Analog Game Studies第9回読書会報告&各種活動報告

岡和田晃

2012年12月某日、Analog Game Studiesの第9回読書会が開催されました。課題図書は、池田雄一『メガ・クリティック』(文藝春秋)、そして、第8回から引き続き、ケイティ・サレン&エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)を使用しました。

メガクリティック―ジャンルの闘争としての文学 [単行本] / 池田 雄一 (著); 文藝春秋 (刊)ルールズ・オブ・プレイ(上) ゲームデザインの基礎 [単行本] / ケイティ・サレン, エリック・ジマーマン (著); 山本 貴光 (翻訳); ソフトバンククリエイティブ (刊)
池田雄一『メガ・クリティック』は、現在の文芸ジャーナリズムを取り巻く言説が――とりわけブロックバスターを求める状況のうちで――狭いジャンル論の枠組みのなかへ自らを回収しようする状況が存在するとして、そうした自体がいかなる構造のうちに成り立っているのか、きちんと見極める眼差しのあり方を文学作品の読解を通じて提示する書物でした。参加者は本書の言説の背後にはどういった文脈があるのかを確認し、ゲームにも強い影響を及ぼしている「ジャンル」について、それぞれの考えを話し合いました。

サレン&ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』については、かつてAGSでも簡単に紹介したことのあるゲーム批評の基本書ですが、その精読の続きを行ないました。今回は8章から14章までのレジュメが作られ、密度の高い討議が交わされました。

・Analog Game Studies顧問の草場純氏が、台湾製のカードゲーム『Desire』の日本版ルールを作成しておりましたが、公式サイトから無料ダウンロード可能になりました。ご興味のある向きはぜひダウンロードしてみてください。

・Analog Game Studiesでは、市民講座「SF乱学講座」に協力し、関連記事を掲載してまいりました。「SF乱学講座聴講記:蔵原大「ウォーゲームの歴史――クラウゼヴィッツ,H.G.ウェルズ、オバマ大統領まで」」(齋藤路恵)「SF乱学講座聴講記 門倉直人、小泉雅也「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」」(田島淳)を参照いただけましたら、幸いです。
そして2012年2月3日には、齋藤路恵氏が「日本における同性愛”者”の発見/発明」と題した講演を行ないます。ご興味のある方は、ぜひお越しください。詳しくはSF乱学講座公式サイト、または「SFマガジン」2012年3月号の告知をご覧ください。

・2012年1月13日に、岡和田晃が「Role&Roll」100号記念コンベンション「R-CON100」にゲームマスターとしてゲスト参加させて頂きました。「Role&Roll」Vol.100には、Analog Game Studies1周年企画として「ゲームブック温故知新――「ブックゲーム」という冒険」に多大なご協力を頂きましたフーゴ・ハル(HUGO HALL)さまの新作ブックゲーム「タダ乗り師ホーボーの攻防」が掲載されています。要チェックです。
Role&Roll Vol.100 [単行本] / アークライト (編集); 新紀元社 (刊)
・日本SF作家クラブ公認ネットマガジン「SF Prologue Wave」にて、『エクリプス・フェイズ』のシェアードワールド小説企画第2期が開始されています(http://prologuewave.com/archives/2351)。AGSメンバーは翻訳チーム参加、雑誌記事チェック、イベント支援などの協力をさせていただいております。
・アナログゲーム専門店Role&Roll Station秋葉原店にて、2012年2月16日に『エクリプス・フェイズ』体験会が開催されます。まだ参加者を募集しておりますので、ぜひお越しください

・AGSが協力させていただいております、『ウォーハンマーRPG』体験会の第9回が、Role&Roll Station秋葉原店にて、2012年2月11日に開催されます。すでに定員に達し、締めきりましたが、今年も『ウォーハンマーRPG』体験会は開催して参りますので、実行委員会のウェブログをご確認ください。参加者アンケートをはじめ、もろもろの関連情報が掲載されております。ぜひお立ち寄りください。

その他、AGSメンバーは個々の名義で商業誌にて執筆活動、個別に活動を行なっております。代表・岡和田晃は、2012年1月18日に、ジュンク堂書店池袋本店で、『まだ間に合う「ハヤカワSFコンテスト」』トークショウの司会をつとめました。その他、新聞やゲーム専門誌、各種文芸誌、学術出版社の雑誌等に寄稿・協力しています。詳しくは岡和田晃の個人サイト「Flying to Wake Island」をご覧ください。

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第14回)

草場純

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◆第13回はこちらで読めます◆

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繰り返し述べているが、伝統ゲームはその性格上、滅びたゲームと重なることが多い。今回取り上げる漢詩かるた(詩かるた)もそういう意味では代表的なものである。
カルタは教材として有用であるうえに、(日本人なら)だれもが思いつき、ルールも難しくはなく、少々の努力で製作できるので、現在でも様々なものが作られている。漢詩かるたも、ほかのカルタらに比べれば多い方ではないが、作られている。だがもちろんここで扱うのは、そうした新作ではなく、伝統的なものである。
今回は、伝統ゲームとしての漢詩かるたの盛衰を眺めゆくことで、「ゲームの受容」という問題を考察してみたい。特に焦点を当てるのは、政治(情勢)とゲームの受容の問題である。

