アナログゲーマーのための「SFマガジン」ガイド(2011年3月号):SFの最前線を知ろう!


アナログゲーマーのための「SFマガジン」ガイド(2011年3月号):SFの最前線を知ろう!
 岡和田晃


 Analog Game Studiesをご覧の方の多くは「SFマガジン」(正式表記は「S-Fマガジン」)という雑誌をご存知かと思います。1960年の創刊から50年以上も継続している、日本唯一の月刊SF専門誌です。

 そして今月号(2011年3月号)のSFマガジンは、Analog Game Studiesの読者の方に、ぜひともチェックしていただきたい内容となっておりますので、簡単にご紹介をさせていただきます。

S-Fマガジン 2011年 03月号 [雑誌] [雑誌] / 早川書房 (刊)
 まず、目玉は2010年度英米SF受賞作特集。

 (とりわけ)海外のRPGやボードゲームの世界観やルールシステムは英語圏のSF小説に影響を受けていることが多いのですが、その最前線を日本語で追いかけることができる内容となっています。

 詳しくはP.54の橋本輝幸氏による「2010年度・英米SF受賞作特集」、「2010年度受賞作リスト」ならびに特集解説に詳しいので、こちらでは屋上屋を架すような真似は避けますが、Analog Game Studiesでも取り上げたチャイナ・ミエヴィルをはじめ、SF(ファンタジー)界の動向がわかりやすくまとめられています。 P.269の加藤逸人氏による「英米SF注目カレンダー2009」と併せて読めば、英語圏でのSFの流れを大まかに把握することができるでしょう。山岸真氏らによる、(SF界を代表する賞)「ヒューゴー/ネビュラ賞歴代受賞作リスト」は1997年に掲載されたものから更新が加えられているようです。

 今月号に収録された小説作品の中では、海外SFファンに衝撃を与えたキジ・ジョンスンの短編小説「孤船」がなんといってもおすすめです。

 アナログゲーマー(そしてSFファン)が往々にして目を背けるか無自覚に反芻してしまう、あるデリケートな――しかし極めて重要な――問題について再考を促す衝撃的な作品となっています。わずかに内容に触れただけでも興趣(という言葉もこの作品には似合いませんが)を削ぐ可能性がありますので、詳しく紹介はしませんが、この短編のためにだけでも、今月号のSFマガジンを買う価値はあります。

 ほか、ピーター・ワッツの「島」、そしてカレン・ジョイ・ファウラーの「ペリカン・バー」は、アナログゲームでも主題とされることが多い閉鎖的な空間の取扱い方/世界観の解釈について、示唆的な内容となっています。こちらも、より踏み込んだ内容紹介についてはP.54の橋本輝幸氏の解説をご覧下さい。

 続いて、P.266からの「SF SCANNER 特別版」では、石亀渉氏によるパオロ・バチガルピ(Paolo Bacigalupi)の「ねじまき少女」(The Windup Girl)の解説、後藤郁子氏によるチャイナ・ミエヴィル「都市と都市」(The City & the City)、市田泉氏のシェリー・プリースト(Cherie Priest)の「ボーンシェイカー」(Boneshaker)の解説が充実しています。これらはいずれも英語圏では非常に高い評価を受けていながら、邦訳がない長編小説群であり、その筋書きをまとまった形で手堅く押さえられる機会は貴重です。どの作品にも、おそらくサイバーパンク以降の現代SFに通用する共通した問題意識が垣間見え、アナログゲーマーの方にも関心を抱いてもらえる内容になっていると思います。

 連載群では、飛浩隆氏の連載「零號琴」は、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』と壮大さがジャック・ヴァンスの「月の蛾」の色調でずらされるかのような、驚きの読後感がもたらされる作品になっています。

 巽孝之氏監修になる「現代SF作家論」は、金子隆一氏によるアーサー・C・クラーク論。かつてクラークの訃報は多くのアナログゲーマーにも悲嘆をもたらしましたが、クラークとは何者だったのか、そしてハードSFとは何かを問う評論は、全体を貫く因果律の設定が重要なアナログゲームの現場にも何かしらのヒントを与えてくれることでしょう(ある意味、ワッツ「島」ともシンクロする内容かもしれません)。

 「てれぽーと」欄には、蔵原大氏が講師をつとめるSF乱学講座の告知「ウォーゲーム(図上演習)の歴史:クラウゼヴィッツ、H.G.ウェルズからオバマ大統領まで」(2011年2月6日)が掲載されております。より詳しくは、Analog Game Studiesの以下の記事も併せてご覧ください。

http://analoggamestudies.seesaa.net/article/181199132.html

 そしてAnalog Game Studiesの読者の方にとりましては、池澤春菜氏のエッセイ「SFのSは、ステキのS」も見逃せません。

 こちらでは、池澤春菜氏が会話型RPG(TRPG)『迷宮キングダム』(河嶋陶一朗/冒険企画局著、ホビーベース)を遊んだ経験がレポートされています。『迷宮キングダム』とは、世界全体がダンジョンと化してしまった世界(百万迷宮)を舞台に、ダンジョン探険と国家経営シミュレーションが同時に楽しめるユニークなコンセプトの作品です。ランダム・チャートが駆使されたセッション経験が軽快に綴られており、coco氏の楽しいイラストと相俟って、会話型RPGのライブ感が伝わってくるような文章になっています。

 なお池澤春菜氏は「ファンタジー寄りばかりではなく、もっとSFなTRPGはないものか」と、『キャプテン・フューチャー』、『タフの方舟』、『地球の長い午後』など、SF小説の名作群の名前を例として挙げておられますが……。

 実はあるのです、SFをフィーチャーしたRPG。それも、とっておきのものが。

 もったいぶるわけではありませんが、近いうちに、Analog Game Studiesが熱烈に推薦するSF-RPG『Eclipse Phase』を、Analog Game Studiesのウェブログ上で継続的にご紹介することができると思います。ご期待下さい。

・チャイナ・ミエヴィルについては、「RPGゲーマーのための『ペルディード・ストリート・ステーション』ガイド」もよろしく!
http://analoggamestudies.com/?p=184

・キジ・ジョンスン「孤船」のイラストをこちらで見ることができます。
http://quietblue.exblog.jp/14802756

追記:
『エクリプス・フェイズ』についての解説文はこちらで公開されました。
http://analoggamestudies.seesaa.net/article/183475700.html

S-Fマガジン 2011年 03月号 [雑誌] [雑誌] / 早川書房 (刊)

ロバート・J・シュワルブ/アリ・マーメル『サイオニックの書』(滝野原南生/柳田真坂樹他訳、ホビージャパン)でサイオニック・セッションを!

