年のもの。

ローズ・トゥ・ロード – Wikipedia
ファンサイト:Alternative Stories

 まあいわゆる「テーブルトークRPG」というもののひとつで、国内産のものでは最も古い部類(初?)らしい。TRPGというのはプレイヤーがひとつところに集まって、それぞれがゲーム中のキャラクターを演じ、操り、ゲームを進行させていくというもの。

 一般にRPGと呼ばれるゲーム機でプレイできるコンピュータRPGというのは、このTRPGをコンピュータ上で再現したものなので、TRPGをTRPGと呼ぶのは話が逆になってしまい、もともとは卓上RPGをこそ「RPG」と呼ぶものであったらしい。ゲームカテゴリについて、「アドベンチャー(冒険)」と「ロールプレイング(役を演じる)」というのはそれぞれ逆じゃないか、という定型のネタがあったけれど、これはRPGがそもそもテーブルゲームだったという起源が忘却されたために起きたことが原因のひとつ。各プレイヤーがそれぞれキャラクターを演じてプレイするからロールプレイングゲーム、というわけだ。

 『ロードス島戦記』がこうしたRPGのリプレイ(RPGをプレイした様子をなんらかの形で記録したもの)を基にしていることはよく知られていて、私もそこらへんから卓上で行うRPGというものが存在することを知ったように思う。私もまずはテレビゲームのRPGを先に体験した。世代のせいか、交友関係のせいか、まわりにTRPGを嗜んでいる人というのはお目に掛かったことがほとんどなく、触れることも今までなかった。
ロードス島戦記―灰色の魔女 (角川文庫―スニーカー文庫) [文庫] / 水野 良 (著); 出渕 裕 (イラスト); 安田 均 (原著); 角川書店 (刊)

 とはいってもどういうものか、というのは間接的な情報などでおぼろげには知っていたし、以前岡和田氏がリプレイを非常に面白い形態で出版した『アゲインスト・ジェノサイド』という本を読んだこともあったのだけれど、実際にプレイしてみるのは今回が全くの初めてだった。

ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド (Role&Roll Books) (Role & RollBooks) [新書] / 岡和田 晃 (著); アークライト, アークライト, 狩岡 源, 狩岡 源 (監修); 新紀元社 (刊)

 それでいてこの『ローズ・トゥ・ロード』という作品は結構独特なものらしく、言葉によって世界が出来ている、という言霊的な世界観を基にしていて、じっさいにゲームプレイにおいてもサイコロを使わない。基本的にキャラクターのパラメーターも数値ではなく、なんらかの言葉によって決められている。

 門倉氏はロラン・バルトや万葉集、折口信夫等の文学や民俗学の研究もしている人らしく、そうした言葉、文学への関心がゲームの世界観の背景にもなっているようだ。また、『ローズ・トゥ・ロード』の世界観はトールキン、ル=グィン等の古典的ファンタジーの世界観を下敷きにしているとのこと。

この世界観を共有する短篇小説がウェブで公開されているので、興味のある方は一読を。

 小説・ホシホタルの夜祭り(著・門倉直人)

 事前に岡和田氏からはゲームの「言葉決め」というプロセスでもちいるための本を三冊ほど、「物語が生まれる時」あるいは「世界が生まれる時」という題で選んだ本を持参して欲しいという指定があった。

 私が持ち出したのは以下の三冊。

古事記注釈〈第8巻〉 (ちくま学芸文庫) [文庫] / 西郷 信綱 (著); 筑摩書房 (刊)
古事記注釈〈第1巻〉 (ちくま学芸文庫)

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫) [文庫] / サイモン シン (著); Simon Singh (原著); 青木 薫 (翻訳); 新潮社 (刊)
宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)

宿命の交わる城 (河出文庫) [文庫] / イタロ・カルヴィーノ (著); 河島 英昭 (翻訳); 河出書房新社 (刊)
宿命の交わる城 (河出文庫)

 パッと思いつきで選んだので、古事記あたりはまったくベタだけれど、神話、宇宙論、小説、とある程度カテゴリをばらしてみた。

 まあ、当日のことをつらつら書くのもアレなので、ざっとかいつまんでみる。

 まず面白いのはやはり言霊的な世界観を持つ設定。これはそのままゲームシステムをも規定していて、数値を持たずに本からランダムに選んだ言葉を組み合わせたものを、キャラクターのパラメーターとして設定する。魂の故郷、とか旅のきっかけ、とか弱点言葉だとか、そういうものをそれぞれ本のなかから選ぶ。このとき、どんな本から選ぶかで出てくる言葉の方向性もずいぶんかわるので、かなり意外な組み合わせを見ることが出来て、これ自体面白さがある。私が組み合わせたものでは、「重力の回想録を読む(「宇宙創成」が効いている)」、「闇の中央集権(「古事記註釈」から、これは逆にベタだけど)」という不思議ワードが出てきたりする。まあ、古事記註釈は固有名詞、地名が多すぎて使いづらかった。

