ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』発売記念「都甲幸治×岸本佐知子」ミニトークライブ


ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』発売記念「都甲幸治×岸本佐知子」ミニトークライブ

 岡和田晃


 去る2011年5月8日(日)、ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』発売を記念して、「都甲幸治さん×岸本佐知子さんミニトークライブ」(http://www.kinokuniya.co.jp/store/Shinjuku-South-Store/20110427095500.html)が東京都・紀伊國屋書店新宿南店で開催されました。

 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』については、Analog Game Studiesで発売直後に取り上げましたので、以下の記事をご参照ください。

http://analoggamestudies.com/?m=201102

 今回のトークライブの主役は、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』の翻訳者の都甲幸治氏に、アンソロジー『変愛小説集』の翻訳等で知られる翻訳家の岸本佐知子氏でした。

 20年来の付き合いだという二人は、これまで何度か現代アメリカ文学をテーマにトークショーを重ねてきました。たとえば、フリーペーパー「WB」Vol.22に掲載された「無意識過剰な観察日記――リディア・デイヴィス『話の終わり』」をウェブ上で読むことが可能となっています(http://www.bungaku.net/wasebun/freepaper/vol022.html)。

偽アメリカ文学の誕生 [単行本] / 都甲 幸治 (著); 水声社 (刊)話の終わり [単行本] / リディア・デイヴィス (著); 岸本 佐知子 (翻訳); 作品社 (刊)

 東日本大震災によって二ヶ月あまり延期を余儀なくされたにもかかわらず、新宿高島屋内に設けられた特設会場では、40名あまりの聴衆が訪れ、盛況でした。Twitterでも多くの感想が投稿されました。

 それでは以下、トークショーの内容を簡単にレポートいたします。
 いずれ活字にまとめられる機会があるのではないかと思いますので、より詳しくはそちらをご覧ください。

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス) [単行本] / ジュノ ディアス (著); Junot Diaz (原著); 都甲 幸治, 久保 尚美 (翻訳); 新潮社 (刊)ハイウェイとゴミ溜め 新潮クレストブックス [単行本] / ジュノ ディアズ (著); Junot D´iaz (原著); 江口 研一 (翻訳); 新潮社 (刊)

 トークショーは終始なごやかな雰囲気で、文芸誌「新潮」に連載されている都甲幸治氏のエッセイ「生き延びるためのアメリカ文学」の裏話、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』の翻訳をどうして手がけるようになったかという経緯、もと「GAP」の店員だというバスク人のスペイン語教師との逸話、岸本佐知子氏が『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』の第2章「原始林」で語られる(オスカーの姉)ロラの語り口に感銘を受けた話、ディアスの前作『ハイウェイとゴミ溜め』で選ばれた言葉の性質等が話題に出ました。

 また、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』は、『アフターマス!』や『スカイレルムス・オブ・ジョルーン』など、会話型RPGが重要な要素となっているRPG作品ですが、トークショーでは、翻訳にあたって都甲幸治氏が『ダンジョンズ&ドラゴンズ』を遊んだ体験等も話題にのぼりました(*1)。

 なお、岡和田晃は『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』の監修と割注作成を担当したのですが、そのご縁もあって、トークショー内で時間をいただき、主人公オスカーがプレイした可能性の高い版と同じボックスアートの『ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版 スターター・セット』、ならびに会話型RPGのプレイする際に使用するマスター・スクリーンやメタル・フィギュア等を紹介し、RPGの要素を知っておくことが、いかにこの小説の享受を豊かなものにするのかをお話いたしました。

 『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』に登場するおびただしい固有名詞は、単にポストモダン小説的な意匠に終わるものではなく、それぞれ独自の文脈と読者をもった小宇宙となっています。そして、ジュノ・ディアスはそのことをよく心得ていました。反応を見るに、読解にあたって重要となるこの2点を、来場した多くの方にご理解いただけたようで幸いでした。ポップカルチャーは、往々にして人間の偏見や欲望を煽り立てるように機能しますが、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』というテクストは、勃興期のポップカルチャーの位相でトルヒーヨ神話を塗り替えることが、逆にトルヒーヨ神話を強化してしまうことにつながるような事態を、ぎりぎりで回避しようとしているのではないでしょうか。

 質疑応答時には、翻訳の苦労話、参考資料をひとつ挙げるのであれば『指輪物語』を読んでほしいということ。また、アメリカの学生サブカルチャーにおけるスクールカースト(ジョック‐ナード)が話題にのぼりました。

 最後に、会場にいらしていた翻訳家の柳下毅一郎氏(アンドリュー・グリーンバーグほか『ノドの書』の解説などで知られる)から、ラストに登場する(書き込みのある)グラフィック・ノベル『ウォッチメン』(アラン・ムーア)についての興味深い逸話が語られるなど嬉しい展開があったことも書き添えておきます。語り手がくるくると変わる、斬新な形式のトークショーでした。

ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版スターター・セット [大型本] / ジェームズ ワイアット, ジュレミイ クロフォード, マイク ミアルス, ビル スラヴィクシェク, ロドニー トンプソン (著); 桂 令夫, 岡田 伸, 北島 靖巳, 楯野 恒雪, 塚田 与志也, 柳田 真坂樹 (翻訳); ホビージャパン (刊)ノド書  ブック・オブ・ノド [単行本] / サム・チャップ, アンドリュー・グリーンバーグ (著); 福嶋 美絵子, 小川 涼 (翻訳); アトリエサード (刊)

 出版不況のさなか、特に翻訳書にとって厳しい時代だと言われて久しくなります。
 しかし『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』は、「朝日新聞」「日本経済新聞」「読売新聞」「北海道新聞」など各紙、「文學界」「新潮」「ミステリマガジン」「本の雑誌」といった各種文芸誌、さらには「テレビ・ブロス」や「エル・ジャポン」といった文芸がメインではない雑誌、「週刊ブックレビュー」といったテレビ番組等々において、数多くの書評や批評が掲載されています。ウェブ上でもウェブログ、Twitter、読書メーター等に多数の感想が寄せられています。文学の無力が叫ばれるなか、近年稀に見る幸運な作品なのは間違いないでしょう(*2)。増刷も決定したということで、この優れた作品がさらに多くの読者へ届くことを願ってやみません。

 さて、イベントから三週間近くが経過し、改めて感じることは、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』で語られる「フク」とはまさに、現在、日本が直面している苦境そのものではないかということです。そして、アナログゲームをやSFを介した想像力によって歴史的な現実を認識でき、現状を適切に語ることができるというのは、私たちにひとつの勇気を与えてくれるように思います。

 レビューを掲載した後、Analog Game Studiesの岡和田晃と高橋志行氏は、都甲幸治氏へのインタビューを敢行いたしました。しかしインタビューの真っ最中、東日本大震災に遭遇してしまったのです。使用していた喫茶店が危険な状態となり、残念ながらインタビューは中断されてしまいました(*3)。けれども、私たちは身をもって小説で語られる「フク」を体感し、日常を侵食し、想像力を断層させる現実、そして表象不可能な現実を、再認識させられた次第です。

 未曾有の災害を経た現在、フィクションに自らの実存を重ね合わせ、投企の機会とすることが困難になっているように思えます。私たちが築き上げた文化も、そこで表象される内面も、ほんのちっぽけなものにすぎなかった。しかしそれでも、失語を強いる状況において、少しでも希望を見出すことは可能ではないか。畢竟、文学の価値はそこにこそあり、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』は「一つの指輪」の誘惑に耐えつつも、サウロンやモルゴスに蹂躙される世界を生き延びるための支えを――いわば「RPGリプレイ」という文学的形式をもって――私たちに提示してくれているのではないでしょうか。


