ケイティ・サレン/エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』(山本貴光訳、ソフトバンククリエイティブ)が刊行されます

【新作紹介】ケイティ・サレン/エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』(山本貴光訳、ソフトバンククリエイティブ)が刊行されます
 高橋志行


 翻訳書『ルールズ・オブ・プレイ(上) ゲームデザインの基礎』が、今年01月27日、ソフトバンククリエイティブ社から刊行されます。

ルールズ・オブ・プレイ(上) ゲームデザインの基礎 [単行本] / ケイティ・サレン, エリック・ジマーマン (著); 山本 貴光 (翻訳); ソフトバンククリエイティブ (刊)
 ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンによるこの共著は、2004年にMITで刊行されてから今まで、主にビデオ・ゲーム業界や各国のDiGRA(デジタルゲーム学会)で非常に高く評価され、多くのゲーム開発者、ゲーム研究者、また映像論の研究者(*1)などに引用・参照・言及されてきました。

 また、〈意味ある遊び/meaningful play〉や〈魔法円/magic circle〉などといったテクニカルタームは、単にビデオ・ゲームのみならず、伝統ゲームや卓上ゲームなど、アナログゲームの分野の考察にも十分活用できる、射程の広いものになっています。

 AGS読者の皆さまにも、自信をもっておすすめできる一冊です。

 監訳者の山本貴光さまによる紹介はこちらです(帯付き写真があります):

・山本貴光,2011.01.21,「見本が届きました」
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20110121/p1


【脚注】

(*1) 例えば北野圭介『映像論序説』(2009,人文書院)第二章の前半で、サレン&ジマーマンが編纂したゲーム研究のリーダー Game Design Reader と共に、このRules of Playについての議論(特に magic circle についての解釈)が展開されている。

ゲームブックとの邂逅

 アナログゲーム、特にアナログゲームと(広義の)物語を語るうえで、ゲームブックについて外すことはできません。
 ゲームブックとは一見小説(等)のような体裁を取りながら、ゲームのようにストーリーが分岐し、提示されるパラグラフを選択していくことで展開が変わるという独特の形式を有した物語ジャンルのことを指します。戦闘やより精密な物語を再現するためのルール・システムが搭載されたり、あるいは「本」という体裁ならではの楽しい仕掛けが施されている作品も多く、世界観に合わせてバラエティ豊かなラインナップが存在しています。
 日本においては、1984年のスティーブ・ジャクソン&イアン・リビングストン『火吹山の魔法使い』(浅羽莢子訳、社会思想社現代教養文庫)が火付け役(同作品のシリーズだけで200万部を超えるベストセラー)となり、大ブームが巻き起こりました。
 近年、ゲームブックの復権が着々と進行しているようですが、そんな折、ゲームブックを愛する小珠泰之介さまが、「ゲームブックとの邂逅」という題で優れたレポートを寄稿して下さいました。
 ゲームブックをご存知の方もそうでない方も、お読みになっていただけましたら幸いです。(岡和田晃)


ゲームブックとの邂逅
 小珠泰之介


 その晩、私は帰宅の途中で書店に寄り、とある一冊の本を買い求めました。それから、百円ショップにも行ってトランプを一つ購入しました。

 家に着いて、さっそく娘に「はい、おみやげ」と本とトランプを手渡します。私は平静を装いつつ、次の瞬間に起こるであろう歓喜の声を待ち受けていました。
それがこの本です。

『バニラのお菓子配達便!~スイーツデリバリー~』
藤浪智之 著 佐々木亮 イラスト
バニラのお菓子配達便! ‾スイーツデリバリー‾ (角川つばさ文庫) [新書] / 藤浪 智之 (著); 佐々木 亮 (イラスト); 富士見書房 (刊)

 実はこれ、ただの物語ではありません。この記事をお読みになる方はきっとご存知でしょうが、これはゲームブックなのです。

 “つばさゲームブック”と銘打たれたこの本は、子ども達を対象にした「角川つばさ文庫」の一冊として、この冬に発売されました。

 この本のことを知った私は、発売日を心待ちにしていたのでした。

 私には小学二年生の娘がいます。この子が最近、読書に興味を持ちはじめてきたので、何か夢中になれるような本が無いだろうかと考えていました。そこに、この本が出るタイミングがぴったりだったのです。

 他にも、この本への個人的なある想いを抱いているのですが…それは後述しましょう。

「わあ、なにこれ!」

 娘は予想どおり、カラフルで可愛らしい表紙に、いっぺんで釘付けになりました。それから、ぱらぱらめくって「ええ!?どうなってるのこれ?」と言ってきたので、私はゲームブックの遊び方を話すことにしました。

「1から順番に番号が書いてあるでしょ、それから何番に進むか、自分で次の行動を決められるんだよ…」

 とはいえ、私の話はそっちのけで、自分で勝手に本を読み始めてさくさく設定を理解し、夢中になっていく娘なのでした。

 ケーキ屋さん、妖精、フォーチュンカード、運命判定、謎解き…すべての要素が小学生の子どもをとりこにするだろう事は予想していました。なぜなら、私自身がそうだったからです。

 私が子どもの頃はゲームブック全盛期でした。社会思想社の『火吹山の魔法使い』『バルサスの要塞』を始めとした「ファイティング・ファンタジー」シリーズや、東京創元社の「ソーサリー」シリーズはその代名詞的存在です。

 他にも、ごく平凡な読者だった私が思いつくだけでも、本格的にギリシア神話の世界を彷徨する『アルテウスの復讐』を始めとする『ギリシア神話ゲームブック』三部作、ユーモラスな語り口のJ・H・ブレナンの「ドラゴン・ファンタジー」シリーズ(現・「グレイルクエスト」)、ゲームブックは一人で黙々とやるものだという既成概念を破った二人対戦用『王子の対決』、現代日本を舞台にした名作『送り雛は瑠璃色の』、まさかの怪物が主人公の『モンスター誕生』、アメコミ的ヒーローが主人公のパルプSF風『サイボーグを倒せ』、TRPG『ローズ・トゥ・ロード』の門倉直人氏の『失われた体』など「魔法使いディノン」・シリーズ等々…。まだまだ書き足りないくらいですが、いずれ劣らぬ傑作群です。それから、小説(『グイン・サーガ』『デュマレスト・サーガ』)、映画(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)、TVゲーム(『ゼビウス』『ドルアーガの塔』『ザナドゥ』)、アニメ(『ルパン三世』『天空の城ラピュタ』)、変わり種としては音楽(『展覧会の絵』)をゲームブック化したものまで多種多様にありました。

 これらが文庫本や新書版(ここ重要)で、しかも小学生でも手が出る値段(たしか400円~千円未満、消費税は導入前)で買えたのでした。

 私的な思い出話をお許し下さい。私が初めて買ったゲームブックは、忘れもしない、赤い背表紙に白抜き文字が印象的な東京創元社の『吸血鬼の洞窟』(デイヴ・モーリス著)でした。薄い本でしたが、吸血鬼退治というシンプルな物語に、様々な罠や敵、謎解きが詰め込まれており、文字どおり本がぼろぼろになるまで読み倒したものです。しかし何より魅力的だったのは、冒頭で描かれていた夕闇が迫った深い森の中、冒険者(=あなた)が恐るべき吸血鬼の館の入口に佇み、いざ死闘へと向かわんとする美しくも緊張感に満ち満ちた情景なのでした。

 私は、このゲームブックという手のひらサイズの異世界にたちまち没入しました。選択肢といってもわずか2つか3つしかないのですが、それでもあたかも本の世界で自分が動き回っている気にさせてくれる媒体はゲームブックしかありませんでした。当時はファミコンが発売されたばかりの頃でしたが、自分の家ではなかなか買ってもらえず、もっぱら友人の家で遊ばせてもらうしかなかったものです。ドラクエ?まだ世の中にはありませんでしたよ。

 私がそうだったように、娘は放っておくと、日がな一日本に没頭していました。

「ねえ、これ、すっごくおもしろいよ!」

「お父さんもやってみなよ。この問題わかると思う?」

「もう二回目、読んでいるよ」

 うんうん頷きながら、私は心の中で叫んでいました。

 ――わかる、わかる、そのワクワクしている感じ。そうだった、そういう面白さ、興奮がゲームブックにはあるんだ――

 そう、いまだに不思議なのです。どうして、本の頁をめくって、行きつ戻りつ、サイコロをころころ転がし、一喜一憂し、アドベンチャーシートにヒントを書き込み、消し、一人でうんうん唸って謎解きを考えるのが、あんなに面白く、飽きずに延々と出来たのか。

 今でこそ、コンピュータゲームでRPGやノベルゲームがあって、遥かにプレイヤーの自由度があって、設定も凝っている完成された世界での冒険が約束されたものなど山ほどあるにも関わらず――私にとってあの頃のゲームブックほどの衝撃と快楽を貪れるものが無いような気がしているのは――何故なのでしょうか。単なるノスタルジーなのでしょうか。

 いたって感傷的に書いてしまえば、それはハイパーリンクでテキスト同士を直結したり、コンピュータが面倒な処理を即座にこなしたり、一分の隙もなく破綻の無い世界を構築することで、逆説的に削ぎ落としてしまった不自由さこそがゲームブックの魅力なのではないか、ということです。

 物語の奇想天外さ、ルールやシステムの独創性はもとより、ゲームブックにおいては、まず頁をめくる行為、少ない選択肢から行動を選びとり、次のパラグラフを探す行為、サイコロを転がす行為、これらがその快楽の大部分を担っているのではないでしょうか。変な話ですが、その過程でちらりと覗かれる他のパラグラフや挿絵にもそれなりの役割が感じられるように思うのです。

 ノベルゲームはゲームブックが洗練されて進化したものじゃないのかって?そうかもしれません。しかし、単純にゲームブックをノベルゲームに移植したとしても、これらの魅力も再現されるかというと疑問があります。

 ちなみに私はゲームブックを遊ぶことは、直感的にはむしろアクションゲームを遊ぶ感じに近いのではないかと感じています。極論だとは思いますが、例えば、戦闘の時や運だめしの時に、念じながら力んでサイコロを振るでしょう?これ、TVゲームでコントローラーボタンを強打したり十六連射に挑戦したりする熱っぽさに近いと思いませんか。プレイヤーの振る舞いとしては意外と似ている気がします。

 とはいえ、ゲームブック最大の特徴が分岐点での選択にあるので、それが全部では当然ない訳ですが、上記の分岐点での選択・ページをめくる・次パラグラフを見つける・結果を読む、という一連のサイクル(すなわち他の媒体にはない行為)の間にえもいわれぬ期待感と興奮が繰り返されます。この焦らされる時間に快楽が潜んでいるという事は明記しておこうと思います。

 もう一つ、遊んだ事がある人ならば分かるでしょうが、ゲームブック読者というのはあらゆる選択肢の結果を知りたいと思うものです。何度も冒険を繰り返して、行った事の無い選択を確認することがあるでしょう。たとえそれがバッドエンドだとしても。悪手を選んだ時に訪れる酷い結末――これをどうしても読まずにはいられなくなるのです。他のゲームでそういう欲求をかき立てるものがあるでしょうか。私にはちょっと思いつきません。

 例えば、英国のスティーブ・ジャクソンの名作『地獄の館』で、私は自分がどれほど非業の死を遂げるのか、恐怖を感じながらも、それらを確かめずにはいられませんでした。それが悪夢にうなされるほどの拷問だったとしても、無類に面白かったのです。(ときにはランダムにページをめくって、そういう場面をピックアップして読んだりもしました。悪趣味と言われればそれまでですね。)

 横道に逸れすぎました。話を戻しましょう。

 この『バニラのお菓子配達便!』は主人公の少女「ばにら」が小学五年生です。小学二年生の娘がちゃんと読めるのか、一抹の不安もありました。難しければ読み聞かせをしながら遊ぼうかとも考えていましたが、それは杞憂に過ぎませんでした。こちらが、運命判定の意味が分かるのかとか、物語の意味が分かるのかとか、いらぬ心配をしていても、子どもは自分なりの遊びを組み立てていくものです。

「わからない事があったら教えてあげるよ」

「だーいじょーぶ!」

「難しい?」

「むずかしくないよ、だって、ここにね、ヒントが書いてあるから、これを読めば分かるよ。お父さん、これ見てよ。このなぞ、わかるかな~?」

 ネタが割れない程度に触れると、第二話の鏡の場所です。この謎解きが一番のお気に入りだったようです。家の中のある場所まで連れて行って、謎を明かしてくれました。それはそれは嬉しそうに。

 そう、このゲームブックは作者の藤浪智之先生が仰っていたように、ゲームブックの面白さの要素がたくさん盛り込まれているのです。

 娘がひととおり遊び終えた様子なので、私もこの本を借りて遊び始めました。子ども向け?…いえいえどうして大人も十分楽しめました。三話構成のオムニバスで、それぞれ違った種類のゲーム性を軸に物語が展開されます。

 第一話は、初心者にもゲームの肝を逃さないようなガイダンスがあって、とても丁寧に作られています。脇役キャラクターの紹介もさりげなくされています。帆振朴斗さんが私は好きですね。

 第二話は、娘も一番好きなエピソードと言っていましたが、冒険と謎解きとが絶妙なバランスの臨場感あふれた怪奇ミステリーです。館とゲームブックというのは相性が良いのでしょう。あっと驚く秘密が明らかになります。

 第三話は、個人的にツボにはまる大好きな作りでして、同じマップでも条件が変わると人々の対応が違ってくるという、一種の隠しパラグラフのシステムになっています。中でも美容院での少しビターな場面が、凄く印象に残りました。

 どのお話にも共通していたのが、人との出会いと、その出会いを通じて解決策がおのずと見いだされていく、という点でした。決して押し付けがましくない手がかりによって、最終的には自分の決断で選択する、という王道の物語。

 個性のはっきりした姉妹と多彩な脇役キャラクター達、そして彼らを取り巻く商店街や公園といった生活感あふれる背景。最後の最後で、この背景がぐっと前面ににじみ出てきたときには、私もほろりとしてしまいました。

 この感触を、私はよく覚えています。甘すぎず、辛すぎず、ほんわかと包み込んでくれる、このあたたかい優しさを。

 実は、私が藤浪先生のゲームブックで遊ぶのは初めてではありません。初めて遊んだのは、もう二十年も前の事でしょうか。

(あと少しだけ思い出話にお付き合い下さい。ちなみに、私の辿った経歴はただの一ファンとしてはごく普通のものだと思います。さらなるマニアはたくさんいました。あくまで地方の片隅にこういう平凡な読者がいたという参考にして頂ければ幸いです。)

 その昔、今はなき社会思想社から「ウォーロック」というゲームブック専門の月刊誌が出ていました。元々は英国の雑誌の日本版という位置付けで、ゲームブックの翻訳記事と日本独自記事が同居している雑誌でした。創刊が1986年12月。私がリアルタイムで購入し始めたのは第七号からです。初期は毎月17日発売(されないことが多かった)で、値段は480円。もちろん小学生でも買えました。

 とにかく、雑誌棚でのインパクトが物凄かったのです。英国版の表紙をそのまま持ってきてるものですから、日本には無いセンスの異様なモンスターや魔法使いがビビッドな色彩でA4版の大きさでどーんと置かれてあるわけです。小学生の私には、それがえらくカッコイイものに思えたんですね。購入するのに躊躇はありませんでした。大体、「ファイティング・ファンタジー」や「ソーサリー」シリーズの表紙や挿絵で慣れていたし、ああいうのが本物だと刷り込まれた部分もあります。(その後、表紙画は米田仁士さんに変わりましたが、こちらも色んな意味で凄かった。)

 私が初めて定期購読した雑誌がこれでした。新潟県の一地方都市に住む子どもにとっては、「ウォーロック」が遠くの世界に繋がる魔法の扉に他なりませんでした。

 ゲームブックの情報は載っているし、高水準のオリジナル・ゲームブックも遊べるし、全国のファン達の投稿も読めるしで、とにかく熱中しました。

 さらにこの雑誌では、『T&T』(『トンネルズ&トロールズ』)というTRPG(会話型RPG)をサポートしていたので、私は友人たちと休日のたびに集まってはセッションを繰り返すようになりました。友人同士でゲームブックを貸し借りしたり、自作のゲームブックを作って途中挫折したり(なぜか400項目にこだわるせい)、友人宅でライブRPGもどきのイベント(ま、肝試しに毛が生えたものですが)を企画したり、セッションをテープ録音してリプレイをワープロ打ちで作成したり、ひと通りの事(?)は「ウォーロック」誌を経由して、この頃にやっていました。

 ちなみに、これは私がイラストを投稿して掲載された最初で最後の雑誌でもありました。良い思い出です。

 そして、この雑誌に大きく関わっていた人々の中に、藤浪先生がいらっしゃったのです。先生は「わきあかつぐみ」という名前で活躍されていました。ライターとして、また、オリジナル・ゲームブック「スプリンターを守れ」「ブラスターケリー」「銀河宅急便」の作者(あの魅力的なイラストも描いていた)として、あるいは、誌上ロールプレイメール「二つの川の物語」のマスターとして。

 余談ですが、今回この文章を書くにあたって、自宅の「ウォーロック」誌を読み返していたら、「スプリンターを守れ」のページに、なんと自分でメモしていた手書きのフローチャートが挟まれていてびっくり。すっかり忘れていました。

 そういう訳で、私は藤浪智之先生のゲームブックが大好きで、ときおり掲載されると大喜びで遊んでいたのでした。どの作品もほのぼのしたユーモアがあり、ほのかに醸し出される郷愁と、読者に変におもねらない凛とした気品が感じられました。

 さて、その後ゲームブックを取り巻く状況は色々あって、残念ながらかつての盛り上がりは無くなりました。私も次第に疎遠になって、はや十数年経ってしまいました。

 21世紀に入って幾つか復刊もしていますし、新刊も発売されています。今でも大きな書店や専門店にはコーナーがあるのでしょうが、知らない人が偶然に出会えるほどの状況ではないと思います。

 そして「ウォーロック」誌も1992年3月に63号をもって休刊となっています。

 ゲームブックが廃れた背景として、TRPGやTVゲームの隆盛に伴って売れなくなったのではないかという人をたまに見かけます。私はこれは違うのではないか、と思っています。そもそもがTRPGのソロ・アドベンチャーとして発明されたとされるゲームブックですから、TRPGが広まったからその役割を終えた、というのは少し変な話です。

 またTVゲームとゲームブックは対立するものではないとも考えます。現に、私の娘もDSで遊ぶかたわら、漫画も読むし、アニメも見るし、読書もするし、同じようにゲームブックも楽しんでいました。どれが一番という話ではないと感じています。

 こんな風に、ゲームブックに対する一口では言えない気持ちが、いまだに私の心のどこかで燻ぶっているのは確かです。おそらくは、あの頃にゲームブックに夢中になった多くの人達も同じ気持ちを抱いているのではないでしょうか。探せば、あちこちで懐古している方々を見かけるからです。

 だから、この『バニラのお菓子配達便!』は、私にとって藤浪先生との再会でもあったのです。と同時に、ゲームブックとの再会でもあったのです。冒頭に述べた、個人的なある想いというのはこういう訳です。

 あの藤浪先生が新作ゲームブックを、それも児童向けの文庫で出版される!というのは、Twitter上のご本人のツイートで知りました。これまでゲームブックというものを全く知らなかった子供たちが、初めて出会う可能性がかなりあると思いました。

 そこで私も『バニラのお菓子配達便!』を娘が喜んで遊んでいた事を何気なくツイートしました。微力ながらも色々な人に知ってもらいたかったのです。すると、なんと!藤浪先生から直々にお返事を頂いたのです。

 私はすぐに、自分がかつてウォーロック誌上で先生のゲームブックを遊んでいた事をつぶやきました。長い時間を超えて、自分と自分の娘が、同じ作者の作品を楽しんだ事、この不思議な気持ちをお伝えしました。

 嬉しいことに先生も喜んで下さいました。そして娘にもこう伝えて欲しい、と仰って下さいました。

「いっしょにページをめくってぼうけんしてくれたこと、ありがとう、です」

 これを早速、娘に伝えました。「お父さんがね、子どもの頃にね…」という思い出話は上の空で聞いていた娘でしたが、メッセージを直接見せると、不思議そうに、でも嬉しそうに読んでいました。

 この時、なにか一本の線が、過去から未来へようやく繋がって伸びていくような、そんな気がしました。無限の選択肢が、とは言いません。わずかな――それこそ2つか3つくらいの選択肢を進んでいった結果、私は今この場所に辿りついているのだと思います。
 あんなに大好きだったゲームブックからしばらく遠く離れてしまい、ぼやぼやしていた時間を、私は果たして取り戻せるでしょうか?

 今からでも?

 遅くはない、鉛筆とサイコロ、それから少しばかりの勇気と運があれば。

 ……さて、これから君はどうする?