 で、これはゲーム進行もそう。普通のRPGはもうちょっとダンジョンとか戦闘とかあるんだろうけれども、ここではもっと「探索」寄りのシステムに感じられる。これはゲームマスターがどういうシナリオを用意するかが大きい気もするけれど。一日の探索で、誰かと出会ったり、何かを見つけたりする過程で、ある「言葉」を得ることがある。その言葉はストック場のようなところにストックされ、パーティメンバーの共有のストック場に提示して共有することもできる。さらに、クエストのなかである「言葉」が鍵として出てきた場合、これまで得た「言葉」をばらしたり再構成したり(場合によっては漢字にして、偏と旁に解体してさらに他の漢字のパーツと組み合わせてひとつの字に戻したりもする)して、同じ言葉をこちら側で生成することで先へ進めるようになることもある。

 戦闘においてもやりとりされるのは言葉だ。相手のステータスにある言葉と「響き合う」言葉をこちらの言葉のストック場から見つけ出して、それが何故「響き合う」のかを理屈づけたりこじつけたりして、相互の言葉に脈絡を作ることで、相手のステータスを無害化していく、というようなプロセスを辿る。

 そういった言葉、意味を基本的な媒介物として用いて進行していくのが、このゲームということらしい。

 まあ、なにぶんはじめてやったRPGがこれなので、他のRPGとの比較が出来るわけもないので、そうした意見としてご了解いただきたい。セッション自体も時間の関係で一回だけ、チュートリアル的なものをプレイしただけなので、経験として不足だらけだ。

 個人的には、『ローズ・トゥ・ロード』というゲームは自由度の高さが印象に残る。言葉決めにしても、言葉の再構成にしても戦闘にしても、ことは数値ではなく、言葉の形や意味を各自解体、再構成しながら進めていくため、プロセスに多様な幅が生まれ得るんじゃないだろうか、ということ。非常にクリエイティブ、ともいえるか。

 この自由さが逆に素人の私にはやや難しいところはあったものの、熟練のプレイヤーが集まると、これは面白くなるんじゃないかという感触がある。

 自由、ということではもともとRPGがそういうゲームだという話でもあるだろう。ある程度基本的なルールと舞台を用意しておいて、あとはゲームマスターとプレイヤーのやりとりのなかでその場その場で物語が生成していくわけで、即興的な創造性が要求されるゲームではある。物語、設定、時にはルールもその場その場の必要性、展開に応じて作成される。

 リアルタイムでプレイしていると、あ、この展開はこういう話になっていくのかな、と想像しつつ先の展開を予想して自分の行動を決めていくわけだけど、逆に、想定される展開に対して真っ向から逆張りしていくプレイスタイルもありだろう。イベントが発生したときも、ゲームマスターとプレイヤーのその場のやりとりのなかでまるで予想できない展開が始まったりして、即興コントを見ている気分になるときもあった。

 物語、お話というものがオンタイムで、マスターとプレイヤー、プレイヤー同士のなかでできあがっていくプロセスをその場で見ることができる、そういう面白さがRPGにはあるというのがよく分かった。物語を作ったりするのに非常に勉強になる遊びなんじゃないだろうか。瞬発性が要求されるわけで、物語をある程度要素に分解しつつ、その場の具体的な状況につなげていく訓練になるようにおもった。

 そういえば、『ロードス島戦記』もそうだけど、ライトノベルにとどまらず、ゲーム業界などでもRPGと密接なつながりがあるのを見ることがある。作者、門倉直人氏が代表だった遊演体というのはここら辺に素養があるなら確実に一度は聞く名前じゃなかろうか。

遊演体 – Wikipedia

 『フルメタルパニック!』の賀東招二とか『腐り姫』の星空めておとか。新城カズマもここにいたという。

われら銀河をググるべきや―テキスト化される世界の読み方 (ハヤカワ新書juice) [新書] / 新城 カズマ (著); 早川書房 (刊)

 さらに重要に思えるのは、ルール、プロセスが常に意識されるなかで、物語を展開していく、というところ。『ローズ・トゥ・ロード』では世界設定とゲームルールがきっちり対応しているわけで、これは他のRPGも世界設定、ルールをいかに独自に設定するかがゲームコンセプトとして非常に重要なんだろうと思う。プレイしながら、物語を考えつつ、ジャンルのルールや構造を反省的に見返す視点が必要になってくる。これはコンピュータRPGと異なる点かも知れない。コンピュータRPGでは、ルールのなかで、という印象だけれど、TRPGではルールの境界線上でゲームは進行していく印象がある。

 ここで、以前岡和田氏が論じていたSFや文学とゲームとのつながりという論点が想起される。世界の構造を省みたりそれを改変したりするのはとてもSF的な発想に見えるので、岡和田さんがファンタジーやTRPGをSFとつなげて論じられるのは、そうした経験からきているのか、とその点からも面白かった。この論点については以下の記事で少し触れている。

SF乱学講座 岡和田晃 – 「「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える」 – Close to the Wall

