伝統ゲームを現代にプレイする意義(第11回)

草場純

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今回は少し趣向を替え、最近発表された「マケドニア将棋」を考察してみる。
「マケドニア将棋」とは、漫画家・岩明均がヘレニズム時代を扱ったコミック『ヒストリエ』で登場させたボード・ゲームである。『ヒストリエ』7巻の限定版には、このマケドニア将棋のルールブックと駒・盤が付属し、実際にゲームをプレイすることができるようになっていた。

ヒストリエ 7 (アフタヌーンKC) [コミック] / 岩明 均 (著); 講談社 (刊)

マケドニア将棋は、岩明均が『ヒストリエ』という作品の中で、主人公の創案として登場させた(あくまでも)創作ゲームであり、歴史的な伝統ゲームではない。
マケドニア将棋は、作中の小道具として作られたのであって、将棋の新案として作られたととるべきではない。これはほかならぬ作者自身がそう言明している。
従って「もっと面白いものが作れる」という見解は、尤もではあっても批判にはならない。

あまり知られていないことではあるが、一般に「自明でない将棋系ゲームは成立する」という命題があり、証明されている訳ではないが、まず正しいと言ってよい。
この命題をおおざっぱに言い換えれば、「将棋やチェスや象棋のようなゲームを作れば、大概そこそこのゲームになる。」という身も蓋もない意味となる。

二者完全情報零和有限確定ゲームは、囲碁や、連珠や、リバーシ(オセロ)や、ドラフツ(チェッカー)のようなゲームのことで、将棋系ゲームはその一つである。(軍人将棋やガイスターのようなゲームは、不完全情報ゲームであるからこの範疇には入らない。)
アブストラクトゲームとも呼ばれるこの手のゲームは、意外に微妙なバランスの上に成立し、実は相当作るのが難しい。えてして簡単に必勝法の見つかるパズルになってしまうか、避敗法があっていつまでも勝負のつかない膠着ゲームになってしまうか、しがちなのである。これは、具象的な紛れのない、アブスラクトボードゲームの宿命と言ってよい。だからアブストラクトボードゲームの現状は、時代の試練を経た「よく知られたゲーム」が少数あるだけなのである。
かつて日本棋院と任天堂が組んで、賞金付きで碁石と碁盤でできるアブストラクトボードゲームの新作を募集したことがあった。しかし残念ながら、受賞作ですら面白くないゲームだったという体たらくであった。繰り返すが、この手のゲームは、ゲームでなくパズルになってしまいがちだからである。
ところが興味深いことに、将棋類はこの宿命を逃れているジャンルなのである。もっとも、将棋がアブストラクト(抽象的)ゲームかどうかは、若干議論のあるところだが。

将棋類は殆どのものが、敵味方が同じ勢力であり、互いに一手ずつ指していくのが普通である。こうなると、初手で王が詰んでしまう(これを「自明」と言う)ような極端なものでさえなければ、完全情報だけに互いの先読みが無限の後退を続けていき、程なくそれは通常の読みの範囲を超えてパズルではなくなり、替わって形勢が成立してゲームとしての面白みが出てくる。
つまりぶっちゃけて言えば、将棋みたいなゲームを作れば、自明でさえなければ、案外適当に作ってもゲームになってしまうのである。これが冒頭の「自明でない将棋系ゲームは成立する」という命題の意味である。
裏を返せば、将棋みたいなゲームはいくらでも作れるということだ。

このことは、現在の将棋類を眺めなおしても理解できるだろう。
将棋の駒はなぜあの8種類40枚なのか? あの初期配置に必然性はあるのか?
――もちろん現在の初期配置で面白いことは認めるが、現在の配置が本当に最高かと言えば、誰にもそれは明言できないだろう。
例えば、敵味方を一路近づけて9×8の盤で将棋を指すことを提案した人もいる。(熊谷2010)
私はたちどころに勝負がつくような気がしたが、やってみると少なくとも自明な手はない。するともう案外面白いゲームになってしまうのである。
初期配置にしても、例えば金と銀の位置が逆だって、あまり問題があるようには思えない。日本将棋の飛車角は敵味方点対象の位置にあるが、あれをチェスのキングとクイーンのように敵味方線対称に置いたとしたら、相当戦法は変わっても(自明でさえなければ)、将棋に劣らぬ面白いゲームになりそうではある。
結局、将棋の駒や盤や初期配置に必然性はあまりない。それは数々のミニ将棋や、中将棋、大将棋、そして世界の様々な将棋の存在が、それを証明していると言ってもよいだろう。