・この場を借りて、藤浪先生に「ぜひ続編をお願いします!」とお願いするなら(2へ)、

・他のゲームブックにも手を出して、冒険を楽しみたいなら(3へ)、

・いっそのこと、傑作ゲームブックを作ってしまうか!(400へ)

・別に何もせずに日々の生活に戻るなら(14へ)、

それぞれ進みたまえ。


小珠泰之介(こだま・やすのすけ)
 1975年新潟県生まれ。小学生の頃にゲームブックに出会い、熱中する。「ウォーロック」誌を購読し、イラスト投稿が二回掲載されたことがある(ネコ山ヒゲ夫名義で44号と48号)。中学時代の休日はもっぱら友人と『T&T』をして遊んでいた(時々ゲームマスター)。その後、ゲーム関係から遠ざかり漫画家を志した。10年以上前に、今はなき「コミックFantasy」誌(偕成社)にてファンタジーコミック大賞佳作入選。現在は会社員。
 黒糖そば名義のブログ「芝フ調」で、岡和田晃氏の『ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド』の感想を書いた事から、氏と交流が始まり、ゲームブックやTRPGの熱を再燃しつつある。

ブログ「芝フ調」http://cocteausoba.blog.so-net.ne.jp/
Twitter 黒糖そばhttp://www.twitter.com/cocteausoba

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
ゲームブックとの邂逅 by 小珠泰之介(Yasunosuke Kodama) is licensed under a Creative Commons 表示 – 非営利 – 改変禁止 2.1 日本 License.
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 本文で名前が挙げられたゲームブックのうち、多くは装いを新たにしつつも、現在でも入手が可能となっています。煩雑になるのでリンクは張りませんが、簡単にご紹介させていただきます。
 「ソーサリー」シリーズ4部作、「ドラゴン・ファンタジー」シリーズ(『暗黒城の魔術師』、『ドラゴンの洞窟』、『魔界の地下迷宮』まで刊行済み)、『送り雛は瑠璃色の』、『展覧会の絵』、「ドルアーガの塔」シリーズ(『悪魔に魅せられし者』、『魔宮の勇者たち』まで刊行済み)は創土社からそれぞれ新訳と再編集等を加えた形で出版されています。
 『火吹山の魔法使い』と『バルサスの要塞』は扶桑社文庫から新装版が刊行されています(後述の「ゲームブック・ラボR」でも訳は異なりますがアクセス可能)。
 また『吸血鬼の洞窟』は入手しづらくなっていますが、共通した世界観を用いた会話型RPG『Dragon Warriors』が英語圏では復活を遂げています(Magnum Opus Press、Mangoose Publishing)。
 『地獄の館』はホビージャパンHJ文庫Gより翻案を加えた『ハウス・オブ・ヘル』として発売されています(後述の「ゲームブック・ラボR」でも翻案のない版がアクセス可能)。
 会話型RPG『トンネルズ&トロールズ』は第7版が新紀元社から翻訳・出版され、ソロ・アドベンチャー『傭兵剣士』がリプレイとセットで復活しています。
 また、「ソーサリー」シリーズの『魔法使いの丘』、『魔の罠の都』(『城塞都市カーレ』)、『七匹の大蛇』は、「d20ファイティング・ファンタジー」として、D&D第3版/第3.5版等で遊ぶことが可能なアドベンチャー・シナリオにもなっています。
 なお「ファイティング・ファンタジー」シリーズは携帯電話でのアプリケーション等、デジタル・メディア化も進められてきました。日本でもデジタル・メディアラボが展開を行ない、その試みはサイバーフロントの「ゲームブック・ラボR」というプロジェクトに引き継がれているようです(『モンスター誕生』は『滅びを呼ぶ者、汝は怪物』と邦訳タイトルが変わり、本国の新版を底本としつつ、こちらでアクセスすることが可能です)。

 続いて本文で紹介された『バニラのお菓子配達便!~スイーツデリバリー~』のほか――ゲームブックの「いま」を知りたい方のために――2010年に発売されたゲームブックを5作紹介させていただきます。

ハービー・ブレナン著、高橋聡/フーゴ・ハル翻訳『ドラキュラ城の血闘』(創土社)
 アーサー王伝説を下敷きにしたドラゴン・ファンタジー(現グレイル・クエスト)シリーズで知られるハービー・ブレナンによる伝説のゴシック・ホラー・ゲームブックが装いも新たに復活。
 ドラキュラ俳優ベラ・ルゴシ風の表紙が素敵ですが、俗に「ブレナン節」と呼ばれるユーモアたっぷりの(どことなくモンティ・パイソンにも通じる)ブラックユーモアと、「吸血鬼もの」への愛が存分に堪能できる贅沢な作品です。
 面白いのは、何度か吸血鬼に咬まれると……。
ドラキュラ城の血闘 (ADVENTURE GAME NOVEL) [単行本] / ハービー・ブレナン (著); 高橋 聡, フーゴ・ハル (翻訳); 創土社 (刊)

フーゴ・ハル著、河嶋陶一朗/冒険企画局監修『迷宮キングダム ブックゲーム モービィ・リップからの脱出』(新紀元社)
 ゲームブックの限界に挑戦した傑作『魔城の迷宮』の作者であり、推理ゲームの最高峰『シャーロック・ホームズ10の怪事件』にも関わった、ゲーム職人フーゴ・ハル氏の書き下ろし新作。
 会話型RPG『迷宮キングダム』の世界観に基づいたゲームブックならぬ「ブックゲーム」。フーゴ・ハル氏のこだわりが随所に見られる、ゲームブックを知らない人たち、あるいはすれっからしの方にこそ触れてほしい快作です。表紙を見たとき、すでに冒険は始まっているのだ!
迷宮キングダム ブックゲーム モービィ・リップからの脱出 (Role&Roll Books) [新書] / フーゴ・ハル (著); 河嶋陶一朗, 冒険企画局 (監修); 新紀元社 (刊)

オフィス・イディオム編『豊臣秀吉 名将の決断』(学習研究社)
 「高松城を攻めているとき、「本能寺の変」が起こった。さあ、どうする?」
 豊臣秀吉の生涯をシミュレートするという画期的なコンセプトのゲームブック。選択によってはあっと驚く結末が待ち受けています。
 「秀吉を知る」と題されたコラムも充実しており、日本史学習や戦国時代の武将について知るための入門書としても楽しめます。同じシリーズとして、『織田信長 名将の決断』も発売されています。
豊臣秀吉 (名将の決断) [単行本(ソフトカバー)] / オフィス・イディオム (編集); 学習研究社 (刊)

清水龍之介著/杉本=ヨハネ監修『魔の王の少年』(FT書房)
 アナログゲーム情報誌「Role&Roll」でも何度か紹介された、創作ゲームサークル「FT書房」が発刊した大作ゲームブック。文庫本を模した製本、600を超えるパラグラフ、別冊として(「ソーサリー」へのオマージュともとれる)悪魔召喚の書の活用など、凝ったギミックが見所の作品です。
 「FT書房」はゴシック・ファンタジーRPG(ゲームブック)の名作群への敬意を忘れない創作集団ですが、『トンネルズ&トロールズ』のイギリス版ソロ・アドベンチャーを翻訳権を取得して独自に翻訳・出版するなど、従来のインディーズ・ゲーム出版の枠に留まらない活躍を見せています。

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・FT書房/『魔の王の少年』販売ページ
http://tandt.market.cx/shopping/cart/item_241.html

ジェームズ・ワイアット/ジュレミイ・クロフォード/マイク・ミアルス/ビル・スラヴィクシェク/ロドニ-・トンプソン著、桂令夫/岡田伸/北島靖巳/楯野恒雪/塚田与志也/柳田真坂樹訳、『ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版 スターター・セット』(ホビージャパン)
 世界最初のRPGにして、世界最大のRPGでもある『D&D』。その最新版入門セット。通称「(新)赤箱」。
 小説『ドラゴンランス』等のアートワークでも有名なラリー・エルモアの懐かしい表紙が採用されていますが、中身は最新版。
 この「赤箱」内に入っている「プレイヤーの書」はゲームブック仕立てのソロ・アドベンチャーであり、プレイしながら自然にD&Dの遊び方を学ぶことができます。「プレイヤーの書」に接続して遊ぶことのできるソロ・アドベンチャー「幽霊塔の冒険」もD&D日本語版公式サイトで無料公開されており、新時代における会話型RPGとゲームブックの架け橋ともなりうる作品だと言えるでしょう。(岡和田晃)

ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版スターター・セット [大型本] / ジェームズ ワイアット, ジュレミイ クロフォード, マイク ミアルス, ビル スラヴィクシェク, ロドニー トンプソン (著); 桂 令夫, 岡田 伸, 北島 靖巳, 楯野 恒雪, 塚田 与志也, 柳田 真坂樹 (翻訳); ホビージャパン (刊)

・『D&D第4版 スターター・セット』プレビュー(「プレイヤーの書」の前半が無料公開されています)
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/news/4th_starter/index.html

・ソロ・アドベンチャー「幽霊塔の冒険」(PDFファイル)
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/support/files/4e_ghost_tower_of_the_witchlight_fens_jp.pdf

・たっぷり冒険を楽しんだら、1へ戻って別の選択肢をあたってみてもいいし、さらなる冒険の旅に乗り出すことにしてもいい。進むべき方向を決めるのは君だ!

グンドの物語

Analog Game Studiesをご覧の皆さまに、すてきなお年玉をお届けいたします。

幻想世界ユルセルーム(もの語り遊戯/会話型RPG(TRPG)『ローズ・トゥ・ロード』の背景世界)を舞台にした散文「グンドの物語」の再録でございます。
著者である門倉直人さまの許可をいただき、初出よりおよそ20年の時を経まして、Analog Game Studiesのブログ上に再掲させていただくことが可能になりました。

「グンドの物語」は“静かの公”グンド・べレドール、つまりユルセルーム世界最大の英雄の一人を中心とした散文です。
本稿ではその生涯が蠱惑的な文体によって読者の前に提示されており、日本の幻想文学、あるいはヒロイック・ファンタジー史における、重要な位置を与えられてしかるべき作品でしょう。とりわけ、ヒロイック・ファンタジーにおける「文体」、そして幻想文学における「相互干渉性(インタラクティヴィティ)」の問題について、思考の材料を提示してくれていると思います。
加えて、トールキンやル=グィンを思わせるいわゆるハイ・ファンタジーをベースにしながらも、日本語による詩歌文学の伝統の味わいもある独得の世界観は新鮮な驚きを提示してくれることと思いますので、RPGをご存じない方もぜひご覧下さい。

今回公開される「グンドの物語」は、もともと『ローズ・トゥ・ロード』(2010年版、通称『Wローズ』)の前身の一つである『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』のバリアント『変異混成術師の夜』に収録されておりました。
日本最初の職業的ゲームデザイナー鈴木銀一郎さま曰く「文章は散文だけど、あの作品は詩」(「R・P・G」1号、国際通信社、P.146)。
ほか、数々の目利きに高い評価を受けながらも、残念ながら長きにわたって参照困難な時期が続いていた伝説の散文がAnalog Game Studies上で再公開されます。
そのまま優れた幻想文学として味読することも、『ローズ・トゥ・ロード』、ひいては他のファンタジーRPGのシナリオソースやイメージソースとして活用することも可能な「グンドの物語」を、新しい年を迎えた皆さまへの祝福として、ぜひともご堪能いただけましたら幸いです。

なお今回、Analog Game Studiesに再録するにあたって、『変異混成術師の夜』に収録されたバージョンから、門倉さまにご監修いただいたうえで細部の表記や「てにをは」等を修正し、また文献学上生じた疑問点を門倉直人さまに問い合わせ、そのご回答を踏まえた編註(*)を示してあります。読解の補助にご活用下さい。

また、作中に登場する地名・神格名等についてご不明な点をお持ちの方は、『ローズ・トゥ・ロード』や各種参考資料をご覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

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グンドの物語
門倉直人(『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』バリアント『変異混成術師の夜』(遊演体)初出、2011年1月改訂)

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グンドはストラディウム(*1)大公“マレストル・ぺレドール”と「黒髪の」“カンナ・ミュール”のあいだにもうけられた男子である。誕生のさい、まったく泣き声をあげず目をつむったまま身じろぎもせずにいたことから、死産と間違えられた。十三になるまで一言も喋らず、痩せこけてもの思いにふけるかのようにじっとしていることが多かったため「静の君」とあだ名される。しかしながらグンドは非常に賢く、人の話しも早くから理解していた。故に、老大公マレストルはいつも残念がっていたという。老大公の嫡子はグンドただ一人しかおらず、言葉の喋れぬものをストラディウムの大公主として自分の後を継がせることはかなわなかったからである。

ところがグンドは、十三になったその日、生まれて初めて言葉を話したのである。彼は老大公にむかって「父上が公位をお譲りになられるのは、いつか」と、たずねたのだ。自分の息子を唖とばかり思い込んでいたマレストル大公は非常に喜び、「もっと話せ。さすればおまえに公位を譲ろうぞ」と答えた。そこでグンドは老大公に話を始めた。

「……産まれてくる前、定かな記憶はすでにないのですが、私は長い長い間、おそらく海にいたようです。

ある時たくさんの妖精達が沈んできました。彼らはとても高貴で美しい顔立ちしていましたが、そのほとんどはどこかしら酷く傷つき、傷口からは血が流れ出していました。私は恐れ、ただただ妖精たちが緑色の髪をゆらしながらゆっくりと落ちてくるのを眺めていました。
すでに死んでいるのか、生きているのか、妖精たちはピクリともうごかず、そのまぶたはかたく閉じられたまま開かれようとしません。しかし、ただ一人、ひときわ高貴な容貌の妖精が目をあけ、両手を前に――そう、まるで何かを抱きとめようかとするように――のばして沈んできました。 「ストラディウムは来ず、為に、我はアウルのかいなに招かれて眠らん青き大海の底、緑なる海の藻とともに、我が髪は静かにゆれるだろう。今や遠く遥かな、純白の、アウロンが浜道を夢みつつ……(*2)。――おまえ、行って伝えておくれ。ストラディウムはその誇りを失わずにいてよいのだと。そう、すべては我がはらから、リュクセインによるのだから。ああ、悲しいかな! 人は後に我がはらからを、アル=ガルッド、アガルッド、‘誇り、奪いしもの’と呼ぶだろう。だから、おまえ、行って伝えておくれ! ストラディウムの民人に。ストラディウムは人の子の誇りを失わずにいてよいのだと。もし、ストラディウムが人の子故の誇りにこだわれば、それはストラディウムの為によいことにはならぬ――』その高貴な妖精は、私にそうつげると、まぶたを閉じ、類まれな輝く深い青色の瞳を隠しました。そしてその瞬間、私は何かに押し上げられるかのような感覚に襲われ、あたりは闇につつまれたのです。

このようにして私は産まれ、自らに告げられた言葉の意味と私の為すべきことを考えてきたのです。これまでの年月、ずっと」

マレストルは驚き、心ひそかに自分の息子がただならぬ存在ではないかと思った。

「最近に至って」と、グンドは続けた。 「私はようやく自らの為すべき道々、そう、 ‘主(あるじ)の道’(ローズ・トゥ・ロード)のいくつかを見いだしたような気がします。
私は、自分が産まれる以前に出会ったあの海の妖精の名に、今や疑いを抱いておりません」

「そは、誰ぞ」と、マレストルは恐る恐るたずねた。

「――リミン。かの偉大なる妖精王。“緑藻(メダウモッド)の”リミンです」

マレストルは確信した。あのリミン、「真の色彩」を二(一説には三)種同時に帯びた唯一の者、太古の魔法に通じ、海神アウルの血を直接ひくという“緑藻の”リミンに会ったというのだろうか? しかも、産まれてくる前に!

「わしには、とうてい信じられん……」マレストルは頭を振って、グンドの母であるカンナを呼びに行かせた。カンナは由緒あるファライゾンの家系に生まれた娘てあり、言葉の真偽を判断する卓越した特殊能力を持っていた。

カンナもマレストル同様、わが子のしゃべるのを確かめ涙を流して喜んだが、グンドが例のリミンの話をするに及ぶと、やはり困惑した表情を隠せずにいた。

「この子が私をはるかに上回る力を持っているのでない限り、この子はただ真実のみを申しております」と、カンナはマレストルにむかって言った。「そして、私は、自分のこの力に関して、ユルセルームで他と伍した時、そうは低い能力だと思っておりませぬ」

「父上、お約束どうり、ストラディウムの公位をお譲りいただきとうございます」

グンドは屈託なく言うと、両手をマレストルヘ差しのばした。

「公位を得て、どうするのだ」

マレストルは怪しみ、躊躇して手を握りしめた。

「ストラディウムがリミンを裏切り、ためにアウロンの浜道を血で汚すよう好計を謀った妖女アガルッドと、彼女が君臨する“灼熱の血忌の国”ヒュノーを討つのです」

わが子の壮大なる話に、マレストルは苦々しげな表情を顔いっぱいに浮かべた。かつて「西方の守護」たる栄光に満ちた誇り高き人間族の地、ストラディウムの名誉を地に落としめた忌まわしい事件を思い出したのだ。

「ヒュノーを討つなど、今のストラディウムの海軍兵力では、とうていかなうわけがないぞ。それに、おまえの話が本当だとして、確かリミンは『もし、ストラディウムが人の子ゆえの誇りにこだわれば、それはストラディウムのために良いことにはならぬ』と告げておったのではないか」

「父上、しかし、それは我ら人間族全て、そしてユルセルーム全土にとって益なることとなるでしょう。

いかに、たばかられたといえ、ユルセルームの至宝である古の妖精たちが自由に住まう最後の国、その国を滅ぼすのに手を貸してしまった人間族の国ストラディウムが、その償いもせずにどうやって来たる大戦の日、デュラの猛攻を我らが同族、人間族が闘えましょうや」

グンドはそう言うと、沈黙を続けるマレストルに業を煮やしたように自室へ駆け戻り、城から抜け出してしまった。

グンドはかねてから秘かに調べていた、ストラディウム建立時からの秘密の地下迷路を丸一日かかって抜け出し、ストラディウム本島の山脈中西部にいるという伝説の刀鍛冶一族、山小人(ニムロ・ノイロ)のダロム一族をたずねた。

最初ダロムの刀鍛冶たちは、年端もいかぬグンドの戯言などに耳も貸さなかった。しかし、グンドが近くにあった「やっとこ」で自らの八重歯を抜き、これを用いてディヴァイン・ソードを造れというに及び、ダロムの刀鍛冶は真剣にならざるを得なかった。グンドが抜いた八重歯はなんと紫水晶でできており、抜いたとたんに淡い紫の光を薄闇のなかに放ちはじめた。ただ事ではない、と思ったダロムの刀鍛冶たちは、ついに自分たちの頭領で、かつ最高の腕を持つヒンテサン・ダロムを呼んだ。ヒンテサンはグンドとその八重歯を一目見ると、深々と頭を下げ「アウルとザリの寵愛を受けられた貴公は、人間の姿にあって何を私に命じられるのか」と、たずねた。

グンドはヒンテサンに自分の八重歯を渡し、これをもって奪われた人の子の誇りを取り戻してふたたびエルダノンとエンダラトスとの絆の礎になるような剣を造ってほしいと頼んだ。ヒンテサンはひどく恐縮し、言った。「生きているうちに真の色、スィーラの力の現われにふれることができるとは……。しかも、それを用いて自らの作とするものを造れるとは、なんと刀鍛冶冥利につきることか! 私は畏ろしい。が、やらせていただきますぞ」

ヒンテサンはグンドの紫水晶の八重歯を手にすると、夢かうつつの独り言のようにつぶやいた。 「真の紫の色は、大気と稲妻の主、ザリの力の現われ。わだつみのアウルが王座にひかえる水龍たちは、竜巻をもって水中より天に昇るという。竜巻のなかで龍たちはザリのよびかけにこたえ、天に向って吠えるとき、その口よりは紫の稲妻が激しくはっせられるという。彼らが持つのは紫の真の色を帯びた牙。してみると、あなた様はアウルとザリの寵愛を受けるザラバウムイラ(紫牙龍)のうまれ変わりに遠いありません」「山小人たちにどのような信仰があるのか、私はくわしくないのだが、私自身は“生まれかわり”だの“前世”だのということは考えないようにしている。私は、私が今、何をしていくのかだけを考えていたい」 (グンドは答えた)「恐れながら、しかし、“これから”は、“これまで”と無関係ではありますまい。いかにも“闇の中の炎”らしいお言葉ではありますが……(註1)」

このようなやりとりがあったのち、ヒンテサンはグンドも含めていっさいの者を自分の仕事場の外に出し誰も中に入れようとはしなかった。したがって、ハウセル(*3)がいったいどのようにセヴァーン・エト・ザラバウムイラ(紫牙龍の剣)なる異名をとる“鞘なき”グンドの剣、すなわちグンダルバウセ(グンドの牙)なる名のディヴァイン・ソードをつくりあげたかは、全く伝わっていない。ただストラディウム王室書庫の資料には、以下のようなことが述べられている。
……ヒンテサンがこもった山が、七夜後に震え、山頂は突如として黒雲を戴き紫の雷光を発し始めた。グンドと驚いたヒンテサンの弟子たちは、ヒンテサン自身の仕事場がある山の中央最深部に通じる長大な洞窟を、あわてふためいてかけおりていった。灼熱の溶鉱炉を間近に控えるヒンテサンの鍛冶場をおそるおそるのぞくと、金床の上には見事な貴金属と宝石であしらわれたツカが置いてあった。が、肝心の刀身はつけられていない。それどころか、ヒンテサン自身の姿も、どこにも見当らなかった。ヒンテサンの弟子たちは怪しみ、うろたえ騒いだが、グンドは落ち着きはらってツカの先、本来はそこから刀身がのひているはずの箇所に自分の八重歯が備え付けてあるのを見てとると、長いツカを手にとって、帯にはさみこんだ……

グンドはこうして「グンダルバウセ」を得、マレストルやカンナを初め、城の者全てがグンドの行方を案じて大騒ぎのストラディウム城へと帰還したのである。

グンドは帰り道にあっては地下道を通らず、あえて城の正門の前に立って父、マレストルを呼ばわった。 「我が父にして、ストラディウム公マレストル殿と、その臣下の方々よ。とくとく見定めよ。こは我が牙にして、我が意志なり!」グンドがそう大音声でよばわると、マレストルをはじめとする城の人々は、たちまち城の外壁の上にむらがってグンドを見下ろした。

グンドはその鞘なき剣を天上に向かって捧げ上げた。――すると見よ! 七枝に分かれた紫電が、かのツカに埋め込まれたグンドが八重歯へと天より到り、その様、あたかも雷電の刃が、突如、顕われたかのようである。グンドはあっけにとられる城の老々の眼前にて、手に持つ剣の重みに堪えかねるかのごとく、全身の力をふりしぼって、やおら剣を降りおろした。

大地にそのまま紫電がたたきつけられ、大地に紫電が走り、目指すストラディウム城門に及んだ。かつて外よりは決して開けられた事がなく、また、開け得ぬとされた「三大門」(註2)の一つ、人間族の大門、ストラディウムの大門が呻き、人間族の王たる王グンドに応答し、振動とともに、その口を開いたのである。伝説では、この時、デュラの黒太主ユレーグは王座より立ち上がり、本国マストより第一黒龍騎兵の召喚を命じたという。時にイーヴォ歴1485年(一説には1442年)(*4)、紫の月。かくてグンドは、弱冠十三の歳にしてストラディウムの大公主に迎えられ、「大戦」は新たなる展開を見せることになった。