 RPGとゲームルール、という論点では、これは小説にスライドするとメタフィクションの話になるんだと思う。上記記事では岡和田氏のRPGリプレイ『アゲインスト・ジェノサイド』を、「やたら高度で複雑なメタフィクション」と見ているわけだけど、じっさいにやってみるとますますその印象は強くなった。

 その意味で、自賛じみてくるけれど、私が言葉決めの題材にカルヴィーノの『宿命の交わる城』を持っていったのはまことに当を得ていたように思えてならない。

 『宿命の交わる城』は、ある場所に集まった男たちが、タロットカードだけを用いて身の上話を相手に伝える、というかたちで、言葉だけで物語を組み上げる小説のアナロジーになっているメタフィクショナルな作品。さらに、卓を囲んだ者たちがタロットを使って物語を語っていく様子はまるでRPGのようではないか。

 素朴な感想としては、やはり手慣れたプレイヤーはうまくことを運んでいくなあ、と感心しきりだった。日本のRPG黎明期から遊んでいるベテランのアナログゲーマーである吉原さんが展開をうまく転がしていくので、素人としては非常に助かる。そしてかなりノリの良いみなぱとさんが絡んだ完全なコント展開は爆笑ものの出来で、斜め上にガンガン向かっていく様子は最高だった。私は喋るのとか演じるのとか即興とかが総じて苦手な質なので、スムーズにとはいかなかったのだけど、RPGというものが非常に興味深く示唆深い代物だと言うことは実感できたという収穫はあった。

 というわけで、ある初心者のRPG体験記、でした。呼んでくださった岡和田さん、一緒にプレイした吉原さん、みなぱとさん、その節はどうもありがとうございました。

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東條慎生(とうじょう・しんせい)
 1981年生まれ。肉体労働と十二指腸潰瘍。笙野頼子いわく「ネット野武士」。
 活字出現例としてはオンライン書店bk1からの書評本「熱い書評から親しむ感動の名著」にニコルソン・ベイカー『中二階』の書評が、「ぱろる」という児童雑誌(の廃刊号)に「ゆうやけ」という童話が載ったことがあります。
 文学同人「幻視社」を編集しています。「幻視社」4号(2009)では、版元「早稲田文学」の許諾を得たうえで小説家・向井豊昭の未発表作品の収録を含む特集を実現いたしました。
熱い書評から親しむ感動の名著 [単行本] / bk1with熱い書評プロジェクト (著); すばる舎 (刊)
・ブログ
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/

※以上、「幻視社」4号の自己紹介に追記

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『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた(本文)

by 東條慎生(Shinsei Tojo) is

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 補足しますと、本記事で触れられている物語、RPG、アドベンチャーゲームの関係性について、80年代、日本の会話型RPG黎明期とリンクする同時代的な紹介を兼ねて深く語った書物としては、安田均『神話製作機械論』がございます。入手が難しい一品ではありますが、ご興味のある方はそちらを読まれることをお勧めいたします。

神話製作機械論 [単行本] / 安田 均 (著); ビー・エヌ・エヌ (刊)

 なお、本記事が先行公開された暁に『ローズ・トゥ・ロード』に関係されている、門倉直人さま、長月りらさま、梨里守さまより、コメントをいただきました。
 それぞれご許可をいただきましたうえで、この場をお借りしてご紹介させていただいます。

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【門倉直人】(『ローズ・トゥ・ロード』デザイナー)

 いろいろ興味深いアプローチがあればあるほど、わくわくして、とても時間が楽しくなっていきます。
 Wローズって、自分が参加してないセッションでも、どんな「もの語り」が生まれたかが気になってしかたない、そんな作品にしたいという「熱」があるので……。

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『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた(コメント by門倉直人) by 門倉直人(Naoto Kadokura) is licensed under a Creative Commons 表示 – 非営利 – 改変禁止 3.0 Unported License.

【長月りら】(ライター、「Role&Roll」(アークライト/新紀元社)にてリプレイ「リプレイスソング」を連載中)

 TRPGをはじめて遊ぶ時の戸惑いや喜びが伝わってきて嬉しくなりました。
 Wローズは、TRPGゲーマーの間ではかなり評価の分かれている作品ですが、逆に未経験者はするりと世界に入り込めてしまう不思議なシステムでもあると思います。
 ですから、ゲーム畑でない方から、このゲームが広まって行くのはむしろ自然なあり方なのかもしれません。

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『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた(コメント

by長月りら) by 長月りら(Rira Nagatsuki) is

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【梨里守】(『ローズ・トゥ・ロード』デザイン協力)

 1回のプレイのみでチュートリアル的なものをプレイした、とのことでしたが、内容の濃さに興味深く読ませていただきました。
 感想としては、物語を作る勉強に触れられておりましたが、自分が小学生のころにWローズを使って物語を作る授業があったらなあ、と感じました。
 今はどうだか知りませんが、小学生のころ地図一枚で物語を作る授業がありました。そこで地図の代わりにWローズを渡して、生徒一人一人が作ったシナリオをクラス全員でプレイする。クラス全員で1つのシナリオをプレイするのも……これは風呂敷を広げすぎでしょうが、理解のある先生がマスターである生徒の補助に入ればもしや、と想像してしまいました。
 まあ無謀な考えでしょうが、見てみたいですね。

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『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた(コメント by梨里守 by 梨里守(Mamoru Nashizato) is licensed under a Creative Commons 表示 – 改変禁止 2.1 日本 License.

