【レビュー】門倉直人『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか ~言葉(ことのは)の魔法~』(付記:SF乱学講座「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」のお知らせ)


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【レビュー】門倉直人『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか ~言葉(ことのは)の魔法~』(付記:SF乱学講座「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」のお知らせ)

 公成文 

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シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか ~言葉の魔法~ [単行本] / 門倉 直人 (著); 緒方 剛志 (イラスト); 新紀元社 (刊)

 日常には、今も魔法が潜んでいる。

 朝松健の著作であったと思うのだが、あらゆる魔術の根源的要諦は「現実と寸分たがわぬヴィジョン」を創り上げることだ、という主旨のことをどこかで読んだ。そのような〈ヴィジョン〉を駆使することで、「現実」を随意に操作出来るものという。我々の知る魔術の儀式や道具立ては、〈ヴィジョン〉を現実に近づけるための、いわば方便であり補強であるらしい。これは、裏を返せば、〈ヴィジョン〉の構築に寄与すれば、何ごとによらず、「魔術」の道具であることを意味する。世の中には、ソードやワンドのような魔術師の道具が、人知れず蹲(うずくま)っているのである。                   
The Original Rider Waite Tarot Pack [カード] / Arthur Edward Waite (著); United States Games Systems (刊)                

 そして多分「言葉」こそは、そのような道具の筆頭である。人が何かを思い浮かべる時、多くは「言葉」による補強を受ける。我々が“運命”・“虚数”・“未来”と呼ぶ実体のないものまで〈ヴィジョン〉の内に収められるのも、言葉の力ゆえだ。

 「言葉」こそは、我々の世界を“世界らしく”在らしめている強力な魔法の道具なのである。

 すると、「言葉」によって〈ヴィジョン〉を細密に描き出し、その世界をありありと体感しようとする点で、RPGという行ないもまた、魔術の別名に他ならないということになる。

 勿論、その担い手達がどれほどRPGの魔術的側面を意識していたかは、別であるとしても。実際、キャラクター達に願望を仮託して遊んでいたつもりで、その実、そのことがそのまま魔術であったなどということは、普段想像すらすまい。

 だがここに、RPGのこのような側面をあやつる、一人の「魔術師」がいる。

 門倉直人氏である。

 門倉氏といえば、初の国産ファンタジーRPGシステム『ローズ・トゥ・ロード』を世に送り出し、以後もRPG界のトップランナーで在り続けている「常なる先駆者」であり、いまさら本稿の筆者が喋々するのも憚られる、いわば「顔」の一人である。       

 その門倉氏の代表作の一つ『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』(Bローズ)の、あの「マジックイメージ」を駆使した魔法システムは、言うなれば「記号」を用いた〈ヴィジョン〉の構築をその原理としている。「言葉」もやはり「記号」の一部であるから、Bローズも、先程来述べてきたような魔術のあり方と直結すると言って良い。また最近作『ローズ・トゥ・ロード』(Wローズ)は、これ正しく、言葉と〈ヴィジョン〉の魔術が、そのままRPGと化したかのようなシステムである。

ローズ・トゥ・ロード (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / 門倉 直人 (著); エンターブレイン (刊)

 すなわち、ともどもに魔術的産物であって、我々はこれらのプレイを通して、本当に「魔術師の弟子」として振舞っていたということになるのである。それと悟らず(悟らせず)、知らず知らずに。

               
 さてそうなると、気になるのは、このような門倉氏の仕掛けた魔法を深く、しかも「魔術師」の地平から見つめる術はないのか、ということである。我々は今までその片鱗を、意識せずに垣間見てきたに過ぎないが、意識的にそれを観察すれば、その秘訣を盗みとることが出来るかもしれないからである。そもそも、己の知らぬ魔法を知りたい・使いたいという強い欲求は、「魔術師の弟子」として素直で自然なものではないだろうか?

魔法使いの弟子 (ちくま文庫) [文庫] / ロード ダンセイニ (著); Lord Dunsany (原著); 荒俣 宏 (翻訳); 筑摩書房 (刊)

 それを叶える書物がある。門倉氏の新著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか~言葉の魔法~』である。                  

 門倉氏は同書で、「時」とそれに連なる魔法を通して、日常の中に今も潜む魔法の姿を鮮やかに解き明かしている。考えてみると、「魔法」のわざを見るのに、これほど適した題材もそうはない。                
 そもそも時は元来切れ目のない一筋のつらなりである。年・月・日、春・夏・秋・冬といった時の区分は、あくまで人間側の都合で切りわけた〈ヴィジョン〉であって、その分ほんのささいなことで簡単にうつろってしまう。  

 そこで仮設した〈ヴィジョン〉がうつろわぬよう、言葉とイメージとをより強く散りばめるために、いわば〈ヴィジョン〉をつなぎとめる〈アンカー〉として、年中行事や記念日が設けられ、旬や風物が選び取られてゆく。日頃意識こそしないが、そうやって我々の周りに魔法が張り巡らされることで、「時」は保たれているのである。自然、「時」の周囲を掘り起こせば、隠れた魔法の姿が見えてくる。

 例えば、冬の章「豆」の段。門倉氏はいにしえ以来設けられてきた「年」の切れ目(新暦旧暦それぞれ二回の正月と小正月、節分)が一年に「年越し」を5回(!)もたらしていることを指摘する。さらにそれらを聖別し、安定させる<アンカー>として「豆」――節分の「豆」、小正月の「小豆粥」、おせち料理の「黒豆」――が用いられていること、しかもそれが西洋のトゥエルフス・ナイトとトゥエルフス・ケーキの関係にも共通して言えることを述べている。これらの事象の裏には、本来夏至や冬至に比して体感しづらくうつろいやすい「年」の切れ目を、「豆」の力に依って保守しようとしてきた人間たちの営為が窺われるであろう。