「大戦」の詳細に関しては『ユルセルーム戦史』に詳しいので、ここでは簡単にのぺるものとする。

アタティオンの炎とともにデュラの大陸軍侵攻が始まったが、グンドは名高い「イラフロノウム越え」を行ってダーの要塞を一時的ではあるが逆包囲し、この他に包囲されていたローダニゾンの精兵を救出。が、莫大な量の敵兵を前にローダニゾンの軍は徐々に後退、遂にローダニゾンは崩壊する。グンドはローダニゾンの難民をデュロン山脈中にかくまい、この地の山小人皇王、“赤髭の”シクロスと協力してデュラの軍に側面から圧力を加え、その進撃速度を鈍らせるぺくデュロン山脈中の無数の坑道から出撃する遊撃隊を組織。戦況が膠着状態となるに及んで、統一王朝の王、“一角龍の”イルク・セイリオンにヒュノー強襲を上奏した。イルク・セイリオンは「公主殿の“直接嘆願権”はただ一度のみ。公主殿が自領の城を守るか、ヒュノーの城を破るかである」と宣り給うが、はたしてグンドは後者を選んだ。「たとえストラディウムの城がおちようとも、ヒュノーを討たずしていかに人の子が自らの内に、真の城をうち建てることができましょうや」グンドは毅然と言い放ったという。

運命の1940年(*5)、赤の月。統一王朝の大軍は突如エンダルノウム南方からナーハン方面へと進撃を開始し、すでにドゥーロンを席捲してギュロンに侵入しはじめていたデュラ主力と、正面から対する構えを見せた。この動きを見て、ヒュノーの主力はユルセルーム大陸エンダルノウム地方の南岸へ上陸。手薄になった南方を一気に北上、統一王都エンダルノウムを襲おうとした。――だが、この時、グンド率いる精兵「ストラディウム海騎兵」が巧みな迂回行動をとってヒュノー本島へ上陸。主力のいない炎の島、ヒュノーのアガルッド宮に向かって猛進。とはいえ、忌まわしき土地の毒気、熱に散々悩まされつづけた。この間、統一王朝の主力はただちにエンダルノウムに向かってこれを守るべく、全速で引き返し始める。主力が帰るまでの間、竜王イルク・セイリオン自ら率いるエンダルノウムの僅かばかりの近衛軍千人は、「十の十倍」といわれる圧倒的なヒュノーの主力十万と七日七夜にわたって激闘を展開、討ちとったヒュノーの将は数知れなかった。なぜならエンダルノウムの近衛兵は「一対一であれば黒龍騎兵も闘うのを避ける」と、歌にまでうたわれた精鋭中の精鋭であったし、イルク・セイリオンの黄金色の槍“オザノング”には何者も抗し難かったから。だが七日目にして、遂に戦線は破れる。

戦線の崩壊とともに突出したイルク・セイリオンは包囲、殲滅されかかった。この時、さすがの“竜王”イルク・セイリオンも自らに与えられた、ただ一度のオザンに対する“直接嘆願権”の行使を覚悟した、と伝えられている。しかし、結局、間一髪間に合ったラムザス疾走騎兵らによって救われることになった。そしてこの後、統一王朝軍の主力が到着し、この時はエンダルノウムの陥落は避けられたのである。

一方、グンドらのヒュノー強襲部隊は、イルク・セイリオンの部隊がエンダルノウムの存亡を賭て死闘を繰り広げている間も、溶岩流によって守られたアガルッド宮を攻めあぐんでいた。アガルッドの門前は激しい熱と毒気が渦巻き、これを守る溶岩巨人らの攻撃は苛烈をきわめた。千人にも満たぬグンドの部隊の将兵らは、一人、また一人と消耗していった。“人の子の誇り、奪いし妖女”アガルッドは勝ち誇ってグンドらの前に姿を現し「“緑藻の”リミンすら騙されたものを、人の子の浅知恵、かたはら痛し」と嘲笑った。寡黙なるグンドも、この時は声高く「リミンが、メディート、アウル両大神への“直接嘆願権”を持ちながら、これを行使せざるは何ぞ! 情深きリミンは、そなたに最後の機会を与えるべく、自ら大海の底に沈んだのだ!」と叫び、天と地の問、大気とイカヅチを治めるサリに対し、自らの、最初で最後の“直接嘆願権”を行使した。グントの喉笛からスィーラ自らが口にする神聖語の正確な音韻によってザリの真名が呼ばわれ、守護大神ザリ自身の力が太古の誓約に従ってあらわれた。突如生じた暴風雨の中、グンドの両手に握られたグンダルバウセは紫光を帯び、たかだかとそのイカツチの刃を天にのばした。グンドがグンダルバウセの猛き刃を前に振り降ろすと溶岩巨人などは粉々にふきとび、塔は震え、城門は毀れた。グンドらは、そのまま城内へ突入し、アガルッド宮の守備隊はザリの力を得たグンドの怒りの前に、ただ散り散りになって逃げ惑うばかりだった。この時、アガルッド自身は半身にグンダルバウセによる激しい火傷を負い、どのような妖術を用いても、二度と惑わしの美しい容姿をとり得ぬ、イカヅチの走った醜い跡を残すことになったと云われている。

かくて“灼熱の血忌の国”と呼ばれ、デュールにより火をもって大海から持ち上げられたという恐怖の島ヒュノーは、一人の定命の人間によって鎮定されたのである。

しかし、エンダルノウム攻略に向ったヒュノーの主力は、帰るところを失ってかえって死に物狂いとなり、ついには全滅するまで闘って統一王朝の主力に対しても無視できぬ損害を与えた。とはいえ、この後ほぼ七年間、戦線は膠着状態となり、統一王朝の難民の多くが、より安全な地域へと逃れることができたのである。

1497年末、薄青の月。ふたたびデュラの大攻勢が始まった。海で、陸で、デュールの魔力を得た黒太主ユレーグの軍は、ストラディウムを主力とする西方守護連邦の軍を完膚無きまでに撃破。グンドの父、マレストル・ベレドールは旗艦“西方の星”ストラクステルと共に大海の底へ沈む。奇しくも、リミンその人が沈んだアウロン沖であった。以後、城塞都市ストラディウムは三年間にわたる十重、二十重の包囲を受ける。グンドは何度も包囲の突破を試みたが果たせず、グンダルバウセの威力は相変わらずすさまじいものではあったけれども、二度と大神ザリの力そのものを現すことはなかった。なぜなら、グンドに許されていたスィーラへの“直接嘆願権”はただの一度のみであり、グンドはこれをすでに行使してしまったからである。包囲されたストラディウムの兵士たちは、確実に疲弊していった。だが、二本の足をして彼らを立たせ、支えていたのは、グンドの偉業であったことも、また、まきれもない事実であった。

しかし1950年末(*6)、薄青の月。今や、デュラの魔王にしてユルセルームの支配者を公然と名乗る、ユレーグ自らの指揮する第一黒竜騎兵が、“西方守護”ストラディウムに最後の一撃を与えるべく突撃の準備をするに及び、グンドは遂にストラディウム“西方守護連邦軍”の解散を命じる。「各自、これからは自らの最も大事とするものを守れ」グンドが最後に下した解散の命令に従って、兵士たちは自分の家族のもとへと絶望的な脱出の準備を始めた。しかして、グンドはストラディウムの大門の前を離れようとはせず、問いただす臣下らに、グンドは答えたという。「ここより、後にある全てが、私の最も大事なものであるから、私はここに残る」、と。
町に放たれた炎が、時折漆黒の夜の闇を照らし、今しも崩れ落ちようとするストラディウムの大門を前にしたグンドの瞳は、これから自分が向おうとする運命をうつして限りなく黒く、深かった。

そうしたグンドの側に近寄る、二人の騎士がいた。一人は、ロードンのヒンドルス、いま一人はユル・ストラディウムのハクセオイといった。グンドは何も言わなかった。戦のさなかヒンドルスは身寄りの全てを失っていたし、ハクセオイはそもそも生まれたときから、ただの一人だったからである。ハクセオイの額に残る傷跡は、臨月だった彼の母の腹を貫いたデュラの兵士の槍がつけたものだった。

大門の崩壊のその瞬間、三人の騎士は電光のように突撃し、黒龍騎兵のただ中に突っ込んでいった。グンダルバウセが一閃し、黒龍の首がはねられ、ヒンドルスのバーニング・ソードが乗手を甲冑ごと燃え上がらせた。ハクセオイの長槍は黒龍の首を貫き、さらにその乗り手までをも貫いた。第一黒龍騎兵は動揺し、混乱した。不敗を誇る第一黒龍騎兵が僅かとは言え、退却したのは、この時をもって他にはない。この間に、多くの者が秘密の地下道を通って、城外へと脱出した。

グンドらが目指したのは、このデュラ最強の軍の深奥、闇よりなお暗い甲冑に身をかため、ひときわ大きい黒龍にまたがり、リミンの長槍シンサレアをもってしても倒れる事無く、 “虚無の剣”アガレイの使い手、デュールが自らの身を裂いて創造したという忌まわしきフェルダノン、魔王ユレーグ、そのものだった。その様は、あたかも夜の大海に沈みゆく一個の真珠のようであったという。圧倒的な闇の中、僅かな光がひときわ暗い闇へと急速に接近し、ひとたびの閃光の後に、消えた。グンド、その人の生涯のように。

グンドの死体が発見されたという、いかなる記録も残ってはいない。この後、ストラディウムは徹底的に破壊され、4年後、新たに魔族グドルの軍を加えて、統一王朝の都エンダルノウムはイルク・セイリオンの叫びとともに陥落。そして、1509年。聖都ファラノウム前面にて、遂にファライゾンの執政フィキタスは執政の職を降り、イーヴォを求め、“ファライゾンの破壊石”を行使。デュラの主力は瞬時にして壊滅し、現在のシリネラ湖ができた。黒龍騎兵とユレーグは当初のデュラ領へとひきこもった。

この後の約200年間、ストラディウム山中に隠れ暮らす者にとってはもちろん、非力な人間族にとっては、あまりにつらい「大混乱期」がつづくが、そんな中にあって、ただ彼らを支え、闇のなかに奇跡のように輝く星のごとくに彼らを導いたのは、グンドと、彼があらしめ、かつて人間族が行なったユルセルームへの裏切りにより失われた“西方守護たる人間族の「誇り」”そのものであった。ただこれ故に、彼らは真の「貧困」に陥ることなく、1700年、遂にストラディウムを再興する。そして、1750年には、かつての「西域」ほぼ全域を含む、ストラディウム連邦を不死鳥のように形成するのである。

「グンドの物語」終)

(註1):“闇の中の炎”とは、数ある「人間族」を表す呼び名の一つである。デュールによってその存在のきっかけを与えられた「人間」が、限りある「生」において、試行錯誤の闇のうちに自らの生きざまを天上に向って投げかける様を、燃焼する炎のありさまにたとえたものと云い伝えられる。翻って、これを「刹那的」とか「やけくそ」的な意味として用いる場合もある。

(註2) :「三大門」とは、聖郡ファラノウム、続一王都エンダルノウム、西方守護ストラティウム、以上三都市の城門を指す。

【編註】(門倉直人、岡和田晃)

*1 エルダ(中期西方読み)もエルロウダ(精霊古語詠み)も間違いでないように、ストラディウムの読み方について、ストラデュウムもストラデュームも間違いではないが、この文献上ではストラディウムで統一している。

*2 伝え聞くところによれば、“眠らん”は、前の“かいなに招かれて”を受けると同時に後の“青き大海”をも修飾する。時の匂い、またグラデーションといった移ろいへの詠嘆など、妖精族の雅で詩歌的文体において多用される傾向があった。「招かれて」の部分は「抱かれて(いだかれて)」とする異本が存在するという。

*3 ハウセルとは、語源的には「潜在する神威を鍛え顕す、神業をなす特別な鍛冶場、その火、燃料、送りこむ風、鎚、金床の全て」を意味した――が、後に、単に優れた業物を鍛え上げる「鍛冶場」を意味する言葉になり、結果的に四王国時代では、それは「山小人の鍛冶場」という意味へ(ほぼ)語の運用が変わる。そして、薄暗がりの時代以降は、また「ちゃんとした正規の(施設の整った)鍛冶場」という意味に一般化する。つまり、ここはこの文献時の語の運用に合わせ――ハウセル(山小人の鍛冶場)とするか、ハウセル(特別な鍛冶場)などと理解するのが良いだろう。あるいは逆に山小人の鍛冶場という慣用を念頭に置き、ハウセルはあくまで表音を意味するという理解の仕方も可能だろう。

*4 この箇所について、ファラノウム図書館にあるイーヴォ派諸国に於ける公式史書ではっきりしているのは、1490年にヒュノーがグンドにより滅ぼされたという一点のみ。そこからの類推においては、1485年説が正しいと見るべきだろう……。ただし、ミレアの黒塔伝承のように時間軸を撹乱するような混沌の呪縛が関与している可能性は常にある。なお、ストラディウムの『公統譜』あるいは『五公譜』ではグンドは1485年の即位となっている。

*5 ヒュノーがグンドによって滅ぼされたのは1490年が正しく、異説はない。しかしながら、この箇所はこの文献上で数字音に意味をもたせた意図的アナグラムという説がある。

*6 正式な史実では、1500年の薄青の月でグンドがストラディウムの大門を開き最後の突撃をしたこととなっている。ただ、本文献において、なぜこのような記載がされたかということについて、単なる誤りではないという説がある。すなわち、グンドはこの時に戦死していないという「見立て」を行なうことで、グンドの再来が成就すると信じられた、一種の呪術的表記という説だ。つまり実際には1500年という運命の年の冬に(死体こそ見つからなかったが)戦死したグンドを、ここで数字を「1950年末」と「文字にして刻み流布」することで、ある種「将来のグンド、あるいはグンド的なるもの」の黄泉がえりを祈願するという、その手の呪術、祈祷が込められた可能性を示唆している。そして実際、1950年代の末は大暗黒期におこったフェリア水没前後と類推され、そこに黄泉がえったグンドが現れ、その活躍が、続くインジークによる大暗黒期終焉の予言に関係しているという言い伝えは(根拠はともかく)西方人の人気の物語になっているようだ。

ローズ・トゥ・ロード (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / 門倉 直人 (著); エンターブレイン (刊)

 

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グンドの物語 by 門倉直人(Naoto Kadokura) is licensed under a Creative Commons 表示 – 継承 3.0 Unported License.

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門倉直人(かどくら・なおと)
ゲームデザイナー。国産初のテーブルトークRPG『ローズ・トゥ・ロード』のデザイナー。その独得かつ幻想的な世界観は、いまなお数多くのユーザーを魅了し続けている。
代表作は『ローズ・トゥ・ロード』、『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』、ゲームブック『魔法使いディノン』シリーズなど。
(『ローズ・トゥ・ロード』リプレイ『ソングシーカー』(新紀元社)より)

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グンドの物語は、とてもTRPG的な物語です。すなわち、とても、やわな構造をした双方向的もの語り遊戯であります。
そこには初出のグンドの物語(『変異混成術師の夜』に収録前の、遊演体ニューズレター掲載のもの)への反響、思いといったものが反映され、疑問点、矛盾点への考察やら四方山がインタラクティヴに響き合い続けています。
神話が重層性を深めていくのには曖昧性、ゆらぎといった要素が不可欠であり、古においてそれは口伝による伝播ということが大きな役割を果たしたと言えましょう。
「邪気」という言葉が「蛇鬼」という言葉として同音連想をからめて様々な物語を生み出したように。
これは文字による伝播が前提であれば、なかなか思いつかない神話生成の要因かと思うのです。
それゆえ現代に於いて、誤植、誤解、誤変換、取り込みエラー等々も、それは神話が新たな枝葉を伸ばす「意味を吸い込み、依り憑かせ、また変異混成させる、偶然という名の真空」ととらえるのです。
だから、私は今でも、このグンドの物語を稚拙な語運用を恥ずかしく思いつつも、(一読者として)とても楽しく読めたところがありました。(門倉直人)

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Analog Game Studiesでは、以下の記事でも『ローズ・トゥ・ロード』に触れています。併せてご覧になって下さい。

・『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた

・「忘れたという、その空白の隙間で--門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第4回)

草場純

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◆第3回はこちらで読めます◆

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前回のククに続いて、もう少し「瀕死」の伝統ゲームについて見ていこう。

ククについては、その復興・伝播についての重要な問題点がある。これについては私も当事者の一人なので、余人にはできない立ち入った考察もできるし、それをここに述べることは、記録という意味からもそれなりに重要であり、恐らく興味を持たれる方もおられよう。だがそれは、この論考のもう一つの柱「ゲームの受容」の段で詳述することにして、ここではひとまず他のゲームについて眺めていくことにしたい。

事柄の性質上、馴染みのないゲームが並ぶし、ルールについて詳しく説明する紙幅もなく、ご存知ない方には甚だ分かりにくく纏まりのない話になるかもしれないが、前以てご容赦願いたい。

まず、「黒冠」を扱おう。別名を「青冠」、「色冠」、「黒冠色冠」などとも言う。これは百人一首の遊びである。

まずこれが瀕死かどうかだが、私の調べたところ私以前にこのゲームを述べた文献は、一件しか見つからなかった。その後の精査で郷土史などの中に類似の遊びが触れられているものをいくつか見出したが、普通の出版物としては他にはなかった。例えばこのサイトの読者で「子供の頃、友達とやった。」とか「親から教わった。」というような人、即ち「伝承」した人はどの程度おられるだろうか。

百人一首の遊びといえば「かるた取り」と「坊主めくり」が主だろう。やったことはなくとも、そのような遊びを聞いたことのない日本人は、殆どいないのではなかろうか。特に「かるた取り」は黒岩涙香以来の「競技かるた」としてルールが確立し、また海外にはない(と思われる)独特のシステムとして、日本文化の一端を担っていると言っても過言ではなかろう。短歌という定型詩をゲームと結びつけたという意味でも極めて興味深い。これは後述する投扇興にも通ずる側面である。百人一首に関する出版物は、それこそ汗牛充棟とまでは言わなくとも、膨大である。ところが、私も片っ端からそのような出版物に目を通してみたが、一言半句も「黒冠」「青冠」を見出すことはできなかった。これを以って瀕死と言わずとも、虫の息ぐらいは言ってもいいのではないだろうか。

で、「黒冠」はどのようなゲームかをごく簡単に述べれば、4人でプレイするパートナーシップのカードゲームである。使用するのは百人一首の絵札(読み札)であり、字札(取り札)は使わない。絵札は描かれた人物の主に被り物により、黒冠・姫・坊主・矢五郎・縦烏帽子・横烏帽子と二枚の特殊札に分類する。これがいわばスート(トランプで言えばスペード・ハート・ダイヤ・クラブ)に当たるわけだ。しかもゲーム論的に興味深いのだが、すぐ想像されるようにこれは市販されている百人一種の種類によって、スート構成が異なるということである。こうしたアバウトさは、近代的なゲームにはあまり見られまい。これを一人25枚ずつ手札として配る。

ゲームの目的は手札を早くなくすことであり、これはパートナー同士のどちらが達成しても構わない。プレイの基本は、初めを除いて二枚ずつ出して行くが、一枚目は直前の人が出した種類(スート)と同じ種類を出さなければならない(受け)。二枚目(攻め)は任意であり、戦略的なことを言えば次の人の持っていない種類を出すとより勝ちやすい。一枚目で受けられなければ(あるいは受けたくなければ)パスをする(パスに追い込まれる)ことになる。

トランプでよく行われる大貧民に似ているとも言える。中国の天九牌のゲームにも似ていると言えば似ている。欧米に広く分布するトリックテイキングゲームにも少し似ている。北欧のキューカンバー、東欧のセドマにも、似ていると言えば似ている。だがそれらのどれとも違うのである。

「システム」という言葉をどのような深さで捉えるかは、なかなか難問である。このゲームをケーススタディーとして「システム」を考えるなら、手札を順に出して行って早くなくすという大きな意味での「システム」としては大貧民やウノ、ノイなどに似ている。だか基本的に二枚ずつ出し、隣との戦いの連鎖になっている「サブシステム」としては、どれとも微妙に異なる。ククほど劇的ではないが、私はここにまた新たな(サブ)「システム」を見出すのである。これを仮に「黒冠システム」と呼んでみよう。

前回も述べたように「瀕死」のゲームは、現在のメインストリームと接触の薄いゲームと言える。そこではメインストリームでは淘汰されてしまうシステムが、保存されたり確かめられたりしているわけである。つまり「瀕死」のゲームはシステムの保存庫であり、実験室だとも言える。

前回の繰り返しになるが、私はここに伝統ゲームをプレイする意味の一つを見出すのである。

面白いことに「黒冠システム」のゲームは、日本の各地に伝統ゲームとして散見される。代表的なのは、石川県能登町宇出津の「ごいた」である。これは元来は将棋の駒を使った黒冠である。ただ、「攻め」が一周続き、ここはよりトリックテイキングシステムに近いと言えそうだ。

他にも茨城には「ゴンパ」とか「丸将棋」と呼ばれた黒冠システムのゲームがあるし、東京(江戸)には「くろ大黒」という、黒冠のバリエーションがあったと言われる。北陸には「色てん」という、また少々細部の異なったゲームが、今も細々と遊びつがれている。

更に、明治期には「芋将棋」という黒冠システムのゲームが売られていたし、その元は江戸時代の「受け将棋」であったとも言われる。

またかつては、「合駒かるた」といって、花札でやるゲームもあったと伝えられている。

すなわち、少なくとも百五十年以上前から、黒冠システムのゲームは、文献に記録されることこそ少ないものの、地下水脈のように日本の各地に広まり、細々とではあっても遊びつがれてきたのである。

こうしたことは二つの面から興味深いと思われる。

一つは庶民史の側面である。そうしてもう一つは「ゲームのニッチ」の面からである。

夙に「歴史は支配者の歴史である」と言われて久しい。正史を編纂するのは時の支配者であるし、史料も圧倒的に「そちら視点」が多く残される。社会システム自身が為政を体現したものであるともいえよう。それ以外の歴史の目は乏しいといわざるを得ない。これに対して、「遊び」は、そうした区別なく楽しまれ伝えられ、息づいている。つまり遊びやゲームは、歴史を今までと違った視点で切り開く可能性を持っているわけである。ここにもう一つの、「伝統ゲームを現代にプレイする意味」があると、私は考える。

もう一つの「ゲームのニッチ」とは、生物学で言うニッチ、すなわち生態学的地位ということである。

安易な比喩やアナロジーは危険であるのは承知のうえで、私はゲームは生物のように、進化・分化・興隆・衰退・滅亡を繰り返すと考えている。「ゲームの生態学的地位」すなわち、ゲームのニッチは、それを推し進めた私の一つの仮説である。すなわち「ゲームのシステムは、人類の遊び時空間の中で、他と区別される地位を持つ」ということである。これは単なる仮説であり、ここでわき道に逸れると本題に戻れなくなるので、深入りは避け、一言だけ言及しておくことにする。