【新作紹介】ロバート・J・シュワルブ/アリ・マーメル『サイオニックの書』(滝野原南生/柳田真坂樹他訳、ホビージャパン)でサイオニック・セッションを!
 岡和田晃


 世界最初のRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(D&D)は現在でも、まったく新しいシステムを搭載した第4版が精力的に日本語展開されています。その色調は『指輪物語』に影響を受けたハイ・ファンタジーを基体としながら、魔法が近代科学のように発展を遂げた世界を扱う(スチーム・パンクならぬ)マジカル・パンクな世界であるエベロンなど、いくつもの新たな試みが加えられています。

 そして今月、D&Dの可能性にまた新たなマイルストーンを加えるサプリメント『サイオニックの書』(滝野原南生/柳田真坂樹他訳、ホビージャパン)が発売となりました。

サイオニックの書 (ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版) [大型本] / ロバート・J・シュワルブ, アリ・マーメル (著); 滝野原南生, 柳田真坂樹, 桂令夫, 塚田与志也 (翻訳); ホビージャパン (刊)

※D&Dについてご存知ない方は、以下のリンク先から、詳しい解説を読むことができます。

『D&D第4版 スターター・セット』プレビュー
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/news/4th_starter/index.html
Webリプレイ:『竜の予言に選ばれし者たち』
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/article/web_replay_eb/index.html

 『サイオニックの書』には、主に『プレイヤーズ・ハンドブックIII』によって導入された、サイオニック(超能力)にまつわる拡張ルールや設定が収録されています(『プレイヤーズ・ハンドブックIII』と併用することを前提として書かれている本です)。

 『プレイヤーズ・ハンドブックIII』によって、さながらシオドア・スタージョンのSF小説『人間以上』や(映画にもなった)アメリカン・コミック『ファンタスティック・フォー』等に登場する異能者たちを思わせる超能力を、あなたのセッションに持ち込むことが可能になるというわけです。

 あるいは、香港映画などに登場するモンク(格闘僧)のトリッキーなアクションをD&D第4版で表現することもできるようになった次第です(D&D第4版では、モンクはサイオニック・クラスとして扱われます)。

 加えて、異星人を思わせる外観をし、ストイックに自らを律する種族ギスゼライ、結晶生命体シャードマインド、心に迷宮を抱える牛頭人身種族ミノタウロス、そして植物人間ワイルデンといったヒューマンやエルフ、ドワーフなどとはひと味違うエキゾチックな種族でD&Dを遊ぶことも可能になりました(これらの種族の多くは、サイオニックに高い適性を有しているのです)。

 『サイオニックの書』の「はじめに」にも書かれていますが、これまでサイオニックについてのルール的/世界観的な位置づけについては、さまざまな試行錯誤が重ねられてきました(その歴史は1976年の「Eldrich Wizardry」にまで遡ります)。日本語環境においては、第3.5版の『サイオクス・ハンドブック』が嚆矢となり、D&Dの世界に超能力がお目見えすることとなりました。

 そして今回発売となった『サイオニックの書』は、基本的な枠組みやデータの提示、拡張に留まらず――超能力についての記述をさらに深める、サイオニクスの歴史にとっていわば記念碑的なサプリメントなのです。

 『プレイヤーズ・ハンドブックIII』に掲載されたサイオニックのルールは斬新なものでした。これまでルール運用にあたって抱いていた固定観念を良い意味で覆されるようなルールの数々は、初めての人には新鮮な喜びを、マンネリ化したプレイグループには嬉しい驚きを与えてくれるでしょう。
 とりわけ、新しい概念「パワー・ポイント」(モンクの場合は、各パワーの移動用法と攻撃用法)を活用していかに戦局を有利にするかという点は、まさにプレイヤーの知恵の見せどころだと思います。D&Dの戦闘はグリッドマップを活用したミニチュアの移動と、ヒット・ポイントの変化や状態異常の付与/剥奪による戦局の流動性に大別される、良い意味で単純明快なものだと言えますが、サイオニックはそこから導きだされる数理的モデルに思いもかけない変化が生まれるようなシステムとなっています。

 あなたの周りに「ファンタジーなんて、どれも同じでしょ」などとうそぶく、すれっからしのゲーマーはいませんか? あるいはD&Dを遊びこむうちに、今までとは切り口の違う斬新なキャラクターを演じてみたいという欲求も生まれてくるはずです。そうした人にはサイオニック・セッションをお薦めしたいと思います。

 例えば『プレイヤーズ・ハンドブック』、『プレイヤーズ・ハンドブックIII』、『サイオニックの書』(DMは『モンスター・マニュアルIII』を使用)というレギュレーション(縛り)で、またひとつ新たなアドベンチャーに挑戦してみるのはいかがでしょう(ちなみに『プレイヤーズ・ハンドブックIII』は、『プレイヤーズ・ハンドブックII』を持っていなくても活用することができるサプリメントです)。きっと、新たな発見があるはずです。

 また(残念ながらいまだ未訳であるものの)D&D第4版にはサイオニックをフィーチャーした「Dark Sun」という背景世界も導入されていることですし、超能力縛りでD&Dを遊んでみると、あなたのファンタジー観はより深みを増すことと思います。何より、D&D第4版のルール・メカニズムの奥深さを垣間見ることができるでしょう。

 DMにとって、『サイオニックの書』や、サイオニック・キャラクターが対峙するモンスターを数多く収めている『モンスター・マニュアルIII』は、フレーバー・テキストも特に充実した内容となっており、奥行きのあるシナリオをデザインする際、大いに役立つことと思います。

 「でも、私はあくまでハイ・ファンタジーが好きなんだ。超能力を入れたら世界観や雰囲気が壊れるだろ?」と心配に思っている方もいるかもしれません。

 ただ、D&D第4版でのサイオニックは、SFやアメリカン・コミック、香港映画などを彷彿とさせるエキゾチックな色合いを残しながらも、自然な形でハイ・ファンタジーとの融合が模索されています。それゆえ、ご心配は杞憂です。

 つまりサイオニックの英雄たちは、“彼方の領域”からやってくる異形と呼ばれる存在(大雑把な言い方をすれば、クトゥルフ神話に登場するクリーチャー群を思わせる存在)と対峙するという、明確な存在意義を与えられているわけです。サイオニックだからといって、武勇や秘術の力を軸にした英雄たちから、浮いてしまうことはないのです。

 とりわけ第5章の「サイオニック系キャラクター用選択肢」は、既存のキャラクターにサイオニックな背景を与えるためのアイデアが豊富に盛り込まれています。

 また本作のメイン・デザイナーのロバート・J・シュワルブは『ウォーハンマーRPG』をはじめとした各種RPGに深く関わっているキャリア豊富な実力派デザイナー/ライターであり、セッションに深みを与えるアイデアの数々と卓越した文章力には目を瞠るものがあります。翻訳も原文の面白さを引き出した愛あるものになっており、とりわけモンクの章は一見の価値があると言えるでしょう。

 さあ『サイオニックの書』を活用し、“彼方の領域”から自然世界を侵食せんと企てる、恐るべき狂気を食い止めましょう!