(*1)ちなみに、アナログゲームの総合情報誌「Role&Roll Vol.62」に掲載された、「WORLDWIDE DUNGEONS & DRAGONS GAME DAY 2009 プレイヤーズハンドブック2」のレポート記事には、都甲幸治氏のコメントが掲載されています)。
(*2)数多くの書評から特に優れた一点を挙げるとしたら、「新潮」2011年5月号に掲載された円城塔氏の書評をお薦めいたします。
(*3)近いうちに再開を予定したいと考えております。

ボードゲーム・サークルご紹介:West Tokyo Wargamers

ボードゲーム・サークルご紹介:West Tokyo Wargamers
髭熊五郎 (校正:仲知喜、Giovanni Allari)
―――――――――――――――――――――――――

先日AGSメンバーの蔵原氏の紹介で、とあるゲームサークルの例会に参加してきました。会の雰囲気もとてもよく、参加者は垣根にとらわれることなくさまざまなジャンルのゲームを楽しんでいたため、ここで紹介させていただこうと思いました。
West Tokyo Wargamersというゲームサークルがあります( http://westtokyowargamers.blogspot.com/ )。

聖蹟桜ヶ丘駅近くの多摩市関戸公民館で毎月一回(開催日は不定)活動していて、ヒストリカル・ミニチュア・ウォーゲーム(近頃は、ナポレオニックやWWⅡがメイン)を中心に、ウォーゲームやボードゲー ムや会話型RPG(TRPG)など幅広く遊ばれています。
West Tokyo Wargamersの大きな特徴は「参加者のほとんどが日本語を母語としていない」ということ。
なので、会の基本言語は英語となっています。

0Boardgames_1
1Naps206

 

ルールの説明など英語で行われますが、日本人相手には ゆっくり話し てくれますし、どうしてもわからなければ日本語で質問しても構いませんし、主催者でイタリア出身のジョバンニ・アラーリさん(Mr.Giovanni Allari)をはじめ、多くの参加者の方々は日本語が堪能なので心配いりません。(中学で英語を諦めた僕でさえ半分くらいはなんとなく理解できま した。お互いに伝えよう・理解しようという気持ちがあれば、何とかなるものですね。(笑))  みなさん良い人でとても和やかな雰囲気の会なので、初めての方でも安心して参加できると思います。

2RPG_1
3Naps203

 

参加者の方は様々なゲームを持参しているので、最初は見学として手ぶらで参加しても大丈夫。ただし、ミニチュアを使ったウォーゲームは、参加者が自前のミニチュアを持ち寄って対戦するがマナーです。ミニチュアゲームに興味のある方は、ミニチュアを借りた入門ゲームを数回楽しんだ後は、ぜひ自前のアーミーを揃えてゲームに参加するようにしてください(ミニチュアの入手のしかたや塗装法は会員の方がレクチャーしてくれます。ミニチュアを塗ったりコレクションしたりするのも楽しい経験です!)。

また、お子さんを連れてきている方もいらっしゃるので、家族での参加も可能です。でも、お父さんお母さんはお子さんの行動にはくれぐれもお気をつけください繊細なナポレオン騎兵を小さい怪獣が掴みあげてバキッ!なんてことにはなりませんように!!最強のナポレオン騎兵隊も小さい怪獣さんに乱入されてはひとたまりもありませんからね!!
様々なタイプのゲームを楽しめる、とても素敵なゲーム会です、

4WW2_1

次回は6月18日(土)、次々回は7月31日(日)、参加費500円。

詳しくは、West Tokyo Wargamersのウェブログをご覧ください。(ミニチュアの画像などとても素敵です。) http://westtokyowargamers.blogspot.com/

なお、このゲーム会ではどんなゲームをするのか事前に皆さんで打ち合わせをしているので、初めて参加される方は先方にご連絡されるとよろしいかと思います。
参加希望等お問い合わせは、westokyowargamers★hotmail.co.jp(★→@)へどうぞ。

ブログは英語で書かれていますが、メールは日本語でもOKです。

ヒストリカル・ミニチュア・ウォーゲームに関しましては、AGS記事「DBA(De Bellis Antiquitatis): 上古の戦場にようこそ!(蔵原大)」を参考までに。  http://analoggamestudies.seesaa.net/article/177260283.html クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

ボードゲーム・サークルご紹介:West Tokyo Wargamers by 髭熊五郎(校正:仲知喜、Giovanni Allari) is licensed under a Creative Commons 表示 – 非営利 – 継承 3.0 非移植 License.

【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1.5回)

【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1.5回)

伏見健二、岡和田晃

―――――――――――――――――――――――――

Analog Game Studiesに、伏見健二さまによる「CBT的アプローチのセッション運営(第1回)」(初出:「ブルーフォレスト通信1」、グランペール、2010)をテーマ連載の第1回として再掲したところ、各方面より大きな反響をいただきました。すでに、(公式窓口である)Analog Game Studiesの公式メールアドレスに寄せられたご意見「私がTRPGをセラピーとして使わない理由」(早瀬以蔵)を、対論として全文掲載させていただいております。

続く本記事は、主として早瀬以蔵さまのご批判に対し、執筆者である伏見健二さま、Analog Game Studies代表の岡和田晃が応答を行なうとともに、本連載「CBT的アプローチのセッション運営」の今後について語るものです。(岡和田晃)

——————————————————–

●伏見健二の応答

寄稿くださった早瀬以蔵先生、WEB上にてご指摘とご教示をくださった滝野原南生先生をはじめ、本論へのご意見やご批判、危険性についての迅速なご指摘に感謝いたします。

論の進行と共に、その実運用、危険性や限定性についてと段を踏んで言及する予定でありました。

しかし本論が治療をテーマとするものであることを踏まえ、そのリスクに対してより慎重に扱うべきものであるということ、それはむしろ『最初に』提示するべきであった、また、この論が「独り歩き」する危険が多大にある、とのご批判はたいへんに的を射たものであり、首肯いたします。

よって、以下、危険性について強調しておきます。

この論を全論、非公開化するべきだとのご意見もありますが、欠点を確認し、その修正を共有する、という意義もふまえ、また、今後とも会話型RPG(TRPG)シーンにおいて精神保健の知識の啓蒙と、問題共有するという意図において、反論や危険視の声も含めての継続公開をAnalog Game Studiesにお願いいたしました。

・本論は、知識の未熟な者をもって治療行為・医療行為をするようにと誤読させる危険をおおきく孕んでいる。

・TRPGのセッションが、治療効果をうたって人を集めることにより、政治活動、宗教活動、あるいは詐欺をはじめとする犯罪等に悪用される恐れがある。

・セラピーセッションが成功するとは限らない。このセッションによって、クライアントが治療効果を得られなかったために悲観を深める危険性がある。そのときに、ゲームコミュニケーションだけではその方への継続的な支援の手が届かない。

・セラピーセッションはTRPGそのものの楽しみとはまったく異なる目的手法であり、TRPGという娯楽の形式を誤認させ、その理解と拡大を歪める危険性がある。

一方、TRPGの有効性/特殊性に対して、また「娯楽」の概念定義に関しては異論、異説もある件かと存じます。私も考えを深めてゆきたいと思います。

そして、以下の形を現在の持論として述べさせていただきたいと思います。

・TRPGをはじめ、対人コミュニケーションをその娯楽の根幹とする趣味においては、障害や疾病の理解を深め、受容を高めるべきである。

・障害や疾病を持っていても、ほとんどの場合、本人はそれをコントロールできており、また、良質な娯楽を必要としている。彼ら/彼女らは愉快で魅力的な仲間であり、なんらかのコミュニケーション障害を理由として過度に危険視する必要はない。