だが、新たに創ったものが本当に面白いかどうかは、その先の問題になる。白石と黒石しか使わない抽象度の高いアブストラクトゲームほどは馬脚が出ない、と言うにすぎない。将棋類は簡単には成立するが、それだけに存在意義のあるゲームを作るのは、逆に難しいとも言える。

ではマケドニア将棋は、(小道具としてではなく)将棋類としてはどうなのだろうか。
結論から言えば、それなりに遊べるが、終局は冗長である。
だが、冒頭に述べた繰り返しになるが、これは作者の製作意図である。冗長なゲームは悪いゲームではあるが、冗長に作ったゲームを冗長だと言っても批判にはならない。
一方それなりに遊べる理由は、駒の再使用(取った駒を張って使える)にある。
マケドニア将棋を(恐らく作中で)見ただけで(一度も指さないで)「こんなのは駄目だ!」と、頭ごなしに決め付けた人もいたが、指してみればそんなことはない。そこそこ楽しめる。

終盤を冗長にしている原因は、第一に取った駒を敵地には張れないというルールにある。これは自陣の最奥に突然敵兵が降って湧くのは現実性がない、という尤もではあるがゲームの論理を越えたゲーム外の理由による。だが残念ながら、これでは詰めに決め手を欠く。プレーヤーは、敵陣外に張った駒をエッチラオッチラ敵陣に運ばなければならない。実戦から作ったという物語上の要請には確かに従ってはいるが、ゲームとしては何とも退屈となってしまう。
第二の理由は、大駒の少ないことである。いわゆる「走り駒」と言えるのは、矢だけである。これはクイーン(飛車+角行)の動きなので、当初は強い駒と思われがちだか、弓兵と一体でないと使えないのが、文字通り使えない。クイーンとは言え、一発きりで回収しないと続かないのも弱い。矢を弓兵の上に張ったり、矢の受け渡しなど面白いルールもあるのだが、あまり使えない。するとルークもビショップもないマケドニア将棋では、ピンをしたり、紐をつけて尖兵を派遣するなどの手が使えず、詰めあぐむことになりがちなのである。
第三の理由は作者自慢の「譲位」にある。これは結局敵の王(位)を二度、あるいは三度詰めなければ勝てないということであり、一局に二局分の時間がかかるということである。すなわち、ストーリーの上では(多分)重要なルールなのであろうが、ゲームの上ではあらずもがなのルールである。
また、これは終盤だけではないが、横に利く駒が少ないのもじれったい。

とは言え、終盤を少々我慢すれば結構楽しめる。
弓矢は、シャンチーの砲やチャンギーの砲ほどは面白い駒でも使える駒でもないが、それなりに楽しめる駒である。弓矢を持ち駒にしたりすると結構楽しい。
重歩兵は初めはたいしたことはないと思ったが、二枚重ねると後ろの駒の利きの範囲で前の駒が進め、追って後ろの駒を進めるなどといった、他の将棋類にあまり見られない展開があったりするのが楽しめる。
譲位ルールも、終局の欠点ではあるが、中将棋の太子よりはずっと使える。作者には悪いが、譲位はそれほど独創的なルールというわけではなく、昔の中将棋以上の大きな将棋では、王将が取られても太子があるうちは負けではない。とは言え、実際問題として太子を作るのは相当に大変なので、その意味では譲位ルールは使える。可笑しいのは、たとえ王将を詰めてはみても、王子に譲位されたら途端に王将が詰まらない(笑)駒になっていまうという点だ。その王将を取ることは再度の譲位を防ぐことになるので悪いとまでは言わないが、例えば将軍との交換は将軍側の損かも知れない。なぜなら将軍は持ち駒になるが、王将は(張れないので)持ち駒にはならず、「使えない」駒になってしまうからである。この価値観の転換は、確かに他の将棋類では味わえない。

昔、E.R.バロウズの『火星シリーズ』にジェッタン(火星将棋)というのが出てきた。私の印象では、ルールも(当時の訳では)分かりにくく、何とかやってみてもそう面白いものではなかった。それに比べればマケドニア将棋は、作中創作物としてはなかなかいい線を行っているように、私には思える。

私の提案としては、「持ち駒はどこにでも打てる」、あるいはせめて「二十手以降は持ち駒はどこにでも打てる」(二十手までは敵陣には打てない)、程度にすることである。これで終盤の冗長性はかなり軽減される。
実戦でも、王の寝室に突然敵の刺客が現れる事だってあるではありませんか。

ヒストリエ 7 (アフタヌーンKC) [コミック] / 岩明 均 (著); 講談社 (刊)

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