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 なお、長月りらさまの『ローズ・トゥ・ロード』リプレイ「リプレイスソング」は、アナログゲーム情報誌「Role&Roll」に連載されており、ご興味のある方はそちらも合わせてご覧ください。
軽妙な掛け合いのみならず詩的な叙情やゲームとして楽しむための工夫が随所に凝らされており、プレイングの雰囲気を伝える4コマ漫画や『ローズ・トゥ・ロード』の遊び方を伝える解説部分も充実した、贅沢なリプレイ・シリーズです。
 「リプレイスソング」掲載の「Role&Roll」、現在発売中の号はこちら。
 新展開を迎えたばかりです。
Role&Roll Vol.74 [大型本] / アークライト (編集); 新紀元社 (刊)

会話型RPGにおけるメタ化

会話型RPGにおけるメタ化  齋藤路恵
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本稿は会話型RPGにおけるメタ化について考察したものである。
会話型RPGにおけるメタ化は程度の差こそあれ、必ず起きるものであり、それが会話型RPGにおける重要な魅力の一つとなっている。メタ化により、会話型RPGは現実に対する一種の思考実験の場として役に立つ可能性もあるが、反面意識せずに他者の痛みを取りこぼしたり、現実社会の偏見の再生産をしたりする可能性もある。

【パロディの楽しみ】
私はパロディが好きである。
10代の頃からパロディに親しみ、とり・みきや唐沢なをきをといったマンガ家を愛読していた。とり・みきが手塚治虫から受け継いだという、マンガの文法そのもので遊んでしまうような手法を愛している。
マンガの文法で遊ぶというのは、例えば、後ろから迫りくる敵に対して逃げ場を失った主人公がコマ割りの枠線にしがみついて難を逃れる、というようなそういった手法である。
物語の主人公が物語の外のものを利用するのである。

唐沢なをきはこの文法遊びをメインに据えた作品でシリーズを書いているほどである。
カスミ伝S (ビームコミックス文庫) [文庫] / 唐沢 なをき (著); エンターブレイン (刊)
別の例をあげよう。

手塚治虫の作品だと思ったが、出典が定かでない。おそらく『火の鳥』の一シーンであったと思う。
キャラクターが食料にするため、ウサギを射止める。射られたウサギの姿は草むらに隠れて見えず、背中の矢だけが見えている。キャラクターが射止めた矢を拾うと矢の先のウサギは既に丸焼きになっている。
キャラクターは顔をこちらに向け、読者に対してこっそりとささやく。「いくらマンガとはいえ、ひどい省略だよな」
手元にないので、不確かな記憶だが、大きく外してはいないと思う。
これは言ってみれば、マンガのキャラクターによる自己相対化であり、メタ化である。
目の前の状況をあたかも他人のものであるかのように一段外側から見ているのである。

【本稿中の言葉の定義】
今何気なく「自己相対化」「メタ化」と言う言葉を使ったが、本題の会話型RPGについて触れる前にこの文章での用語の定義をしておこう。
最初は読み流しておいて、後でこれらの言葉が出てきたときにここに戻ってくるとわかりやすいかも知れない。
メタ化とは、一つ外側の視点から物事を見ること、とする。外側の視点から物事を見ることで少なくとも一つはこれまでと違った視点が導入されることになる。
例えば、「自分のメタ化」とは自分を一つ外側の視点から見ることである。

次に「相対化」という言葉について。
相対化とは、他の対象との比較により、視点や判断基準の複数化を行うこと、とする。
自己相対化は、自分の立ち位置や思考の位置、属性等を他と比較すること。他の人や他の視点からみた自分を想像すること、とする。
他者との比較そのものは、必ずしも自己を否定するものではない。
しかし、視点が増え、判断基準が増えるほど全てにおいて高評価を得ることが難しくなり、結果として自己の総合評価の低下が起こりやすい。  自己の中に否定的なものを探すことを目的に行われる相対化は反省となる。

メタ化と相対化の違いについても書いておく。
メタ化は相対化の一種である。
もう一度言うとメタ化は一つ外側の視点から物事を見ることである。
例えば「文章を書いている私についての文章を書く」などということである。
このメタ化は理論上無限反復できる。「『文章を書いている私、についての文章を書いている私』に対する文章を書く」と言った具合である。
同様に、相対化は比較により視点や判断基準の複数化をもたらすことである。
外側から見ることは必ずしも必要でない。
例えば「文章を書いている私」に対して「何を書いているのか」「いつ書いているのか」「何のために書いているのか」「過去に文章を書いた時と何か違うのか」等と複数の視点を持ってみることが相対化である。
ここに「文章を書いている私を文章化するとはどういうことか」という視線を持ってくることも可能であり、したがってメタ化は相対化の一種である。
最後に後半出てくる「ネタ化」「他者化」という言葉にも触れておく。
ネタ化は目的に対して有益な効果を得られないようなメタ化を指す言葉、とする。これは一般的な用法というよりは、私の独自の定義である。
他者化は、ある視点に注意が向くことで他の視点が忘れ去られること、自分に利害関係のない他の視点が切り捨てられること、とする。