・基本的な知識を持つ者が配慮をもってTRPGを一緒に楽しむことで、大きな相互支援効果を上げることができる。

最後に、この論考について、より多くの方に周知され、説を深めるべきとの意図を持って掲載を決断され、また、識者各位からの意見を集めてくださったAnalog Game Studies代表岡和田晃氏に深く感謝いたします。早瀬以蔵さまのご批判をふまえたうえで、今後Analog Game Studies上で公開していく内容につきましては、ソーシャルワークとTRPGとの関係を主軸とした研究と実践の模索という形に方針を変更させていただき、公開すべき進展がありましたら、その成果をご報告させていただきたいと考えております。

———————————————————

伏見健二(ふしみ・けんじ)
1968年東京生まれ。武蔵野美術大学基礎デザイン学科卒。作家、ゲームデザイナー、介護福祉士。
日本の主要なアナログゲームクリエイターのひとり。21歳の時に代表作であるテーブルトークRPG『ブルーフォレスト物語』(ツクダホビー)を発表。小説家としても多数の作品を発表する。冒険企画局に所属の後、テーブルトークRPGの専門集団(有)F.E.A.R.の設立、小規模出版によって多様なゲームシーンを発掘紹介する(株)グランペールの設立と相次いでゲーム企業の設立に携わる。またインターネット黎明期に千人の会員を持ったWEB上ゲームサークルG99の主催者でもあった(現在は解散)。
介護を本業とする現在も、福祉資格取得の講師やスキルアップセミナーの講師を行いながら、ゲームデザインや出版やイベントに携わり、ことに小規模出版の支援や障害者支援に力を入れて幅広い活動を行っている。

———————————————————

●岡和田晃の応答

本テーマ連載は、Analog Game Studies代表岡和田晃によって企画・推進されました。

岡和田晃が「CBT的アプローチによるセッション運営(第1回)」(以下、「本稿」)をAnalog Game Studiesでの公開に値すると判断したのは、次の3点を理由とします。

・会話型RPG(TRPG)の運用メソッドを、新たな社会的文脈へと繋げていること。

・会話型RPGの運用メソッドという形式を通じ、精神保健の啓蒙を推進していること。

・会話型RPGの現場では往々にして見過ごされがちな事態について、改善の契機となりうること。

本稿の再掲にあたっては、Analog Game Studies内の当記事への査読担当者による査読を行ないました。結果、原則として文面を変化させる必要はないという結論に至りました。その理由は、大きく分けて以下の4点になります。

・「ブルーフォレスト通信」の他の記事とは内容的に独立した記事であり、例えば『ブルーフォレスト物語』を知らなくても理解することができる。

・初出のままで掲載したほうが、本稿の先進性が読者の方に伝わりやすい。

・本稿の鋭角的に打ち出された問題意識、ならびに会話型RPGという表現を通じて「前に進む」意志は、それ自体として固有の価値がある。

・本稿はすでに、(精神科医を含む)精神保健や臨床の専門家、あるいは相互支援の現場にいる方々から高い評価をうけていた。

これらの理由から、伏見健二さまと相談のうえ、原則として初出のままで公開することとした次第です。

岡和田晃、ならびにAnalog Game Studiesにおける「CBT的アプローチのセッション運営」査読担当者(以下、「私たち」)は、公開後も本稿で問われた問題についての議論を重ねてきましたが、私たちは、これまで会話型RPGにおいて、プレイヤーマナーの問題としてのみ考えられ、プレイヤーへの批判や排斥につながってきた問題が、「CBT的アプローチのセッション運営(第1回)」によって、神経由来の障害や疾病の問題、ひいては個性の違い(*)とも受け止められる事例だということが明らかにされたところに、本稿の最も大きな可能性を見ています。

(*)現在、障害の分野ではICFの考え方(http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/08/h0805-1.html)というものが主流となっています。すなわち、障害(や疾病)があっても、それは機能において評価されるべきである、また機能への支援がなされるべきであって、障害(や疾病)があることと「人格」に欠点・問題・欠損があることを混同しないという視点です。

それゆえ私たちは、伏見健二さまの指摘はゲームの場に起こることを説明するうえで、大きな一歩たりうると考えております。そして受容や解決の道のりの模索がなされていることは、古くから存在している問題を解決するための、新たな視点であるのは間違いありません。

近年、福祉の現場において、(「医者‐患者」という関係に留まらない)クライアント同士の相互援助の重要性が説かれ、また実践が模索されています。とすれば、相互支援の考え方を前提としたうえで、会話型RPGが選択される可能性もあるのではないでしょうか。会話型RPGが独特で他に代えがたいものであるなら、それは固有のベネフィットたりうる可能性もあるのではないでしょうか。

しかし私たちはまた、寄稿された対論にある早瀬以蔵さまのご指摘をも真摯に受け止めます。

そして私たちは、伏見健二さまが「CBT的アプローチのセッション運営(第1.5回)」で改めて強調した、危険性についての問題意識を共有します。そのうえで、会話型RPGをはじめとしたアナログゲームと精神保健の問題について、継続して思考の材料を提示していくこともまた、アナログゲームの可能性を広げることにもなると考えます。

それでは本応答をもちまして、「CBT的アプローチのセッション運営(第1回)」についての対論・対論への応答の流れはいったん締めさせていただきます。ただし、ご意見は継続して承りますので、ご意見をお持ちの方は、「活動趣旨」にも掲載されている公式窓口analoggamestudies1★gmail.com(★→@)にまで、メールにてお寄せいただけましたら幸いです。

寄稿依頼に応じてくださり、また数々のご配慮をいただきました伏見健二さま、対論をお寄せいただいた早瀬以蔵さま、ならびに読者の皆さまに深く感謝いたします。

一方、「CBT的アプローチのセッション運営」(第1回)、および「私がTRPGをセラピーに使わない理由」の議論を通じ、精神保健の基礎的な知識の習得に関心が生まれた方は、その一助として、以下のウェブサイト等の情報を参照されてはいかがでしょうか。

・「発達障害者理解のために」(PDFファイル)
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/hattatsu/dl/01.pdf

・「みんなのメンタルヘルス総合サイト」
http://www.mhlw.go.jp/kokoro/index.html

一般書店で容易にアクセス可能な入門書を一冊挙げるとしましたら、星野仁彦『発達障害に気づかない大人たち』(祥伝社新書 190)が参考になります。
発達障害に気づかない大人たち (祥伝社新書 190) [新書] / 星野仁彦 (著); 祥伝社 (刊)

その他、関連分野の専門書にも触れていただければ幸いです。

なお、「ブルーフォレスト通信2」(グランペール、2010)には、本稿の続編「CBT的アプローチのセッション運営(第2回)」が掲載されています。

これは「ブルーフォレスト通信2」に掲載されたもので、「軽度の不安神経症を抱え、コミュニケーション障害の悩みを抱えるクライアントをモチーフに、ソーシャル・スキル・トレーニングの視点で、その行動の積極性を高めるため」の実例を、会話型RPGのセッションを通じて考えるものとなっております。

イメージしてください。あなたに、軽度の不安神経症を抱え、コミュニケーション障害の悩みを有している友人がいたとします。その友人が会話型RPGをプレイしたいと言ってきた場合、あなたはどのようにふるまうべきでしょうか?

こうした問題を、「CBT的アプローチのセッション運営(第2回)は、コミュニケーションの位相から考えるものとなっております。つまり、介護の現場での経験を通して試行錯誤を続けてきた、一人のクリエイターによるシミュレーションが提示されているのです。

「CBT的アプローチのセッション運営(第2回)」は、第1回の内容を前提として書かれた記事ですから、早瀬以蔵さまのご指摘、ならびに本稿で強調された「危険性」の確認は、第2回を読むうえで大いに役立つでしょう。

「ブルーフォレスト通信2」も、併せてご覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)
ブルーフォレスト通信2 / グランペール

―――――――――――――――――――――――――

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
CBT的アプローチのセッション運営(第1.5回) by 伏見健二(Kenji Fushimi)、岡和田晃(Akira Okawada) is licensed under a Creative Commons 表示 – 継承 3.0 Unported License.