人類が、深海における熱湧水に新しい生態系を見出したのはそんなに古いことではない。はおり虫(チューブワーム)は、硫化物の分解という我々好気生物の営みとは全く別のシステムによってエネルギーを得、子孫を残してきた。

黒冠システムのゲームは、様々なバリエーションが日本の各地に人知れず少しずつ残っている。私には「黒冠システム」のニッチを、いろいろなゲームが襲い分け合っているように感じられるのだが、いかがだろうか。

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◆第5回はこちらから読めます◆

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『秘身譚』とルナー帝国(第1回)

『秘身譚』とルナー帝国(第1回)

 Analog Game Studiesは、アナログゲームとそれ以外の社会的要素を取り結ぶことを大きな目標として掲げています。この問題意識に則り、現在「マガジンイーノ」(講談社)で連載中のコミック作品『秘身譚(ウィタ・アルカーナ)』(伊藤真美)と、この作品と共通したモチーフを採用した幻想世界である「グローランサ」とを題材として、「『秘身譚』とルナー帝国」という主題でテーマ連載を行なうこととなりました。
「グローランサ」とは各種の神話素を混交させた独自の色調を有していますが、そのなかでも多民族・多宗教の巨大帝国として君臨するルナー帝国の退廃的な魅力は数ある創作世界の中でも異彩を放ち、洋の東西を問わず熱心なファンを有しています。第1回目は、『秘身譚』の担当編集者K・Nさま(ご本人の希望により、イニシャル表記とさせていただきます)が『秘身譚』と「ルナー帝国」に共通するモチーフについて記事を書いて下さいました。

ところで「グローランサ」については、Wikipedia日本語版の記述が充実しています。ご存知ない方は、まずはリンク先の解説をご覧下さい。(岡和田晃)

・グローランサ(Wikipedia日本語版)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B5

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【テーマ連載】『秘身譚』とルナー帝国(第1回)
『秘身譚』担当編集K・N

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つい先日、ツイッターの一角で、ある漫画作品が、(会話型RPG「ルーンクエスト」の背景世界である)幻想世界グローランサに登場するルナー帝国を想起させる、という話題がのぼりました。その作品の名は、伊藤真美氏によって描かれている『秘身譚』です。この小文では、この『秘身譚』と「グローランサ」(ルーンクエスト)について触れていきます。

秘身譚(1) (KCデラックス) [コミック] / 伊藤 真美 (著); 講談社 (刊)

『秘身譚』は、紀元3世紀の古代ローマ帝国を舞台に繰り広げられる、歴史と神話が入り混じった冒険活劇です。物語は、ローマ皇帝カラカラの暗殺で幕を開け、シリア属州都アンティオキアを舞台に、月の満ち欠けにより半陰陽に変化する少年・エラと、彼の庇護者である軍士官、グナエウス・D・ポリオを中心にして、ローマ帝国の帝位を巡る争いが話の軸となり、展開していきます。太陽神「エラガバル」を奉じ、帝位奪還を狙う前帝の外戚の一族や、ポリオが率いる秘密結社「夜の辻」の幹部の面々、野心的な女性医師など、彼らを取り巻く人々も、『秘身譚』では生き生きと描かれています。

作品内でも見られるように、広大な版図を持つローマ帝国の領域内では、(ギリシア化された)ローマ古来の神々や、ギリシアの密儀宗教、オリエント諸都市の神々、ガリア(ケルト)やゲルマンの自然神、原始キリスト教、ミトラ教など、様々な神々や宗教が同時並列的に信仰されていました。作中にも、アンティオキア市の守護神である、幸運の女神テュケー(ローマ名:フォルトゥーナ)、死と月の女神ヘカテー、シリアの太陽神エラガバルなど、幾柱かの神々の名前が登場し、物語の中で重要な役割を果たします(因みにキリスト教も、新興宗教としてほんの少しだけ触れられています)。ローマ人はこれらの宗教を受容しながらも、思考と理性を重んじるギリシア哲学もよく学び、文化や慣習が異なる多様な地域を支配する必要から、万人に共通して適用するルール=「法」を最重要視して、その体系の整備に努め、帝国内の安定に努めました。

一方で、自らが誇る「文明」を許容しない国家や文明に対しては、非常に冷酷に対応し、大規模な破壊や残忍な処刑や虐殺を全く厭いませんでした。領域内に組み込んだ地域では、ローマ風の都市計画を推し進めて道や建物を建設し、ラテン語を支配階層への教育で広めて、生活環境や思考方法での「ローマ人」化を一方的に推し進めました。そして何よりもローマ本国の皇帝への忠誠を、現地の神々や信仰よりも上位に置くように強く求めました。ユダヤ民族やゲルマン民族は、この政策にたびたび反発してローマに戦いを挑み、大規模な反乱や戦争を何度も引き起こしてきました。

「中世以前の技術・文明段階の世界で」「自文化の受容を強制し」「古来の信仰や習慣を守ろうとする民族を抑圧する」「様々な神々が住まう地における巨大帝国」……。グローランサ世界におけるルナー帝国が、『秘身譚』の舞台である古代ローマ帝国と重なるのは、当然のことだと思われます。ですが奇妙なことに、グローランサの創造者であるグレッグ・スタフォードは、「ルナー帝国のモチーフはササン朝ペルシアである」と述べているのです。しかしササン朝ペルシアはローマ帝国と時代こそ重なりますが、ペルシア民族主義を打ち出して独自の文化を優遇した王朝でした。ところで、ササン朝ペルシアが創成した場所であるイラン高原中部もまた、アレキサンダーの東征の範囲に含まれており、したがってササン朝もヘレニズム文化の影響を免れ得なかったと考えるほうが自然でしょう。では何故、我々は古代ローマ帝国のイメージをルナー帝国の中に見るのでしょうか? 私が考えるに、『秘身譚』の舞台である「ローマ帝国東方」に、その答えはある様に思われます。

ローマ帝国における東方とは、小アジアやシリア、パレスティナ、アラビア、エジプト、メソポタミア等にある属州や皇帝直轄領で構成され、現代では「中近東」とされる地域にあたります。ここで重要なのは、これらの場所がアレキサンダー大王が征服してギリシア文化と融合して初めて「西洋」に組み込まれたのであり、それまではアッシリアやヒッタイト、新旧バビロニア、アケメネス朝ペルシアなどの、古代オリエントの諸帝国が何千年もの間、興亡を繰り広げた場所だったということです。

専門家ではない我々一般の人々が「ローマ」という言葉から想像するのは、多分に古典古代や現在のイタリアから得られる“西洋的”なイメージでしょう。確かに古代ローマは、建築や法体系、言語などで、現代西洋文明の重要な基層を成す文明でしょう。ですが、東方においては、ローマの支配下にあっても、(ヘレニズム化されてギリシア文化を融合した形での)古代オリエントの影響が、非常に強く残っていました。中でも支配者の頂点たる王や皇帝を、地上に存在する神そのものとして崇拝する習慣は根強く、東方においては、ローマ皇帝の偶像をたて、神として崇めたという記録は数多く残っています。

中央集権支配を容易にするこの思想は、ローマ中央政府にも受け入れられ、ディオクレティアヌス以降及び東ローマ帝国においては、支配原理として採用されることになります。因みにローマなどのイタリア諸都市や西方の属州では、皇帝を地上に居る神として崇拝する習慣は、そこまで強く根付かなかったようです。

また、ササン朝ペルシアの王朝創成の場所であるイラン高原中部も、アレキサンダーの東征の範囲に含まれ、ヘレニズム文化の影響を免れ得なかったと考えることが自然でしょう。そもそも前王朝のパルティアは、ギリシア文化を積極的に受け入れており、「ペルシア文化の独自性」はどのようなものかは、不明な点は多いと思われます。

上記のことを考え合わせると、ルナー帝国は、「オリエント化されたローマ」のイメージと、「ヘレニズム化されたオリエント」のイメージを併せ持った、文字通り「幻想の帝国」である、と言うことができるのではないでしょうか。我々の感覚とグレッグの発言に相違があるのでは無く、ひとつの曖昧なイメージを、別々の側面から見ているともいえるでしょう。

『秘身譚』は、ローマ帝国を舞台としていますが、東方における「古代オリエント」の部分が、強く描かれている作品です。伊藤氏が描く、緻密且つ濃密な古代世界を、今後とも是非ご堪能ください。

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『秘身譚』担当編集K・N

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
『秘身譚』とルナー帝国 by K・N is licensed under a Creative Commons 表示 – 非営利 – 改変禁止 2.1 日本 License.

秘身譚(1) (KCデラックス) [コミック] / 伊藤 真美 (著); 講談社 (刊)

【オビの紹介文】
「紀元217年、皇帝カラカラの暗殺を機に、世界最強の帝国ローマは大きく揺らぎ始める。帝位を簒奪した新帝マクリヌスは、東方の要アンティオキアで地位を安定させるべく、街を闇から牛耳る軍士官、Cn・D・ポリオを逮捕せんと画策するが!? 爛熟と退廃そして神秘と幻想に満ちた古代地中海世界を、美麗なビジュアルで描く、歴史ロマン幻想譚、堂々の開幕!!」

【Wikipedia日本語版より】
主人公の少年(または両性具有)のエラと、エラの保護者であり、街を闇から牛耳るローマ軍団士官グナエウス・ドミティウス・ポリオは、次第に皇帝の座を巡る陰謀に巻き込まれていく。

【参考】
「秘身譚とコンシューマーゲームのコラボ」4gamer.netの記事
http://www.4gamer.net/games/096/G009649/20091221006/

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本コラムをきっかけとして「大規模な破壊や残忍な処刑や虐殺を」厭わなかった軍国主義帝国ローマをもっと知りたくなった方向けの参考書二冊をご紹介いたします。

○『戦略の形成』(上)
戦略の形成〈上〉―支配者、国家、戦争 [単行本] / ウィリアムソン マーレー, アルヴィン バーンスタイン, マクレガー ノックス (著); 石津 朋之, 永末 聡, 歴史と戦争研究会 (翻訳); 中央公論新社 (刊)
同書の第二章で、古代ローマ共和制を地中海世界全体の覇者にのしあげた社会的メカニズムとしての「軍国主義体制」が解説されています。

○『図説 古代ローマの戦い』
図説 古代ローマの戦い [単行本] / エイドリアン ゴールズワーシー (著); ジョン キーガン (監修); Adrian Goldsworthy, John Keegan (原著); 遠藤 利国 (翻訳); 東洋書林 (刊)
良くも悪くも古代ローマの象徴である軍事システムについて、その誕生から滅亡までの千年近い歴史をまとめて解説しています。(蔵原大)

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今回のテーマ連載では『秘身譚』とルナー帝国の歴史的な背景の関わりが指摘されていますが、一方で『秘身譚』は二〇世紀文学の傑作、アントナン・アルトーの『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』とも背景設定を共有した文学的な裏付けを持つ作品でもあり、ジェンダー論、あるいはある種のオリエンタリズムの観点からも魅力ある読解可能性を有した優れた作品です。
単行本は一巻が発売されたばかりですが、その鮮烈な表現は読者に衝撃を与えました。コミックという表現を通し、既存の方法では成し得なかった新たな文学性へ突き抜ける予感をもたらす逸品だと言えるでしょう。
どうぞ、「己が宮殿の厠の中で己が護衛の兵士らによって殺された墓場なき死者、ヘリオガバルスの屍をめぐって、血と排泄物がおびただしく流れたと同様に、彼の出生のときにもその揺籃をめぐっておびただしい精液が流れたのであった」というアルトーの文(多田智満子訳)を念頭に置き、『秘身譚』の頁を繰ってみて下さい。絢爛たる性と血の饗宴が、トリマルキオの晩餐のごとく、あなたを待ち受けています。

ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト (アントナン・アルトー著作集) [単行本] / アントナン アルトー (著); Antonin Artaud (原著); 多田 智満子 (翻訳); 白水社 (刊)

さて、「グローランサ」を背景世界として採用した『ルーンクエスト』や『ヒーローウォーズ』などの会話型RPGは、その誕生時からSFやファンタジー文学等の物語ジャンルと密接な影響関係を有してきました。世界最初の会話型RPGにして、現在でも世界最大のプレイ人口を誇る『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(D&D)が、J・R・R・トールキンの『指輪物語』やロバート・E・ハワードの「コナン」シリーズ、ひいてはマイクル・ムアコックの「永遠の戦士エルリック」シリーズといったファンタジー小説群に多大な影響を受けていたことは広く知られる通りです。
またモチーフのみならず物語構造の観点から見ても、『幻影都市のトポロジー』のアラン・ロブ=グリエ、『宿命の交わる城』のイタロ・カルヴィーノに『334』のトマス・M・ディッシュ、あるいは『帝都最後の恋』のミロラド・パヴィチといった20世紀文学の優れた書き手の方法に、RPGにも通じる相互干渉性(インタラクティヴィティ)を見出すことは容易でしょう。
さらには『トンネルズ&トロールズ』の一人用アドベンチャー『恐怖の街』やスティーヴ・ジャクソン&イアン・リビングストンの手になる『火吹山の魔法使い』といった「ゲームブック」はいまだ人気を博していますし、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』シリーズの一つ『アドバンスド・ダンジョンズ&ドラゴンズ』の背景世界を活用した小説『ドラゴンランス』シリーズのように、RPGから生まれ、広い読者に感銘を与えた小説群は数多く存在します。
近年においては、ドミニカ出身の作家ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(邦訳は新潮社から近刊予定)のように、ドミニカの独裁者ラファエル・トルヒーヨの治世に象徴される――自然主義の方法における表象を拒否した――圧倒的な政治的現実のうねりを描くにあたって、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』をはじめとしたRPGの方法が効果的に活用され、高い評価を受けた小説作品すら現れました(2008年ピューリッツァー賞受賞)。

かようにモダニズムを引き継いだ新たな形式の物語表現とRPGには切っても切り離せない影響関係が存在しています。そしてRPGには、物語世界の持つ特性や手触りのようなものを活かしつつ、コンセプトをダイレクトに反映した独自の因果律を有した世界観を構築していくことが可能なところに、重要な特性が根ざしています。イメージや幻想性――詩心(うたごころ)と言い換えてもよいかもしれません――を掬い上げながら、その中で人間が生きて動いて、ドラマを乗せていくことのできるような背景世界の存在。RPGと物語表現の交点を考えるにあたり、この部分を軽視することはできません。
それゆえRPGの背景世界である「グローランサ」と物語表現としての『秘身譚』が交わる地点を考えることは、RPGの可能性を広げることにもなるでしょう。

なお批評の現場にいると、(相互干渉性を前提とした)背景世界の充実に代表されるRPGの構築性については、まだまだ批評の言語が追いついていないという思いを日々強くします。ゲイリー・ガイギャックスは(背景世界を的確に踏まえた)RPGのシナリオが文学として評価される日の到来を夢想しました(『実践ゲームマスターの達人』)が、物語表現の未来を考えるためには、ガイギャックスの憧憬についてきちんと向き合う必要があると私は確信しております。そのための第一歩として、『秘身譚』は優れた思考の種を与えてくれるでしょう。

最後になりましたが、ルナー帝国の設定については、グレッグ・スタフォードの手になる『グローランサ年代記』にも詳しい記述が存在します。入手が難しいかもしれませんが、図書館に入っていることが多い作品ですので「グローランサ」にご興味をお持ちの方はぜひお読み下さい。
会話型RPG『ヒーローウォーズ』も、ルナー帝国の解説は充実しています。こちらはまだ比較的入手が容易なはずです。(岡和田晃)

幻想神話大系 グローランサ年代記

ヒーローウォーズ―英雄戦争 (TRPG series) [単行本] / ロビン・ロウズ, グレ…

「忘れたという、その空白の隙間で--門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」(「21世紀、SF評論」)

【外部活動紹介】「忘れたという、その空白の隙間で--門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」
岡和田晃

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Analog Game Studiesにおける活動ではありませんが、Analog Game Studiesメンバー(今回は岡和田)の活動のうち、Analog Game Studiesの読者の方々へ、特にご紹介したい活動がひとつございます。

日本SF評論賞チームの公式ウェブログ「21世紀、SF評論」に、Analog Game Studiesでもレポート記事が掲載された会話型RPG『ローズ・トゥ・ロード』について、物語論の知見から分析した長篇評論「忘れたという、その空白 の隙間で--門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」を掲載いただいております。主にトールキンの凖創造論を軸として、「門倉直人」という固有名を物語論 (ナラトロジー)の地平に思いきり引き寄せる作業を行ってみました。

「忘れたという、その空白の隙間で--門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」(「21世紀、SF評論」)
http://sfhyoron.seesaa.net/article/173296285.html

昨年私がSF乱学講座という市民講座で公開講義を行なった際、聴講されていた翻訳家の増田まもるさま(J・G・バラード『千年紀の民』の翻訳が近刊予定) から、アナログゲームの有する可能性の一つに、いわゆる(フィクションにおける)オールドウェーヴの「読み直し」があるのではないかというコメントをいた だきました。

ここから翻って考えるに、アナログゲームが既存のフィクションの「読み直し」として機能するとすれば、フィクション内部での革新運動、例えばSFのニューウェーヴ運動については、ゲームという文脈でいかなる「読み直し」を与えられるのでしょうか?

かつて「オフィシャルD&Dマガジン」誌ではライターの藤川俊一氏と滝祐一氏との対談において、J・G・バラードの「時の声」と『ダンジョンズ& ドラゴンズ』が同一の地平で語られましたが、そこで示唆された「読み直し」の位相の重要性は、増田まもるさまのご指摘と相俟って、今後ますます高まりを見 せるのではないかと思われます。

例えばニューウェーヴ運動は、ラングドン・ジョーンズの編纂したアンソロジー『新しいSF』に 象徴されるように、時代が要請した最も先鋭的な表現でもありました(ジョーンズとともにニューウェーヴ運動を牽引したマイクル・ムアコックは『新しい SF』の序文において、『新しいSF』収録作を「読者志向」であり、「大衆との関わりを念頭に置いている」と告げています!)。

そして今回の論考では、あくまで試論レベルではありますものの、そうした地点を瞥見することができたと自負しております。どうぞ、ご笑覧いただけましたら幸いです。

また今後は、【外部活動紹介】というカテゴリーのもと、Analog Game Studies外で(主にメンバーや協力者の手で)発表された論考や作品、講演活動などをもご紹介していく予定でございます。ご期待下さい。

なお、増田まもるさまが管理人をつとめられるニューウェーヴ/スペキュレイティヴ・フィクションのサイト、「Speculative Japan」(http://speculativejapan.net/) は、Analog Game Studiesをブログロールに登録して下さっています。「ゲームについての思弁が人間理解に欠かせないことは、いうまでもありません」とのお言葉を下 さった増田まもるさまに感謝いたしますとともに、今後ともいっそうの友誼をお願い申し上げる次第です。(岡和田晃)

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第3回)

草場純

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◆第2回はこちらで読めます◆

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「瀕死の伝統ゲーム」という表現は穏やかでないが、誰もプレイすることのないゲームは、信仰することのない宗教や、誰も演奏することのない音楽のように、滅亡したと言ってよいだろう。ならば、「殆ど忘れ去られた」ゲームは「瀕死」と言ってよいかも知れない。

音楽は楽譜があれば再現できるが、古代や中世の音楽は残された楽譜が少なく、記述も不完全で、たとえ再演されたとしても、それが古代・中世の響きであるかどうかは、検証の方法がない。宗教はもっと深刻で、一度忘れ去られた神々は、神像があっても教義が残っていても、蘇ることは難しい。エジプトの神々は、ピラミッドに、パピルスに、多く姿が残され、かつて莫大な数の人間の信仰を受け、崇められ、巨大な体系が築かれていたにもかかわらず、現在ラーを信仰するような人々は殆どいないのではあるまいか。聖書・聖典の類では、しばしば神々は人類に鉄槌を加え、これを滅ぼすが、現実には人類こそが、神々を滅ぼすわけである。もちろんエジプトの宗教が後世に与えた影響は無視できないし、現在でも信者がいないとは限らない。だが痕跡も残さず滅びてしまった宗教なら、復活することは考えられまい。

さて、ゲームは宗教よりは音楽に近く、ゲーム用具やきちんと記述された(ここが問題だが)ルールブックがあれば、再現はむしろ容易である。もちろんそうして再現されたものが、果たしてかつてのものと同様なのかは音楽と同じく検証は難しいが、ルールがアルゴリズムであるからには、宗教のように信仰心や、音楽のように感覚に依存するもの以上に、かなりかつてのものに近いと考えてもよいだろう。実際、「滅びたゲーム」とは、そのようなルールすら残されていないものを指すのである。

では「瀕死のゲーム」とはどんなものか。それは(完全にではなく)殆ど忘れ去られたゲームである。

こうした瀕死の伝統ゲームをプレイすることは、囲碁・将棋・象棋・チェス・双六などの、現在でも多くのプレイヤーがいる伝統ゲームをプレイすることとは、相当に意味が異なる。では、どこが異なるのか。「瀕死の」伝統ゲームをプレイすることの意味・意義は、奈辺にあるのだろうか。
そうした具体的なゲームの一例として、以下にククの例を挙げて考察してみよう。

ククはイタリアのカードゲームであるが、何度かたまたま知り合ったイタリア人に尋ねてみたが、知っていた人に会ったことがない。その意味で瀕死と診断してよいと考える。

このカードは、様々なゲームができる準汎用カードであるが、現在日本の一部に流布しているルールは「カンビオ」であり、これは1980年に法政大学の江橋崇教授によって紹介されたものであって、それ以前に日本で知っていた人は皆無であったと考えられる。江橋氏のそのまた元は、1979年にデンマークのラーセンが復刻したGNAVカードとそのルールである。ヨーロッパの事情は、私には正確には掴みかねるが、それまでは恐らくヨーロッパでも忘れられたゲームであったろうと推測されるし、現在でも決してよく知られているゲームではない。

前回述べたように、忘れ去られるには忘れ去られる理由があって淘汰されたと考えられるから、このゲームが誰の心も掴んで離さないほど魅力的なゲームであるはずはない。では、果たしてそんなゲームをやる意味はあるだろうか。