精神の力を解放せよ!
 この世界と“彼方の領域”の狂気の間に立ちはだかるのは君しかいない!
 心身を律する旧き教えを学んだ君は、自らの意志の力を操る力を身につけた――君の意志は思考と夢の、そして君の精神を外に投影し、他者の精神を支配する魔法として働くのだ。
 心身を合一させてひとつの武器と成し、外界からやってくる狂気の力に立ち向かう君は、すなわちサイオニックの英雄、鋼の意志で築いた砦である。
 本書は『プレイヤーズ・ハンドブックIII』を用いて作成したサイオニックのキャラクターに、今まで見たこともないような選択肢を贈るものである。本書には、アーデント、サイオン、バトルマインド、モンクのクラス用にデザインされた新たなパワー、特技、伝説の道、そして神話の運命が収録されている。
 また、サイオニックの伝統に関する背景情報や、荒々しい様々な才能のためのルール、2種の新たな種族、それに新たな作成オプションやクラス特徴は、君のお気に入りのサイオニック系クラスをプレイするにあたっての新たな選択肢を与えてくれるだろう。

『サイオニックの書』のプレビューはこちらから読めます(D&D日本語版公式サイト):
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/news/4th_psp/index.html

プレイヤーズ・ハンドブックIII (ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版) [大型本] / マイク ミアルズ, ブルース R コーデル, ロバート J シュワルブ (著); 桂 令夫, 岡田 伸, 北島 靖巳, 楯野 恒雪, 塚田 与志也, 柳田 真坂樹 (翻訳); ホビージャパン (刊)サイオニックの書 (ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版) [大型本] / ロバート・J・シュワルブ, アリ・マーメル (著); 滝野原南生, 柳田真坂樹, 桂令夫, 塚田与志也 (翻訳); ホビージャパン (刊)モンスター・マニュアルIII 第4版 (ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版) [大型本] / マイク ミアルズ, グレッグ ブリスランド, ロバート J シュワルブ (著); 桂 令夫, 岡田 伸, 北島 靖巳, 楯野 恒雪, 塚田 与志也, 柳田 真坂樹 (翻訳); ホビージャパン (刊)人間以上 (ハヤカワ文庫 SF 317) [文庫] / シオドア・スタージョン (著); 矢野 徹 (翻訳); 早川書房 (刊)ファンタスティック・フォー[超能力ユニット] (Blu-ray Disc) / ヨアン・グリフィズ, ジェシカ・アルバ, クリス・エヴァンス, マイケル・チクリス (出演); ティム・ストーリー (監督) 投稿日: カテゴリー 新作紹介

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第5回)

草場純

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◆第4 回はこちらで読めます◆

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日本のメジャーな伝統ゲームと言えば、将棋・囲碁・絵双六・麻雀・かるた・連珠と五目並べ・花札といったところだろうか。これ以外の伝統ゲームは、マイナー、瀕死、滅亡のどれかと言ってよいだろう。

高橋浩徳氏の『日本伝統ゲーム大観』大阪商業大学アミューズメント産業研究所刊 には、86種の日本の伝統ゲームが挙げられている。そのうち多くは、瀕死のゲームと言ってよいかも知れない。それを参照しつつ、もう少し事例を取り上げよう。

盤双六は、日本のバックギャモンとでも言うべきゲームであり、滅亡したゲームである。滅亡したゲームだから厳密なルールは完全には解明されていない。従って以下の細部は文献からの推定の域を出ない。

推定されるルールは、大枠に於いて現行のバックギャモンと同様である。それも当然で、飛鳥時代(7世紀あるいはそれ以前)に日本に伝来したバックギャモン(の祖先)が盤双六だからである。とは言え両者には千三百年の隔たりがあり、当然相違点もある。

現行のバックギャモンと盤双六の相違点は、

①まずバックギャモンにあるダブリングキューブは、盤双六にはない。これはダブリングキューブの発明が、20世紀のバックギャモンに於いてであるから当然である。

②ぞろ目はバックギャモンでは4回プレイするが、盤双六では2回のプレイとなる。これは、古いバックギャモンのルールは、実はそのようだったと伝えられていてる。

③オープニング(初手)は一つずつダイスを振って決め、そのまま動かすバックギャモンに対し、盤双六では先手を決めてから二つダイスを振り出して始める。これも、古いバックギャモンのルールはそのようだったと伝えられていて、現在でも国や地域によってはこのルールが残っているところもある。

④盤双六にはベアリングオフがない。このことは最も重要なバックギャモンとの違いだが、ベアリングオフはバックギャモンの専門用語なので、ここでバックギャモンをご存知ない方のためにちょっとだけ補足すると、要するに双六だから「あがり」を目指すゲームなのに、バックギャモンはあがりまでやるが、盤双六ではあがりの準備ができたところでゲーム終了になるのである。

この④のルールが大きな意味を持ってくる(と私は考える)。なぜなら、(①)②③は、少し昔のとは言えバックギャモンにもあったルールであるのに対し、この④は全く日本の盤双六に特有のルールだからである。

この先の議論は後段の「ゲームの受容」の領域になるが、盤双六に限っては受容の変遷が深く内実(ルール)の変遷にかかわっているので先回りして考察を進めよう。

盤双六は、中世には猖獗を極めたにもかかわらず18世紀末にはすっかり衰退し、忘れられたゲームとなってしまう。即ち相転移が起るのだ。これが「盤双六の謎」であり、衰亡の理由について様々な憶説が唱えられてきた。ここではその詳細に触れている余裕はないので、私の仮説のみを述べると「つまらなかったから廃れた」という身も蓋もないものである。ではなぜ中世では盛んだったのか。一つにはセネトのところで述べたように、ほかに面白いゲームが少なかったからだろうが、私はもっと大きな理由として「正しいルールが失われたから」だろうと考えている。

私の推測では、上記②のルールにより、ノーコントタクト後のプレイが単調になった(ぞろ目がないので波乱がない=リードしている方がそのまま勝ってしまう)。→→④ベアリングインでゲームをやめてしまう。→→最後の逆転がなくなりゲームとしての魅力が衰える。→→プレイヤーが少なくなり、ますます伝承ができなくなる。というシナリオなのではないかと推察している。言い換えれば、ルールの劣化がゲームの社会における扱い(相)を変換させてしまった、と考えるのである。

ただしもとよりこれは文献的な裏づけのない、私の推察・仮説にとどまるものである。上記のルールの劣化が起った時代も特定できない(私は江戸時代前半と考えているが確証はない)。

「伝統ゲームを現代にプレイする意義」という主題に対しては、盤双六はネガティブな材料となろう。恐らく盤双六が現代に復活することはあり得まい。現代では盤双六のニッチは、すっかりバックギャモンにとって変わられているからである。これはしかし、外来種が在来種を駆逐したのではない。おっとり刀でブラックバスやブルーギルがやってきたときには、在来種はもう自ら滅んでいたのである。いやむしろニッチそのものがやせ細っていたと言うべきである。ニッチの一部は確かに絵双六へと引き継がれたのだが、絵双六の評価は子供の遊び、あるいは知育ゲームとしてのものである。(あるいは芸術品。)