 あるいは、全巻の冒頭、春の巻「花見の魔法」の段。門倉氏は白川静や高崎正秀の説を引きながら、「サクラ」という名の語源を、「サ(田・稲の神霊)」あるいは「サ(然=それ=名無き大いなる神霊)」の「クラ(座=依ります所)」というあり方に求める。その上で、桜を眺めそれと交わる花見のうちに、新たな年の豊穣を噛み締める「命」の祭としての側面を見出し、「生も死も、人も木も、一切を溶けあわせ精霊化する」という「花見の魔法」の存在を説いている。

 また、秋の章「トミノの地獄」の段で門倉氏は、口に出して唱えると死期を早めると巷で囁かれてきた西条八十の同名の詩を繙き、そこにちりばめられた「魔的象徴」の秘密を探っている。一見、「時」と関わりないように見えるこの段、実はこの詩の象徴の背景を手繰ってゆくと、その裏に潜む、ある「時」の魔法が浮かび上がってくる…という構成になっていて、タイトルに据えられるべきその「時」の魔法は、あえて段名に謳われていない。取り上げられた詩は口に出してはならず、「時」の魔法は密やかに示されるのみ。これは、J.K.ローリング『ハリーポッター』シリーズにおいて、魔法使い達が「例のあの人」「名前を言ってはいけないあの人」等と闇の帝王の名を口にしないのに似る。言葉は時として悪しき世界すら現前させるがゆえに、用いてはならぬこともあるのである。

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 このように、人間が「時」を巡らす/廻らすためにいかなる魔法を使い、それがどのように組み上げられ、その中で生きてきたかを、門倉氏は4章30段にわたって、詳細に明らかにしている。大魔導師の面目躍如であろう。卒業論文や文芸批評であれば、30段のうちの1段でも半段でも探れば、一本書けてしまえるような、ある意味で非常に危険な一書。RPGのセッションやらシステムやらの種ならば、一生分が篭められているような、実に眩い一冊である。

 ただし、弟子たちよ、心せよ。何しろ大いなる魔術師が力を注いだ本である。伝え聞くところによると、魔術師たちは、秘伝を記す時、初学者が使い方を誤らぬように、全てを明かさぬものという。     

 例えば、本稿の筆者の辿り得たところで言えば、先程も述べた、「豆」の段。実は門倉氏が同書の中で多く引く『今昔物語集』の中に、「霊」を「打蒔ノ米」(=米まき)で撃退した話がある。ここにキョンシー映画でのもち米のあり方や、結婚式のライスシャワーの存在などを考え合わせると「豆まき」にならぶ「米まき」、もっというならばそれらを包み込む「五穀」の魔法の系譜が想像されるが、それについてはいまだ詳らかにはされていない。

 どうやら、先に触れた「トミノの地獄」の段での隠し題同様、うかつに読み手が手をつけて、後々害にならぬよう、門倉氏が意図的にその奥義を明らかにしていないところが、あちらこちらにあるものらしい。

 本を手引きにより深く探っていくことで、初めて門倉氏の地平にたどり着く。そのように、同書は作られているのであろう。

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 同書は、現代の奇書である。同書を繙き門倉氏の仕掛けた魔法を味わえば、きっと、俗塵に染まった耳目を洗い濯ぎ、新たな「世界」とその魅力を発見することになるだろう。それは一種の生きる力の復活を意味する。      

 そして、多分そのような生きる力を蘇らせることこそが、古代の人々が「四海安かれ、四時安かれ」と願った、その思いと祈りとを引継ぎ、次代に伝えていくことにつながってゆくのではないか-とは、本稿の筆者が、規模小なりとはいいながら、未だ安らかならざる被災の地に住むために思う、僻事であろうか。 

 ともあれ、このような奇書が世に現れたのは誠に慶事である。本稿の筆者の怠慢ゆえ、あまりにも紹介の遅きに失した次第であるが、なに、この本の価値は、そのようなことで揺らぎはしない。今は諸共に、この新たなる名著の出現を言祝ごうではないか。

シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか ~言葉の魔法~ [単行本] / 門倉 直人 (著); 緒方 剛志 (イラスト); 新紀元社 (刊)

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 門倉直人さまの講演会が、来る10月2日に東京・高井戸で開催されます(SF乱学講座10月の回)。もと遊演体代表、小泉雅也さまとの共同講演となります。

※SF乱学講座は、40年の伝統がある市民講座で、誰でも聴講が可能です。事前予約も不要ですので、直接会場へお越しください。

 来月号の「SFマガジン」、そしてSF乱学講座ホームページにて告知文が掲載される予定ですが、Analog Game Studiesをお読みの方へ、お先にお知らせいたします。

SF乱学講座10月の予定

10月2日(日)

タイトル:日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から

講師:門倉直人氏(遊戯創作/文筆業)、小泉雅也氏(元遊演体代表)

参考図書:門倉直人著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか』(新紀元社)、竹内薫著『世界が変わる現代物理学』(ちくま新書)
シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか ~言葉の魔法~ [単行本] / 門倉 直人 (著); 緒方 剛志 (イラスト); 新紀元社 (刊)世界が変わる現代物理学 (ちくま新書) [新書] / 竹内 薫 (著); 筑摩書房 (刊)

開催日時:2011年10月2日 日曜日 午後6時15分~8時15分
参加費 :千円
会場  :高井戸地域区民センター3F

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5302/



★『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか』のもととなった記事が連載されていた「Role&Roll」誌公式Twitterでご紹介いただきました!
※2011/8/30 一部内容ミスのご指摘を受け、修正。