ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(都甲幸治、久保尚美訳)、新潮社


【新作紹介】ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(都甲幸治/久保尚美訳、新潮社):SFとRPGと魔術的リアリズムのハイブリッドが生んだ新しい文学!
 岡和田晃


オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (Shinchosha CREST BOOKS) [単行本] / ジュノ・ディアス (著); 都甲 幸治, 久保 尚美 (翻訳); 新潮社 (刊)

 SFとRPGと魔術的リアリズムが衝突し、未曾有の大爆発を遂げた!
 英語とスペイン語、英米文学の伝統とラテンアメリカ文学の壮大な構造のまさにハイブリッド!
 『オスカー・ワオの短く凄まじい生涯』The Brief Wondrous Life of Oscar Wao,2007.
 21世紀文学に新たな1ページを刻む傑作の登場である。
 さあ叫べ、「シャザム」と! 君もキャプテン・マーベルに変身するんだ!

 オスカー・デ・レオン。ドミニカにルーツを持つ青年。女の子が大好き。だけど体重は140キロ。スポーツはからきしダメ。それでも彼は愛を求め、出逢う女の子に恋をしては撃沈を続けます。思い返せば幼稚園時代はモテモテでした。でも今は姉から「変わらなきゃ童貞のまま死ぬことになる」、「エロ本を捨てなさい」と説教される状態で、大学を出て教鞭をとるようになっても生徒から『スター・ウォーズ』のジャバ・ザ・ハットに引っ掛けて笑いものにされる始末。

 しかし彼は単なるボンクラではありません。彼には確たる目標があったのです。それは素晴らしい小説を書いて「ドミニカのJ・R・R・トールキン」になること。9歳で『指輪物語』に触れ、高じてトールキンが発明したエルフ語を書けさえした(!)オスカーは、黄金期のSF作家のみならず、グレート・オールド・ワン、すなわち「もうみんなが忘れかけた」E・E・「ドク」・スミスやオラフ・ステープルドン(『最後にして最初の人類』や『スター・メイカー』で有名ですね)をさえ、むさぼり読むのです。そして彼のお気に入りの映画は、小松左京原作の『復活の日』。

 また彼は熱狂的なRPG者でもあり、家族に「一生をロールプレイング・ゲームの製作に捧げる」と宣言します。D&Dサポート雑誌「ドラゴン・マガジン」を購読し、メタル・フィギュアにせっせと色を塗り、「次のゲイリー・ガイギャックス」になることを夢見て、ファンタジー・ゲームズ・アンリミテッド社に超能力ものRPG『サイ・ワールド』の一部として自作モジュールの採用を検討されるところにまでこぎつけます。

 そして、デブのオスカーでも、ひょっとしていい関係になれそうな女の子たちも現れます(ヒント:オスカーはオルタナティヴ・ロックも大好きなのです)。

 しかし、なぜか決まって彼には不幸が訪れます。現に80年代が進むにつれて彼の心は荒んでいき、世界の終末を待ち望むようになるのです(オスカーは『ドラゴンランス』のレイストリンがお気に入り!)。

 オスカーは、アラン・ムーアのグラフィック・ノベル『ウォッチメン』を貪り読み、破滅もののRPG『アフターマス!』を遊びたがる粋な奴。そんなオスカーが他人とは思えない人は、おそらく筆者のほかにも多いでしょう(*1)。そして話が進み、オスカーとその家族の様子を追ううちに、読者は冒頭で説明される「フク」の実際を目の当たりにすることとなるのです。

 「フク」。正式には「フク・アメリカヌス」。

 小説の冒頭で説明されるそれは、広義には何らかの呪いや凶運を、狭義には新世界の呪いや凶運を意味する言葉です。『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』において、この「フク」はラテンアメリカ史上最悪の独裁者ラファエル・トルヒーヨと、オスカーの家系との呪われた関係性を象徴する言葉として描き出されます。

 さて、手前味噌で恐縮ですが、筆者はボード/カードゲームの雑誌「GAME LINK」Vol.3(Shoot the Moon)の連載「戦鎚傭兵団の手柄話」において、政治を題材にしたゲームについての四方山話を書いたことがあります。

 ここでトルヒーヨについても簡単に触れましたので、その部分を紹介しましょう(*2)。

まずは(注:ボードゲーム)『フンタ』だ。南米の貧しい小国バナナ共和国を牛耳る軍事独裁政権の閣僚となって、先進国から施されたODA(政府開発援助)をかすめとってスイス銀行の秘密口座に入金できた額を競う最低なゲームだ。うまく大統領に当選すれば、好き勝手に援助金を分配できるが、根回しのさじ加減を間違うと、反対派にクーデターを起こされちまう!