私自身が初めて「かるたをかたる会」でやらせてもらったときも、子どもの遊びという印象であった。農民が農作業のあと、村の酒場で一杯ひっかけながら、小銭を賭けて遊んだという話を聞くにつけ、ギャンブルゲーム、すなわち金でも賭けなければ面白くないゲームと感じた。何せ、手札はたった一枚。プレイもただ一度、それも隣と交換するかしないかを判断するだけなのである。カードは40枚だが、特殊な役を持つカードも僅かに6つしかなく、それもあまり意味がなさそうに感じた。カードには、それら役札を含めて単純にランクがついているだけで、スートの区別すらない。そんなゲームが面白いだろうか? 面白いはずがないではないか。

だが私は、マッセーンギーニ社(イタリア)のカードを手に入れ、自宅に帰ってボードゲーム仲間と何度か遊んでいるうちに、このゲームの面白さを文字通り「発見」していった。たった1枚の手札のただの1プレイが、「最も弱い札を持っていた人だけが負ける」という何でもないルール(負け抜けシステム)のために、うまく働くのである。初め冗長で半ば無意味と思えた役札の特殊能力も、実はよくできていることを知って驚かされた。誠にゲームばかりはやってみなければ分からない。そして私にとって何よりも衝撃だったのは、そのようなシステムのゲームを他に全く知らなかったという点であった。

私はシステム派なので、「ゲームの本質はシステムだ」と思っている。ここで言うゲームのシステムとは、「競りシステム」「神経衰弱(記憶)システム」「はげたか(バッティング)システム」「双六システム」などのゲームのジレンマを生み出す、最も基本的な仕掛けのことである。こうした基本システムでは全く新しいものを生み出すことは難しい。人間の考えることはどうしても類型化しやすいし、長い淘汰の歴史があるということは、逆に言えば様々なシステムが繰り返し試されたということであり、新しいものを生み出すための試行錯誤が既になされたということであるからだ。ある意味、新しいゲームとは、それまであった基本システムの、新しい組み合わせのことでしかなく、しかしそれも立派な創造であることは間違いない。

ところが私がククの面白さに気づいたとき、私はその類型を思いつくことができなかった。似たゲームがないのである。(厳密にはイギリスのランターゴーラウンドが唯一似たゲームである。だがランターゴーラウンドも極めてマイナーなゲームだ。)すなわち私は、古いゲームに新しいシステムを見出したのである。

瀕死の伝統ゲームを遊ぶ意味の一つが、ここにあると私は考える。忘れ去られようとするゲームは、逆に言うならその時点での社会との接点の薄いゲームである。だからその内実が知られていないという意味で、新しい。かつ伝統ゲームであるからには、それが遊ばれ続けた長い時間の中での洗練が期待できる。瀕死のゲームにつねに新しいシステムが見出せるというようなわけではもちろんないけれど、現在のゲームの持つ相との異質な相をそこに見出すことは少なくない。つまり瀕死の伝統ゲームというのは、それが生み出されたときの社会との相互関係すなわち相を、現代の相の中にもたらすタイムカプセルであるとも言えるのだ。

考古学者は古い墓の中から、時に思いがけず古代の見知らぬ文化を発見することがある。ごく最近も、出雲で室町時代の将棋盤が出土した。我々も忘れられようとしている古い伝統ゲームの中に、知られざる文化を発見しようではないか。そしてここが重要なのだが、本当に忘れられてしまったら(復元する手がかりがなくなってしまったら)、それは滅亡した生物同様、永遠に人類から失われてしまうのである。

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◆第4回はこちらで読めます◆

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『ウォーハンマーRPG』リプレイ「魔力の風を追う者たち」ウェブ再掲記念;非公式対談――遊んでみて“改めて/新たに”わかった、会話型RPGの批評性

 今回お披露目するのはAnalog Game Studiesでは初の試み、対談記事です。

 かつて『GAME JAPAN』誌で『ウォーハンマーRPG』のリプレイシリーズ「魔力の風を追う者たち」が連載されていましたが(2008年3月号~5月号)、そのシリーズがインターネット上においてPDFファイルとして再掲され、無料で読むことができるようになりました。

 現在、すべての回がウェブ上に記載されていますが、その完結を記念して、リプレイの参加者のうちAnalog Game Studies会員でもある者たちが、リプレイに参加した感想を対談形式で自由に語ってみるという企画を実施してみました。

 日本は諸外国に比して文芸誌が数多く出版されている国だと言われていますが、文芸誌上では対談形式で、特定の小説などを絡めることで自由に発想を膨らませていき、作品に参加した/あるいは受容した経験を深めつつ、さらに広い社会的文脈へと繋げる試みが頻繁になされています。この対談は(水準を満たしているのかはさておき)、そうした方向性を目指した試みです。

 もちろん、版元の公式の対談ではありませんので、この対談の文脈を押さえていなければ『ウォーハンマーRPG』を、そしてリプレイを楽しむことができないのか――などというご心配はまったくありません。あくまで想像をさらに膨らませるために役立てていただくためのリプレイ参加者の現場の声、非公式の注釈(コメンタリー)としてご理解いただけましたら幸いです。

 なお、『ウォーハンマーRPG』とは、ドイツ三十年戦争近辺のヨーロッパを模したケルト的な多神教的世界を舞台に、「混沌」と呼ばれる存在との戦いをライトモチーフとした会話型ロールプレイングゲームのことを指します。現在でも第2版の日本語展開が継続しています。
 『ウォーハンマーRPG』についての情報は、

・『ウォーハンマーRPG』日本語版公式ページ
http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/

・Wikipedia『ウォーハンマーRPG』:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BCRPG

・TRPG.NET Wiki『ウォーハンマーRPG』
http://hiki.trpg.net/wiki/?WarhammerFRP


 以上のサイトから概観をつかむことが可能です。


 『ウォーハンマーRPG』のリプレイそのものは、日本語版公式ページの以下のURLから、無料でダウンロードできます。
http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/gamejapan/index.html

 また『ウォーハンマーRPG』日本語版公式サイトでは、今回の対談で話題にしている「魔力の風を追う者たち」ばかりではなく、続篇シリーズ「混沌狩り」(全三回)も掲載されております。併せてご覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

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『ウォーハンマーRPG』リプレイ「魔力の風を追う者たち」ウェブ再掲記念;非公式対談――遊んでみて“改めて/新たに”わかった、会話型RPGの批評性
 岡和田晃(ゲームマスター、ライター)×高橋志行(灰色の魔術師エックハルト役)

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●はじめに 

岡和田: 本日はお忙しい中、対談に応じていただき、ありがとうございます。
高橋: こんばんは。宜しくお願いします。
岡和田: 『GAME JAPAN』の08年3月号から半年間連載された『ウォーハンマーRPG』のリプレイが、2年半の月日を経て、ウェブで再掲されました。今は雑誌名も『ゲームジャパン』とカタカナ表記になったし、会話型RPGのサポートはウェブが主になったのですが、しかし『ウォーハンマーRPG』は、新作サプリメント『スケイブンの書――角ありし鼠の子ら』もこの対談が掲載される12月24日に新発売となっており、翻訳に関わった者の気持ちとしては、まだまだ展開を続けていきたいと思っています。
 ということで非公式ではありますが、リプレイ再掲記念のプライベート座談会ということで、今回GM・ライターの岡和田が、プレイヤー(「魔力の風を追う者たち」では灰色の魔術師エックハルト役で)参加してくれた高橋さんをお招きいたしまして、簡単な対談をしてみたいと思う次第です。なお、リプレイを未読の方は、公式サイトから無料ダウンロードが可能ですので、ぜひご覧になってみて下さい(http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/gamejapan/index.html)。
高橋: 丁寧な紹介、ありがとうございます。当時は僕自身もとても楽しんでプレイできました。こうしてWebで公開されて、とても嬉しく思います。
岡和田: 高橋さんは、自身で運営されていた主に会話型RPG(TRPG)を考察するウェブログ上でも当初から素晴らしいプレイリポートや論考を書いてくれて、連載の成功を陰からサポートしてくれました。あまりお手盛り感のない客観的な紹介をしてくれていたのもよかったですね。 

スケイブンの書-角ありし鼠の子ら (ウォーハンマーRPG サプリメント) [大型本] / スティーブ ダーリントン, ロバート J シュワルブ (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)


●ストーリー重視のための魔術師Onlyパーティ 

高橋: 毎回キッチリ感想書けるだけ刺激的だったということもあります(笑)。最初は、四人全員魔術師なので、普段のセッションより「考える手応え」が豊富にありましたね。
岡和田: なぜ全員魔術師かというと、『魔術の書:レルム・オヴ・ソーサリー』というサプリメントの紹介という意味合いもあったのですが……。それ以上に、ストーリー重視にしたかったのです。現在の『ウォーハンマーRPG』は第2版なんだけれども、ルールブックが出た直後に身内でテストプレイした際、旧版のシナリオをコンバートして遊んだら、あっという間に全滅しちゃったということがありまして。
 ちなみに『さまよえる魂』という旧版のシナリオ集の冒頭、「流血の夜」というシナリオです。あまりに内容がエグいせいか、これだけ第2版にコンバートされていません(笑)
 内容は、暴雨風の中、突然、ミュータントに馬車がひっくり返される。 必死でミュータントと戦って、逃げた先には怪しい館(笑)。そこから先は『注文の多い料理店』な展開というか……。このシナリオは面白く、「Role&Roll」誌に連載されている人気RPG紹介マンガ『スピタのコピタの!』で『ウォーハンマーRPG』が紹介された際にも、このシナリオが遊ばれたようです。『スピタのコピタの!』を読めばわかりますが、ものすごくホラー映画的、それもB級的な意味でも面白いものです。ただ、当時は私の運用がヘタクソだったんですね。
高橋: 聴いただけで報われないシナリオだとわかりますね(笑)。「報われない」といっても、ゲーム的にってわけじゃなく、あくまでPC視点ですけど。ウォーハンマーは意志力テストがほぼ『クトゥルフ神話TRPG』におけるSANチェック(=正気度喪失判定)みたいなものだから、『クトゥルフ・ダークエイジ』(http://hiki.trpg.net/Cthulhu/?CthulhuDarkAges)っぽいノリでも遊べるでしょうけど……。
岡和田: SANチェックでも、行動がまったくできなくなって、一方的にボコボコですから(笑)で、一方、『クトゥルフ・ダークエイジ』っぽい要素があるのはその通り。『ウォーハンマーRPG』はある意味、『クトゥルフ神話TRPG』シリーズのようなフレーバーのゲームでもあるんです(『ダークエイジ』はけっこう戦えるのですが、そこもちょっと似ています)。そして『魔術の書』も、記述の7割はフレーバーテキスト(=ルール上厳密に管理されているわけではないが、オールドワールドの世界の記述を豊かにしている文字情報)で、魔法の本質、魔法の系統、どうやって魔法をかけるか、世界における魔法の位置づけ、などといった記述がよりどりみどりでして、これが『魔術の書』の強みだと思います。これをどうやったら活かせるかということで、ああいう展開を考えました。
 経験点も2000と多めでスタートして、まま語られる「『ウォーハンマーRPG』=マゾプレイ」という偏見を消したかった。いや、たしかにマゾプレイでも面白いのですが(笑)、ゲームを見る角度を変えたかったんです。だから思い切って全員魔術師(笑)となった次第。そうすることで、「魔法を生きる糧」としている人たちの生活や人生そのものにまでスポットを当てて、そうした部分からストーリー的な面白さを提示してみたいと考えた次第です。

魔術の書:レルム・オヴ・ソーサリー (ウォーハンマーRPGサプリメント) [大型本] / マリアン・フォン・シュタウファー (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 見田 航介 (翻訳); ホビージャパン (刊)クトゥルフ・ダークエイジ (Role & Roll RPG) [単行本] / シュテファン ゲシュベルト (著); Stephane Gesbert (原著); 坂本 雅之, 中山 てい子 (翻訳); 新紀元社 (刊)


●フレーバーテキスト、小説の設定との兼ね合い 

高橋: フレーバーテキストは、確かに他のゲームより豊富ですね。『D&D』も、たとえば三版以降は特に、呪文周辺のフレーバーテキストに胸躍らされるものがありますけれど、今の時代に合わせて、フレーバーを乗せるところと乗せないところがはっきり区別されている印象です。
岡和田: 三版以降の『D&D』は、ものすごく好きで狂ったように遊んだものですが(笑)、プレイグループのスタイルに合わせて、情報が取捨選択されていくんです。
高橋: その上で、岡和田さんのGMでは、アルトドルフに関する設定が、シナリオ内の課題としてどんどん組み込まれて行った。「あのフレーバーがこんな風に料理されるのか!」というのが、かなりありましたね。フレーバーテキストを単にデジタルに処理してしまうと、ウォーハンマーに限らず、背景設定の濃いルールブックのほとんどが「単に、無意味な記述の束」になってしまう。アナログで、パラメータにしにくいところをGMの側で課題として変換する作業は、やっぱり会話型RPGならではのテクニックであり、ゲームデザイン的に重要な部分だと思うんですよね。
岡和田: それはありがとうございます。なるべく、いわゆる蔑称としての「吟遊詩人GM」になりたくなかったんですよ。「美しいお話」を聞かせるだけ、ってやつ。「吟遊詩人」的なスタイルでも面白いことはできますけれども、私の趣味ではあんまりない(昔さんざん痛い目を見たので……)を。それとは別に、アルトドルフが舞台だと、ウォーハンマー小説が利用できるという強みもありました。
高橋: ウォーハンマー小説の『ドラッケンフェルズ』は、旧訳と新訳、両方読みました。新版もいいですが、旧訳の日本語のリズムも味わい深かったですね。
岡和田: 『ドラッケンフェルズ』は、確か参加者には全員読んでもらった気がします。そのうえで、シナリオにはアルトドルフを舞台とした続篇『ベルベットビースト』の小ネタを入れたりして(笑) 『ドラッケンフェルズ』のジュヌヴィエーヴをプレイするというのは、実際のセッションだと私もやったことがありますし、旧版の未訳サプリにデータはあったのですが、今回のリプレイではやりたかったことが違いました。だからあくまで、アルトドルフに生きる名もなきPCたちが主軸として話が動いていく、という方針をメインに据えたわけです。 

ウォーハンマーノベル ドラッケンフェルズ (HJ文庫G) [文庫] / ジャック ヨーヴィル (著); クリステル スヴェーン (イラスト); 待兼 音二郎, 崎浜 かおる, 渡部 夢霧 (翻訳); ホビージャパン (刊)ウォーハンマーノベル ベルベットビースト (HJ文庫G) [文庫] / ジャック ヨーヴィル (著); クリステル スヴェーン (イラスト); 待兼 音二郎, 矢野 真弓, 木暮 里緒 (翻訳); ホビージャパン (刊)


●NPCの活躍 

岡和田:その意味では、魔女のレジーナのリアクションはとてもよかったと思います。 高橋さんのエックハルト(影の学府の中堅魔術師)も、オピニオン・リーダー的に動いていてGMから見ても嬉しかったですね。
 リプレイの第1話「破滅の天使」は、ジェットコースター的な展開をあえて意識しているんですが……。そこでエックハルトは機敏に動いてくれました。もたもたしていたら、ナーグル腐れ病でみな死んでましたよ(笑) いや冗談じゃなく。
高橋: いやいや、あの魔術師四人に対して、シルダ(香子さんのドワーフPC)を慕うドワーフ三兄弟、戦士キャラがついていなかったらまずかったと思いますね。とはいえ、ドワーフ三兄弟もナーグル腐れ病にかかって大変なことになってましたが。あの描写も、セッション現場では4ページでは収まらないくらい洒落になっていなかった。
岡和田: 実はですね、ガンツ・グンツ・ゴンツの三兄弟っていうのは……。私のアドリブで生まれたんです(笑)
高橋: それは、戦力補強の意味合いでですか?(笑)
岡和田: いやいや、酒場のシーンから最初始まったわけじゃないですか。ここで、PC同士を引き合わせるわけですよ。そこで、いろいろ小ネタをぶつけて反応を見ていくわけですよね。シルダの場合、ガンツ三兄弟となぜか相性がよかったという事情があります。 


●魔狩人フレイザー 

岡和田:面白かったのは、魔狩人のフレイザー。これ、連載当初に人気があるキャラだったんですけど、基本的な枠組みはプレイヤーの皆さんに作ってもらったんですよね。というかぶっちゃけ、高橋さんが考えたんでしょ(笑)リプレイ読み直すとエックハルト/高橋さんの発言になってますし。フレイザーという名前は私が付けたんですが。由来は古典的名著『金枝篇』のフレイザー卿ね。読むとSAN値(正気度)が減ります(笑)
高橋: あ、そういえばそうでしたね!(笑) 最初のプレーヤー間の設定相談で、横井さんに「なんで魔女なのに、こんな都市部に居るの?」って話になって、その時に企画会議風に「まあ、居てもおかしくないよね」とばかりに挿入したはず。
岡和田: いやその前に、「なぜPCたちはパーティを組んだのか」という無茶振りを考えてもらったんじゃなかったかな。ワイワイ言いながら設定作るのって、楽しいでしょ。GMとしても楽でいいし(笑)、何よりプレイヤーにシナリオへダイレクトにコミットしてもらいたかったので、その最初の課題だったんですよ。課題というと上から目線っぽくて偉そうですが……。
高橋: 僕は会話型RPGのセッションで、「いま参加者間で共有されている設定群から、むりのない推論をして、べつの設定をどんどん生産していく」のが楽しみの一つなんですよね。自由連想ってわけじゃなく、一定の理屈をつけて繋げるのが好きなんです。なので、横井さんへの提案がきっかけで、フレイザーみたいな人気キャラが育ってくれて嬉しく思います。
岡和田:フレイザーが最終的にどうなるかは、初期段階では白紙でした。初めは、謎解きが煮詰まったら出てくるキャラにしていたんですよ。で、プレイヤーとの相互干渉の結果キャラが出てきて、第3話でああいう末路を迎える。裏話としては、当時読んだばかりだった伊藤計劃の小説『虐殺器官』に影響を受けています。そしてフレイザーは、PCたちの、心理学的な「シャドウ」を意識したつもりなんです。GM的な運用としては。『ゲド戦記』に登場する「影」。セリーヌの『夜の果てへの旅』に出てくる、語り手の行く先々に現れる謎の男、ロバンソン。
高橋: 最終的に、そういう物語の王道的な役回りを帯びさせていったということなんですね。 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA) [文庫] / 伊藤 計劃 (著); 早川書房 (刊)影との戦い―ゲド戦記 1 [単行本] / アーシュラ・K. ル・グウィン (著); ルース・ロビンス (イラスト); Ursula K. Le Guin (原著); 清水 真砂子 (翻訳); 岩波書店 (刊)夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫) [文庫] / セリーヌ (著); Louis‐Ferdinand C´eline (原著); 生田 耕作 (翻訳); 中央公論新社 (刊) 


●PCたちの役割 

岡和田: そうそう、『ウォーハンマーRPG』なので、キャラクターは最初っからヒーローとして完成されていないんですよ。あくまでも生活者で、むしろ途中で朽ち果てる連中がほとんど。でもそれはそれで楽しいし、やりがいがあるのは不思議なところです。PCたちも、他のNPCと比較するルール的なアドバンテージは運命点があることだけ。おまけに、経験点2000からのセッションということで、初期運命点は逆に減らしてもらっています。そうした条件で、少ない運命点をガンツ三兄弟に注ぎ込んだシルダは偉かったですねぇ。
高橋: シルダ=香子さんの三兄弟運用は素晴らしかったですね。
岡和田: あれは、理想の姐御というか……。
高橋: レジーナは基本的に主役、というより渦中の人。
岡和田: シルダ役の香子さんは、普段はとってもいい子なのに(笑)それと、ウルフガングはPCたちがすっぽかした事後処理を引き受けてくれる役割かなあ。そうした設定が、自然に共有されていく感じで、GMとしても面白かったですね。戦闘にあまり紙幅を避けなかったんですけど、戦闘でいちばん活躍していたのはウルフガングですからね。ガンツ三兄弟を除きますが(笑)
高橋: どんどん野獣化していく様が、次シリーズの『混沌狩り』を予見させるような流れでしたね。
岡和田: 続くリプレイシリーズの『混沌狩り』は、ウルフガングのプレイヤーの坂本さんの本領発揮というか……。でも、野人はヒロイック・ファンタジーの本質なんですよ(力説)。ロバート・E・ハワードの 『コナン』しかり、『ルーンクエスト』のオーランス人然り。
 ……あっ、今気がつきましたが、「影」という意味では、フレイザーとエックハルトはパラレルなキャラクターですね。ただ、エックハルトは内面がないキャラクターですよね。そこがレジーナとたぶん違う。シルダとも違うかな。あくまでプラグマティスト。ここは高橋さんのある部分が反映しているのでは(笑) 

黒い海岸の女王<新訂版コナン全集1> (創元推理文庫) [文庫] / ロバート・E・ハワード (著); 宇野 利泰, 中村融 (翻訳); 東京創元社 (刊)


●発言に至る過程、物語的な連関性 

高橋: そう言われれば、そうですね。僕は、会話型RPGゲーマーとして、いろんなリプレイを楽しく読ませてもらっているわけですけれども……もしやる側に回るとすれば、「何を考慮して、その発言に至ったか」というところを、なるべく透明にしてプレイしたいし、そういうのを読んでもらいたい、という方針でいるんですよね。
岡和田: 私が読者として、リプレイに期待するのもまさにその部分だったりします。試行錯誤の過程というか。物語が生成される過程というか。その部分。小説で言えば、文字として「書く」以前の過程ですよね。いや、書かれるその瞬間のメカニズム、と言うべきでしょうか。そこがリプレイを読んでいて私としては楽しみにしている部分です。
高橋: そのセッションの現場で、いろんな〈状況の要素〉があるわけですよね。流行り病とか、魔法の政治性とか、社会権力とか……。そのうち、何を評価して、何をゴリ押しして、その発言を選び取るかというのは、特にフレーバーテキストが豊富なウォーハンマーにおいては特に、重要な点だと思ってました。
岡和田: それを小説で表現すると、ひどく込み入った場合になることが多いんです。もちろん面白いんですけどね。さっき名前が出ました『ドラッケンフェルズ』のジャック・ヨーヴィル(キム・ニューマン)は、そこをエンターテインメントに落とすのが上手い人です。逆に、「選び取る」ことのテーマを広げていくと、ジャン=リュック・ゴダールの映画のようにすることも、たぶんできると思います。『新ドイツ零年』とか、一筋縄では行かない映画ですが、ある意味すごく本質的に会話型RPGに近いと思っています。
高橋: フレーバーをGMだけが拾っていても、プレーヤーの側が意味付けて、確かな“状況打破の一歩ずつ”にしていかないと、という気持ちがあります。僕が会話型RPGのプレイング中に、常に気をつけていることでもあります。素朴な設定を、ゲーム的な設定に貪欲に取り込んでいくのもプレーヤーの仕事といいますか。
岡和田: そこはGMとして客観的に見ていても、伝わってきましたよ。ただ最近では「ぐだぐだ」と呼ばれてしまうことも多いんですが、実はこの過程って大事なんじゃないかと自分としては思っています。だから「ぐだぐだ」は私の中では、NGワードにしているんです。

新ドイツ零年 [DVD] / エディ・コンスタンティーヌ, ハンス・ツィシュラー, クラウディア・ミヒェルゼン, アンドレ・ラバルト, キム・カシュカシアン (出演); ジャン=リュック・ゴダール (監督)


●「口プロレス」の弊害? 