【視点の往還】
さて、会話型RPGの大きな特徴にプレイヤーキャラクター視点とプレイヤー視点を常に往還しながら遊ぶという点がある。
これは自分が演じるプレイヤーキャラクターを外側(プレイヤー視点)から見ると言うことであり、メタ化であると言える。
会話型RPGでは、通常一人のプレイヤーが一人のプレイヤーキャラクターを用いて遊ぶ。
プレイヤーキャラクターは、会話によって紡がれる物語(シナリオ)の登場人物である。
プレイヤーは自分の担当するプレイヤーキャラクターをうまく物語の中で動かして物語の形成と、参加者全員が楽しむことを目指す。
(以下プレイヤーキャラクターをPCと、プレイヤーをPLと略すことにする。)
このPCとPLの間に齟齬が出ることがままある。

これは『クトゥルフ神話TRPG』を遊んだことのあることのある人にとってはよくわかる感覚であろう(*1)。
クトゥルフ神話TRPG (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [単行本] / サンディ ピーターセン, リン ウィリス (著); 中山 てい子, 坂本 雅之 (翻訳); エンターブレイン (刊)

『クトゥルフ神話TRPG』は、以下のような世界観に基づいている。
私たちが知らないだけで、宇宙は強大な力を持つ邪神に支配されている。その強大な力は気配を感じただけで精神に異常を来たす程である。強大な力の真実に近づけば近づくほどその人物は狂気に陥っていくのである。
物語外にいるPLは物語の世界が邪神に支配されたものであるということをもちろん知っている。
だが、物語内のPCは世界が邪神に支配されているなどと言うことは知らない。
(邪神の支配について詳しく知るほど発狂に近づく。発狂したPCは病院に入院する/させられるなどして、ゲームから除外される。)
私たちが「世界は邪神に支配されている」などと言ってもまともにとりあってもらえないのと同じように、PCたちも邪神の話はまともにとりあげてもらえないと思っている。
そればかりか、PC自身が邪神の存在を否定しようとすることもある。
例えば、人里離れた屋敷に一人で住んでいた老人が変死を遂げた。PC A は老人が読んでいた奇妙な書物が何かその死に関係しているようだ、老人の屋敷に本を探しに行こう、と主張している。しかし、医者である PC B は「老人の死はただの持病からの心臓発作にすぎず、そのような調査は必要ない」と思っている。
しかし、PC B のプレイヤー PL B は、「この物語はおそらく老人の死と書物が関係するシナリオであろう」、と推測している。
この場合、PL B は、 PC B が納得して老人の屋敷の調査に行くような理由を考えなくてはならない……(*2)。

さて、このプレイスタイルを見てどのように感じただろうか。
もしかしたら
「今はあんまりこういうスタイルにしたくないな。もっと世界やキャラクター視線に入り込んで遊びたい。もっと深くPCを演じたい」
という人や、
「今はもうちょっと現実的でないキャラが遊びたいなぁ。想像力を活かしてもっと自由に破天荒な世界やキャラで遊びたい気分」
という人もいるかもしれない。

【世界への埋め込み】
ここでPCとPLの関係、物語世界への埋め込みの関係について考えてみよう。

 

物語世界中心・PC高埋込

中間領域・PC中埋込

PC中心・PC低埋込

 

世界観を重視しながら、PCとPLを限りなく近づけて遊ぶやり方がある。
この場合、PCを深く演じるため、安定した世界観が求められる。
ころころ設定が変わっているのでは、PCを安定して演じることができない。
逆にPCをあくまで架空世界のキャラクターと割り切って遊ぶやり方もある。
キャラクターを別の世界にコンバートしたりする。  ファンタジーで遊んでいたキャラクターに学園物をやらせたりする。
『クトゥルフ神話TRPG』のプレイ時はこの中間形態の遊び方をとることが多い。
PCは原則的に物語世界の規則や設定に従うが、行動によっては多少の設定の変更も参加メンバー間の裁量で許される。
とはいえ、『クトゥルフ神話TRPG』で物語世界重視のプレイが不可能なわけではない。
設定を現実のPL設定に近づけて、場所やストーリーの運びもで実際にありそうなものにし、リアルなホラーものを目指す事も出来る。
キャラクターの設定を活かしたプレイも可能である。
拳法の達人の高校生や、霊能力をもった拝み屋女子高生が、大挙したゾンビたちをバッタバッタとなぎ倒すような現実離れしたストーリーも可能である。