伝統的な漢詩かるたは、江戸時代には武家の間でそれなりに遊ばれたらしい。なにせ滅びたゲームであるので、詳しい史料が少なく、詳細は分からないが、例えば白河藩などではかなり盛んに遊ばれたと伝えられる。だが、現在この伝統的な漢詩かるたが残っているのは、桑名の鎮国守国神社だけである。私の調べた限りでは、他には伝統的な漢詩かるたは全く残っていない。桑名には少々申し訳ないが、私が「滅びた」ゲームと言う所以である。
では、どうして漢詩かるたはこうも衰退したのだろうか。もちろん背景には明治維新以来の「漢文的教養」の時代から「英文的教養」の時代への変遷があり、それは現在も進行中であるとも言えよう。だが、それでは「百人一首かるた」の隆盛はどうだろうか。「百人一首かるた」は教養ではあろうが、とても「英文的教養」とは言えず、むしろその反対物だとは言えないだろうか。
「百人一首かるた」は、江戸時代の初期に、貝覆いから発展して成立したと言われる。貝覆いは平安時代以来の「合わせ」遊びであり、滅びた伝統的ゲームの筆頭とも言えそうだが、「百人一首かるた」にそのまま受け継がれて、今も生きていると言うこともできるかも知れない。「百人一首かるた」は、江戸時代にも広く遊ばれたと言われるが、一層広がり誰でも遊ぶようになったのは、むしろ明治に入ってからである。
明治期に衰退を始めた漢詩かるたと、明治期にむしろ隆盛してきた百人一首かるた、こうした受容の変遷の背後に、一体何が見えるであろうか。

ここで、先を急ぐ前に、では桑名の漢詩かるたが一体どようなもので、何が魅力なのか、それを見てみたい。

鎮国守国神社では、現在でも毎年正月に「漢詩かるた」大会を開催していて、だれでも見たり参加したりできる。私も二回ほど参加させていただいた。
取り札は和紙を膠で何枚も張り合わせたもので、そこに毛筆で漢詩が書いてある。対句の後連である。つまり対句の前連が読み上げられている時点で、経験者は後連を探すことができる。この点は百人一首かるたで、経験者が上の句が読み上げられているときに下の句を探すことができるのと、システム的に相同である。つまり、研究や勉強でゲームに上達する、そうした類のゲームなのである。と、同時にそのことが「教養」として評価される。すなわち、かるたはこうした社会的受容を背後に持つゲームなのである。我々の回りからも、百人一首をスラスラとそらんじる人を見つけ出すのは、そう難しくはない。短詩とはいえ、自国の詩、それも千年も前の古典を、百も容易に暗唱できる国民が世界にどれくらい居るのだろうか。これは国際的に統計をとったら面白いかも知れない。ともあれ、短歌に関してはなかなかの「教養」を保持した国民と言っても大外れではあるまい。
このことは、逆にこのゲームの敷居を高くしている。犬棒かるたなら、仮名を読める子ならだれでもできるが、百人一首かるたは、ある程度素養がないと勝負にならない。これはゲームの技術的な奥深さを保証してもいて、本当か嘘か知らないが、競技かるたの名人は、読む直前の読み手の吸った息の音だけで、かるたを取れることがあると聞く。まあ、そこまでいかなくても、技量の差が大きいことは容易に見て取れよう。「百人一首かるた」にはこうしたハザードが設けられていて、技量の奥行きを保証しているのである。
北海道で盛んな板かるたは、上の句を読まない。下の句を読んで下の句を取る「対松」という形式である。だが板かるたには板かるたの独自のハザードがある。いちどやってみればすぐわかるが、板かるたの文字は、何流と言うのか知らないが、変体仮名を用いた達筆である。その独特の筆遣いは、初めての人には簡単には読めない。板かるたは、暗記ではなく識字というレベルでハザードを設け、ゲームの奥深さを担保しているのである。
では漢詩かるたはどうだろうか。実は、これもよくできている。そもそも漢文は見ただけでは読み下せないのが普通である。漢文は本来中国語であり、日本語とは文法が違う。古来、日本ではこれを意訳せず、原文に記号(返り点)を打って、直訳的に読み下す。漢詩かるたの読み手は、読み下し文を読むが、もちろん取り札には返り点を打ってあったりはしない。こうして漢詩かるたは、百人一首かるた同様、経験者が圧倒的に強い(はずである)。伝統ゲームを分析して面白いのは、こうしたゲーム論的に有意の仕組みを、みな形を変えて備えているという発見にある。
もう一つ、漢詩かるたをやって驚くのは、これが「喧嘩かるた」であるという点である。これはかるたをいち早く取った人がいても、それを奪っていいという、なかなかすごいルールなのである。取った札を自分の座布団の下に入れて初めて確定するのであって、それまでは壮絶な争奪戦になる。そこで感心するのが、和紙や墨の強さである。取り合ったら破れてしまいそうなものであるが、和紙を何枚も張り合わせて作った取り札は極めて丈夫なのである。表面はかなりよれよれではあるが、墨の字は読むに堪える。よく「和本は保管さえよければ千年以上保つ」と言われるが、ここからも納得できる。
住職にこのルールの意義を尋ねると「武家の遊びだから」ということであった。「武張った」遊びなのである。現在ではもちろん女の子もやるし、参加者はむしろ女性の方が多いくらいであるが、かつては男だけの遊びであったそうである。