 つい最近まで南米は、このゲームに出てくる政治家がヌルく思えるような連中でごった返してたんだぜ。例えばドミニカで30年以上も独裁を敷いていたラファエル・トルヒーヨ。クーデターを起こして将軍から大統領へ成り上がったトルヒーヨは、年金や都市計画に着手しつつ、国土の約3分の1を速やかに私物化し、首都の名前をトルヒーヨと改めるわ、市内に自分の銅像を1,200体あまりも立てるわ、新聞の第一面に大きく「ビバ、トルヒーヨ!」と書かせるわ、国内最高峰の山をトルヒーヨ山と改名するわ、やりたい放題。砂糖やコーヒーなど国内の主要産業は一族で独占。国内のハイチ人を1日に2~3万人も虐殺。あげくの果てには、支援者に自らをノーベル平和賞へ推挙させすらした(さすがに却下されたが……)。

 とまァ何もかも桁外れ。まさに神話的人物だ。『ダンジョンズ&ドラゴンズ』などのファンタジーRPGでは、極限まで成長したキャラクターは神に近い存在となるが「混沌にして悪(ケイオティック・イーヴィル)」のキャラクターの成れの果てを見た気分だぜ。

(「戦鎚傭兵団の手柄話」第2回「同志(タワーリヒチ)、次回オリンピックはシベリアでいかが?」、「GAME LINK」Vol3)

 

 誇張ではないかと思われる方もおられるでしょうが、この独裁者が(諸説分かれる部分も含まれますし、無数の伝説を残してもいますけれども)南米において史上最悪とも言われる圧政を敷いてきたのは歴史的な事実なのです。彼はコロンビアの作家ガルシア=マルケスの長編小説『族長の秋』に登場する独裁者のモデルになったとも言われていますが、ガルシア=マルケスは、この独裁者を荒唐無稽なまでに神話的な人物として描き出します。

 その際に彼の筆は、いわゆる近代小説のお約束――ストーリーラインの一貫性、登場人物や時間軸の同一性――といった規範をやすやすと飛び越えるのです。近代小説の基盤が形成されたのは、バルザックやドストエフスキーが活躍した19世紀であると言われていまが、ここからわかるのは、トルヒーヨのような神話的人物は、19世紀的な方法論では到底、描き尽くせないということでしょう。

 しかし『族長の秋』以降の世代を生きるジュノ・ディアスが新しいのは、神話的人物としてのトルヒーヨと、トルヒーヨの治下で不当な弾圧を受けた人たちの生々しい「その後」を、きちんと切り結ぼうとしていることです。

 その際に必要不可欠だったのが、ほかならぬSFの、そしてRPGの想像力でした。

 SFとRPGの想像力を小説でハイブリッドさせた作品というと、古川日出男の『アラビアの夜の種族』を思い浮かべる方も多いでしょう。『アラビアの夜の種族』はコンピュータRPG『ウィザードリィ外伝2 古代皇帝の呪い』(と、同作のノベライズ『砂の王』)を母体とすることで、『千夜一夜物語』やガルシア=マルケスの『百年の孤独』が体現したような物語の複数性と、「始原の記憶の結晶」を追求する「迷宮志向」(それぞれ紀田順一郎)を文学の形で発展させました。

 一方の『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』は、『アラビアの夜の種族』とはまた異なるアプローチをもって、SFとRPGの方法を、新たな文学技法として積極的に取り入れる作品だと言えるでしょう(*3)。

 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』の原書には随所にスペイン語が挿入されていますが、SFやRPGの専門用語が、同じくらい大量に盛り込まれてもいます(*4)。そして、これらの固有名詞は実に効果的な配置がなされています。例えば『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』において、トールキンの『指輪物語』や『シルマリルの物語』に登場するサウロンやモルゴスといった強大な悪役の比喩をもって、トルヒーヨは語られますし、その暗殺の模様はRPGの戦闘のように「ヒットポイント四〇〇点ぶんのダメージを受けた」と説明されます(いや、本当に)。

 あまりにも馬鹿馬鹿しいって?