ルールブックやサプリメント(追加資料)で示されている世界観で、そのシステムのだいたいのプレイスタイルの見当がつくこともあるが、それはあくまで目安に過ぎない。
同じ人がいつも同じプレイスタイルとも限らない。
今回はゾンビシナリオをやっていた人が、次回はリアルホラーをやる、というのは良くある話だ。
なので、それと知らずに、物語中心プレイをとてもやりたい人とキャラクター中心プレイをとてもやりたい人が同席した時は悲劇が起こる。
物語世界中心プレイヤーからみれば 「キャラクターのために世界を変えてもいいというご都合主義。みんなで遊ぶべき世界を理解しようとせずに自分のキャラを目立たせることばっかり主張している。みんなで楽しもうという気に欠けている」
となってしまうし、
逆にキャラクター中心プレイヤーからみれば 「公式設定にこだわる権威主義の設定厨(厨…中学生並みに幼稚ということを表すスラング)。「それは世界観的に無理でしょう」「物理的に無理でしょう」って言ってばっかり。もっと気楽に楽しめばいいのに。みんなで楽しもうという気に欠けている」
となってしまう。

【細部の限界】
ここまで読んで、普段会話型RPGをやらない人は
「PCに深く没入したいプレイヤーは現実世界や史実に近いリアリティ重視の世界を好み、PCに距離を置い遊びたいプレイヤーは物語的な破天荒さのある世界を好むのだな」と思うかもしれない。
が、実際に会話型RPGをやる人の実感とはそれとは違っている。
「物語に入り込むために破天荒な公式設定を忠実に守る」というやり方をとる人も割合いるのである。

これは、現実や史実の世界に近づけようとするほど物語に穴を作らないのが難しくなったり、活劇の要素が薄くなったりするからだと思われる。
例えば、中世ヨーロッパ風の世界で遊ぶことを考えよう。
「あなたは貧しいが自作農のはしくれのキャラクターです。朝起きるとあなたの家で大事に飼っていた豚がいなくなっています。柵が壊れた様子はありませんが、どうにかして逃げ出したのかもしれません。あるいは誰かが盗んだ……。
農繁期で他の家は忙しくしており、気軽に手伝いを頼みにくい状況です。
あなたも本当は自分の畑の世話をしなくてはなりません……。
家には、他のPCである妻と12歳の長男と10歳の長女と乳飲み子がいます。
豚が迷子になったのなら、早く見つけないと野生の生き物に襲われたり、崖から落ちたりするかも知れません。
豚が通りそうな道はどこでしょうか。
誰か協力をしてくれそうな人はいるでしょうか。
家族総出で探した方がいいでしょうか。少しは畑に人を置いた方がいいでしょうか……。」
私はこういう設定は非常に好きだが、荒々しい戦士や知力にたけた魔法使いをやりたい人はなんだか違うと感じてしまうかもしれない。
シナリオの作成者も「豚の足の速さはどれくらいか? 」「畑はどのような状況か? 農繁期というがやらなくてはいけないことは何か? 畑に水をいれることか? 雑草取りか? 害虫駆除か? それによって人のさき方が違う」などと聞かれてしまうかもしれない。
豚の足の速さなんてどうやって調べればいいのだろう?
そもそも中世における豚が現在の豚と同じような品種だったとも思えない……。
手慣れた作成者であれば、聞かれた時にその場で、「大人の全速力と同じくらいのスピードが出るよ。ただし、あまり長距離は走れない」「水入れと雑草取りと害虫駆除の全部だよ」などと答えられるかもしれない。実際確認のしようがないので、そこは適当に割り切ってそれっぽい仮定をするしかないのだ。

現在が舞台であれば話はよりややこしくなるかもしれない。
シナリオ作成者:「地下鉄内は電波が届かないよ」
PL  A:「最近は地下鉄構内の電波状況を改善しているから、この路線で、この電話会社なら、音質は悪くても通信できるんじゃない? 」 などとなるかもしれない。
会話型RPGが細部を演じて行くものである以上、こうした細部はある程度虚構で設定せざるを得ないのだ。
したがって世界に埋め込まれたPCに入り込むと言っても限度がある。
活劇を楽しむなら、むしろ破天荒な設定を忠実になぞる方が納得しやすい……。

【没入する楽しみ/相対化の楽しみ】
さて、では破天荒で細部を気にしなくてすむような世界なら、PCに深く入り切ることは可能であろうか。
これはおそらく、人による。
深い没入を阻害するものとして、物理的要因と内的要因が考えられる。

物理的な要因は単純だ。
クライマックスでPLの1人が「すみません、ちょっとトイレいいですか? 」
自宅でやっているなら、クライマックスで家族がドアをノック。「○○、ちょっといい? 夕飯なんだけど……」
しかし、これらの要因は実はさしたる問題ではない。
自分がテレビに夢中になっているときに、トイレに立った記憶を思い出せばいい。
繰り返し邪魔が入るのでなければ、さして問題もなく物語世界に戻って来れたはずだ。