すなわち、乏しいニッチと成り果てていたのだ。

出典ははっきりしないが次のような逸話がある。幕末・明治初期にバックギャモンが西洋双六として再伝来してきたときに、「盤双六の亜流」としてしか見られず、ために普及しなかったと言うのだ。何とバックギャモンの再上陸には、それから更に百年待たねばならなかったというわけだし、現在でも日本でバックギャモンがなかなかメジャーなゲームになれないのは、その後遺症が残っているせいなのかも知れない。

瀕死・滅亡の伝統ゲームの「内実」を、盤双六を実例に眺めてみたが、では果たして盤双六という「伝統ゲームを現代にプレイする意義」はあるのだろうか。私はズバリ、ないと思う。もちろんこれは私の上記仮説が正しければ、だが。

もちろん反面教師的な意味では、意義はある。私は盤双六を数多くプレイした。残念ながら面白いものではなかったが、そこから私は次のことを学んだ。

まず、ゲームのルールは変化していくが必ずしも面白く変わるとは限らない、ということである。そうして当然のことだが、つまらないゲームは廃れるということである。(この辺りは、「結果と原因を逆転して考えている」という批判はあるかも知れないが。)

言い換えれば、「伝統ゲームは固有のシステムを保存している(ことがある)が、それが必ずしも良いものとは限らない」ということを学べるわけだ。

しかし研究者ならいざ知らず、一般のプレイヤーが好んでつまらないゲームをやることはない。ゲームは伝統芸能や伝承芸術というわけではない。私は全ての伝統ゲームをプレイすべきと唱えたりはしない。むしろつまらないゲームが淘汰されていくのは、健全なことと考えるべきであろう。

だがそれでも、私は盤双六から多くを学んだと考えている。

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◆第6回はこちらで読めます◆

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ケイティ・サレン/エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』(山本貴光訳、ソフトバンククリエイティブ)が刊行されます

【新作紹介】ケイティ・サレン/エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』(山本貴光訳、ソフトバンククリエイティブ)が刊行されます
 高橋志行


 翻訳書『ルールズ・オブ・プレイ(上) ゲームデザインの基礎』が、今年01月27日、ソフトバンククリエイティブ社から刊行されます。

ルールズ・オブ・プレイ(上) ゲームデザインの基礎 [単行本] / ケイティ・サレン, エリック・ジマーマン (著); 山本 貴光 (翻訳); ソフトバンククリエイティブ (刊)
 ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンによるこの共著は、2004年にMITで刊行されてから今まで、主にビデオ・ゲーム業界や各国のDiGRA(デジタルゲーム学会)で非常に高く評価され、多くのゲーム開発者、ゲーム研究者、また映像論の研究者(*1)などに引用・参照・言及されてきました。

 また、〈意味ある遊び/meaningful play〉や〈魔法円/magic circle〉などといったテクニカルタームは、単にビデオ・ゲームのみならず、伝統ゲームや卓上ゲームなど、アナログゲームの分野の考察にも十分活用できる、射程の広いものになっています。

 AGS読者の皆さまにも、自信をもっておすすめできる一冊です。

 監訳者の山本貴光さまによる紹介はこちらです(帯付き写真があります):

・山本貴光,2011.01.21,「見本が届きました」
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20110121/p1


【脚注】

(*1) 例えば北野圭介『映像論序説』(2009,人文書院)第二章の前半で、サレン&ジマーマンが編纂したゲーム研究のリーダー Game Design Reader と共に、このRules of Playについての議論(特に magic circle についての解釈)が展開されている。

ゲームブックとの邂逅

 アナログゲーム、特にアナログゲームと(広義の)物語を語るうえで、ゲームブックについて外すことはできません。
 ゲームブックとは一見小説(等)のような体裁を取りながら、ゲームのようにストーリーが分岐し、提示されるパラグラフを選択していくことで展開が変わるという独特の形式を有した物語ジャンルのことを指します。戦闘やより精密な物語を再現するためのルール・システムが搭載されたり、あるいは「本」という体裁ならではの楽しい仕掛けが施されている作品も多く、世界観に合わせてバラエティ豊かなラインナップが存在しています。
 日本においては、1984年のスティーブ・ジャクソン&イアン・リビングストン『火吹山の魔法使い』(浅羽莢子訳、社会思想社現代教養文庫)が火付け役(同作品のシリーズだけで200万部を超えるベストセラー)となり、大ブームが巻き起こりました。
 近年、ゲームブックの復権が着々と進行しているようですが、そんな折、ゲームブックを愛する小珠泰之介さまが、「ゲームブックとの邂逅」という題で優れたレポートを寄稿して下さいました。
 ゲームブックをご存知の方もそうでない方も、お読みになっていただけましたら幸いです。(岡和田晃)


ゲームブックとの邂逅
 小珠泰之介


 その晩、私は帰宅の途中で書店に寄り、とある一冊の本を買い求めました。それから、百円ショップにも行ってトランプを一つ購入しました。

 家に着いて、さっそく娘に「はい、おみやげ」と本とトランプを手渡します。私は平静を装いつつ、次の瞬間に起こるであろう歓喜の声を待ち受けていました。
それがこの本です。

『バニラのお菓子配達便!~スイーツデリバリー~』
藤浪智之 著 佐々木亮 イラスト
バニラのお菓子配達便! ‾スイーツデリバリー‾ (角川つばさ文庫) [新書] / 藤浪 智之 (著); 佐々木 亮 (イラスト); 富士見書房 (刊)

 実はこれ、ただの物語ではありません。この記事をお読みになる方はきっとご存知でしょうが、これはゲームブックなのです。

 “つばさゲームブック”と銘打たれたこの本は、子ども達を対象にした「角川つばさ文庫」の一冊として、この冬に発売されました。

 この本のことを知った私は、発売日を心待ちにしていたのでした。

 私には小学二年生の娘がいます。この子が最近、読書に興味を持ちはじめてきたので、何か夢中になれるような本が無いだろうかと考えていました。そこに、この本が出るタイミングがぴったりだったのです。

 他にも、この本への個人的なある想いを抱いているのですが…それは後述しましょう。

「わあ、なにこれ!」

 娘は予想どおり、カラフルで可愛らしい表紙に、いっぺんで釘付けになりました。それから、ぱらぱらめくって「ええ!?どうなってるのこれ?」と言ってきたので、私はゲームブックの遊び方を話すことにしました。

「1から順番に番号が書いてあるでしょ、それから何番に進むか、自分で次の行動を決められるんだよ…」

 とはいえ、私の話はそっちのけで、自分で勝手に本を読み始めてさくさく設定を理解し、夢中になっていく娘なのでした。

 ケーキ屋さん、妖精、フォーチュンカード、運命判定、謎解き…すべての要素が小学生の子どもをとりこにするだろう事は予想していました。なぜなら、私自身がそうだったからです。

 私が子どもの頃はゲームブック全盛期でした。社会思想社の『火吹山の魔法使い』『バルサスの要塞』を始めとした「ファイティング・ファンタジー」シリーズや、東京創元社の「ソーサリー」シリーズはその代名詞的存在です。