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第9回)

草場純 (協力:公成文)

―――――――――――――――――――――――――

◆第8回はこちらで読めます◆

―――――――――――――――――――――――――

失われた日本の伝統ゲームとして、次に連歌を挙げよう。

連歌はあまりに廃れすぎて、むしろ最近では復興の兆しさえあるが、極めてストリクトなルールに則るゲームでありながら、ゲームとして意識されることの少ない文芸である。馴染みのない方も多いと思うので、冒頭にその成立と沿革に簡単に触れ、ルールの概説をしよう。

伝説によれば連歌は日本武尊が開祖で、筑波とか筑波嶺の道とか呼ばれたそうであるが、現実には短歌の返歌や付歌として発祥したのであろう。長歌や旋頭歌の下地がそこにあったことも疑えない。つまり五七五七七と詠まれて五七五七七と返す、五七五と詠まれて七七と返すなどがその原型であったと想像される。もしそうなら、既にここに「問いと答え」というクイズ的、ゲーム的なものの萌芽を感じる。

筑波山は現在では全く面影もないが、歌垣で有名な場所である。歌垣というのは、まあ現代で言うなら合コン(合同コンパ)みたいなもので、若い男女が集まって歌を詠みあい、その後色々と楽しんだということだ。現代ならさしずめカラオケパーティーでもあろうか。ここには後の時代の、若衆小屋や連中や連衆、数寄や講などという集団遊芸につながる伝統が見て取れる。現代のゲーム会ではないか。

連歌が遊芸として(私に言わせればゲームとして)完成したのは鎌倉時代と言われる。同時にやんごとなき方々の楽しむ堂上連歌から、庶民まで楽しむ地下連歌へとの広がりも見せる。このことはゲームと階級性、あるいは階層性ということで、重要な論点なのであるが、今は深入りしない。

南北朝時代、関白の二条良基は、連歌式目を制定した。この「式目」というのは、要するにルールのことである。ゲームが「ルールと闘争性のある遊び」(草場1976 *註)であるなら、これはゲームとしての確立の要件である。これ以降の連歌は「新式」と呼ばれるのだが、仮にルールの成文化を以ってゲームの成立と考えるのなら、新式連歌はゲームと呼べるのではないだろうか。

そこで新式連歌のルール(式目)を見ていくことにしたい。もっともこの連歌式目も、その後もいろいろなものが出され、変化していく。

さて、連歌は一人でもできないことはない(独吟)が、普通は三人以上で行う。なぜなら二人(両吟)だと、一方が常に五七五を、もう一方が常に七七を担当することになるので、三人以上の奇数が望ましいとされるわけだ。(ゲームになぞらえるなら「多人数ゲーム」が一般的ということ。)

よくあるタイプは主人(ホスト)が、正客(ゲスト)と宗匠(先生)を招いて開く連歌会である。もちろん正客(主客)以外にたくさんの客(参加者)が居ていいのだが、ここでは説明のため、三吟としてみよう。

まず正客が「五七五」と一句詠む。これを発句と言い、後の世の俳句はこの発句が独立したものである。すると主人がそれを受けて「七七」とつける。これを脇句と言い、ここまでで二韻と数える。すると更にそれを受けて宗匠が「五七五」と続ける。これを第三と呼ぶ。実は後で述べるようにこの三韻目がなかなか難しく、だからこそ宗匠が担当することが多い。するとまたそれを受けて正客が「七七」とつけ、主人が「五七五」… と続けていくわけである。

一般的にはこれで最後に正客が百韻目の「七七」を詠んで終る。この百句目を「挙句」とか「結句」と呼ぶ。俗に「あげくの果てに…」などと言われる「あげく」はここから来ている。これが正式の百韻連歌である。

百韻とは短歌にして50首分であり、それではあまり長いので、五十韻、世吉(44韻)、歌仙(36韻)、半歌仙(18韻)なども行われた。半歌仙は3人で3首(6韻)ずつ詠めばいいので私も仲間と試してみたが、和歌の素養がないとなかなか難しい。

しかしそのぐらいで驚いてはいけない。十百韻といって千句、十千韻といって万句の連歌も催されたという。時代は下って江戸時代の記録だが、宗匠何某の屋敷に数十人の庶民が集まり、夜は灯篭に燈を点し、昼夜を別たず万句を越える連歌会を催したなどという話も出てくる。現代で言えば、視聴者参加型マラソンテレビ番組みたいな雰囲気であろうか。現代における連歌の零落ぶりと、江戸時代の庶民の教養の高さに、二重に驚かされる。

もっと公式の連歌会を連衆(れんじゅ)と言うが、これには普通「点者(てんじゃ)」と呼ばれる採点者(宗匠がなる)と「執筆(しゅひつ)」と呼ばれる公式記録者がつく。彼らは連歌には加わらない(加わることもある)。点者の仕事は採点であり、後に述べる式目の監督である。執筆の仕事は文字通り記録であって、和紙を半分に折り(半紙大)、百韻ならこれを4枚用意する。一枚目を「初折」と呼び、表に8句(8韻)裏に14句を記録する。二枚目を「二の折」、三枚目を「三の折」と呼び、それぞれ表裏に14句ずつ記録する。最後の四枚目を「なごり」と呼んで表に14句裏に8句記録し、合計百韻となるわけだ。これに主人(主催者)、宗匠が署名して公式記録とする。この記録を「折り紙」と呼ぶ。現代でも「彼の能力は折り紙つきだ。」などという、「折り紙」の語源である。

折り紙は現代にも多数当時の実物が遺っていて、中世・近世ゲームのリプレイ記録として貴重なものとなっている。

さて連歌が現代人に馴染みがないと予想されるので、その概要にやや詳しく触れたが、いよいよ式目の説明に入っていこう。

ここまでの説明で分かったと思うが、連歌は集団詩作である。リレー作詩であり、言語ゲームである。しかしゲームと言っても文学なので、採点は難しい。これは現代でも新体操やフィギアスケートの採点が物議をかもすのに近い。かつては「懸け物」と言って、点者によって高点をつけられた者に賞品が出されたりしたが、評価が主観によることは避けられず、評価を巡ったトラブルも少なからずあったようである。そういう意味で、ゲームとしての厳密さに欠ける嫌いがあるのは否めない。しかし現代でも、ロールプレイングゲームなどにはそうした曖昧さは付きまとっているだろう。むしろごく最近では、協力ゲームの隆盛に見られるように、ゲームの範囲の方が広がってきているようにも思われる。ならば、連歌が現代にゲームとして復活する日もあるのかも知れない。

そうした文学的な曖昧さ以上に、ゲームとしての難点は、それが芸術的創作の上に成り立っているというところにある。『ディクシット』や『ヒットマンガ』、『キャット&チョコレート』など、ごく最近のゲームに通ずると言ったらよいかもしれないが、もっと高度で、『ワンスアポンナタイム』を思わせるものがそこにはある。いやプレイヤーに要求される能力はもっと厳しいと言ってよさそうだ。

まず大前提として連歌に要求されるのは、当たり前のようではあるが、それが和歌であるということである。和歌とは日本の伝統的韻文定型詩である。それ自身約束事が多数あり、それを創るためには、詩作の能力と韻文定型詩に対する素養が必要であり、現代の文化状況では両者ともなかなか難しい。サラダ記念日がもっと大発展しないと、難しいのかも知れない。後段の「ゲームの受容」の議論を先取りするなら、プレイヤー集団に共有される文化的基盤が必要である、ということだ。