むしろ、深い没入を阻害するものは多くの人にとっては内的な要因だ。
要するに「成りきって陶酔しちゃっているところを人に見られるのは恥ずかしい」ということだ。
映画を見た後、自分の部屋で成りきって主人公のモノマネをしていたら、家族に見られていて赤っ恥……。
似たような体験は多くの人がしていると思う。
インターネットの動画サイトではときどきこの手の動画が流出して同情の声があがったりする。
しかし、ロールプレイをもっと演劇的な役作りとして捉えており「役に入り込んでいるときの私」を割り切って観察することができるタイプの人もいる。
あるいはPCへの没入が極めて深いところまで達したため、PL視点の恥ずかしいという感情が抹消されている状態というのもある。
このようなPL視点の抹消は、よく起こる人もいれば、滅多に起こらない人もいる。
だが、没入できる人が没入できない人より深く楽しんでいるかというとそういうわけではない。
没入しないタイプの人はパロディのようなメタ化の楽しみを持つことができるのだ。
強い感情移入をしつつも、同時にその自分を外から眺める、というのはそれ自体で楽しい。
少なくとも私は間違いなくそうである。
実際の日常生活でもそうだろう。
われを忘れて夢中になることが楽しいときもあれば、自分なりに分析したり自説を考えたりするのが楽しい時もある。

【メタ化のメリットとデメリット】
ここで少し現実の世界に目を向けてみよう。
現実の世界ではしばしばメタ化が悪い方向に働くときがある。
テーマは何でもいい。

例えば私が 「会話型RPGの面白さを理論的に分析してみよう!」
と言ったとする。
「自分語り乙(自分語りお疲れ様)」
「分析する前に自分のRPGライフ充実させろよwオレオレRPG論はつまらないんだよねww」
と言った反応がでるかもしれない。

これは会話型RPGの面白さを分析することに否定的な反応である。
しかし、なぜ会話型RPGの面白さを分析することが良くないのかに対する理由にはなっていない。
自分語りであることはなぜいけないのだろうか?
どのような仮説も提案も最初に個人から表出される以上、「自分語り」にならざるをえない。
「自分語り乙」というのもある種の自分語りに他ならない、ということである。
「オレオレRPG論はつまらないんだよねww」というのも、これまでのRPG論がつまらなかったというだけで、これから生まれるRPG論がつまらないという証左にはならない。
RPG論はすべてつまらない、あるいは、そのほとんどがつまらない、というならなぜそのようになるのかを説明しなくてはならない。
これをやらない以上、全く同じ刀で返されてしまう。
「オレオレRPG論否定はつまらないんだよねww」
お互いに「そういう態度こそがつまらないんだよww」とやりあうのは不毛である。
このメタメタゲームのような悪いメタ化を「ネタ化」と呼ぶことにしよう。

ネタ化の手法はそれこそいろいろあると思うが、よく見られる手法の一つは、「目的や手段を属性へと横滑りさせる」というやりかたである。
今の例でいえば、1つ目の反応はテーマを「自分語り」という個人の属性に横滑りさせている。2つ目の反応は「RPG論=つまらないもの」という属性を勝手に作り出し、レッテルを貼るという形で横滑りさせている。
もし、実際読んでつまらなかったとしても、まずなぜその論が面白くないのかを論じるのが先であろう。
もし、その論とこれまで読んで来た他の論に共通するつまらなさがあればそのことも述べれば良い。

「つまらなさは述べるまでもない」と思っていたなら、今度はなぜ書き手が見えるところで反応したのか、ということになる。
書き手は自分の書いたものである以上、さらに反応を返してくる可能性も高いからである。
単に「時間を無駄にしてしまった」とだけ愚痴りたいなら、少なくとも本人が直接目にしない可能性が高い場所でやった方が無駄な争いでさらに時間を浪費するのを避けられる。
真面目に何かを話したいならこの種の横滑りに関わる必要はないだろう。
こう書くと「オレのも横滑りですか? 」と嫌味を書かれたり「お前のが横滑りだ」と言われたりするかもしれない。
建設的な話をする気のない横滑りのための悪意なのか、真面目に話そうとしているが話し方が噛みあわないだけなのかは注意を要するだろう。
横滑りを排除した上で、目標に対してどのようなやり方が最適かを検討することになる。
そしてやり方を検討するには過去にどのようなやり方があったかを検討するのが効率的だ。