 他にも、ごく平凡な読者だった私が思いつくだけでも、本格的にギリシア神話の世界を彷徨する『アルテウスの復讐』を始めとする『ギリシア神話ゲームブック』三部作、ユーモラスな語り口のJ・H・ブレナンの「ドラゴン・ファンタジー」シリーズ(現・「グレイルクエスト」)、ゲームブックは一人で黙々とやるものだという既成概念を破った二人対戦用『王子の対決』、現代日本を舞台にした名作『送り雛は瑠璃色の』、まさかの怪物が主人公の『モンスター誕生』、アメコミ的ヒーローが主人公のパルプSF風『サイボーグを倒せ』、TRPG『ローズ・トゥ・ロード』の門倉直人氏の『失われた体』など「魔法使いディノン」・シリーズ等々…。まだまだ書き足りないくらいですが、いずれ劣らぬ傑作群です。それから、小説(『グイン・サーガ』『デュマレスト・サーガ』)、映画(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)、TVゲーム(『ゼビウス』『ドルアーガの塔』『ザナドゥ』)、アニメ(『ルパン三世』『天空の城ラピュタ』)、変わり種としては音楽(『展覧会の絵』)をゲームブック化したものまで多種多様にありました。

 これらが文庫本や新書版(ここ重要)で、しかも小学生でも手が出る値段(たしか400円~千円未満、消費税は導入前)で買えたのでした。

 私的な思い出話をお許し下さい。私が初めて買ったゲームブックは、忘れもしない、赤い背表紙に白抜き文字が印象的な東京創元社の『吸血鬼の洞窟』(デイヴ・モーリス著)でした。薄い本でしたが、吸血鬼退治というシンプルな物語に、様々な罠や敵、謎解きが詰め込まれており、文字どおり本がぼろぼろになるまで読み倒したものです。しかし何より魅力的だったのは、冒頭で描かれていた夕闇が迫った深い森の中、冒険者(=あなた)が恐るべき吸血鬼の館の入口に佇み、いざ死闘へと向かわんとする美しくも緊張感に満ち満ちた情景なのでした。

 私は、このゲームブックという手のひらサイズの異世界にたちまち没入しました。選択肢といってもわずか2つか3つしかないのですが、それでもあたかも本の世界で自分が動き回っている気にさせてくれる媒体はゲームブックしかありませんでした。当時はファミコンが発売されたばかりの頃でしたが、自分の家ではなかなか買ってもらえず、もっぱら友人の家で遊ばせてもらうしかなかったものです。ドラクエ?まだ世の中にはありませんでしたよ。

 私がそうだったように、娘は放っておくと、日がな一日本に没頭していました。

「ねえ、これ、すっごくおもしろいよ!」

「お父さんもやってみなよ。この問題わかると思う?」

「もう二回目、読んでいるよ」

 うんうん頷きながら、私は心の中で叫んでいました。

 ――わかる、わかる、そのワクワクしている感じ。そうだった、そういう面白さ、興奮がゲームブックにはあるんだ――

 そう、いまだに不思議なのです。どうして、本の頁をめくって、行きつ戻りつ、サイコロをころころ転がし、一喜一憂し、アドベンチャーシートにヒントを書き込み、消し、一人でうんうん唸って謎解きを考えるのが、あんなに面白く、飽きずに延々と出来たのか。

 今でこそ、コンピュータゲームでRPGやノベルゲームがあって、遥かにプレイヤーの自由度があって、設定も凝っている完成された世界での冒険が約束されたものなど山ほどあるにも関わらず――私にとってあの頃のゲームブックほどの衝撃と快楽を貪れるものが無いような気がしているのは――何故なのでしょうか。単なるノスタルジーなのでしょうか。

 いたって感傷的に書いてしまえば、それはハイパーリンクでテキスト同士を直結したり、コンピュータが面倒な処理を即座にこなしたり、一分の隙もなく破綻の無い世界を構築することで、逆説的に削ぎ落としてしまった不自由さこそがゲームブックの魅力なのではないか、ということです。

 物語の奇想天外さ、ルールやシステムの独創性はもとより、ゲームブックにおいては、まず頁をめくる行為、少ない選択肢から行動を選びとり、次のパラグラフを探す行為、サイコロを転がす行為、これらがその快楽の大部分を担っているのではないでしょうか。変な話ですが、その過程でちらりと覗かれる他のパラグラフや挿絵にもそれなりの役割が感じられるように思うのです。

 ノベルゲームはゲームブックが洗練されて進化したものじゃないのかって?そうかもしれません。しかし、単純にゲームブックをノベルゲームに移植したとしても、これらの魅力も再現されるかというと疑問があります。

 ちなみに私はゲームブックを遊ぶことは、直感的にはむしろアクションゲームを遊ぶ感じに近いのではないかと感じています。極論だとは思いますが、例えば、戦闘の時や運だめしの時に、念じながら力んでサイコロを振るでしょう?これ、TVゲームでコントローラーボタンを強打したり十六連射に挑戦したりする熱っぽさに近いと思いませんか。プレイヤーの振る舞いとしては意外と似ている気がします。

 とはいえ、ゲームブック最大の特徴が分岐点での選択にあるので、それが全部では当然ない訳ですが、上記の分岐点での選択・ページをめくる・次パラグラフを見つける・結果を読む、という一連のサイクル(すなわち他の媒体にはない行為)の間にえもいわれぬ期待感と興奮が繰り返されます。この焦らされる時間に快楽が潜んでいるという事は明記しておこうと思います。

 もう一つ、遊んだ事がある人ならば分かるでしょうが、ゲームブック読者というのはあらゆる選択肢の結果を知りたいと思うものです。何度も冒険を繰り返して、行った事の無い選択を確認することがあるでしょう。たとえそれがバッドエンドだとしても。悪手を選んだ時に訪れる酷い結末――これをどうしても読まずにはいられなくなるのです。他のゲームでそういう欲求をかき立てるものがあるでしょうか。私にはちょっと思いつきません。

 例えば、英国のスティーブ・ジャクソンの名作『地獄の館』で、私は自分がどれほど非業の死を遂げるのか、恐怖を感じながらも、それらを確かめずにはいられませんでした。それが悪夢にうなされるほどの拷問だったとしても、無類に面白かったのです。(ときにはランダムにページをめくって、そういう場面をピックアップして読んだりもしました。悪趣味と言われればそれまでですね。)

 横道に逸れすぎました。話を戻しましょう。

 この『バニラのお菓子配達便!』は主人公の少女「ばにら」が小学五年生です。小学二年生の娘がちゃんと読めるのか、一抹の不安もありました。難しければ読み聞かせをしながら遊ぼうかとも考えていましたが、それは杞憂に過ぎませんでした。こちらが、運命判定の意味が分かるのかとか、物語の意味が分かるのかとか、いらぬ心配をしていても、子どもは自分なりの遊びを組み立てていくものです。

「わからない事があったら教えてあげるよ」

「だーいじょーぶ!」

「難しい?」

「むずかしくないよ、だって、ここにね、ヒントが書いてあるから、これを読めば分かるよ。お父さん、これ見てよ。このなぞ、わかるかな~?」

 ネタが割れない程度に触れると、第二話の鏡の場所です。この謎解きが一番のお気に入りだったようです。家の中のある場所まで連れて行って、謎を明かしてくれました。それはそれは嬉しそうに。