しかしここでとどまっていたのでは、話が進まないので、そこはクリアしたとして、いよいよ連歌の式目の詳細を述べよう。

連歌式目で前提として言われるのは、「付合(つけあい)」と「行き様(いきよう)」の相反する二つの指針である。

付合とは、マッチングである。当然だが、ある句は前の句とつながらなければならない。これは分かりやすいだろう。

行き様とは、変化である。付合だけを気にしていると、明らかにマンネリとなる。いつも狭い世界に終始し、発展せず、最悪の場合は堂々巡りとなる。

すなわち、連歌とはつながりつつ変化しなければならないわけである。あたかも弁証法のように、矛盾する二つの概念をかかえつつ発展し、全体として詩的世界を構築していく集団芸術なのである。

式目では付合には、平付け(順接)、対揚げ(逆説)、四つ手(ガッチリ付ける)、言葉付け(言葉の多義性を利用して付ける)、心づけ(言葉を離れ意味で付ける)、景気(状況でつなぐ)、引き違え(転換)、本歌(引用やパロディ)、本説(歌以外の引用)、名所(歌枕)、狂句(破調)、異物(あえてテーマを外す)などの手法があると解説されている。前述したように、第三(三韻目)が難しいと言われる理由はここにある。発句にはその連歌全体のテーマが求められるが、事前にゆっくり考えられる。脇句はとりあえずつければ上記のどれかにはなろう。それに対して第三は、その連歌の方向を決める役割が求められるわけだ。

関係性も複雑になる。ある「五七五」と、次の七七を飛ばしたその次の「五七五」との関係、あるいは同様に「七七」と一つ離れた「七七」との関係を、「打越(うちこし)」と言うが、打越どうしの、同じ雰囲気を持ちつつ離れた関係、あるいは同じ題材なのに微妙に雰囲気を変えた関係というような、受けつつ変え、変えつつ受けて進行する、螺旋のような構成がもとめられるのである。すなわち、いかに関係を保ちつつ変化させるかという技量が問われるわけである。

常に、付合と行き様を考えつつ、打越に注意を払い、全体のテーマを意識しつつ詩作するのだから、なかなかもって大変である。連歌を、高度なゲームと言う所以である。

けれども式目の真の眼目はここではない。眼目は、「去り嫌い(さりきらい)」に見られるような詳細かつ厳密な制限ルールにあるのである。

式目は時代が下るほど微に入り細を穿つようになり、ついには巨大になりすぎた恐竜が滅んだように、連歌そのものを廃れさせてしまったと考えられる。我々が連歌から学ぶべき一端は、そうしたルールの適正性であるのかも知れない。それを理解するためにもさらに式目を見ていこう。

式目にはまず賦物(ふもの)がある。賦物とは包括テーマである。例えば「源氏」とか「国名」とか「いろは」とかであるが、何かを寿ぐための連歌会だったりすれば、そのこと自体がある種の賦物として意識される。

賦物は発句にそのまま出たり、露骨には出なくても発句には賦物が強く意識される。
更に後代には、発句は月(moonではなくmonth)を詠み込むものともされ、これが俳句の季語に影響を与える。

そして去り嫌いであるが、これはある特定の語句の使用を制限するというルールである。これには二種類あり、それは「一座何句物」と「何句可隔物」である。

一座何句物は更に、一座一句物、一座二句物…とある。

一座一句とは一回の連歌で一回しか使ってはいけない語句で、例を挙げれば、梅・藤・杜若・鶯・郭公・鹿と、まるで花札のようである。しかし他にも、蛍・猿・若菜・蝉などがあり、更に、むかし・いにしえ・ゆうぐれ・しぐれ・夕立・木枯らしなどがある。なるほどこれらは確かに詩情に溢れた単語なので、何度も使うのは避けた方がよさそうではある。とは言え回数を制限するとは!

一座二句物は、二回まで使っていい言葉で、柳・桜・秋風・ふるさとなど。

一座三句物には、花・しぐれ・有明など。

一座四句物には、雪・世などがある。

要するに、参加者は「有明は既に三度出てきたからもう使えないな」などと意識しつつ詩作しなければならないということなのだ。

一方、何句可隔物は、ある単語は何度も使ってよいが、続けて使ってはいけない。何句か隔てて使えというものである。特に打越には厳しい制限がある。

とまあ、大まかに述べただけでも、点者がいて監督したり、執筆がいて記録を克明にとったりする必要性も納得されよう。

あまり煩雑なのでこの辺りまでとするが、更に後代になると「座」などというものまででてくる。

簡単にだけ触れると、例えば初折表七句目や、裏十句目は「月の座」とされた。つまりそこでは必ず月(moon)を詠まねばならないのである。ここまで来ると創作と言えるのかどうか疑問にすら思えてくる。

更に詳述は避けるが、折端や折立といったルール(テーマを一巡させる)などもあり、とにかく煩瑣を極める。私にはある種のシミュレーションーゲームのように複雑に思えるが、これは偏見だろうか。

けれども、こうしたルールの体系から学ぶこともまた多いように私には思える。例えば私のように詩心のない者には、ここまでガンジガラメにルールを定めてもらった方が却って作りやすいかもしれない。自由に詩作するとなればそれこそ才能が要求されようが、定型がかっちり決まっているのなら、凡人でも穴埋め式にそれをこなして楽しむことができるのかも知れない。ルールが煩瑣であるということは、反面では綿密であるということであり、連歌ゲームの復活は、ある意味可能であると私は思う。

また、ここまで微に入り細に渡ってルールを作り上げるスピリットにうたれる。我々には煩瑣に見えるだけではあるが、言葉の美と楽しみを芯まで汲み尽そうという、真摯で徹底した営みをそこに感じるのである。

さて、現代でもごく簡略化したルールで連歌を楽しんでいる人もいる。ネットとの相性もいいので、そのような試みもあるという。主として明治以降であるが、連句と称して、式目を大幅に軽減してやる手法も一時盛んになったし、現代でも連句の会はそれほど数は多くないものの、催されている。文芸としてはそれでも十分楽しめるだろうし、価値もあるだろうが、ゲームとしては逆に評価できないかもしれない。(形式的には、長句(五七五)と短句(七七)を繰り返す連句は、連歌と同じものになる。実際、江戸時代には連歌のことを連句とも呼んだ。)

では、式目を綿密に再現し連歌ゲームを再興したとして、それは果たして「連歌」だろうか。

例えば連句では、歌仙が巻かれたりする。つまり36韻の連歌と同様のものができるわけだ。けれどもそれは既に連句であって連歌ではない。ではどう違うのか。

縷々述べたことの繰り返しになりそうだが、連歌を連歌として支えているのは万葉から始まり、古今、源氏、新古今、その他諸々の日本の文学的背景そのものなのである。すなわち式目のような明文化された「お約束の体系」の背後にある、明文化されていない「お約束の体系」である。そこでは単語一つをとっても、その含意するところはお約束の網の目のなかにあり、そうした「素養」のないものには、「連歌ゲーム」は可能でも「連歌」はできないということになる。

これを私はこの連載の初期に「相」という概念として提出している。それを使って言い換えるなら、連歌は中世・近世の文化的相の中にある、ということになる。

近代に入って、子規などが試みたのはいわば相転移であった。その中にあって、かつての「暗黙のお約束の体系」は棄却されていき、連歌はいわば連句へとそのニッチを明け渡したことになる。あるいはお約束をやめて、写生を志すことによって、ニッチそのものが喪失したと言えるのかも知れない。

では我々は中世に生まれ変わらない限り連歌は詠めないのだろうか。しかり。大変な努力をして中世の文学的素養を身につけない限り、連歌は詠めないと言わざるを得まい。連歌が言語ゲームでありながら、そう意識されない理由の一端もここにある。

ならば連歌ゲームを現代にプレイする意義は、何もないのだろうか。

私はそのままの形では生きてこないと思う。だが千年に渡って磨いてきた言語ゲームのスピリットは、別の意味で現代に生かせると考えている。若干飛躍はあるが、現代の連歌ゲームとでも言うべき遊びを紹介して、その意義を示唆したい。