この過去の読み直し作業の一部に、会話型RPGは役に立つときがあるのではないだろうか。
会話型RPGは、もちろんどれほどがんばっても現実の再現ではない。細部をどうしても欠いてしまうのは先ほど見た通りだ。
しかし、大枠の思考実験をしてみるときはその call and responce が1人では得られなかった新しい知見を提出する可能性もある。
また、会話型RPGはなぜかメタメタゲームが起こりにくい気がする。
物語内世界の登場人物はすでにデータとしてある程度属性化されている。すでに属性化されているものを別の形で再属性化するのは手間がかかるということだろうか?
しかし、細かく考えれば、思考実験はデータ化されていない部分で起こることも多いだろうから、物語内世界ではメタメタゲームが起こらない/起こりにくいという理論的な証明にはならない。
限られた時間でミッションを解決するのが目的である以上、参加者の総意がメタメタゲームを排除する方向に働くのかもしれない。
メタメタゲームが起こらないというのは、メタの混入物に惑わされずに考えを進める手助けになるかもしれない。
しかし、会話型RPGにおけるネタ化(悪い効果のメタ化)はメタメタゲーム以外の形で現れることがある。

例えば、被差別者のロールプレイだ。
ファンタジーTRPGにはしばしば種族差別が取り入れられている。
PLはその種族差別を楽しむことも多い。
差別側だけでなく、被差別側であっても種族差別を楽しむことは多い。
ハーフリングが卑しいチビと馬鹿にされたり、エルフが高慢ちきの耳長と馬鹿にされたりする。
だが、もちろん現実の差別が楽しいものであるはずがない。
それが、楽しめてしまうのはなぜか?

これらが楽しめるのはPLが結局のところ「自分は本当は(ゲーム外では)、ハーフリングでもエルフでもない」と思っている限りにおいてではないだろうか。
例えばPLと同じ属性によって、PCが差別を受けた時、PLは腹が立たないだろうか。
求職中でアルバイトでようやく日々の暮らしをつないでいるPLが、冒険者PCを「その日暮らしの日雇いのくせに」と馬鹿にされた時、全く何も思わないだろうか。  「ゲーム内のことだから」と楽しめるだろうか。
私は楽しむ自信はない。

被差別者のロール楽しんでいる人は、演じると言う形でPC(被差別者)の状況とPLの状況を相対化しているはずだ。しかし、PLはPC達の痛みの感覚には感情移入していない。相対化のもたらした別の視点(PL視点)に注意が向かっているために、PC側の視点の一部が取りこぼされてしまっている。無意識のうちにPCは自分とは関係のない者として「他者化」されているのだ。
ハーフリングやエルフの場合は、現実に存在しない生き物のため、ネタ化が行われても胸を痛める人は少ないかもしれない。
だが、私たちがPLから離れたさまざまなPCを演じる以上、現実に存在するような偏見を無意識に再生産するような可能性がある。
例えば女性の表象はどうだろう。
さらわれるのは常に若く美しい乙女だ。
老婆は怪しかったり、男好きだったり、やりて婆だったり。
女戦士は「男勝り」だったりする。

男性キャラはどうだろう。
まず、さらわれない。特に美しくもない。
老人は怪しかったり、女好きだったり、やりてだったりもするが、
村の長老クラスになるとそんな極端なキャラクターは少数だ。

「女勝り」のキャラクターもお目にかからない。
これらの表象に胸を痛める人はいないのだろうか。
正直なところ、私は嫌である。
出てくる女性はみんな美人のシナリオも嫌だし、類型的な老婆も嫌である。
「お約束で現実はそうじゃないってわかってる」
という理屈は、他の視点の一部を抹消していないだろうか。抹消した視点が他者の痛みとつながっている可能性はないだろうか。新しい視点を手にしたつもりで、無意識に悪いメタ化を行っている、つまりネタ化している可能性はないだろうか。
会話型RPGにおけるメタ化は重要な楽しみの一つであり、自己に適応されれば現実社会への関心のきっかけとなりうる。しかし、安易な他者化に用いられれば、人を傷つけることになるだろう。

******************************************************************************* 〔脚 注〕
(*1)

『クトゥルフ神話TRPG』は、クトゥルフ神話の世界を遊ぶ会話型ホラーRPGである。TRPG はTable tale Role Playing Game の略である。Tabel talk は「雑談」くらいの意味で、TRPG は会話型RPGと同じものを指すと考えてよい。  クトゥルフ神話とはハワード・フィリップス・ラヴクラフトの描いた小説をベースに、続く多くの作家たちが神々や禁書の名称を貸し借り・共有することで作られた一連の神話体系である。  クトゥルフ神話の世界を遊ぶための(成功した)最初のRPGは、1981年にケイオアシム社(米国)から『Call of Cthulhu 』というタイトルで発売された。  日本での翻訳版は、まずホビージャパン社から1986年に『クトゥルフの呼び声』として第2版が翻訳・発売された。現在はエンターブレイン社から第6版の翻訳である『クトゥルフ神話TRPG』が発売されている。  いずれも世界観に大きな差はない。  ここでは現行の『クトゥルフ神話TRPG』を取り上げて話しているが、『Call of Cthulhu 』や『クトゥルフの呼び声』と読み替えてもらっても文意に影響はない。
(*2)キャラクターを相対する別の例として、また、意志決定の実際として以下が参考になる。 「TRPGにおける<プレイング>の認知的プロセス―高橋によるエックハルトの<意志決定>事例(改訂版)」。  http://d.hatena.ne.jp/gginc/20100822/1282520395