伝統ゲームを現代にプレイする意義(第1回)


草場純

「伝統ゲーム」とは何のことを言うのだろうか。単に古いゲームのことを言うのだろうか。案外そうかも知れない。

伝統ゲームとしてイメージされるものには、どのようなものがあるのだろうか。思いつくままに並べてみよう。

囲碁、将棋、連珠、双六、麻雀、花札、かるた、などは「日本の」伝統ゲームと言ってあまり異論はないだろう。これにトランプのいくつかのゲームを加えてもいいかも知れない。もっとも、これらも古い時代に伝来してきたことが逆に確実で、そういう意味からはむしろ「伝統」とは何か?という問題を孕む。

例えば麻雀は百年ほど前に伝来したものである。一方『モノポリー』は五十年ほど前には伝えられている。では『モノポリー』も伝統ゲームなのだろうか。それとも、五十年と百年の間のどこかに線が引かれるものなのだろうか。

『オセロ』が商標を取ったのは四十年ほど前だが、リバーシが「返し碁」などという名で日本に伝わったのは明治期であり、その後「源平碁」の名で広まった時期もある。筆者も子供の頃にやった覚えがある。リバーシがロンドンで特許を取ったのは1888年のことだから、百年を越えている。すると『オセロ』(リバーシ)は伝統ゲームなのだろうか。

トランプは、三度ほど日本に伝えられた。16世紀にポルトガルから、18世紀にオランダから、19世紀にイギリスやアメリカから。だから第三波から数えてさえ、軽く百年を越えている。だがトランプ全体を日本の伝統ゲームと言うのは、何となく抵抗がある。これはなぜなのだろうか。

上に挙げたゲームは、どれも日本ではそれなりに広く知られている。例えばいかに『カタンの開拓者たち』がブームになったとは言え、日本全国つつうらうらまで知れ渡り、子どもから大人までこぞってやるというようなことはない。一方、退潮傾向にあるとは言え、将棋を知らない日本人は少ないのではないだろうか。もちろんここで言う「知っている」は「存在を知っている」ということであって、「ルールまで理解して普通に指せる」ことを要求してはいないが。

だが、必ずしも伝統ゲームが、「よく知られている」とは限らない。例えば盤双六は江戸時代末には忘れ去られてしまったし、藤八拳は滅びてこそいないが、殆ど知られていないのではなかろうか。

つまり、一口に伝統ゲームと言っても、広く膾炙されているものあり、忘れられようとしているものあり、滅んでしまったものありで、その相は多様である。だから「伝統ゲームをプレイ」する場合も、そのゲームがどのような相にあるゲームかによって、意味づけは大きく異なることになるだろう。

似たような位置にあるのが「外国の」伝統ゲームである。

本来ゲームは、国家などとは無関係であるはずだ。インドで2から8世紀の間に生まれたとされる将棋(チャトランガ)は、国境も民族も越えて世界中に広まった。例えば古代ギリシアでアストロガロスと呼ばれていたダイスゲームは、殆ど同じものがブリューゲルの絵にも描かれ、モンゴルで現在も遊ばれていたりする。

ところが逆に、世界の多くの国で遊ばれているチェッカー(ドラフツ、ダーメ)は、日本ではあまり遊ばれない。こうした外国の「伝統」ゲームは、また少し違う相にあるとも言える。同様に日本で知られていないが外国では盛んな伝統ゲームの例としては、天九牌、マンカラ、などが挙げられる。

更に、外国の伝統ゲームで、衰亡しているものもあり、これらはまた別の相のゲームと言える。名前をあげても仕方がないかも知れないが、ファノロナ、スラカルタ、六博などがその例になろう。

こうした、あまり知られていない「外国の伝統ゲーム」を遊ぶことに、何か積極的な意味があるのだろうか。 そこを考察してみたい。

ゲームの概念は近年大きく変わってきた。現代日本で「ゲーム」と言えば、一般には電源ゲームと言ってよさそうだ。伝統ゲームは少なくとも電源ゲームではない。(例えばコンピュータ将棋などを、どう考えるかの問題はあるにしても。)そればかりか「ゲームの理論」などというときの「ゲーム」は、それ以前のゲームの概念より広く捉えている節がある。ではそうした現代において、「伝統」ゲームはどのような意味を持つのだろうか。

私はそれには二つの側面があると考える。一つはゲームの内実の面であり、もう一つはゲームの受容の面である。

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