 そう、このゲームブックは作者の藤浪智之先生が仰っていたように、ゲームブックの面白さの要素がたくさん盛り込まれているのです。

 娘がひととおり遊び終えた様子なので、私もこの本を借りて遊び始めました。子ども向け?…いえいえどうして大人も十分楽しめました。三話構成のオムニバスで、それぞれ違った種類のゲーム性を軸に物語が展開されます。

 第一話は、初心者にもゲームの肝を逃さないようなガイダンスがあって、とても丁寧に作られています。脇役キャラクターの紹介もさりげなくされています。帆振朴斗さんが私は好きですね。

 第二話は、娘も一番好きなエピソードと言っていましたが、冒険と謎解きとが絶妙なバランスの臨場感あふれた怪奇ミステリーです。館とゲームブックというのは相性が良いのでしょう。あっと驚く秘密が明らかになります。

 第三話は、個人的にツボにはまる大好きな作りでして、同じマップでも条件が変わると人々の対応が違ってくるという、一種の隠しパラグラフのシステムになっています。中でも美容院での少しビターな場面が、凄く印象に残りました。

 どのお話にも共通していたのが、人との出会いと、その出会いを通じて解決策がおのずと見いだされていく、という点でした。決して押し付けがましくない手がかりによって、最終的には自分の決断で選択する、という王道の物語。

 個性のはっきりした姉妹と多彩な脇役キャラクター達、そして彼らを取り巻く商店街や公園といった生活感あふれる背景。最後の最後で、この背景がぐっと前面ににじみ出てきたときには、私もほろりとしてしまいました。

 この感触を、私はよく覚えています。甘すぎず、辛すぎず、ほんわかと包み込んでくれる、このあたたかい優しさを。

 実は、私が藤浪先生のゲームブックで遊ぶのは初めてではありません。初めて遊んだのは、もう二十年も前の事でしょうか。

(あと少しだけ思い出話にお付き合い下さい。ちなみに、私の辿った経歴はただの一ファンとしてはごく普通のものだと思います。さらなるマニアはたくさんいました。あくまで地方の片隅にこういう平凡な読者がいたという参考にして頂ければ幸いです。)

 その昔、今はなき社会思想社から「ウォーロック」というゲームブック専門の月刊誌が出ていました。元々は英国の雑誌の日本版という位置付けで、ゲームブックの翻訳記事と日本独自記事が同居している雑誌でした。創刊が1986年12月。私がリアルタイムで購入し始めたのは第七号からです。初期は毎月17日発売(されないことが多かった)で、値段は480円。もちろん小学生でも買えました。

 とにかく、雑誌棚でのインパクトが物凄かったのです。英国版の表紙をそのまま持ってきてるものですから、日本には無いセンスの異様なモンスターや魔法使いがビビッドな色彩でA4版の大きさでどーんと置かれてあるわけです。小学生の私には、それがえらくカッコイイものに思えたんですね。購入するのに躊躇はありませんでした。大体、「ファイティング・ファンタジー」や「ソーサリー」シリーズの表紙や挿絵で慣れていたし、ああいうのが本物だと刷り込まれた部分もあります。(その後、表紙画は米田仁士さんに変わりましたが、こちらも色んな意味で凄かった。)

 私が初めて定期購読した雑誌がこれでした。新潟県の一地方都市に住む子どもにとっては、「ウォーロック」が遠くの世界に繋がる魔法の扉に他なりませんでした。

 ゲームブックの情報は載っているし、高水準のオリジナル・ゲームブックも遊べるし、全国のファン達の投稿も読めるしで、とにかく熱中しました。

 さらにこの雑誌では、『T&T』(『トンネルズ&トロールズ』)というTRPG(会話型RPG)をサポートしていたので、私は友人たちと休日のたびに集まってはセッションを繰り返すようになりました。友人同士でゲームブックを貸し借りしたり、自作のゲームブックを作って途中挫折したり(なぜか400項目にこだわるせい)、友人宅でライブRPGもどきのイベント(ま、肝試しに毛が生えたものですが)を企画したり、セッションをテープ録音してリプレイをワープロ打ちで作成したり、ひと通りの事(?)は「ウォーロック」誌を経由して、この頃にやっていました。

 ちなみに、これは私がイラストを投稿して掲載された最初で最後の雑誌でもありました。良い思い出です。

 そして、この雑誌に大きく関わっていた人々の中に、藤浪先生がいらっしゃったのです。先生は「わきあかつぐみ」という名前で活躍されていました。ライターとして、また、オリジナル・ゲームブック「スプリンターを守れ」「ブラスターケリー」「銀河宅急便」の作者(あの魅力的なイラストも描いていた)として、あるいは、誌上ロールプレイメール「二つの川の物語」のマスターとして。

 余談ですが、今回この文章を書くにあたって、自宅の「ウォーロック」誌を読み返していたら、「スプリンターを守れ」のページに、なんと自分でメモしていた手書きのフローチャートが挟まれていてびっくり。すっかり忘れていました。

 そういう訳で、私は藤浪智之先生のゲームブックが大好きで、ときおり掲載されると大喜びで遊んでいたのでした。どの作品もほのぼのしたユーモアがあり、ほのかに醸し出される郷愁と、読者に変におもねらない凛とした気品が感じられました。

 さて、その後ゲームブックを取り巻く状況は色々あって、残念ながらかつての盛り上がりは無くなりました。私も次第に疎遠になって、はや十数年経ってしまいました。

 21世紀に入って幾つか復刊もしていますし、新刊も発売されています。今でも大きな書店や専門店にはコーナーがあるのでしょうが、知らない人が偶然に出会えるほどの状況ではないと思います。

 そして「ウォーロック」誌も1992年3月に63号をもって休刊となっています。

 ゲームブックが廃れた背景として、TRPGやTVゲームの隆盛に伴って売れなくなったのではないかという人をたまに見かけます。私はこれは違うのではないか、と思っています。そもそもがTRPGのソロ・アドベンチャーとして発明されたとされるゲームブックですから、TRPGが広まったからその役割を終えた、というのは少し変な話です。

 またTVゲームとゲームブックは対立するものではないとも考えます。現に、私の娘もDSで遊ぶかたわら、漫画も読むし、アニメも見るし、読書もするし、同じようにゲームブックも楽しんでいました。どれが一番という話ではないと感じています。

 こんな風に、ゲームブックに対する一口では言えない気持ちが、いまだに私の心のどこかで燻ぶっているのは確かです。おそらくは、あの頃にゲームブックに夢中になった多くの人達も同じ気持ちを抱いているのではないでしょうか。探せば、あちこちで懐古している方々を見かけるからです。

 だから、この『バニラのお菓子配達便!』は、私にとって藤浪先生との再会でもあったのです。と同時に、ゲームブックとの再会でもあったのです。冒頭に述べた、個人的なある想いというのはこういう訳です。

