伝統ゲームを現代にプレイする意義(第2回)


草場純

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ゲームには全てそのゲームの内実(実際のルール)と、受容(人々がそのゲームをどう受け入れているか)との二つの側面がある。
まず、内実の側面に目を向けて考察してみよう。

伝統ゲームの内実に関してはっきり言えることは、長い伝統を有しているゲームは無数のテストプレイが繰り返されているということである。

創作ゲームをプレイした人は誰でも、「このゲームはテストプレイしたんかいな」という感想を持たれたことが、一度ならずおありだろう。(笑) つまり創作ゲームにおいては、そのテストプレイは、絶対的に重要である。

ゲームのルールは端的に言ってアルゴリズムであるから、実際に走らせてみて初めて機能を発し、評価が可能になる。一部のシミュレーションゲームのように、シナリオだけを楽しむというのも、ありえるとは言え、ゲーム本来の姿ではなかろう。

創作ゲーム(どんなゲームでも最初は創作ゲームだ)は、テストプレイを通してデバッグされ、洗練され、ゲームとしての体をなす。しかもそれは様々な戦略をとる多様なプレイヤーに、ある程度繰り返しプレイされることが重要である。

世にあるゲームのうち、こうした要件を満たさないと思われるものは、決して少ないとは言い切れまい。その点、伝統ゲームは折り紙つきだ。

例えば囲碁は、少なくとも二千年のテストプレイが繰り返されたということができる。しかも数え切れないほどの人々によってである。尤もだからと言って完全に洗練されたルールになっているか、と言うと、必ずしもそうでないところが面白いのだが、それについてはまた後述しよう。

伝統ゲーム、特に現在でも盛んにプレイされている多くのゲームは、実質的にテストプレイが繰り返され、無数の淘汰をかいくぐって現存しているからこそ、伝統ゲームたりえている。こうしたことは広く「伝統」一般にかかわる現象であろう。しかもその本質がアルゴリズムであるゲームは、その他の歌舞音曲や芸能の類に比べて、それを取り囲む社会の変容から影響を受けにくいと考えられる。もちろん文化現象であるからには、影響を受けないということはありえないのだから、あくまで程度問題に過ぎないのではあるが、少なくとも現在もプレイされている伝統ゲームは、そうした淘汰圧を跳ね返して残存、あるいは変容してきた内実の結果である。

結論すれば、伝統ゲームの内実は歴史によって保証されているのである。

では、現在滅亡してしまった、あるいは瀕死の伝統ゲームはどうだろうか。

一例を挙げれば、中国の「六博」は、春秋時代から千年の命脈を保って滅亡した。現在でもゲーム盤は多数出土し、プレーの状態を活写する「俑」まで出てくるのに、ゲームのルールは不明と言わざるを得ない。こうした状況は生物の系統に似ている。一度滅んだ生物が復活することがありえないように、「千年の伝統」は消滅してしまったのである。ではその理由は何だったのだろうか。ゲームの内実の問題だったのだろうか、それとも受容の変化故なのだろうか。

それを考えるのに、もう一つ例をあげてみよう。

エジプトのセネトというゲームも、恐らく千年前後の歴史のあるゲームと考えられる。だが、現在これを日常的にプレイする人は恐らくいないだろう。ルールはかなり復元されているが、絶対確実というわけではない。だから以下は全て推察である。

セネトを復元ルールでプレイする限り、少なくとも私は面白いとは思えなかった。これを理解してもらうには、日本の絵双六を考えてもらえば分かりやすいだろう。少なくとも現代日本の大人が、ゲームの楽しみとして絵双六をやることは私にはあまり考えられないが、いかがだろうか。セネトを復元ルールでやる限り、それは運の要素が強く、絵双六より更に悠長で、私には退屈に思えた。セネトは絵双六と違って戦闘の要素があるので、その分実力の要素が加わるが、反面ゲームに時間がかかるのである。もしこの感想が私だけのものでないならば、セネトはその内実により滅びたのだろう。つまり一千年のテストプレイにより、淘汰されたのである。

現代的な感覚で断定するのは極めて問題があるのは自覚しつつ敢えて言うなら、古代エジプトではもっと面白い盤上ゲームがまだなかった、ということなのだろう。逆に言うなら、こうしたゲームが受容される社会がそこにあったということになる。それがどのような社会であったかを想定することは、ゲームから歴史へと遡る、新たな歴史的手法となりえるのかも知れない。ゲームの相は、社会の相を反映している(あるいはひっくるめて社会の「相」と見られる)と考えるわけである。

では滅んだゲームは全てその内実によるのだろうか? 実は決してそうは思えないのである。

これを考えるのに、現在瀕死の伝統ゲームについて見るのが極めて示唆的である。

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