 しかしトルヒーヨがもたらした「フク」は、そして「フク」がもたらした歴史の総体はかように馬鹿馬鹿しくも大仰なもので、古典的なリアリズムの枠組みには収まりきらないもの。それゆえこの表現には確かな意味があるのです。

 高橋志行氏は「ロールプレイング・ゲームの批評用語」において、RPGにおける〈システムデザイン〉〈マスタリング〉〈プレイング〉をそれぞれ融合させた「共同ゲームデザイン」という考え方を提示しました。

 増田まもる氏が述べたように、この「共同ゲームデザイン」という考え方は、物語論(ナラトロジー)の立場から見れば、いわば既存の物語像の再解釈と理解することが可能です。

 つまり『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』はいわば「共同ゲームデザイン」の方法論で、トルヒーヨの独裁が生み出した惨劇と、惨劇の後に続く歴史を徹底して読み替えようとする試みにほかならないと筆者は考えています。

 「共同ゲームデザイン」を物語の中に取り入れる際には、例えばゲームブックのようなパラグラフ選択形式を持ち込むなどといった方法がありますが、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』とはそうした方法とはひとあじ異なるアプローチをとっています。それはつまり、「共同ゲームデザイン」の構造を、小説という一つの大きな箱の中に埋め込みつつ、プレイヤー×ゲームマスター間の「作者-読者」という関係性を、登場する各々の固有名詞のレベルにまで敷衍させている点にあります。

 そしてこの点は、RPGを生ぜしめた諸々の条件とも密接に連関するもので、RPGと、モダニズムを基体とした文学様式(例えばニューウェーヴSFやラテンアメリカ文学)の交点はここにこそあると筆者は考えていますが、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』は、その交点を体現した重要な作品だと言えるでしょう。

 お手に取ってそのことを確認してみて下さい。

 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』の第1章は1974年から始まりますが、これが『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の発売と同じ年に設定されているのは、おそらく偶然ではないというのが筆者の見解です。いや、本書は立派なD&D小説です。作中では『アドバンスド・ダンジョンズ&ドラゴンズ』のとある著名モジュールがプレイされる光景が語られますし、そのモジュールに登場する敵役にも、形象としての意味を見出すことは難しいことではありませんから。

 ところで、メキシコの作家・批評家であるカルロス・フエンテスは、著名な批評書『セルバンテスまたは読みの批判』の末尾において、次のように記しています。

 しかし事象は万人のものではなく言葉は万人のものである。そして言葉は共有財産のうちまず第一に、そして本然的に希求されるものである。したがってミゲル・デ・セルバンテスもジェイムズ・ジョイスも、彼らがセルバンテスやジョイスではなく、万人である限りにおいて言葉の所有者――詩人――になれるのである。詩人はその行為――〈詩〉――の後に生まれる。〈詩〉がその作者を創造する、ちょうどその読者を創造するように。セルバンテス、万人の読み。ジョイス、万人の記述。

(『セルバンテスまたは読みの批判』、牛島信明訳、水声社)

 万人の読みと、万人の記述。フエンテスのこの言葉は、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』にも当てはまるのではないでしょうか。

 そのうえで『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』は、語りの「ポリフォニー」(ミハイル・バフチン)を意図的に組み入れた作品でもあり、スージー&バンシーズを愛聴するパンク娘ロラのエピソードもあれば、ロラと激しく対立する母親のべリシア・カブラルの悲劇(*5)、さらにはジュノ・ディアスの過去作『ハイウェイとゴミ溜め』にも登場したユニオールなどが、さまざまな「声」をもって語り、あるいは語られる対象となります。