高橋: それは、「口プロレス」という言葉の弊害だと思いますね。たとえば、どれだけパーティの中で自分のキャラづけが巧く行っていても、それが「そういうキャラだから」というだけでは、本当の意味での説得力がない。「あの設定を活かせば、こんな風な解決策を編み出せて、その為にこんな判定を要求できるのではないか……」と、自ら継続判定を編み出すところまでいけばいいと思うわけです。
岡和田: 『ウォーハンマーRPG』って、悪い意味での「口プロレス」とは全然違ったからねぇ。今回のリプレイのセッションも、特にそうだった。
高橋: そもそも、『ウォーハンマー』が採用するパーセンテージ・ダイスはケイオシアムのBRP(=ベーシック・ロールプレイング)の文脈を受け継いでいると僕は考えています。その元祖である『ルーンクエスト』や『クトゥルフ神話TRPG』もまた、色んなお膳立てをプレーヤーの側が引き寄せて、それから判定を試みる、というテクニックがしばしば用いられますよね? そのぶん、D100を振る回数は制限されていない。時間の管理がゆるいぶん、ゲームマスターに追い込まれれば判定回数をみるみる減らされるようにもできているのがBRP的なゲームの特徴です。そこでプレーヤーは、単に思いつきを言葉で表すのではなくて、既存のルールブックの中にある判定系から落とし所を探って、「判定がありうる場所」をプレーヤーの側から提示していくのが、いいと思うんですね。
岡和田: そうそう、より自然な表現で言うと、その世界で生きている理屈が、プレイヤーを縛るのではないかと思います。
高橋: そしてそのためには、GMは、いろんな発想に耐え得るだけの状況想定を、用意してくれている必要があります。良い公式シナリオにはそういう「状況想定」のためのフックが沢山あります。その想定の豊富さが、GMのセッション・ハンドリングを助けるわけです。そういう意味で、ルールブックで提供される「世界設定」は実はフレーバーに止まらない。「準ルール」あるいは「潜在的に機能しうるルール群」とも言える。もちろん、何を「ルール」に昇格させるのかが、現場のGMやPLの意見調整によって決まってくるのが、また面白いのですけれど。


●1980年代のシナリオ・ノウハウをどう継承するか 

岡和田: おっしゃるとおりですね。インターネットで無料ダウンロードできる私が訳したシナリオの中だと、『隠された宝石にまつわる諸事情』という作品が、それに該当すると思います(http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/dl_scenario.html)。
高橋: コンピュータRPGでも、最近では『The Elder Scrolls IV: Oblivion』などの、いわゆる“箱庭型RPG”の再評価が目立ちます。でもそれじゃあ会話型RPGにおける箱庭型はなんだったかというと、この「状況想定」がどれだけ網羅的か、ということだと思うんです。
岡和田: おっしゃるとおりではないでしょうか。高橋さんの労作である『ロールプレイング・ゲームの批評用語』(http://www.scoopsrpg.com/contents/hakkadoh/hakkadoh_20070927.html)の言葉をお借りしますと……〈共同ゲームデザイン〉の、ルール・メカニズム内の位置づけをユーザーがどう認識するか、でしょうか。ちなみに〈共同ゲームデザイン〉(http://www.scoopsrpg.com/contents/hakkadoh/hakkadoh_20070927.html#sharedgamedesign)については、昨年にSF乱学講座というイベントで講演をさせて頂いたときに紹介させていただいて、聴講者の方々から好評を得ることができました。この場を借りて、厚くお礼申し上げます。
高橋: ありがとうございます。「ゲーム論×物語論」という文脈で論じられていたのは聞き知っていたのですが、それは知らなかった(笑)。国際大学GLOCOMでも、一時期RGN(ゲームと物語に関する研究会)が行われたいたことがあり、今でもUTREAM.TVを利用したRGN-uが細々と続いているのですが、SF論壇の方でもそうした試みが始められているのは、とても心強いですね。
岡和田: シナリオに話を戻しますと、箱庭RPGに興味がある人は、『ウォーハンマーRPG』の資料やシナリオ読むべきですよ。いや、本当に。
高橋: まあ……1980年代までの、特に海外の会話型RPGシナリオって、「今の会話型RPGプレーヤー」とは全然異なる文脈やリテラシーを要求しているところはありますので(笑)、一概に言えないのですけれども。今遊んだら「クソゲー」認定されかねないけど、当時はそうとも限らなかったんじゃないか? という。この辺は、クリアに語りたくても、なかなか難しいところです。
岡和田: 80年代の海外RPGを代表するシナリオとしては、私は『クトゥルフ神話TRPG』(『クトゥルフの呼び声』)の『ニャルラトテップの仮面』を挙げたいですね。『ウォーハンマーRPG』の『アルトドルフの尖塔』は、その正統な後継作だと思います(デザイン・コンセプトという意味で)。『アルトドルフの尖塔』のライターをしているデイヴィッド・チャート氏は、『アルス・マギカ』という優れた未訳RPGにも関わっていて、宗教学や神道を研究してもおられるようです。『救済の書:トゥーム・オヴ・サルヴェイション』という宗教サプリメントのライティングにも参加しています。いつかインタビューしたいですね。
高橋: 『アルトドルフの尖塔』は、書籍で出ている公式シナリオ集ですね。
岡和田: はい。アルトドルフの設定を兼ねたキャンペーン・シナリオ集なので、お得感がある良作ですね。翻訳の定木さんの訳文も美しく、素晴らしいものです。
高橋: 『ニャルラトテップの仮面』といえば、先日僕がサークルで遊んだ『黄昏の天使』(=日本で初めて刊行された『クトゥルフ神話TRPG』キャンペーンシナリオ)などは、その『ニャルラトテップの仮面』の頃の空気を濃く受け継いでいて……つまり、1話からそれはもう、大変なわけです(笑)。キーパーの方は、その80年代CoCシナリオを一通り知ってる人なので信頼しているわけですが、このシナリオに関してはもう、SANチェック以前に、PCの体力がもたない場合すらある(笑)。でも、僕が思うに、それは海外の……1974年ごろからひたすらD&Dやルーンクエストなどに親しんできたヘヴィゲーマー向けに打ち出されたからこそ、今遊んで難しいのであって、直輸入して遊んでみても、簡単には把握できないというだけだったのではないか、とも思ったんですよね。
岡和田: 当時は雑誌サポートなどがされていたと思いますが、現在に至るまでは、なかなか遊び方のノウハウが広く共有されてこなかった、という部分があると思いますね。しかしそうした部分を差し引いてもなお――『黄昏の天使』は有坂純さんと門倉直人さんの共作ですが――間違いなく国産RPGのシナリオの最高峰です。ぜひ、再版してほしいと思います。中古では40000円以上の値がついているケースもあるみたいですよ。
高橋: 実はこないだ、プレーヤー2人で無理やりやったんですよ。改変一切抜きで。
岡和田: 1人2キャラとか? それとも残機制?(笑)
高橋: いえ、1人1役ですよ(笑)。明らかに役割分担しきれないスキルがあるので、もう、最近のシナリオでは味わえない恐怖感がありました。途中でSANチェックどころか、身体的にやられる危険性が何度もありました。それでも、僕も、相棒役を務めた先輩ゲーマーも、10年以上色々シナリオやってきてるので、「無調整でも、これくらい先読みできないと当時のゲーマーとしてはダメだったのかな?」くらいの風景は見えましたね。2010年現在でやるなら調整前提かもしれませんが、今回は敢えてキーパーにお願いして、無調整でやったんです。2キャラで(笑)。2話目以降どうするかはまだ決めかねていますが、ぜひ最後までやりたいですね。100点満点がありえなくても、走り抜きたい。
岡和田: 走り抜いていると、やがて見える光景が変わってきますよ。例えば『黄昏の天使』の後半では、それまでのストレスがカタルシスに徐々に変わっていくんです。また、個人的にシナリオのフレーバーでツボだったのは『遠野物語』と「物部氏」(笑)。そうした走りがいのある強度が80年代のシナリオの良い部分だと私は思っておりまして、いわゆる「現在の」会話型RPGの特徴的とされる要素も、この頃のシナリオには色々入っています。

アルトドルフの尖塔 (ウォーハンマーRPG 冒険シナリオ) [単行本(ソフトカバー)] / David Chart (著); ホビージャパン (刊)救済の書:トゥーム・オヴ・サルヴェイション (ウォーハンマーRPG サプリメント) (ウォーハンマーRPGサプリメント) [単行本(ソフトカバー)] / ロバート J シュワルブ, エリック ケイグル, デイビッド チャート, アンドリュー ケンリック, アンドリュー ロウ (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)


●『アルトドルフの尖塔』とリプレイの関係 

岡和田:『ウォーハンマーRPG』の話に戻りますと……。2005年に原書が出たこの第2版は「現在の」RPGですが、先ほど名前が出た『アルトドルフの尖塔』には80年代的な試行錯誤が、自然に盛り込まれていると私は思います。
高橋: シナリオそれ自体が、マスタリングの指針、「運用教則」としても読めるようにデザインされていた、ということですね。
岡和田: その通り。かつてのRPGのノウハウって、雑誌媒体かプレイグループのファンジンが担っていたと思うんです。でも現状、昔のRPG雑誌って、けっこう入手しづらいものがあります。今ならネットで議論も出ますし、『Role&Roll』など現在の商業誌でのフォローアップももちろんありますが、それでも埋もれたものは多い。とても残念です。海外の場合も似たようなところがあると思いますが、一方で海外ものの強みとしましては、そうしたノウハウを、実はシナリオのバリエーションで落とし込んできたのかな、というところがあるとずっと思っていまして。 『アルトドルフの尖塔』は、シティ・アドベンチャーがメインのシナリオなんですが、一本道的な構造とは正反対。ネタバレにならない範囲で言うと、アルトドルフの人間関係が詳細に設定されていて、その渦中を渡り歩きながら「情報点」を獲得していく。つまりシティアドベンチャー・人間関係・情報収集のシステム化が試みられているわけです。『ウォーハンマー・コンパニオン』という追加ルール集でも、情報収集の際に幸運点を使わせるオプションなんかがありまして……。そのあたりの幅を広げようとしているところがありました。
 リプレイの場合は、『アルトドルフの尖塔』も『ウォーハンマー・コンパニオン』も発売される前だったのですが、実は情報収集については、原書で読んでいた『アルトドルフの尖塔』のメソッドを意識しています。つまり具体的には、情報の提示の仕方かな。情報点っぽいランク付けが私の中で決められていたんですよ。
 ただ、エックハルトの動き方は、魔法(呪文)というオプションを使って、良い意味で予想を裏切ることがありました(笑)
高橋: やっぱり魔法使いたいですよねえ。できるだけマヌケかつ地味なやり方で(笑)。一見カッコよくないくらいが好きなんですよね。

ウォーハンマー・コンパニオン (ウォーハンマーRPGサプリメント) [大型本] / ウォーハンマーデザインチーム (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)


●海外での雑誌サポート 

高橋: 旧TSRからWizardsにかけての『Dungeon』や『Dragon』、その他のアメリカ・イギリスでの雑誌サポートがどうなっていたのかは、(僕も知りたいんですが)よくわからないんですよね。
岡和田: 『ウォーハンマーRPG』の場合は、「White Dwarf」という雑誌がありました。「白色矮星」と「白いドワーフ」をかけています。現在は「White Dwarf」はミニチュアゲームの雑誌になっているみたいですけど、私が訳した公式サイト掲載のダウンロード・シナリオの多くは、昔の「White Dwarf」が初出です。
高橋: BBCのコメディドラマみたいな名前ですね(笑)。あ、『レッド・ドワーフ号RPG』もってますよ(笑)。機会がなくて、まだ遊んでないけど。
岡和田: 私は『宇宙の戦士』RPGに『宇宙空母ギャラクティカ』RPGに、『スター・ウォーズ』RPGを持ってますよ(笑)
高橋: ……いかん、「遊べるかどうか目処の立っていない海外RPGを買った自慢」になりかけている(笑)
岡和田: (笑)。で、2版になって『ウォーハンマーRPG』は、本国でもウェブがサポートとの大きな部分を担っていました。公式サイト上でシナリオ・コンテストをやっていたんです。例えば、ダウンロード・シナリオの『ライク川にかかる橋』(http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/dl_scenario.html)。
というシナリオはその優秀作。このシナリオはすごい。なんと、シーン制です(笑)
高橋: 素晴らしい!(笑)
岡和田: 後に『D&D』第4版の『ダンジョン・マスターズ・ガイドII』でも紹介される「カットシーン」という考え方が出てきます。そうそう、『ウォーハンマーRPG』第2版開発当初のプロジェクトのトップは、80年代にファイティング・ファンタジーのシナリオを創っていた人なので、その意味では、良い意味で『ウォーハンマーRPG』は80年代マインドの正嫡だと言えますね。
高橋: ああ、そうだったのですか!(笑)
岡和田: マーク・ガスコインという人がプロジェクトのトップにいました。『ファイティング・ファンタジー』シリーズの設定をまとめた『タイタン』に、ゲームブックの中でも設定とストーリーの連関に力を注いだ佳作『最後の戦士』が日本での代表作でしょうか。『タイタン』は、文庫RPG史上に残る傑作だと思ってます。安田均さんの翻訳も愛が篭っていて素晴らしかったですね。ジャック・ヴァンスの『魔王子』シリーズなどの背景が、きちんと訳語に反映されたりしたんです。 

タイタン-ファイティング・ファンタジーの世界 (背景世界資料集) [文庫] / M. ガスコイ…
復讐の序章 (ハヤカワ文庫 SF―魔王子シリーズ (631)) [文庫] / ジャック・ヴァン…


●システムの私的運用を語る 

岡和田:岡和田は個人的に、システムで公式にサポートされる前の、いわばシーン制の私的な運用が昔から好きなんです。例えば『ドラゴン・ウォーリアーズ』というケルト的な雰囲気を押し出した素晴らしいRPGがあるんですが、これはシステム的には良い意味での『クラシックD&D』フォロワーだったんです。クラスは1巻だと、騎士とバーバリアンしかない(笑)いわゆるロールプレイ支援システムも皆無。でも、面白い。現在では、英語版は続刊を込みにした合本として復刊し、シナリオなども刊行され続けていますが、私が以前このシステムでやってたシナリオは、まぎれもないシーン制だったんです。発狂しているんか、オレ。
高橋: すごい、ある意味『ヴァンパイア:ザ・マスカレード』の先を行っている(笑)>騎士とバーバリアンしかない
岡和田: そうそう(笑)どういうシナリオかというと……。現在の観点からわかりやすく説明すると『ヴィンランド・サガ』の4巻みたいな……。
高橋:『ヴィンランド・サガ』って(笑)
岡和田: まず、バーバリアンが襲撃をかけるわけですよ。もちろん『ヴィンランド・サガ』とは違って、女子修道院を襲って虐殺するんですが。そこに信仰に疑問を持った乙女がいる。自分がリンボに陥ると思っている。一方、その乙女と血縁の騎士がいるわけですな。二人は乙女をめぐって熱い台詞をぶつけ合う。この一連の流れをシーン制で演出していったわけですね。ただし、背後にはキリスト教と、キリスト教にケルトが習合するという時代の変遷を加味しています。ちなみに元ネタはトールキンの詩ですね。
 で、素晴らしいのはこういう設定が『ウォーハンマーRPG』で再現できまして(笑)  サプリメントを使えばヴァイキングが再現できるんです(笑) 『堕落の書:トゥーム・オヴ・コラプション』というサプリメントに!
高橋: 『堕落の書』は良いサプリです!
岡和田: D1000で混沌変異が決まるという(笑)
高橋: 僕は10代後半の頃、まだシステム評価のノウハウをよくわかってなくて、むりやり『ソードワールドRPG』で、改造人間シナリオを決行したことがあるんですよ。もちろんシステム面ではメチャクチャだったのですが、もしその時に『堕落の書』とウォハンの基本ルールブックがあれば、確実にそれを選んで遊んでましたね。
岡和田: ミュータントものか、なるほど。改造人間ってそっちね。アメコミっぽくなってきました。『アイアンマン』とか。
高橋: そうそう、ファンタジー設定における石ノ森章太郎(ただし正義の問題はない)みたいなものを素朴にやってたわけですね。若い頃ほど、「どうすれば、自分の素朴なアイディアが、ゲームデザインという表現に落ちるか」について先走る傾向がありますよね(笑)。中高生だと、いろんなシステムを比較する予算もないですから。
岡和田: あー、よくわかります。それでは『ウォーハンマーRPG』が最適解かなあ。余談ですが、最近『マーダー・アイアン』という小説を読みまして、これは石ノ森章太郎を正面からリスペクトした作品で、その「強さ」を再確認した次第です。ちなみに私は『トンネルズ&トロールズ』(T&T)を使って、『ロマンシング・サガ3』をやろうとしたことがありました。中学生の時ですけど。つまり、あのゲームでたまに出てくる戦争シーンの再現のため(笑)
高橋: T&Tは集団戦闘(マスコンバット)でも頑健な反応を示すから、よい選択だったのではないかと思います。どう転んでいったのかは興味がありますが。
岡和田: え、いや……あるレベルになると、「地獄の爆発」(一定の範囲のあらゆるものを分解する呪文)でボーンと。それで終了(笑)
高橋: ええっ、陣形ルールとかは!?(笑)
岡和田: 考えてなかったです。
高橋: 酷いッ!(笑)
岡和田: そのあたりを改良する方向へ行けばよかったなあ、と今にしては思います。『ハイパーT&T』の社会思想社版の大規模戦闘ルールや『クラシックD&D』のウォーマシーン集団戦闘ルールを当時知っていたら、だいぶ変わったと思います。それと『RPGamer』という雑誌に載った芝村裕吏さんのT&T講座は、目から鱗でした。現在出ている第7版を使って、きちんとデザインしてみたいですね。
高橋: 芝村さんの『Aの魔法陣』3版、特にファンタジー編の特技は、T&T的なかけ算によるゲームスケールの跳ね上がりっぷりが色んなところに挿入されていて、大好きですね。「いばらの壁」があるのにとてもときめきました。

堕落の書:トーム・オヴ・コラプション (ウォーハンマーRPGサプリメント) [大型本] / ロバート・F・シュワルブ (著); 待兼音二郎, 鈴木康次郎, 阿利浜秀明, 見田航介, 杉山恒志 (翻訳); ホビージャパン (刊)Dragon Warriors: The Classic British Fantasy Roleplaying Game [ハードカバー] / Dave Morris, Oliver Johnson (著); Mongoose Pub (刊)ヴィンランド・サガ(4) (アフタヌーンKC) [コミック] / 幸村 誠 (著); 講談社 (刊)マーダー・アイアン 絶対鋼鉄 [単行本] / タタツ シンイチ (著); 徳間書店 (刊)トンネルズ&トロールズ 第7版 (Role&Roll Books) [新書] / ケン・セント・アンドレ (著); 安田 均, 柘植 めぐみ, グループSNE (翻訳); 新紀元社 (刊)ロマンシング サ・ガ3 / スクウェアAの魔法陣ルールブック (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [単行本] / 芝村 裕吏, アルファ・システム (著); エンターブレイン (刊)


●『混沌の渦』礼賛! 社会思想社礼賛!! 

岡和田: でもね、『T&T』から『ウォーハンマーRPG』というのは、社会思想社ファンとしては正統な進化というか発展系だったんですよ。
高橋: なるほど、そういう線で見ると、岡和田さんは確かにまっすぐ歩んでいる(笑)
岡和田: そうですよ、補足するとその間プレイし、現在もたまに遊ぶものが『混沌の渦』(http://hiki.trpg.net/wiki/?Maelstrom)。わが最愛のシステムの1つ。『混沌の渦』をこれだけ愛しているのは、おそらく日本で私だけでしょう。挑戦者求む!(笑)
高橋: (笑)僕はまだ岡和田さんに推薦されて、辛うじて中古本を手に入れただけです。アレクサンダー・スコットがデザイン。1988年に佐脇洋平・清松みゆきが翻訳、ですね。
岡和田: いま海外では『混沌の渦』は復刊されています。当時は出なかったサプリメントもダウンロード販売されています。無料で落とせるものもありますね。デザイナーは初版当時は学生でしたが、今は数学の教授になっていて、驚きました。
高橋: 『混沌の渦』は、一応ケイオシアムのBRP(ベーシック・ロールプレイング)をもっと簡素にした感じのデザインですね。違うのは、史実の宗教改革期ヨーロッパを舞台にできるところ。
岡和田: 『混沌の渦』が英語圏的にすごかったのが、16世紀をすっごく真面目に表現しようとしているところ。ネイティブじゃないとなかなか調べがつかないような設定がてんこ盛り。もう少し産業論的なパースペクティヴも入れると、発売元がPenguin Booksなのも画期的でした。日本で言うと岩波書店が会話型RPGを出している、みたいな(笑)
高橋: オリジナルはPenguinだったんですね。それは凄い。Penguinから出たのは1984年。
岡和田: 『混沌の渦』は、私が知っている範囲だと4刷まで出てたなあ。つまりは売れたってことです(笑)
高橋: T&T→混沌→WH-FRP1eという流れなわけですね、岡和田さんのゲーマー的青春は。
岡和田: いえーす。厳密に言えば、『ハイパーT&T』、『アドバンスト・ファイティング・ファンタジー』、『モンスター・ホラーショウ』というミッシング・リンクもあるんですが(笑)
高橋: 本当に社会思想社の純血種という感じですね(笑)
岡和田: 嬉しかったのですが、コミック『スピタのコピタの!』4巻で、けっこう凝ったシナリオを創ってリプレイを載っけてもらっています。プレイヤーは緑一色さん、河嶋陶一朗さん、小林正親さんと、無意味に豪華(笑)
高橋: 今までぼんやりとしていたパズルのピースが全てはまったような、なんというか(笑) 

スピタのコピタの!4 (Role&Roll Comics) [コミック] / 緑一色 (著); 新紀元社 (刊)


●『魔法陣グルグル』対『ウォーハンマーRPG』!? 

