伝統ゲームを現代にプレイする意義(第4回)


草場純

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前回のククに続いて、もう少し「瀕死」の伝統ゲームについて見ていこう。

ククについては、その復興・伝播についての重要な問題点がある。これについては私も当事者の一人なので、余人にはできない立ち入った考察もできるし、それをここに述べることは、記録という意味からもそれなりに重要であり、恐らく興味を持たれる方もおられよう。だがそれは、この論考のもう一つの柱「ゲームの受容」の段で詳述することにして、ここではひとまず他のゲームについて眺めていくことにしたい。

事柄の性質上、馴染みのないゲームが並ぶし、ルールについて詳しく説明する紙幅もなく、ご存知ない方には甚だ分かりにくく纏まりのない話になるかもしれないが、前以てご容赦願いたい。

まず、「黒冠」を扱おう。別名を「青冠」、「色冠」、「黒冠色冠」などとも言う。これは百人一首の遊びである。

まずこれが瀕死かどうかだが、私の調べたところ私以前にこのゲームを述べた文献は、一件しか見つからなかった。その後の精査で郷土史などの中に類似の遊びが触れられているものをいくつか見出したが、普通の出版物としては他にはなかった。例えばこのサイトの読者で「子供の頃、友達とやった。」とか「親から教わった。」というような人、即ち「伝承」した人はどの程度おられるだろうか。

百人一首の遊びといえば「かるた取り」と「坊主めくり」が主だろう。やったことはなくとも、そのような遊びを聞いたことのない日本人は、殆どいないのではなかろうか。特に「かるた取り」は黒岩涙香以来の「競技かるた」としてルールが確立し、また海外にはない(と思われる)独特のシステムとして、日本文化の一端を担っていると言っても過言ではなかろう。短歌という定型詩をゲームと結びつけたという意味でも極めて興味深い。これは後述する投扇興にも通ずる側面である。百人一首に関する出版物は、それこそ汗牛充棟とまでは言わなくとも、膨大である。ところが、私も片っ端からそのような出版物に目を通してみたが、一言半句も「黒冠」「青冠」を見出すことはできなかった。これを以って瀕死と言わずとも、虫の息ぐらいは言ってもいいのではないだろうか。

で、「黒冠」はどのようなゲームかをごく簡単に述べれば、4人でプレイするパートナーシップのカードゲームである。使用するのは百人一首の絵札(読み札)であり、字札(取り札)は使わない。絵札は描かれた人物の主に被り物により、黒冠・姫・坊主・矢五郎・縦烏帽子・横烏帽子と二枚の特殊札に分類する。これがいわばスート(トランプで言えばスペード・ハート・ダイヤ・クラブ)に当たるわけだ。しかもゲーム論的に興味深いのだが、すぐ想像されるようにこれは市販されている百人一種の種類によって、スート構成が異なるということである。こうしたアバウトさは、近代的なゲームにはあまり見られまい。これを一人25枚ずつ手札として配る。

ゲームの目的は手札を早くなくすことであり、これはパートナー同士のどちらが達成しても構わない。プレイの基本は、初めを除いて二枚ずつ出して行くが、一枚目は直前の人が出した種類(スート)と同じ種類を出さなければならない(受け)。二枚目(攻め)は任意であり、戦略的なことを言えば次の人の持っていない種類を出すとより勝ちやすい。一枚目で受けられなければ(あるいは受けたくなければ)パスをする(パスに追い込まれる)ことになる。

トランプでよく行われる大貧民に似ているとも言える。中国の天九牌のゲームにも似ていると言えば似ている。欧米に広く分布するトリックテイキングゲームにも少し似ている。北欧のキューカンバー、東欧のセドマにも、似ていると言えば似ている。だがそれらのどれとも違うのである。

「システム」という言葉をどのような深さで捉えるかは、なかなか難問である。このゲームをケーススタディーとして「システム」を考えるなら、手札を順に出して行って早くなくすという大きな意味での「システム」としては大貧民やウノ、ノイなどに似ている。だか基本的に二枚ずつ出し、隣との戦いの連鎖になっている「サブシステム」としては、どれとも微妙に異なる。ククほど劇的ではないが、私はここにまた新たな(サブ)「システム」を見出すのである。これを仮に「黒冠システム」と呼んでみよう。

前回も述べたように「瀕死」のゲームは、現在のメインストリームと接触の薄いゲームと言える。そこではメインストリームでは淘汰されてしまうシステムが、保存されたり確かめられたりしているわけである。つまり「瀕死」のゲームはシステムの保存庫であり、実験室だとも言える。

前回の繰り返しになるが、私はここに伝統ゲームをプレイする意味の一つを見出すのである。

面白いことに「黒冠システム」のゲームは、日本の各地に伝統ゲームとして散見される。代表的なのは、石川県能登町宇出津の「ごいた」である。これは元来は将棋の駒を使った黒冠である。ただ、「攻め」が一周続き、ここはよりトリックテイキングシステムに近いと言えそうだ。

他にも茨城には「ゴンパ」とか「丸将棋」と呼ばれた黒冠システムのゲームがあるし、東京(江戸)には「くろ大黒」という、黒冠のバリエーションがあったと言われる。北陸には「色てん」という、また少々細部の異なったゲームが、今も細々と遊びつがれている。

更に、明治期には「芋将棋」という黒冠システムのゲームが売られていたし、その元は江戸時代の「受け将棋」であったとも言われる。

またかつては、「合駒かるた」といって、花札でやるゲームもあったと伝えられている。

すなわち、少なくとも百五十年以上前から、黒冠システムのゲームは、文献に記録されることこそ少ないものの、地下水脈のように日本の各地に広まり、細々とではあっても遊びつがれてきたのである。

こうしたことは二つの面から興味深いと思われる。

一つは庶民史の側面である。そうしてもう一つは「ゲームのニッチ」の面からである。

夙に「歴史は支配者の歴史である」と言われて久しい。正史を編纂するのは時の支配者であるし、史料も圧倒的に「そちら視点」が多く残される。社会システム自身が為政を体現したものであるともいえよう。それ以外の歴史の目は乏しいといわざるを得ない。これに対して、「遊び」は、そうした区別なく楽しまれ伝えられ、息づいている。つまり遊びやゲームは、歴史を今までと違った視点で切り開く可能性を持っているわけである。ここにもう一つの、「伝統ゲームを現代にプレイする意味」があると、私は考える。

もう一つの「ゲームのニッチ」とは、生物学で言うニッチ、すなわち生態学的地位ということである。

安易な比喩やアナロジーは危険であるのは承知のうえで、私はゲームは生物のように、進化・分化・興隆・衰退・滅亡を繰り返すと考えている。「ゲームの生態学的地位」すなわち、ゲームのニッチは、それを推し進めた私の一つの仮説である。すなわち「ゲームのシステムは、人類の遊び時空間の中で、他と区別される地位を持つ」ということである。これは単なる仮説であり、ここでわき道に逸れると本題に戻れなくなるので、深入りは避け、一言だけ言及しておくことにする。

人類が、深海における熱湧水に新しい生態系を見出したのはそんなに古いことではない。はおり虫(チューブワーム)は、硫化物の分解という我々好気生物の営みとは全く別のシステムによってエネルギーを得、子孫を残してきた。

黒冠システムのゲームは、様々なバリエーションが日本の各地に人知れず少しずつ残っている。私には「黒冠システム」のニッチを、いろいろなゲームが襲い分け合っているように感じられるのだが、いかがだろうか。

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