 こうした多声性は、SFやRPGの様式を用いて再解釈された「万人の読み」「万人の記述」と立体的に重ね合わされることになるのです。

 ですから……。

オスカーは千回目の『復活の日』を見て、日本人の科学者がティエラ・デル・フエゴについにたどり着き、最愛の人と再会するシーンで千回目に泣いた。オスカーは、おれの推測では百万回目の『指輪物語』を読んでいた。それは彼が初めて見つけたときから、最愛の書物であり最高の安らぎだった。オスカーと『指輪物語』の出会いは九歳のときで、途方に暮れ孤独だった彼に、仲の良かった図書館員が言ったのだった。ほら、これを読んでみたら。そしてこの一言が彼の人生を変えた。三部作をほぼ最後まで読み通し、「そして遠いハラドから……半分トロルのような黒い人間たちがいました」という文章まで来てオスカーは中断しなければならなくなった。彼の頭と心があまりにも痛んだのだ。

(『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』、都甲幸治/久保尚美訳、新潮社)

 

 ここで『復活の日』を観て涙するオスカーは、あなたの姿であり、私たちの姿でもあるのでしょう。

 まだの方は、ぜひ『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を読んで下さい。惹句に騙されてはいけません。この小説は、単なる「オタク文学」などではまったくないのです。

 小説の終盤で告げられる「私たちは一千万人のトルヒーヨなのよ」という言葉に、あなたはどう向き合いますか?

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (Shinchosha CREST BOOKS) [単行本] / ジュノ・ディアス (著); 都甲 幸治, 久保 尚美 (翻訳); 新潮社 (刊)

 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』はThe John Sargent Senior First Novel Prize、The Dayton Peace Prize in Fiction、全米批評家協会賞、ピューリッツァー賞をそれぞれ受賞(2008年)。35もの“本年最高の本”リストに掲載、Lev Grossmanによって、「タイム」誌の2007年のベスト小説10のうち第1位に選出されました。

 Analog Game Studiesでは、今後とも『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』についての記事を掲載する予定です。


【脚注】

(*1)友人のアメリカ人ゲーマー/SFファンに尋ねたところ、「この主人公は私だ」との返事が! 彼はジュノ・ディアスとほぼ同世代です。
(*2)「戦鎚傭兵団の手柄話」はライター/翻訳家集団・戦鎚傭兵団の面々をデフォルメしたアイコンを傍らに配し、アナログゲームの題材となった背景をなるべく泥臭い形で紹介するのが趣旨の連載です。筆者は「頭の悪そうなトロール」風の似顔絵を描いてもらっていたので、ここではキャラクターに合わせた乱暴な文体を採用しています。
(*3)『百年の孤独』は寒村マコンドとブエンディア一族の運命を魔術的な文体で濃縮させた作品です。あらゆる神話的な状況が巨大な器の中に放りこまれ、撹乱され、放り出されます。人間は哀しいまでに愚かで儚く、死者は蘇り、やがて禁じられた相姦の果てと「豚のしっぽ」を最後に、マコンドもまた塵に掻き消えてしまうのです。
 テクストを通してその一部始終を目撃した私たちは、小説に刻まれる出来事を、歴史の、または人間の縮図であるように受け止めざるをえませんが、仮に『百年の孤独』で描かれる人間が卑小な「個」に過ぎないとすれば、一方の『族長の秋』に登場する独裁者はそうした「個」としての人間を飲み込み、蹂躙しながら際限なく膨れ上がり、傍目には神にも見紛う巨大な存在として描出されるに至ります。
 しかしガルシア=マルケスの筆は冷酷にも独裁者が抱える孤独を、すなわち無限の権力を持つ存在すら「個」にほかならないということを、容赦なく浮き彫りにしていきます。『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』においても、この「個」の問題は、繰り返し問い直されていると言えるでしょう。
(*4)日本語版では、それらの専門用語にはすべて詳細な割注が添えられています。また、邦訳のある作品の表記は原則的に邦訳に準じたものになっています(E・E・「ドク」・スミスと「ドック」サヴェッジ)。割注は、文脈をご存知ない方でも小説を楽しんでいただけるように整備したものですが、おなじみだと思っていた固有名であってもびっくりするような使われ方をなされていることが、割注をご覧になればわかるでしょう(『マトリックス』とかね)。
(*5)母親について語れられる章は「べリシア・カブラルの三つの悲嘆」という章題がついていますが、ひょっとするとこれはフィリップ・K・ディックの『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』にかけているのかもしれません。