岡和田: で、そろそろリプレイの話に戻ると……。
高橋: もう脱線しすぎでしょ、岡和田さん!(笑)
岡和田: 逸脱はRPGの本質だと論じている人がここにいるんですが(笑)
高橋: 脱線する前に言えばかっこいいんだけど……(笑)
岡和田:確かにそうだ(笑)。で、 リプレイの第3話「至高魔術」は、シーン制を意識したシナリオでした。第2話は逆に探索メインだったんです。ペーター・シュピーゲルベルヒというNPCも出てきているんですが。ドロテーアの故郷の恋人ですね。
高橋: 第2話は、八大魔法学府のそれぞれに比較的自由にアクセスできましたね。お陰で色々と試せました。
岡和田: レジーナが体験入学した「輝きの学府」ですね。一方、エックハルト家庭教師のバイトで「黄金の学府」に絡む。
高橋: レジーナの入門は、魔女と正規の魔術師、2つのキャリアのルールも絡んできて、面白かったですね。
岡和田: そうですね。そうそう、魔女と、その前進の似非魔術師って、すごくシナリオに絡みにくいんですよ。基本、隠者ですから。
 ときに高橋さんは『月刊少年ガンガン』で育ったらしいといういう秘密情報がこちらの手元にあるのですが、わかりやすいように『魔法陣グルグル』に例えると……。
高橋: 『魔法陣グルグル』(笑)。はい、90年代中盤はガンガンとギャグ王で育ちましたねえ。三笠山出月『うめぼしの謎』と牧野博幸『勇者カタストロフ!!』は復刊本も買ったほど。ってガンガンじゃなくてギャグ王ばっかりだな……。
岡和田:ククリのおばあちゃん。あれが似非魔術師。ククリが魔女。エックハルトがニケで、フレイザーはキタキタ親父なんです(暴論)
高橋: 僕には非常にわかりやすいですけど、いいんでしょうか読者おいてけぼりで(笑)
岡和田: しまった、リプレイのどこかに「ただし魔法は尻から出る」とこっそりNPCに言わせておくべきだったか(笑)
高橋: ちょッ……岡和田さん、前半とノリがだいぶ変わってきてませんか?(笑)
岡和田: 逸脱はRPGの本質なんで(笑)
高橋: (終わるのかこの対談……?(笑))
岡和田: それかフレイザーに、「魔女かどうかを見分けるコツがある。それは、魔女の魔法は尻から出ることだ。そう『魔女の鉄鎚』に書いてある」と言わせるとか。でもそれだと、キタキタ親父じゃなくなるなあ。
高橋: それは史実の異端審問官でなくとも鉄槌を下したくなる魔術師だな……いや、尻から出ても人間は人間……はっ、何を考えさせられているんだ(笑)
岡和田: 真面目な話ですよ。こういう遊び方も『ウォーハンマーRPG』では可能なんです。この前は企まずして『サウスパーク』みたいな展開になりました(笑)
高橋: それは何重にも輪をかけてひどいと容易に想像がつく(笑) 

魔法陣グルグル (1) (ガンガンコミックス) [新書] / 衛藤 ヒロユキ (著); エニックス (刊) サウスパーク 無修正映画版 [DVD] / トレイ・パーカー, マット・ストーン, アイザック・ヘイズ, ジョージ・クルーニー (出演); トレイ・パーカー (監督)


●先行リプレイの影響 

高橋: ともあれ俗魔術と、中堅魔術のキャリアで得られる魔術とのあいだには、能力にしても暴発危険性においても、大きな差が設けられていますよね。
岡和田: その差が社会的な裏付けに由来することで、設定的な裏打ちがある。だから面白いし、ギャグもできる。『魔方陣グルグル』が、デジタルゲームの『ドラゴンクエスト』のパロディから、少しずつ独自設定を作ってきたとしたら、『ウォーハンマーRPG』はまったく逆の流れでパロディ的な部分が抽出されうるんです。
高橋: 確かに、初期『ウォーハンマー』文庫版シリーズの紹介のされ方が、しばしば比較的ゴツいものとして語り継がれてきた印象はあります。漫画『ベルセルク』のモブシーン以外ないッ、みたいな感じでよく先輩ゲーマーに言われて育ちましたよ。
岡和田: そのあたりの紹介はけっこう難しくて、初版のリプレイでも、そういう意味では友野さんはものすごく気を使って丹念な仕事をされており、私はとても尊敬しています。初版の友野詳さんのリプレイ『破壊の剣』の第1話は、いきなりホームタウンが滅びるところから始まるの(笑)シャンディゲールという街を事細かに設定したのに、すぐに壊しちゃう。なんて潔いんだ、友野さん(笑)
 私のリプレイの第2話のタイトルは「アルトドルフが燃えている!」でしょ。これには確実に、友野さんの影響があったと思います。シャンディゲールの街が滅びる様と、アルトドルフにコーンの嘲笑が轟く様がパラレルに。
 そうそう、おまけに、初版の友野さんのリプレイ第4章「ブレトニアの弾丸」はミステリですよ、しかもトリック型。叙述トリックみたいな話は、どちらかというと会話型RPGではやりやすいんですが、そうじゃないんです。
 おまけに、『去年マリエンバートで』という映画があるんですが、これは友野さんの『プラーグの妖術師』に「去年マリエンブルグで」という話が収録されていて、それで間接的に名前を知りました(笑)『プラーグの妖術師』にせよ、エーヴェルスという有名なドイツの幻想作家の「プラハの大学生」から来ているとの説明がなされており、私はこれでエーヴェルスを知りました。ちなみに、『ウォーハンマーRPG』の未訳サプリメント『Realms of the Ice Queen』では、そのプラーグという街の詳細な設定が書かれていて、これは是非訳したい!(笑)
高橋: ああ、そのお話は貴重だ。僕はウォハンの存在に気付いた時には、全部高額ないし絶版になっていて……。
岡和田: 私も買ったときはすでに本屋で埃をかぶった状態でした。私は81年生まれで、友野さんのリプレイは小学生の時に出ていた。それでも世代はずれていたんですが、遡る形で私は中学生の時にからすでに、過去の80年代に出た傑作RPGを自分なりに集めていたんです。
高橋: なるほど。僕は84年生まれで、会話型RPGを始めたのが96-7年とか、その辺ですね。僕は中学生の頃は、『ワースブレイド』と『シャドウラン』にハマって、その後はファンタジーよりシャドウランの裏設定にばかり凝ってたから、ほかに行く余力がなかった(笑)。今じゃ初版時代からのサプリメントを50冊前後持ってる始末で。これをAmazonもろくにない高校の頃から集めてたかと思うと、けっこう笑えてきます。i-OGMさんにはお世話になりました。
岡和田: いや、それは素晴らしいことだと思いますよ。僕は当時は『シャドウラン』には逆にそこまで深入りできませんでした。これが二人の進路や関心のあり方の差異をわかりやすく表しているような気がします(笑) 

ベルセルク (1) (Jets comics (431)) [コミック] / 三浦 建太郎 (著); 白泉社 (刊)ウォーハンマーRPGリプレイ1 破壊の剣ウォーハンマーRPGリプレイ2 プラーグの妖術師


●ゲーム表現に、どのように「意味」を付与するか 

高橋: 『グルグル』や『サウスパーク』あたりの話に話を戻すと、シナリオを強く規定しないわりに、フレーバーが豊富だから、色んなテクスチャをその上でのっけられる……という感じが魅力なんですかね。
岡和田:テクスチャをのっけるというよりも、ギャグを整理させる構造ですかね。ゲームのお約束、あるいは人種差別をギャグで笑うのって、不謹慎でしょう。でも、過剰に目を背けるのも逆に不自然だったりする部分もあります。
高橋: そうですね。先日、人文研究者の方と「ゲーム書籍におけるヘイトスピーチ」の話になったんですが、「少しでもユーザが不愉快になり得る発言はベンダの側で自重すべき」という態度は、ひとまず娯楽商品の担い手として、正しいとは思うんですよね。 ただ、その場でひたすら「自重しろ」と制するだけでは、何か大事な論点を取りこぼしつづけるんじゃないか、という気分になるのも事実です。商品である以前に、「ゲームデザインという表現」を、もっとフラットに語ることはできないのか、とは常々思っていました。
岡和田: ヘイトスピーチが蔓延する現代に生きると、重みがよくわかりますね。翻訳にあたっても、気を使います。その意味では、このリプレイは最初からきわどいネタを扱ったけど、無意味に弄んでいるわけではありません。きちんと理由はあるし、セッション時には参加者に共有されていたように思います。レジーナとドロテーアの霊が対峙するシーンも、その裏があったから重みがありました。あれは戦慄しましたよ、同じ卓にいて。あとはガンツ三兄弟を手駒っぽく使ってきたシルダが、徐々に兄弟に転移していくのも面白かったなあ。エックハルトはそこのところ、クールでしたね。チェーザレ・ボルジア的というか、なんというか。
高橋: エックハルトがなぜそうなっているのかというのは、僕の考えが反映されているのかも。会話型RPGの面白いところの一つに、扱っている対象が「単にコマである」のと「血肉のある設定である」とが、時にトレードオフを起こすところですよね。そこをどちらか一方に割りきってしまうと、その後のゲームの展開は、どこか味気なくなってしまう。
岡和田: その通り。ゲームが進んでいくと、その二分法がどんどん崩れていくわけですよ。
高橋: 僕の場合は、エックハルトの「守りたいもの」を過剰に設定しなかったので(笑)。レジーナやシルダがすでにそれぞれの重荷を十分受け持ってたので、その上で四人の課題をすべてまるっとゴールさせないといけない。それを「課題」と感じて、あれこれ策を講じるポジションを楽しんでいました。
岡和田: エックハルトはいい意味で、脇を固めてくれましたね。いや、本当に。ただ、誤解されると困る部分としては、レジーナは主役じゃないんです。みんなが主役。つまり、各々のキャラクターにはそれぞれの目標があって。そこを絶対評価にしたほうが面白いんじゃないかと、僕は思ってます。つまり『ウォーハンマーRPG』を遊ぶ場合には、各々が自分なりの自己実現の目標をどう達成したか、あくまで絶対評価の観点から見た方がよいのではないかということですね。


●魔術師の理想は『陰陽師』!? 

高橋: じゃあ、僕がどういう「自己実現」をもってたかをぶっちゃけてしまいましょう。まず、僕の魔術師の理想は、『陰陽師』における安倍晴明なんですよね。しかも小説版(夢枕獏)じゃない、漫画版『陰陽師』。岡野玲子版の後半が我が魂の書みたいになってまして(笑)。「トゥルー・ニュートラルでありたい白魔術師」。一般的な陰陽師イメージともまたちょいと外れてるんですが、会話型RPGで魔術関連の設定を考察する際の一つのイメージリソースになってます。
岡和田: 岡野玲子版……だと……。でもそれって魔法使いの王道でもあると思いますよ。
高橋: 「無注目」を敢えて使っているのは、素朴に『陰陽師』の影響ですね(笑)。
岡和田: なん……だと……。
高橋: ウォーハンマーの世界にどう馴染ませるかを重視していたので、今までずっと黙ってました(笑)。というのは、僕自身がセッション直後に「実は○○という作品から……」と言うと、ちょっと熱が冷めてしまうという経験がけっこうあるので。カジュアルでも、コンベンションでも、言わないことにしてます。気付いてくれるひとだけ気付いてくれればいいか、くらいのあんばいです。
岡和田: それはその通り。『魔術の書』の設定にせよ、「元ネタ」から来るんじゃなくて、あくまでも一から設定を積み上げていったものですが、でプレイの時は、あえて八大魔法学府の「キャラを立たせて」みました。そこから深めたかった、という思いがあったのですよ。
高橋: 単に「類型」を借りているというより、「繰り返し追求したい魔術師像」というものが漫画版『陰陽師』にあるので、それと『魔術の書』とで“共振”できるところは何か? ……と考えると、自然とあの灰色学府へ向かったんですね。
 僕は会話型RPGをあまり「他メディアの翻訳先」としてはあまり捉えていないんです。あくまで、他メディアの優れた表現を「このゲームならではの再構成」で勝負できるところはないか、という発想で、やっていますね。自立・独立した表現形式として捉えたい。その上でプレイをしていたい。
岡和田: それならばわかります。自分なりに消化→昇華のラインを組み立てるというか。 

陰陽師 (1) (Jets comics) [コミック] / 岡野 玲子, 夢枕 獏 (著); 白泉社 (刊)


●会話型RPGの批評性 

岡和田: 第3話のタイトルが「至高魔術(ハイ・マジック)」となっているのも、最終的に、各々の魔法は至高魔術に止揚されるか、あるいはダハール、つまり黒い風に堕落するかという設定を自分なりに捉え直そう、という思いがあったからです。「至高魔術」はハイエルフの魔法なんですが、その理論は明らかに考え方がドイツ哲学から来ているんですよ。しかも異端思想と近代思想が出逢う場所が確実に意識されている。
高橋: 以前、ブログで「多神教と一神教が善悪逆転しているところが、オールドワールドの魅力だ」というような旨の記事を書かれていましたね。
岡和田: 善悪というより、歴史的経緯と逆なところがより重要な点です。それは「近代」の成立に対する、原理的な批判ともなっていると思うんです。
高橋: 「至高魔術/八大魔術」の関係もまた、オールドワールドの大きな物語仕掛けである「一神教/多神教」の関係と並列できるということでしょうか。
岡和田: おっしゃるとおりです。だから至高魔術はゲーム・メカニズムでは表現できません。それは、ゲーム・スケールの「外部」にあるんです。しかし、世界設定での批評性と、プレイングにおける批評性はイコールではありません。プレイングの批評性は、世界設定そのものにも向けられることがあります。リプレイでも実際、私が強く誘導することなくても、自然にマスター・プレイヤー間で「共同ゲームデザイン」されていきました。
 個々のメカニズム、たとえばシーン制についても同様です。『ウォーハンマーRPG』のゲーム・メカニズムは、シーン制を許容はするのですが、システム・レベルでシーン制を強制はしていないんです。使うかどうかは、ユーザーが各々のスタイル、あるいはその時のシナリオ・コンセプトに応じて判断することになります。
高橋: そうですね。シーン制は、シナリオの狙いに合わせて使えばとても便利ですが、それはプレイングあるいはマスタリングの領分であって、システムデザインの領分とはまたちょっと違う。
岡和田: 誤解されやすいので補足しておくと、シーン制を否定するつもりはまったくないんですよ。私は『深淵』の渦型プレイも大好きですので。
高橋: もちろんそうですね(笑)。僕も色んなゲームで活用してますし、シーン制をルール・メカニズムの大前提に置いたものも非常に面白い。システムを選択する段階で「遊びたいゲーム」のイメージが掴めていれば、後は使い手次第です。
岡和田: シミュレーション的なリアリズムとシーン制の活用。これらのよい関係性かな。もちろんシミュレーション的なリアリズムというのも難しい問題で、これはこの前、蔵原大さんにウォーゲームの基礎研究の文献(鎌田伸一「ウォーゲームの方法論的基礎」)を紹介していただいて、ようやくわかりかけてきました。あ、ここでのシミュレーションというのは、哲学的なシミュレーション(ボードリヤールなど)の意味では必ずしもなくて、ウォーゲームが前提としているような戦略論的なシミュレーションです。あるいは政治としてのウォーゲーミングでもよいでしょうが……。
 そのうえで、「運用」とゲーム・メカニズムのよい関係というのがあると思っておりまして、それは時として両者の調和であったり、両者を違いに批評的な視座を向けさせることになったりするのではないかと。『ウォーハンマーRPG』の場合、『D&D』的な遊び方と、『クトゥルフ神話TRPG』的な遊び方に二極化される傾向が、実はあると思います。「ルールを使うか、それとも設定を使うか」と言い換えてもよいかもしれません。
高橋: 敢えての運用、アクロバットな運用でも、意外な楽しみが引き出せたりしますよね。そこを「メカニズムがこういう風になっているから」という理由だけで、消極的な遊び方しかしないのは、もったいないかなあと思う時もあります。同じメカニズムでも、駆動の仕方を変えれば、ぜんぜん違った味わいがでてくるはず。

深淵 第二版 (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / スザク・ゲームズ, 朱鷺田 祐介 (著); エンターブレイン (刊)


●歴史と個人は繋がっている

岡和田: 少し話を進めると、高橋さんがリプレイ第2話をもとに、論考を書いてくれましたよね。「RPGにおける〈プレイング〉の内実」という傑作(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20100822/1282520395)。
高橋: 2008年に一回、今年の9月末にリライトしたものを再掲したものですね。ただ傑作というのはだいぶ違うような……(笑)。
岡和田: もとのバージョンは、リプレイへのコメンタリー、注釈として極めて精度が高いものでした。
高橋: 以前のはほとんどサマリーみたいだったので、骨組みを書き直したものです。
岡和田: いや、あれはあれでよかったと思います。ああいう手法が必要になる時も多いと思います。で、今回のウェブ再掲にあたって同じ論文を書き直されましたね。
高橋: 後は、あまりでしゃばったら連載中に悪いな、と思ってまして。
岡和田: 理論が実プレイを疎外する意識があったんでしょうか?
高橋: 今回のWeb版再掲にあたって、岡和田さんが「前にこんな記事が!」とURLを貼ってくれたので、「あれじゃ改めて読んだ人がわからないはずだ」と思ったんです。それで、急きょ書き直した。
岡和田:知的な謙虚さを保って頂いたというわけですね。ありがとうございます。ただ、自分的にはものすごく助かっている面がありまして、近代批評というのは、現場的な発想から生まれてくるものだと思うんですよ。小林秀雄もそうだった。西洋における美学思想の原点のひとつに『ギリシア芸術模倣論』という作品を著したヴィンケルマンという美術史家がいますが、彼の発想も現場的なところから出てきたもののように思っています。体系的な知ではなく、現場で芸術に触れて、そこから素直な感想が立ち上がってくる、その感動こそを大事にしている評論と言うか。だから私はあえて言いたい。「理論が実プレイを阻害する」というのは誤解です。なぜならば、どんな理論でも、必ず個人から出発しているから。
高橋: 物凄く大きく出てますよね……!(笑)
岡和田: いや歴史と個人は繋がっているんです。大げさなんてことはありません。そこは自信をもってよいと思います。例えば、一例を出しましょうか。至高魔術の思考法って、私にには既視感がすごくあったのです。至高魔術の思考法は、18世紀ドイツの批評家、フリードリヒ・シュレーゲルの発想によく似ているところがあるように思えます。シュレーゲルは、近代批評の確立者の一人として、必ず言及される人物です。「アテネーウム」という先鋭的な雑誌を編集して、そこで未来のフィクションのあり方について語りました。彼にとってのフィクション=文学は、他のジャンルを巻き込みながら無限に生成・発展を遂げていくものであるとともに、それ自体「はりねずみのように」完成されたものでもあるんです。その意味でシュレーゲルは近代批評の確立者でありながら、逆にそれを常に脱構築させようとしている特異な人でもありました。
 至高魔術は、つまり「魔法」という『ウォーハンマーRPG』の根底を形成する要因ですよね。しかし「魔法」は同時に、混沌の生(き)の力そのものでもある。「混沌」というのはある意味、無限に発展していく自生的な力です。反対に、至高魔術は、完成された揺るぎのないものです。それこそ、「はりねずみ」のように。だから「混沌」はぶっちゃけ、近代のメタファーではないかと私は思っています。
高橋: なるほど。ということは『ウォーハンマーRPG』の背景設定は、ゼロから突然生まれてきたわけではなくて……。
岡和田: もちろん理論的なバックボーンがあり、しかもデザイナーはおそらく半分くらい自覚的でしょう。で、私の目には、そうした『ウォーハンマーRPG』の設定の構造と、今回高橋さんがリプレイへの注釈を通して理論を生み出した過程が、パラレルに見えたわけです。
高橋: ヨーロッパ的人文知の土壌に影響を受けている。どうしたって、調べればそういうところに到達しちゃうわけですね。それは“お勉強のための勉強”では全然なくて、心の赴くままにデザインしようとしたら当然そこまで来てしまうようなもの。
岡和田: その通りです。今度発売される『スケイブンの書――角ありし鼠の子ら』なんて、近代的な人間観、ルネッサンス以降のヒューマニズムの完全なパロディになっていますからね。それは批評的な意味合いもあってそうなったのでしょうが、楽しみの結果として設定深めていき、たどり着いた世界に近いと思います。でも、デザイナーは彼らだけではないんですよ。私たちユーザーだって、『ウォーハンマーRPG』を遊ぶことを通じて、彼らのデザインに間接的に協力しているんです。つまり高橋さんは、『ウォーハンマーRPG』の共同ゲームデザイナーの一人だったんだよ!
高橋: (笑)。少なくとも、岡和田さんの提供したシナリオの中に少しでも貢献できたなら幸いです。
岡和田: そこは「な、なんだってー!」と言わないと(笑)
高橋: Ω ΩΩナ、ナンダッテー ……呆気に取られてリアクションに困ったんですよ(笑)

ロマン派文学論 (冨山房百科文庫) [文庫] / フリードリッヒ・シュレーゲル (著); 山本 定祐 (翻訳); 冨山房 (刊)


