伝統ゲームを現代にプレイする意義(第3回)


草場純

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「瀕死の伝統ゲーム」という表現は穏やかでないが、誰もプレイすることのないゲームは、信仰することのない宗教や、誰も演奏することのない音楽のように、滅亡したと言ってよいだろう。ならば、「殆ど忘れ去られた」ゲームは「瀕死」と言ってよいかも知れない。

音楽は楽譜があれば再現できるが、古代や中世の音楽は残された楽譜が少なく、記述も不完全で、たとえ再演されたとしても、それが古代・中世の響きであるかどうかは、検証の方法がない。宗教はもっと深刻で、一度忘れ去られた神々は、神像があっても教義が残っていても、蘇ることは難しい。エジプトの神々は、ピラミッドに、パピルスに、多く姿が残され、かつて莫大な数の人間の信仰を受け、崇められ、巨大な体系が築かれていたにもかかわらず、現在ラーを信仰するような人々は殆どいないのではあるまいか。聖書・聖典の類では、しばしば神々は人類に鉄槌を加え、これを滅ぼすが、現実には人類こそが、神々を滅ぼすわけである。もちろんエジプトの宗教が後世に与えた影響は無視できないし、現在でも信者がいないとは限らない。だが痕跡も残さず滅びてしまった宗教なら、復活することは考えられまい。

さて、ゲームは宗教よりは音楽に近く、ゲーム用具やきちんと記述された(ここが問題だが)ルールブックがあれば、再現はむしろ容易である。もちろんそうして再現されたものが、果たしてかつてのものと同様なのかは音楽と同じく検証は難しいが、ルールがアルゴリズムであるからには、宗教のように信仰心や、音楽のように感覚に依存するもの以上に、かなりかつてのものに近いと考えてもよいだろう。実際、「滅びたゲーム」とは、そのようなルールすら残されていないものを指すのである。

では「瀕死のゲーム」とはどんなものか。それは(完全にではなく)殆ど忘れ去られたゲームである。

こうした瀕死の伝統ゲームをプレイすることは、囲碁・将棋・象棋・チェス・双六などの、現在でも多くのプレイヤーがいる伝統ゲームをプレイすることとは、相当に意味が異なる。では、どこが異なるのか。「瀕死の」伝統ゲームをプレイすることの意味・意義は、奈辺にあるのだろうか。
そうした具体的なゲームの一例として、以下にククの例を挙げて考察してみよう。

ククはイタリアのカードゲームであるが、何度かたまたま知り合ったイタリア人に尋ねてみたが、知っていた人に会ったことがない。その意味で瀕死と診断してよいと考える。

このカードは、様々なゲームができる準汎用カードであるが、現在日本の一部に流布しているルールは「カンビオ」であり、これは1980年に法政大学の江橋崇教授によって紹介されたものであって、それ以前に日本で知っていた人は皆無であったと考えられる。江橋氏のそのまた元は、1979年にデンマークのラーセンが復刻したGNAVカードとそのルールである。ヨーロッパの事情は、私には正確には掴みかねるが、それまでは恐らくヨーロッパでも忘れられたゲームであったろうと推測されるし、現在でも決してよく知られているゲームではない。

前回述べたように、忘れ去られるには忘れ去られる理由があって淘汰されたと考えられるから、このゲームが誰の心も掴んで離さないほど魅力的なゲームであるはずはない。では、果たしてそんなゲームをやる意味はあるだろうか。

私自身が初めて「かるたをかたる会」でやらせてもらったときも、子どもの遊びという印象であった。農民が農作業のあと、村の酒場で一杯ひっかけながら、小銭を賭けて遊んだという話を聞くにつけ、ギャンブルゲーム、すなわち金でも賭けなければ面白くないゲームと感じた。何せ、手札はたった一枚。プレイもただ一度、それも隣と交換するかしないかを判断するだけなのである。カードは40枚だが、特殊な役を持つカードも僅かに6つしかなく、それもあまり意味がなさそうに感じた。カードには、それら役札を含めて単純にランクがついているだけで、スートの区別すらない。そんなゲームが面白いだろうか? 面白いはずがないではないか。

だが私は、マッセーンギーニ社(イタリア)のカードを手に入れ、自宅に帰ってボードゲーム仲間と何度か遊んでいるうちに、このゲームの面白さを文字通り「発見」していった。たった1枚の手札のただの1プレイが、「最も弱い札を持っていた人だけが負ける」という何でもないルール(負け抜けシステム)のために、うまく働くのである。初め冗長で半ば無意味と思えた役札の特殊能力も、実はよくできていることを知って驚かされた。誠にゲームばかりはやってみなければ分からない。そして私にとって何よりも衝撃だったのは、そのようなシステムのゲームを他に全く知らなかったという点であった。

私はシステム派なので、「ゲームの本質はシステムだ」と思っている。ここで言うゲームのシステムとは、「競りシステム」「神経衰弱(記憶)システム」「はげたか(バッティング)システム」「双六システム」などのゲームのジレンマを生み出す、最も基本的な仕掛けのことである。こうした基本システムでは全く新しいものを生み出すことは難しい。人間の考えることはどうしても類型化しやすいし、長い淘汰の歴史があるということは、逆に言えば様々なシステムが繰り返し試されたということであり、新しいものを生み出すための試行錯誤が既になされたということであるからだ。ある意味、新しいゲームとは、それまであった基本システムの、新しい組み合わせのことでしかなく、しかしそれも立派な創造であることは間違いない。

ところが私がククの面白さに気づいたとき、私はその類型を思いつくことができなかった。似たゲームがないのである。(厳密にはイギリスのランターゴーラウンドが唯一似たゲームである。だがランターゴーラウンドも極めてマイナーなゲームだ。)すなわち私は、古いゲームに新しいシステムを見出したのである。

瀕死の伝統ゲームを遊ぶ意味の一つが、ここにあると私は考える。忘れ去られようとするゲームは、逆に言うならその時点での社会との接点の薄いゲームである。だからその内実が知られていないという意味で、新しい。かつ伝統ゲームであるからには、それが遊ばれ続けた長い時間の中での洗練が期待できる。瀕死のゲームにつねに新しいシステムが見出せるというようなわけではもちろんないけれど、現在のゲームの持つ相との異質な相をそこに見出すことは少なくない。つまり瀕死の伝統ゲームというのは、それが生み出されたときの社会との相互関係すなわち相を、現代の相の中にもたらすタイムカプセルであるとも言えるのだ。

考古学者は古い墓の中から、時に思いがけず古代の見知らぬ文化を発見することがある。ごく最近も、出雲で室町時代の将棋盤が出土した。我々も忘れられようとしている古い伝統ゲームの中に、知られざる文化を発見しようではないか。そしてここが重要なのだが、本当に忘れられてしまったら(復元する手がかりがなくなってしまったら)、それは滅亡した生物同様、永遠に人類から失われてしまうのである。

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