『詠み人知らず』(みなひともじ)というゲームがある。かんぽの会というゲーム会を主催する宮崎さんの考案になり、個人の創作ゲームなのでここでは詳細なルールは述べないが、文字による連歌といった趣の傑作ゲームである。とにかく面白く、採点もゲームとして工夫された名作である。

作者本人に確かめたわけではないが、恐らくこのゲームは連歌の伝統を直接的に受けたものではないだろう。しかし日本人が日本語と付き合って二千年。日本語を芯まで楽しむという意味で、「連歌」と『詠み人知らず』は通底していると、私は強く感じる。「連歌」を真に支えるのが、万葉・源氏等々の教養と言語センスなら、「詠み人知らず」を支えるのは、現代のテレビ、ネット、週刊誌等々で共有されるギャグとユーモアの言語センスなのである。

本当は『詠み人知らず』が連歌の影響を直接受けて成立しているのなら、「伝統ゲームを現代にプレイする意義」が、説得的に語れて好都合なのだが、そうだとは断言できないところが、少々残念なところではある。だが構造こそ違え、連歌が中世・近世的な相として存在するように、『詠み人知らず』は現代の相として存在するという意味で、共通していると思えるのである。

そしてここまで縷々述べたように、連歌はここまで詳細なルールを定めたゲームとして、多くのプレーヤーを擁しつつ千年の命脈を保ったのである。これを見直し、捉え返し、遊びなおして意味を汲み取ることができるのなら、それはきっと現代のゲームシーンにも意義のあることだろうと考えるものである。

*註 「SFマガジン」207号(1976年2月号)78ページ 「ゲームについて」

私がTRPGをセラピーとして使わない理由

先日、伏見健二さまの「CBT的アプローチによるセッション運営(第1回)」(初出:「ブルーフォレスト通信1」、グランペール、2010)を、岡和田晃の序文を添えたうえで、Analog Game Studiesに再掲載させていただきましたが、読者の方より、同記事と序文への対論をAnalog Game Studiesの公式メールアドレス宛てにお寄せいただきました。

寄稿者の早瀬以蔵さまとご相談のうえ、Analog Game Studiesに対論エントリとして全文掲載させていただきます。(岡和田晃)

なお、本対論への応答も併せてご覧ください。

―――――――――――――――――――――――――

【対論】私がTRPGをセラピーとして使わない理由
(【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1回)への対論)

早瀬以蔵

―――――――――――――――――――――――――

このような真面目な論考がたくさんある中で私の論ともいえないような文章を投稿するのは大変に恐縮なことですが、伏見健二氏論考の転載、「CBT的アプローチのセッション運営(第1回)」を読ませていただいて、精神医療・福祉のプロとしての意見、特に反論を述べたくなりましたので投稿させていただきます。

【目次】
1) 私は何者で、なぜこれを書くのか
2) 批判1:目的と論旨が逆方向である
3) 批判2:認知行動療法は治療法である
4) 批判3:認知行動療法における認知の考え方が間違っている
5) 批判4:児童の教育・思春期のトレーニング・うつに悩まされている方の自己実現・SST目的にTRPGが使われることは、特に有利でない
6) 私は娯楽としてのTRPGをある程度以上に回復した患者に推奨する
7) 私は行動心理学や認知心理学をTRPGに応用することを推奨する
8) TRPGはセラピーとして大きな欠陥がある
9) なぜ我々は趣味を本業や他分野に応用しようと思いがちなのか
10) 対人援助として趣味を扱い、工夫するそのこと自体が、対人援助性を損なう
11) 結論とまとめ

1)私は何者で、なぜこれを書くのか

私は福祉的病院施設に勤める30代の男性医師です。専門は小児科。特に精神疾患・心身症・発達障害と重症心身障害を専門とし、成人の精神科での勤務経験もあります。CBTを含む行動主義的アプローチと薬物療法を臨床の軸にしています。一方で、人生の一時期にうつを経験し、精神科医療を受けたこともあります。そして、当然、そのような経験をするはるか以前からの会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)ファンです。私がはじめてGMをプレイしたのは伏見健二氏の『ブルーフォレスト物語』でした。システムに組み入れられた世界観(あるいはその逆)にいたく感動したのを覚えています。以来30代になるまで、私の人生からTRPGが分離されたことは一度としてありませんでした。

私はTRPGを大切にしています。TRPGに、ある程度回復した患者さんが参加することを禁忌的に扱いたくはありませんし、そうすることで結局自分自身の損となる事をわかっていただきたいと思っています。

従前「困ったチャン」と呼ばれていた人たちを含めて参加する人を大切にするセッション運営をしたいと思っていますし、他の人にも推奨します。その中でコミュニケーションにかかわる心理学的知識とカウンセリング技法が参考になると考えてもいます。岡和田氏はこう書いています。

 会話型RPGが遊ばれる現場において、精神疾患を有していたり障害を有していたりする方の状況が正しく理解されず、いわゆる「困ったちゃんプレイヤー」として排斥されてしまう事例がままあります。これらの問題や対応について、容易な解決を見ることは難しいでしょうが、認知行動療法の予備知識があれば、そのプレイヤーを理解し、受容し、ゲームの仲間として楽しいひとときを共有するための何らかの糸口、思考のヒントを得られるかもしれません。少なくとも、従前よりも状況をより的確に理解することができるようになるのではないでしょうか。(中略)

そして可能であれば、うつ病、精神疾患、障害、認知行動療法等の専門書へアクセスし、知見を広げる契機としていただけましたら幸いです。

この目的には異議を唱える物ではありません。参考として挙げられている伏見氏の「バイステックのRPG」も良い文章であると思います。しかし、本論は上記目的の入り口としては不適であると考えます。内容的にもプロから見て大きな疑問があることと、誤解を招くように思うからです。

○2) 批判1:目的と論旨が逆方向である

さて、批判の一つ目は岡和田氏の掲載目的と再掲された文書の方向が逆方向である点です。岡和田氏の目的の一つは、要約すれば「CBT的考え方をTRPGセッション運営に生かす」という事でした。ところが、この文章は「TRPGをCBTとして運営しよう」ということです。論旨がまるで逆で、混乱をきたしています。要するに、引用する文章を間違えているのです。

○3) 批判2:認知行動療法は治療法である。

岡和田氏も伏見氏も、これは治療に関する文章ではないと言いますが、認知行動療法は名前の通り明確に治療です。CBTは認知心理学と行動主義心理学の治療的応用です。伏見氏は大きな誤解をしているようですが、CBTは誰でもできるようなパッケージでは決してありません。CBTを行うには背景理論に関する深い理解と、それを目の前のクライアントに即座に転用する熟練が必要となるのです。(実は、それを勘違いしている心理のプロも多く、生兵法のCBTを行っては、効果が上がらず首をひねる、ということを繰り返しています)要するに用語の選択を間違っているのです。「行動科学」をTRPGに応用する、というのであれば、無用の誤解はなくなるのではないでしょうか。

○4) 批判3:認知行動療法における認知の考え方が間違っている

CBTでは「認知モデル」に沿ってクライアントの体験や問題を整理し、それを変容したり、あるいはそれとうまく付き合う方法を考えたりする心理療法です。「認知モデル」とは、我々がこの世界、そして出来事を「どのようにとらえているか」をわかりやすく示すモデルです。

例えば、会社員Aが仕事上のミスをしたとします。ミスをしたという状況自体は過去の事なので変えることはできません。会社員Aはミスをした後から、 1:自分が無能であるという考え(認知)が頭を離れず、2:毎日の出社にだるさを感じる(身体反応)ようになります。出社しても、3:ぼんやりと過ごす(行動)ことが多く、4:ミスをした時のことを思い出すとその時の焦燥感(感情)が再現され、結果として5:仕事でミスをしてしまいます(行動)。そのため、6:自分が無能であるという思い(認知)が強くなります。