 あの藤浪先生が新作ゲームブックを、それも児童向けの文庫で出版される!というのは、Twitter上のご本人のツイートで知りました。これまでゲームブックというものを全く知らなかった子供たちが、初めて出会う可能性がかなりあると思いました。

 そこで私も『バニラのお菓子配達便!』を娘が喜んで遊んでいた事を何気なくツイートしました。微力ながらも色々な人に知ってもらいたかったのです。すると、なんと!藤浪先生から直々にお返事を頂いたのです。

 私はすぐに、自分がかつてウォーロック誌上で先生のゲームブックを遊んでいた事をつぶやきました。長い時間を超えて、自分と自分の娘が、同じ作者の作品を楽しんだ事、この不思議な気持ちをお伝えしました。

 嬉しいことに先生も喜んで下さいました。そして娘にもこう伝えて欲しい、と仰って下さいました。

「いっしょにページをめくってぼうけんしてくれたこと、ありがとう、です」

 これを早速、娘に伝えました。「お父さんがね、子どもの頃にね…」という思い出話は上の空で聞いていた娘でしたが、メッセージを直接見せると、不思議そうに、でも嬉しそうに読んでいました。

 この時、なにか一本の線が、過去から未来へようやく繋がって伸びていくような、そんな気がしました。無限の選択肢が、とは言いません。わずかな――それこそ2つか3つくらいの選択肢を進んでいった結果、私は今この場所に辿りついているのだと思います。
 あんなに大好きだったゲームブックからしばらく遠く離れてしまい、ぼやぼやしていた時間を、私は果たして取り戻せるでしょうか?

 今からでも?

 遅くはない、鉛筆とサイコロ、それから少しばかりの勇気と運があれば。

 ……さて、これから君はどうする?

・この場を借りて、藤浪先生に「ぜひ続編をお願いします!」とお願いするなら(2へ)、

・他のゲームブックにも手を出して、冒険を楽しみたいなら(3へ)、

・いっそのこと、傑作ゲームブックを作ってしまうか!(400へ)

・別に何もせずに日々の生活に戻るなら(14へ)、

それぞれ進みたまえ。


小珠泰之介(こだま・やすのすけ)
 1975年新潟県生まれ。小学生の頃にゲームブックに出会い、熱中する。「ウォーロック」誌を購読し、イラスト投稿が二回掲載されたことがある(ネコ山ヒゲ夫名義で44号と48号)。中学時代の休日はもっぱら友人と『T&T』をして遊んでいた(時々ゲームマスター)。その後、ゲーム関係から遠ざかり漫画家を志した。10年以上前に、今はなき「コミックFantasy」誌(偕成社)にてファンタジーコミック大賞佳作入選。現在は会社員。
 黒糖そば名義のブログ「芝フ調」で、岡和田晃氏の『ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド』の感想を書いた事から、氏と交流が始まり、ゲームブックやTRPGの熱を再燃しつつある。

ブログ「芝フ調」http://cocteausoba.blog.so-net.ne.jp/
Twitter 黒糖そばhttp://www.twitter.com/cocteausoba

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ゲームブックとの邂逅 by 小珠泰之介(Yasunosuke Kodama) is licensed under a Creative Commons 表示 – 非営利 – 改変禁止 2.1 日本 License.
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 本文で名前が挙げられたゲームブックのうち、多くは装いを新たにしつつも、現在でも入手が可能となっています。煩雑になるのでリンクは張りませんが、簡単にご紹介させていただきます。
 「ソーサリー」シリーズ4部作、「ドラゴン・ファンタジー」シリーズ(『暗黒城の魔術師』、『ドラゴンの洞窟』、『魔界の地下迷宮』まで刊行済み)、『送り雛は瑠璃色の』、『展覧会の絵』、「ドルアーガの塔」シリーズ(『悪魔に魅せられし者』、『魔宮の勇者たち』まで刊行済み)は創土社からそれぞれ新訳と再編集等を加えた形で出版されています。
 『火吹山の魔法使い』と『バルサスの要塞』は扶桑社文庫から新装版が刊行されています(後述の「ゲームブック・ラボR」でも訳は異なりますがアクセス可能)。
 また『吸血鬼の洞窟』は入手しづらくなっていますが、共通した世界観を用いた会話型RPG『Dragon Warriors』が英語圏では復活を遂げています(Magnum Opus Press、Mangoose Publishing)。
 『地獄の館』はホビージャパンHJ文庫Gより翻案を加えた『ハウス・オブ・ヘル』として発売されています(後述の「ゲームブック・ラボR」でも翻案のない版がアクセス可能)。
 会話型RPG『トンネルズ&トロールズ』は第7版が新紀元社から翻訳・出版され、ソロ・アドベンチャー『傭兵剣士』がリプレイとセットで復活しています。
 また、「ソーサリー」シリーズの『魔法使いの丘』、『魔の罠の都』(『城塞都市カーレ』)、『七匹の大蛇』は、「d20ファイティング・ファンタジー」として、D&D第3版/第3.5版等で遊ぶことが可能なアドベンチャー・シナリオにもなっています。
 なお「ファイティング・ファンタジー」シリーズは携帯電話でのアプリケーション等、デジタル・メディア化も進められてきました。日本でもデジタル・メディアラボが展開を行ない、その試みはサイバーフロントの「ゲームブック・ラボR」というプロジェクトに引き継がれているようです(『モンスター誕生』は『滅びを呼ぶ者、汝は怪物』と邦訳タイトルが変わり、本国の新版を底本としつつ、こちらでアクセスすることが可能です)。

 続いて本文で紹介された『バニラのお菓子配達便!~スイーツデリバリー~』のほか――ゲームブックの「いま」を知りたい方のために――2010年に発売されたゲームブックを5作紹介させていただきます。

ハービー・ブレナン著、高橋聡/フーゴ・ハル翻訳『ドラキュラ城の血闘』(創土社)
 アーサー王伝説を下敷きにしたドラゴン・ファンタジー(現グレイル・クエスト)シリーズで知られるハービー・ブレナンによる伝説のゴシック・ホラー・ゲームブックが装いも新たに復活。
 ドラキュラ俳優ベラ・ルゴシ風の表紙が素敵ですが、俗に「ブレナン節」と呼ばれるユーモアたっぷりの(どことなくモンティ・パイソンにも通じる)ブラックユーモアと、「吸血鬼もの」への愛が存分に堪能できる贅沢な作品です。
 面白いのは、何度か吸血鬼に咬まれると……。
ドラキュラ城の血闘 (ADVENTURE GAME NOVEL) [単行本] / ハービー・ブレナン (著); 高橋 聡, フーゴ・ハル (翻訳); 創土社 (刊)