●エッセーとハード・サイエンスの循環 

岡和田: 真面目に話を戻すと、これは極論でもなんでもなくて、近代の人文知的な発想は、そこから出てくるものだと私は思います。つまり、世界と人間との断絶と、そこから恢復する過程。いわば広義のエッセーですね。高橋さんが「RPGにおける〈プレイング〉の内実」で語ったことって、僕にはそうしたエッセー的なところが出発点にあると思う。いや、ハード・サイエンスを目指しているのはわかるんですよ。
高橋: あ、なるほど。エッセー/ハード・サイエンスという対比で言われたら、ようやく納得が行った(笑)。すぐに「実証は?」と突っ込まれる前に、「エッセー」のところから問題としっかり向き合おうよ、一緒に……という態度は僕はけっこう好ましく思ってます。
岡和田: エッセーとハード・サイエンスは循環できると思うんですよ。私は最近、「21世紀、SF評論」というところに『ローズ・トゥ・ロード』論を掲載いただきましたが(http://sfhyoron.seesaa.net/article/173296285.html)、この原稿で目指したのは、鷲巣繁男という詩人のエッセーのような、ある意味、理論では厳密に捉えきれない中間領域について文学的に斬り込むという方法です。反対に、ある意味でハード・サイエンス的な姿勢を、翻訳という仕事ではなるべく心がけるようにしています。自分の作家性を、良い意味で殺すというものですね。リプレイにしてもそうです。岡和田の独りよがりなノベライズにするのは、できるだけ避けたい。翻訳とハード・サイエンスはそういう意味で、相通じるところがあると思います。
高橋: もちろん一方では社会学徒なので、将来的に実証を捨てちゃいけないですが……ゲーム研究の、特に人文知が関わるところは、みんなが思ってる以上にまだまだ人文知が足りてない。「実証でまず成果出せ」という以前の状況です。なにせ、それじゃ魅力的な仮説すら立てられないですから。そうなると、人文知に限定しないまでも、エッセー的な立ち上がりをまず各人で鍛えていかないと、面白い話、さらには面白い実証も、やりようがないですね。
岡和田: 人文知的な蓄積は、着眼点、アプローチの独創性に出ると思います。まずは独創性を担保する。それは大前提。そのうえで、実証は逆に、きちんとしなければならない。
高橋: そうですね。本当にそう思います。


●Analog Game Studiesの展望 

岡和田:それで、この対談は「Analog Game Studies」という新しいプロジェクトのブログに掲載されるわけですが……。 
高橋: まだ猛暑だった頃に誘われたあの企画ですね。たしか、自分の会話型RPGサークルの定例会で飲んでた時に、岡和田さんから電話が来たんだ(笑)。
岡和田:そんな時だったんだ(笑)。
高橋: なんだかんだで20分くらい説明聴かされました(笑)。その時は、「季刊R・P・G」みたいな雑誌をウェブで展開できないか、という話でしたね。
岡和田:そうです。「季刊R・P・G」は、アナログゲーム専門誌でありながら、ゲーム以外の色々なジャンルの話と関連付けた記事が読める、とても貴重な雑誌でした。残念ながら4号で休刊してしまいましたが、幸いながら私も仕事をさせていただくことができまして、『トラベラー』や『村上春樹RPG』(笑)について、自由に書かせていただきました。自分が捉えた『季刊R・P・G』のようなコンセプトを、ウェブでは広い層にアプローチしていき、潜在的なニーズを活性化できるのではという意識がありました。それこそ、検索で何気なく引っかかって気になって読んだり、そういう潜在的な読者をアナログゲームにより興味を持ってもらう、ひとつのきっかけになるかな、と。
 もちろん、現状「Role&Roll」「ゲームジャパン」「GAME LINK」など、私が仕事をさせていただいている雑誌に不満があるわけではまったくありません。「Role&Roll」や「ゲームジャパン」や「GAME LINK」に、私はレポート記事や汎用記事などをたくさん書かせていただき、そこでもRPGやボードゲームの楽しさを描きつつ、他のジャンルとも横断できるような工夫を微力ながら凝らしていたつもりです。今後も「Role&Roll」「ゲームジャパン」「GAME LINK」などでお仕事をさせていただきたく思うつもりです。
 ただ、現状、こうした雑誌にアクセスする機会が得られていない人に対しても、ウェブならば無料なので紹介がしやすく、そこから「Role&Roll」「ゲームジャパン」「GAME LINK」などの雑誌や、そこで紹介されている各種の作品やイベントに触れるような、そういうハブにもなれればよいな、と考えているんです。
 Analog Game Studiesの活動は、だから商業的なものと敵対するつもりはまったくなくて、文字通り「繋げる」言説を目指しています。特にアナログゲームと学術は、Analog Game Studiesで蔵原さんがレビュー(http://analoggamestudies.seesaa.net/article/172911744.html)を書いた『太平洋戦争のif[イフ]』の共著者である歴史学者の大木毅さんなど、横断的な活躍をされている方が多くいらっしゃいます。ただ、そのための環境や場書が満遍に整備されているとは、必ずしも言えない部分があるのも事実ですね。そういった状況に物足りなさを感じている方々に向けても、Analog Game Studiesは情報発信をしていきたく思っています。
高橋: そういう話でしたね。僕自身はアナログゲームのうち、会話型RPGに強くコミットしてきた人間ですが、会話型RPGにしても、「会話型RPGそれ自体に詳しい」というだけではなかなか遊びの輪が拡がらなくて、ぜんぜん別の分野で懸命に頑張ってきた人にゲームデザインならではの表現をプレゼンしていく方が、手応えがあるなと思っているんです。何かの分野で一点突破すると、むしろ色んなジャンルの人と仲良くなれるというか……そういう部分が会話型RPGの「面白い!」の部分を支える人的要素になっているように思います。
岡和田: おっしゃりたいことはよくわかります。私自身にもそういった部分があります。文芸の世界とゲームの世界、両方への興味関心を持続していくことが、ゲームを長く楽しんでいくキーだったんです。ドイツ哲学とオールドワールドの設定を同時に読む、と。誰から強要されたわけでもないんですが、むしろ私にとってはそれが自然でした。
高橋: そしてそれについて語るということは、何か一つの狭い分野での教養を誇ったり、無意味な上下関係を生み出してしまうようなこととは全然別で、むしろ色んな分野に開かれたゲームの面白さを育てることに繋がると思うんですよね。Googleで誰もが知識やコンテンツにあっけなくアクセスできてしまう時代に「ゲームデザインにしかできない楽しさ」を考えて行くためには、僕たちを含めたゲーマーの知らない世界を出来るだけ一箇所に集めてみた方が、面白いことがあるんじゃないかと。僕はAGSの展望をそういう所に見ています。
岡和田:まさにそのとおりだと思います。加えて、私は昔からどちらかと言えば独学者気質が強いので、何かを楽しむためには、深く潜っていけばいくほどいつかは鉱脈に辿りつけるんじゃないかという思いがあります。楽しむための勉強をし、楽しむために探究する。そうした探究のツールとして会話型RPGを、ひいてはアナログゲームを捉えています。ヒエラルキーの形成とは別にある、「楽しむ」ための教養。それこそが真の教養であると思うのですが、広く出版やネットの現在を見るに、そうした場はどんどん狭まってきているという感触があります。危機感を抱いていると言ってもかまいません。だからこそ、Analog Game Studiesのコンセプトを広く知っていただきたい。私はそう考えています。


※読者の方からメールでご指摘をいただき、「佐藤洋平」を「佐脇洋平」に修正させていただきました。御迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした。(2010.12.29)
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 対談に登場した『ウォーハンマー・コンパニオン』のプレビューが、無料で公開されています。
 同書の0章と1章をまるまる読むことができます(PDFファイル)。『ウォーハンマーRPG』の豊穣な世界をぜひともご堪能下さい。
http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/dlfiles/whcp_pv.pdf
ウォーハンマー・コンパニオン (ウォーハンマーRPGサプリメント) [大型本] / ウォーハンマーデザインチーム (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)

 また、本日12月24日発売予定の『ウォーハンマーRPG』の新作サプリメント『スケイブンの書』のプレビューも無料公開されています。『ウォーハンマーRPG』の予備知識がほとんどなくても、楽しめる小話がたくさん紹介されています(PDFファイル)。
http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/dlfiles/chr.pdf 
スケイブンの書-角ありし鼠の子ら (ウォーハンマーRPG サプリメント) [大型本] / スティーブ ダーリントン, ロバート J シュワルブ (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第2回)

草場純

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◆第1回はこちらで読めます◆

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ゲームには全てそのゲームの内実(実際のルール)と、受容(人々がそのゲームをどう受け入れているか)との二つの側面がある。
まず、内実の側面に目を向けて考察してみよう。

伝統ゲームの内実に関してはっきり言えることは、長い伝統を有しているゲームは無数のテストプレイが繰り返されているということである。

創作ゲームをプレイした人は誰でも、「このゲームはテストプレイしたんかいな」という感想を持たれたことが、一度ならずおありだろう。(笑) つまり創作ゲームにおいては、そのテストプレイは、絶対的に重要である。

ゲームのルールは端的に言ってアルゴリズムであるから、実際に走らせてみて初めて機能を発し、評価が可能になる。一部のシミュレーションゲームのように、シナリオだけを楽しむというのも、ありえるとは言え、ゲーム本来の姿ではなかろう。

創作ゲーム(どんなゲームでも最初は創作ゲームだ)は、テストプレイを通してデバッグされ、洗練され、ゲームとしての体をなす。しかもそれは様々な戦略をとる多様なプレイヤーに、ある程度繰り返しプレイされることが重要である。

世にあるゲームのうち、こうした要件を満たさないと思われるものは、決して少ないとは言い切れまい。その点、伝統ゲームは折り紙つきだ。

例えば囲碁は、少なくとも二千年のテストプレイが繰り返されたということができる。しかも数え切れないほどの人々によってである。尤もだからと言って完全に洗練されたルールになっているか、と言うと、必ずしもそうでないところが面白いのだが、それについてはまた後述しよう。

伝統ゲーム、特に現在でも盛んにプレイされている多くのゲームは、実質的にテストプレイが繰り返され、無数の淘汰をかいくぐって現存しているからこそ、伝統ゲームたりえている。こうしたことは広く「伝統」一般にかかわる現象であろう。しかもその本質がアルゴリズムであるゲームは、その他の歌舞音曲や芸能の類に比べて、それを取り囲む社会の変容から影響を受けにくいと考えられる。もちろん文化現象であるからには、影響を受けないということはありえないのだから、あくまで程度問題に過ぎないのではあるが、少なくとも現在もプレイされている伝統ゲームは、そうした淘汰圧を跳ね返して残存、あるいは変容してきた内実の結果である。

結論すれば、伝統ゲームの内実は歴史によって保証されているのである。

では、現在滅亡してしまった、あるいは瀕死の伝統ゲームはどうだろうか。

一例を挙げれば、中国の「六博」は、春秋時代から千年の命脈を保って滅亡した。現在でもゲーム盤は多数出土し、プレーの状態を活写する「俑」まで出てくるのに、ゲームのルールは不明と言わざるを得ない。こうした状況は生物の系統に似ている。一度滅んだ生物が復活することがありえないように、「千年の伝統」は消滅してしまったのである。ではその理由は何だったのだろうか。ゲームの内実の問題だったのだろうか、それとも受容の変化故なのだろうか。

それを考えるのに、もう一つ例をあげてみよう。

エジプトのセネトというゲームも、恐らく千年前後の歴史のあるゲームと考えられる。だが、現在これを日常的にプレイする人は恐らくいないだろう。ルールはかなり復元されているが、絶対確実というわけではない。だから以下は全て推察である。

セネトを復元ルールでプレイする限り、少なくとも私は面白いとは思えなかった。これを理解してもらうには、日本の絵双六を考えてもらえば分かりやすいだろう。少なくとも現代日本の大人が、ゲームの楽しみとして絵双六をやることは私にはあまり考えられないが、いかがだろうか。セネトを復元ルールでやる限り、それは運の要素が強く、絵双六より更に悠長で、私には退屈に思えた。セネトは絵双六と違って戦闘の要素があるので、その分実力の要素が加わるが、反面ゲームに時間がかかるのである。もしこの感想が私だけのものでないならば、セネトはその内実により滅びたのだろう。つまり一千年のテストプレイにより、淘汰されたのである。

現代的な感覚で断定するのは極めて問題があるのは自覚しつつ敢えて言うなら、古代エジプトではもっと面白い盤上ゲームがまだなかった、ということなのだろう。逆に言うなら、こうしたゲームが受容される社会がそこにあったということになる。それがどのような社会であったかを想定することは、ゲームから歴史へと遡る、新たな歴史的手法となりえるのかも知れない。ゲームの相は、社会の相を反映している(あるいはひっくるめて社会の「相」と見られる)と考えるわけである。

では滅んだゲームは全てその内実によるのだろうか? 実は決してそうは思えないのである。

これを考えるのに、現在瀕死の伝統ゲームについて見るのが極めて示唆的である。

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◆第3回はこちらで読めます◆

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【レビュー】RPGゲーマーのための『ペルディート・ストリート・ステーション』ガイド

【レビュー】RPGゲーマーのための『ペルディート・ストリート・ステーション』ガイド
仲知喜

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ペルディード・ストリート・ステーション (プラチナ・ファンタジイ) [単行本] / チャイナ・ミエヴィル (著); 鈴木康士 (イラスト); 日暮雅通 (翻訳); 早川書房 (刊) Perdido Street Station [マスマーケット] / China Mieville (著); Del Rey (刊)

なんなんでしょうこの面白さ。チャイナ・ミエヴィルの『ペルディード・ストリート・ステーション』はアーサー・C・クラーク賞および英国幻想文学賞を受賞した、ダーク・スチームパンク・ファンタジー小説です。

え? いま、わたし、ダーク・スチームパンク・ファンタジーって言いました? いや、ほんと、この作品は一言で言い表すのが難しい小説なんです。舞台は〈バス・ラグ〉と呼ばれる異世界の巨大都市国家。〈バス・ラグ〉は蒸気機関による摩訶不思議な駆動力が発達した世界。スモッグに覆われた暗い空に聳える高層建築物。その上空には飛行船が浮かび、高層建築物の間をスカイレールと呼ばれる鉄道高架橋がうねりながら張り巡らされる。〈バス・ラグ〉は奇怪な魔法理論が学問として定着した世界。飛行船の隣を生命魔術で創りだされた飛翔型ゴーレムが飛び交い、鉄道高架橋下の薄暗がりには主人に見捨てられた使い魔が腹をすかせて獲物を待ち伏せしている。そんなSFでもないしファンタジーでもない、刺激的な、科学と魔法のハイブリッド。というかジャンルの壁なんかぶち壊しながら疾走する、お行儀なんてクソクラエのエンターテイメント作品なのです。ああ、そうだ、原作者のミエヴィルはこの作品をこう表現していました。『ペルディード・ストリート・ステーション』は「ニュー・ウィアード」である。

とか言われてもなぁ、と思っちゃいました? はっきり申しまして、ぼくもとっつきにくかったです。序盤、ダメダメな科学者アイザック(ぽっちゃり体型)が、身体は人間だが頭部は甲虫というゲッとするような恋人リンと痴話喧嘩シーンが続いたりして、もしかして難解な作品なのかも? と不安になったくらいです。
しかし、主人公の科学者アイザックのもとにサイメックの鳥人族ヤガレクがやってきて、大罪の代償として失った翼を取り戻したい、もう一度空を飛ばせてほしいと懇願してから、ストーリーはだんだん速度を上げていきます。一方、唾液彫刻のアーティストであるリンのもとに悪名高い暗黒街のボスから自分の彫刻を作ってほしいという奇妙な依頼が舞い込み・・・・・・。アイザックが謎のイモ虫を手に入れたときにはもう、ページをめくる手が止まりませんでした。わたしも久しぶりでしたよ、こんなに熱中した本は。え? イモ虫が何ですって? それはナイショです。

作者のミエヴィルは『ペルディード・ストリート・ステーション』についてこうも述べています。「とにかくモンスターが書きたかった」。「でしょうね(笑)」と頷くほかございません。

(編注;リンク先の画像は“Dragon”#352からの抜粋です)
http://njoo.deviantart.com/art/World-of-China-Mieville-48266205?offset=10

(編注;イラストレーターのサイトです)
http://www.andrewhou.com/

(編注;PSSとは関係ないクリーチャーが入っています)
http://www.andrewhou.com/portfolio/character_creatures_small.jpg

『ペルディード・ストリート・ステーション』には鳥人、昆虫人、両生類人が出てきます。サボテン人間も出てきます。魔法使いが出てきます。錬金術師が出てきます。リメイドと呼ばれる改造人間が出てきます。次元界を瞬間移動する巨大な知性のある大クモが出てきます。都市の大使館区には地獄の大使館があります。労働決起集会を鎮圧しようと空飛ぶクラゲに乗った民兵が現れます。狙撃兵が魔法使いに千里眼のサポートされながら煙幕ごしの射撃をします。スパイダーマンならぬカマキリ男が出てきて、バットマンよろしく謎のヴィジランテに活躍します。人間に寄生する「手」が出てきます。しかも、そいつらが空を飛びながら火炎を吐いて空中戦を繰り広げます。廃棄された機械の意識が集まって人工知性体が誕生します。冒険者たちが姿を一目見ただけで放心状態に陥る怪物を相手に視線をそらしがら戦いを挑みます。それからそれから……謎が謎を呼びます。とにかく凄いんです。

鼻息が荒すぎですね。ちょっとクールダウンしましょうか。

「S-Fマガジン」(2009年8月号 No.641)のチャイナ・ミエヴィル特集の記事を読むと、ミエヴィルはRPG経験者であることがわかります。「もう十二年ほどご無沙汰だ」とは言ってますが、けっこう夢中になって遊んでたんじゃないでしょうか。だって、『冒険者たちが姿を一目見ただけで放心状態に陥る怪物を相手に視線をそらしがら戦いを挑む』シーンなんて、『経験者』じゃないとあそこまで真に迫った描写できませんもの(笑)。また“Dragon”(2007年2月号Issue#352)では、ミエヴィルのインタビュー記事とBas-Lag Gazetterと題された『ペルディード・ストリート・ステーション』の世界をD&D(第3.5版)で遊ぶための世界設定と多数のモンスターデーターが掲載されました。このたありも、ミエヴィルの創造した世界とRPGゲームの親和性の高さを裏付けるものだと思います。

(編注;ミエヴィルのゲーム歴について詳しいインタビュー記事です)
http://www.believermag.com/issues/200504/?read=interview_mieville

ミエヴィルはローカス賞と英国幻想文学大賞を受賞したあと、(彼にとっておそらく初となるゲームライターの仕事として)『Pathfinder RPG』のサプリメントをデザインしたという異色の経歴の持ち主です。

『ペルディード・ストリート・ステーション』のことを、権威ある賞をいくつもとったからって小難しい作品じゃないかなんて思わないでください。これは、極上のエンターテイメント作品なのです。いや、むしろ、ゲーマー視点があってこそ楽しめる作品だとぼくは言いたい。『ベルディード・ストリート・ステーション』は『モンスター・マニュアル』1,2,3に“Fiend Folio”までぶちこんで、プレイヤー種族全解禁、プレイ中の妄言をかたっぱしから世界設定に採用したようなイカシたシティ・アドベンチャーです。同じゲーマーとして尊敬と共感と愛を感じることのできる魅力に満ちています。RPGゲーマーに強くオススメしたい作品です。

あ、最後に一言だけいいですか?
あなたが『ペルディード・ストリート・ステーション』を読み終えたら、アイザックの選択について、ヤガレクの決断について、どう感じたか、わたしに聞かせてください。でもそれは次の機会でけっこう。今度我々が“フラネスの宝石”グレイホークか“壮麗な都”ウォーターディープか、はたまた“塔の都”シャーンか、どこかの都市の路地裏で出会った時にでも。答えはあなたの目を見ればわかるはずですから。

【チャイナ・ミエヴィルの邦訳書籍】

キング・ラット (BOOK PLUS) [単行本] / チャイナ ミーヴィル (著); China Mi´eville (原著); 村井 智之 (翻訳); アーティストハウス (刊)

ペルディード・ストリート・ステーション (プラチナ・ファンタジイ) [単行本] / チャイナ・ミエヴィル (著); 鈴木康士 (イラスト); 日暮雅通 (翻訳); 早川書房 (刊) ジェイクをさがして (ハヤカワ文庫SF) [文庫] / チャイナ ミエヴィル (著); 鈴木康士 (イラスト); 日暮雅通, 田中一江, 柳下毅一郎, 市田泉 (翻訳); 早川書房 (刊)

アンランダン 上 ザナと傘飛び男の大冒険 [ハードカバー] / チャイナ・ミエヴィル (著); 内田 昌之 (翻訳); 河出書房新社 (刊) アンランダン 下 ディーバとさかさま銃の大逆襲 [ハードカバー] / チャイナ・ミエヴィル (著); 内田 昌之 (翻訳); 河出書房新社 (刊)

【チャイナ・ミエヴィルのRPG関連書籍】

■Dragon Issue #352
http://paizo.com/store/paizo/dragon/issues/2007/v5748btpy7tlo

■Pathfinder Chronicles: Guide to the River Kingdoms (PFRPG)
Pathfinder Chronicles: Guide to the River Kingdoms [ペーパーバック] / China Mieville, Elaine Cunningham, Chris Pramas, Steve Kenson (著); Paizo Publishing (刊)

http://paizo.com/store/downloads/pathfinder/pathfinderChronicles/pathfinderRPG/v5748btpy8d50

『Pathfinder Chronicles: Guide to the River Kingdoms』は、パスファインダーRPG(Paizo社、未訳)の世界設定資料の一つです。
題材になっているRiver Kingdomはさまざまな勢力が群雄割拠する地域です。そんな土地柄を反映させてか、この作品には複数の書き手が参加しています。チャイナ・ミエヴィル、クリス・プラマス(ウォーハンマー2版、Dragon AgeRPG)、スティーブ・ケンソン(Mutants & Masterminds、Freedom City)、エライネ・カニンガム(SF作家。フォーゴトンレルムやスターウォーズのノベライズを手掛ける)が名を連ねています。

※この本について『クトゥルフ神話TRPG』のサプリメント『マレウス・モンストロルム』や、クラーク・アシュトン・スミスほか『エイボン
の書』共訳者の立花圭一氏曰く、「ミエヴィルの担当パートはなかなかに凄いので一読の価値があると思いますよ。淡水環境下で生き延びるために呉越同舟して頑張るマーフォーク、サフアグン、シー・ハグ、トリトン他諸々の海生水中知性体連合ですよ。」(http://twitter.com/k1Tachibana/status/560635607777280

クトゥルフ神話TRPG マレウス・モンストロルム (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / スコット・アニオロフスキーほか (著); 立花圭一, 坂本雅之 (翻訳); エンターブレイン (刊)