一方同僚Bも同じミスをしたとします。Bは1:ミスには原因があるはずだと考え(認知)、2:ミスの原因を探ります。(行動)3:結果、自分の能力に一つの欠陥がある事に気が付き、(認知)不快になる(感情)と同時に、4:ミスを挽回して上司を見返してやりたい(認知)と考えるようになります。5:結果として彼はミスの後から見違えるように仕事に熱心に取り組むようになりました(行動)。

重要なのはA、Bどちらがいいか、ということではなく、同じミスでも捉え方が違うだけで随分と反応が違う、ということです。人の考え方(認知)にはクセがあります。これは、生まれてから現在までに培ってきた知恵と考えることもできます。我々は外の状況をいちいち真っ新からとらえる時間はありません。しかし、時にその考え方の癖が私たちに牙をむくことがあります。この考え方の癖に気付くことそれ自体が治療的効果を持つと考えられますし、問題自体も整理されるので暮らしやすくもなってきます。さらにCBTではこのような自分の考え方の癖に対してそれを意識的に修正したり、あるいはそのような考えが頭をよぎることがあっても、それに対する身体的反応や気分の変化を日常生活に支障のないレベルに落ち着ける訓練をしたりします。

以上の意味で、伏見氏の認知行動療法の解説には誤謬があります。例えば氏の言う「思い込み」とは認知そのものであり、この修正が狭義のCBTの目標ですから、「思い込み」が原因と考えられる場合にこそ最も認知療法は適しています。そもそも「思い込み」でないことなど、究極的にはこの世にはありません。我々は認知を通さずに物事を認識することはできないのです。

細かいようですが、これは大事です。CBTにおける「スピリット」と言っても過言ではありません。伏見氏がCBTを微妙に勘違いしている事が論が的外れである証拠にはなりませんが、誤解を広める元にはなると考えます。

○5) 批判4:児童の教育・思春期のトレーニング・うつに悩まされている方の自己実現・SST目的にTRPGが使われることは、特に有利でない。

児童を実際に診ているとわかりますが、昨今のゆとり教育の中でさえ、児童の生活は失敗と成功の連続であり、その経験量はTRPGで得られるそれをはるかに上回ります。それを、学校や地域社会という揺籃の中で経験することによって(失敗が、取り返しのつかないことを起こさない場で)児童は育っていきます。このことを心配するなら、やるべきは児童の成功/失敗に対する親・先生の態度や児童にかかわるあなた自身の態度の修正です。わざわざTRPG を用いる必要はありませんし、後述する般化の問題によってむしろ不利であると考えられます。

ほぼ同様の理由で、伏見氏の挙げるTRPGはほかの日常生活や趣味と比較して特に有利な側面は皆無です。

○6) 私は娯楽としてのTRPGをある程度以上に回復した患者に推奨する

私は、セラピーとしてTRPGを採用しません。実は精神科医療の世界にはTRPGファンは少なくありません。ロールプレイングという言葉自体が精神科医療に大変近しい言葉ですし、即興演劇の力をセラピーに結び付けようとするサイコドラマという方法論もあります。私を含めて多くの人がTRPGはセラピーとなりうるのではないかと考えたかと思います。もちろん私自身も真面目にTRPGがセラピーとして成立するかどうかを考えたことがあります。答えは、否、でした。

しかし、娯楽としてのTRPGの活用は推奨できるかと考えます。実は、娯楽は精神科的リカバリの大きな柱です。大変意外なことかと思いますが、疾患にかかわらず多くの精神科患者が「余暇を楽しむ能力」そのものに障害を抱えています。余暇を楽しむことは、ストレスに有効に対処し、健常な精神生活を送るうえで欠くべからざるものです。

また、TRPGはコミュニケーションを基盤としたゲームです。相手を必要とする趣味は、それ相応のコミュニケーションの練習となると考えてよいでしょう。精神科的リハビリテーションの場では、工作などの自分一人でできる趣味と、球技など相手を必要とする趣味の両方が推奨されます。

そのような意味で、多くの趣味に比べてTRPGが劣る点・禁忌的な点は特に見当たりません。ですから、余暇支援としてのTRPGの活用は止める理由がありませんし、一TRPGファンとしては応援したいところです。

○7)私は行動心理学や認知心理学をTRPGに応用することを推奨する

心理学は、(人間の)心的過程と行動に関する学問であり、そこには実生活に応用可能な多くの示唆が含まれています。一方でTRPGにおける諸問題は、心的過程と行動への自他からの干渉の問題と考えることができますから、心理学の直接的応用分野と言っても過言ではありません。

例えば行動主義心理学は、環境刺激や言語刺激と人間の行動の間にある程度の法則があることを示唆します。そして、いかなる干渉がいかなる反応を生み出すかということについての例をたくさん記述しており、それは直接的にTRPGを楽しくすることに援用可能でしょう。

TRPGに心理学の知見を応用することで、単に繰り返し遊ぶよりも上達が望めると考えられます。

○8 )TRPGはセラピーとして大きな欠陥がある

そうしてみると、TRPGにはセラピーとしての可能性があるように思えてきます。では、TRPGがセラピーに使えるように改造していくことにしましょう。

TRPGにおいて、葛藤と問題解決は大きなテーマです。この事を持って問題解決に役立つ思考を鍛えるのは理に適っているようにも思います。また、成功体験自体も精神的に良い影響を与えるものと考えられます。しかし、TRPGにはセラピーとして大きなネックがあります。それは、キャラクターを作り、GMが提示した仮想の問題で遊ぶという点にあります。

皆さんは競技に参加したことはありますか? そこで、「練習では十分にできたことが本番ではできない」ということを経験したことはありませんか? なぜそんなことが起こるのででしょうか。本番では一発勝負だから? 相手が違うから? 会場が違うから? 体調のせい? いろいろ理由はあると思いますが、結局のところ練習と本番では「文脈が違う」のです。よく専門家外の人たちの言う「般化」の問題として考えると分かりやすいと思います。

「般化」とは、「ある状況でできたことが、別の状況でもできるようになること」を表します。初期の行動療法や認知療法で問題になったのが(そして今でも問題であり続けているのが)、この「般化の壁」でした。セラピーで身に着けたスキルや考え方が日常生活で作用しないのです。

例えば、高所恐怖症の人がセラピストと共に何度か高いところからの映像を見て恐怖を克服したとします。ところが、いざセラピストと共に高いところに上るとまた恐怖がよみがえってきます。それが平気になったっとしても、今度はセラピストがいないだけで恐怖がよみがえってきます。それが平気になってもこんどは上るビルが違うと恐怖がよみがえってきます。

ちなみにこのことは成功体験にも言えます。セラピーでの成功体験と自己肯定感が日常生活で持続しないのもよく見られる現象です。

習得したスキルを「どこでも使えるようになる」というのは、意外なほど高い壁です。セラピーの中だけでの問題解決は真の問題解決たりえません。日常の生活の中で問題解決思考ができてこそのセラピーです。

一方でいきなり現実の状況に出るのはリスクの大きいことです。守られ、安心できる状況でこそ、傷ついた人々は一歩踏み出す気になれると言えますし、もしそこで手痛い失敗をするならば、状況は悪化するかもしれません。

セラピーはこのバランスを取らなければなりません。この壁を乗り越えるために、CBTは、いえ、全てのカウンセリング技法は工夫を重ねてきました。1:宿題の設定(セラピーの結果を日常で試してみる)、2:できるだけ生活に近い場でのセラピー、3:セラピストを何度か変更する、4:「今」「ここ」の問題を取り扱う(日常生活ですぐに問題場面が表れて練習しやすいからです)、5:漸次接近(限定状況から始めて徐々に状況を開放していく)、6:文脈に左右されないほど強固にスキルを定着させる等等です。現行のTRPGでは、環境設定が現実と違いすぎます。漸次接近の最初の入り口としてもやはり遠いと言わざるを得ません。「私ではない人」が、「今でない時」「ここに含まれる誰も実際にはチャレンジされたことのない問題に挑む」という状況設定は般化を難しくします。

ですから、一工夫してみましょう。まず、キャラクターは「私」としましょう。誰かほかの人に「私」になってもらうのもいいかもしれません。「問題」はメンバーの中から募りましょう。身近な問題こそ般化がなされやすいからです。さらに「これからも形を変えて起こりうること」を題材に選びましょう。行動判定はやめましょう。「実際にできること」のみがあなたの能力です。

さて質問です。これはTRPGですか?