私が訪ねたときは、二回とも二十人余りの参加であった。半数以上が近在の子供たちであり、その親や、祖父母などが加わる。住職の話を聞くと、十年余り前は四十人ぐらいの参加者があり、もっとずっと昔は百人単位の参加者があったそうである。
伝統ゲームの命運ににとどめを刺すのは、「少子化」であるのかも知れない。住職の話からもそれは裏付けられる。それで私はいろいろ調べてみたが、今のところ決め手となるような文献に行き当たってはいない。流行とは言え、遊びごとの社会的状況を文献的に裏付けるのは、否定的であれ肯定的であれ相当に難しい。
ところで、王子にある『紙の博物館』で「かるたと双六展」を開催しているというので、出かけてみた。展示は多くなかったが、漢詩かるたも展示されていた。古いものだが活字印刷なので、明治のものらしいが、桑名のものと同じ漢詩が同様に取り上げられていたところをみれば、その系統であろう。そこで案内の人(学芸員?)に
「これは、いつの時代に遊ばれていたのですか?」
と、尋ねてみた。すると、
「江戸時代には盛んだったようですよ。」
とのことである。そこで
「どういう人たちが遊んでいたのですか?」
と尋ねると、
「たとえば寺子屋で、漢詩を覚えさせるための教材として使っていました。」
とのことであった。しかし一般的にどこでも使っていたというようなものではなく、そもそも寺子屋の教育内容はその師匠の裁量でかなり自由に決定されるので、漢詩かるたを使う先生もそれなりにいた、というような話であった。女の子には仮名を覚えさせるために百人一首を、男の子には漢字を覚えさせるために漢詩かるたを遊ばせて教材とした、というようなことであった。

これは流行の傍証とはなろう。ともあれ今とは違って、江戸時代には漢詩かるたはかなり受容されていたようである。
鎮国守国神社にある立て看板の説明によれば、寛政の改革で有名な松平定信は、改革の一環としてこの漢詩かるたを大量に作らせ、各藩に配って奨励したという。儒学を理論的な主柱に、倹約と尚武の精神を鼓舞した定信ならではである。このことからも、少なくとも武家社会ではそれなりに遊ばれていたことは疑えないであろう。住職の話からしても、間違いはなさそうだった。
では、どうしてそれが明治以降ぱったりと遊ばれなくなったのだろうか。少なくとも、今から私が調べてもその流行の裏付けが取りにくいほどの、忘れられたゲームになってしまうのだが、それは一体どうしてだろうか。
漢文的教養の時代から英文的教養の時代に変化したことが、最も大きなその理由というのは見えやすいが、繰り返しになるがそれでは百人一首の流行が説明できない。

ところで、鎮国守国神社は、桑名城址にある。城址と言っても地割のほかに城を物語るようなものは何もない。聞けば戊辰戦争の時に、城は徹底的に破壊されたのだそうである。そういえば、桑名藩は会津藩と並んで佐幕派の最右翼であった。見せしめのためであろうか、投降・開城したのちに、城郭は全て焼き払われたという。
時代は転換したのである。
これを受けて想像をたくましくすれば、佐幕ゲーム「漢詩かるた」は、勤皇ゲーム「百人一首」に、そのニッチを奪われたのではないのだろうか。

ゲームの受容は政治からはとりあえず独立である。この点は「塗り替えられる国旗」や、「倒される銅像」「壊される城」「禁断される国歌」などとは大きく違う。ゲームは遊びごとなのである。とは言え、直接的な干渉がなかったとしてとも、文化がその時代の政治からまったく自由であることはありえず、ゲームもまた――かなり見えにくいとは言うものの――その例外になりようはずはない。
江戸時代に大きく受容されていたゲーム「漢詩かるた」は、政策的に推奨されていた。その背景は「武張った」「尚武」の「男手(漢字)」の時代精神であった。だが幕藩体制を倒してやったきた新政府は、近代と復古の混合体であった。和魂洋才とはよく言ったもので、近代的手法の精神的背景は「公家文化」であったといえよう。その背景は「雅びた」「典雅」な「女手(仮名)」の時代精神へと取り替わっていった。
「百人一首」は政策的に推奨されたことはないが、こうした時代精神の変化にうまく適合していったのではないだろうか。黒岩涙香は、明治37年(1904年)に競技かるたのルールを制定した。これは「雅びた」「教養」ゲームを、近代的合理性(ルール)に基づいて遊ぼう、という改革である。このようにして変換はなされたのである。

繰り返すが、ゲームの「受容」が直接的な政治の影響を受けることは少ない。しかし、ゲームも文化の一つである限り政治からまったく自由ではありえず、我々は伝統ゲームの受容を通して、その時代の精神を垣間見ることができるのである。