質問の答えがYesでもNoでもいいのですが、実際のところこうしたセラピーはもう既に存在しています。先にあげたサイコドラマや、行動療法の一種であるところのソーシャル・スキル・トレーニング(SST)がそうです。そこにはTRPGで追及されていない、治療へ向かう意図と技法が含まれています。セラピーという意味では、既存のTRPGはサイコドラマやSST、そしてCBTのデッドコピーと申し上げても過言ではありません。従って、セラピーの貴重な時間を効率の悪い欠陥品に費やす必要性は全くありません。

○9) なぜ我々は趣味を本業や他分野に応用しようと思いがちなのか

一方で私自身はTRPGから多くの学びを得ました。その中には人生に関することや診療に関することがたくさんあります。私にはなぜ般化が起こったのでしょう。

一つには、TRPGでの問題解決を、何も物が考えることができなくなるほどたくさん繰り返してきた、ということが挙げられます。文脈が影響を及ぼさないほどに私の中でスキルが定着した、ということです。少なくとも数人には「同じ経験をした」と言っていただけると思うのですが、それこそ「猿のように」ただただTRPGとボードゲームを遊び続けた日々が私にはあります。週末の60時間をすべてゲームにささげることも稀ではありませんでした。

もう一つは暗喩の効果であると考えます。意味を明示しない例え話は、個人個人で異なる解釈を生み出し、それぞれの立場に応じた教訓となりえます。

身近なところでは童話がそのような効果を持ちます。少しの間、自分の今の悩みについて考えてみてください。そのことを考えながら、次の文章を読みます。

http://hukumusume.com/douwa/pc/world/10/03.htm

有名なグリム童話「ブレーメンの音楽隊」です。もしかすると、今の悩みに対して漠然とした教訓を感じませんでしたか? しかし、その内容は人によって違うと思います。例えば、「海外留学をしようかどうか迷っている」人がいるとしましょう。その人はこのお話のどの部分に反応するでしょうか? 「旅立った」ところでしょうか?「みんなで旅立った」ところでしょうか? 「年を取ってから旅立った」ところでしょうか?「泥棒が影と音を恐れた」ところでしょうか?「影によって追い払った」ところでしょうか? 「結局ブレーメンにはいかなかった」ところでしょうか?

どこを選ぶかによって教訓の意味は変わります。そしてその教訓を与えたのは実は童話そのものというよりも読んだその人自身なのです。

そのような意味で暗喩には教育効果が確かにありますが、そもそも、暗喩から得られる学びは、実は「自分で作った」ものです。つまり受け取り方、「認知」によって左右されます。ですから、自己に不利な認知を持つ人は、自分を追い詰める教訓を選ぶかもしれません。また、私たちは日常生活のあらゆる場面から暗喩を取り出すことができます。TRPGから得られる暗喩が野球から得られるそれを上回るという保証はありません。

さらに、帰属の錯誤である可能性があります。我々は、起こったことを今までの行動の結果と思いたがる傾向にあるようです。TRPGをたくさんした後で、コミュニケーション態度が良くなると、「TRPGのおかげだ」と思いたがるわけです。本当はほかの事が効いているのかもしれません。

いずれにせよ気を付けたいことは、人生の多くの時間を何か一つの趣味に割き、そしてそこから人生に大きな成果を得たと考えている人(つまり、我々)は、他の人にもそれが起こると信じがちであるということです。

TRPGは大変楽しい趣味であり、そこで生まれるコミュニケーション体験は独特で、他に代えがたいものがあります。しかし大局的に考えると、精神生活に対するベネフィットを得るためには、その趣味がTRPGである必要はありません。むしろあらゆる趣味が含まれると言えます。もし、TRPGを無理やりCBTとして考えるならば、CBTにはほとんどあらゆる対人娯楽が含まれることになります。テニスセラピー、卓球セラピー、野球セラピー、サッカーセラピー、カーリングセラピー、共同農作業セラピー、チェスセラピー、マルチゲームセラピー、株取引セラピー。これらも他に代えがたい独特のコミュニケーション体験を提供します。これらもセラピーとして考える、という前提であれば、TRPGをセラピーと考えてもいいかもしれませんが。TRPGは数多くの娯楽の一つに過ぎず、だからこそ一生を共にするにふさわしいのです。

○10)対人援助として趣味を扱い、工夫するそのこと自体が、対人援助性を損なう

我々対人援助者が娯楽を対人援助として使用するときに特に気を付けなければならないことがあります。それは、「必要以上の気を使って趣味の形をゆがめない」事です。

障害者スポーツを見たことがおありでしょうか。そこでは様々な工夫がなされていますが、例えば水泳で「泳ぐこと」に必要以上の手助けをしたりしません。腕がないからと言って足ひれの使用を認めようとかいう議論が起こることはありません。そうすることによって水泳は競技者にとってつまらないものになってしまうからです。ああなるかも、こうなるかもと事前に手をまわし過ぎると、これもまた、趣味の魅力を奪います。

さらに「狙い」を絞りすぎるのも失敗のもとです。前述のように、趣味に意味づけするのは趣味を行う人自身です。ベネフィットは主体的に選び取るものであり、それこそがエンパワーメント(主体的な力の回復を促す)ことになるのです。伏見氏の工夫の殆どは余計なことです。

その人の動機づけを高め、楽しい趣味の場を提供すれば、その人は自然に自らを助けていきます。腐心するべきは、そのゲーム体験を援助者自身が楽しめて、おそらく参加者が楽むであろうものにすることです。TRPGから学んでほしいことを必要以上に意識する必要はありません。

○11) 結論とまとめ

1:TRPGはほかの日常生活や娯楽と同等にセラピー効果と教育効果が期待できる。

2:TRPGに心理学的知見(≠CBT)を応用することでより良いプレイが実現する可能性がある。

3:TRPGをCBT、SST、教育として考えるとき、般化(文脈)の面で大きな欠陥を抱える

4:その欠点を補うと、既存の他のセラピーとなり、特にTRPGを用いる必要がなくなる

5:精神生活や教育に対する趣味や娯楽が持つベネフィットは一般に考えられているよりもはるかに大きく、であるがゆえに、もしもTRPGを対人援助として役に立てたいならば、下手な工夫をするよりもTRPGがもっと面白くなるように工夫するべきである。

「たかが娯楽」とか「趣味の範囲」という表現をよく聞きます。私たちは娯楽を娯楽以上のモノにしたくてたまらなくなります。しかし、娯楽の力を過小評価してはいないでしょうか。娯楽は、娯楽としての側面を追求するだけでも十二分に絶大な影響力とベネフィットを持つのです。娯楽を超えようという試みも徒労ではありませんが、TRPGはTRPGとして誇ってよいと私は考えます。

―――――――――――――――――――――――――

早瀬以蔵(はやせ・いぞう)

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
私がTRPGをセラピーに使わない理由 by 早瀬以蔵(Izo Hayase) is licensed under a Creative Commons 表示 – 継承 3.0 Unported License.