フーゴ・ハル著、河嶋陶一朗/冒険企画局監修『迷宮キングダム ブックゲーム モービィ・リップからの脱出』(新紀元社)
 ゲームブックの限界に挑戦した傑作『魔城の迷宮』の作者であり、推理ゲームの最高峰『シャーロック・ホームズ10の怪事件』にも関わった、ゲーム職人フーゴ・ハル氏の書き下ろし新作。
 会話型RPG『迷宮キングダム』の世界観に基づいたゲームブックならぬ「ブックゲーム」。フーゴ・ハル氏のこだわりが随所に見られる、ゲームブックを知らない人たち、あるいはすれっからしの方にこそ触れてほしい快作です。表紙を見たとき、すでに冒険は始まっているのだ!
迷宮キングダム ブックゲーム モービィ・リップからの脱出 (Role&Roll Books) [新書] / フーゴ・ハル (著); 河嶋陶一朗, 冒険企画局 (監修); 新紀元社 (刊)

オフィス・イディオム編『豊臣秀吉 名将の決断』(学習研究社)
 「高松城を攻めているとき、「本能寺の変」が起こった。さあ、どうする?」
 豊臣秀吉の生涯をシミュレートするという画期的なコンセプトのゲームブック。選択によってはあっと驚く結末が待ち受けています。
 「秀吉を知る」と題されたコラムも充実しており、日本史学習や戦国時代の武将について知るための入門書としても楽しめます。同じシリーズとして、『織田信長 名将の決断』も発売されています。
豊臣秀吉 (名将の決断) [単行本(ソフトカバー)] / オフィス・イディオム (編集); 学習研究社 (刊)

清水龍之介著/杉本=ヨハネ監修『魔の王の少年』(FT書房)
 アナログゲーム情報誌「Role&Roll」でも何度か紹介された、創作ゲームサークル「FT書房」が発刊した大作ゲームブック。文庫本を模した製本、600を超えるパラグラフ、別冊として(「ソーサリー」へのオマージュともとれる)悪魔召喚の書の活用など、凝ったギミックが見所の作品です。
 「FT書房」はゴシック・ファンタジーRPG(ゲームブック)の名作群への敬意を忘れない創作集団ですが、『トンネルズ&トロールズ』のイギリス版ソロ・アドベンチャーを翻訳権を取得して独自に翻訳・出版するなど、従来のインディーズ・ゲーム出版の枠に留まらない活躍を見せています。

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・FT書房/『魔の王の少年』販売ページ
http://tandt.market.cx/shopping/cart/item_241.html

ジェームズ・ワイアット/ジュレミイ・クロフォード/マイク・ミアルス/ビル・スラヴィクシェク/ロドニ-・トンプソン著、桂令夫/岡田伸/北島靖巳/楯野恒雪/塚田与志也/柳田真坂樹訳、『ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版 スターター・セット』(ホビージャパン)
 世界最初のRPGにして、世界最大のRPGでもある『D&D』。その最新版入門セット。通称「(新)赤箱」。
 小説『ドラゴンランス』等のアートワークでも有名なラリー・エルモアの懐かしい表紙が採用されていますが、中身は最新版。
 この「赤箱」内に入っている「プレイヤーの書」はゲームブック仕立てのソロ・アドベンチャーであり、プレイしながら自然にD&Dの遊び方を学ぶことができます。「プレイヤーの書」に接続して遊ぶことのできるソロ・アドベンチャー「幽霊塔の冒険」もD&D日本語版公式サイトで無料公開されており、新時代における会話型RPGとゲームブックの架け橋ともなりうる作品だと言えるでしょう。(岡和田晃)

ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版スターター・セット [大型本] / ジェームズ ワイアット, ジュレミイ クロフォード, マイク ミアルス, ビル スラヴィクシェク, ロドニー トンプソン (著); 桂 令夫, 岡田 伸, 北島 靖巳, 楯野 恒雪, 塚田 与志也, 柳田 真坂樹 (翻訳); ホビージャパン (刊)

・『D&D第4版 スターター・セット』プレビュー(「プレイヤーの書」の前半が無料公開されています)
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/news/4th_starter/index.html

・ソロ・アドベンチャー「幽霊塔の冒険」(PDFファイル)
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/support/files/4e_ghost_tower_of_the_witchlight_fens_jp.pdf

・たっぷり冒険を楽しんだら、1へ戻って別の選択肢をあたってみてもいいし、さらなる冒険の旅に乗り出すことにしてもいい。進むべき方向を決めるのは君だ!

グンドの物語

Analog Game Studiesをご覧の皆さまに、すてきなお年玉をお届けいたします。

幻想世界ユルセルーム(もの語り遊戯/会話型RPG(TRPG)『ローズ・トゥ・ロード』の背景世界)を舞台にした散文「グンドの物語」の再録でございます。
著者である門倉直人さまの許可をいただき、初出よりおよそ20年の時を経まして、Analog Game Studiesのブログ上に再掲させていただくことが可能になりました。

「グンドの物語」は“静かの公”グンド・べレドール、つまりユルセルーム世界最大の英雄の一人を中心とした散文です。
本稿ではその生涯が蠱惑的な文体によって読者の前に提示されており、日本の幻想文学、あるいはヒロイック・ファンタジー史における、重要な位置を与えられてしかるべき作品でしょう。とりわけ、ヒロイック・ファンタジーにおける「文体」、そして幻想文学における「相互干渉性(インタラクティヴィティ)」の問題について、思考の材料を提示してくれていると思います。
加えて、トールキンやル=グィンを思わせるいわゆるハイ・ファンタジーをベースにしながらも、日本語による詩歌文学の伝統の味わいもある独得の世界観は新鮮な驚きを提示してくれることと思いますので、RPGをご存じない方もぜひご覧下さい。

今回公開される「グンドの物語」は、もともと『ローズ・トゥ・ロード』(2010年版、通称『Wローズ』)の前身の一つである『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』のバリアント『変異混成術師の夜』に収録されておりました。
日本最初の職業的ゲームデザイナー鈴木銀一郎さま曰く「文章は散文だけど、あの作品は詩」(「R・P・G」1号、国際通信社、P.146)。
ほか、数々の目利きに高い評価を受けながらも、残念ながら長きにわたって参照困難な時期が続いていた伝説の散文がAnalog Game Studies上で再公開されます。
そのまま優れた幻想文学として味読することも、『ローズ・トゥ・ロード』、ひいては他のファンタジーRPGのシナリオソースやイメージソースとして活用することも可能な「グンドの物語」を、新しい年を迎えた皆さまへの祝福として、ぜひともご堪能いただけましたら幸いです。

なお今回、Analog Game Studiesに再録するにあたって、『変異混成術師の夜』に収録されたバージョンから、門倉さまにご監修いただいたうえで細部の表記や「てにをは」等を修正し、また文献学上生じた疑問点を門倉直人さまに問い合わせ、そのご回答を踏まえた編註(*)を示してあります。読解の補助にご活用下さい。

また、作中に登場する地名・神格名等についてご不明な点をお持ちの方は、『ローズ・トゥ・ロード』や各種参考資料をご覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

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グンドの物語
門倉直人(『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』バリアント『変異混成術師の夜』(遊演体)初出、2011年1月改訂)

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グンドはストラディウム(*1)大公“マレストル・ぺレドール”と「黒髪の」“カンナ・ミュール”のあいだにもうけられた男子である。誕生のさい、まったく泣き声をあげず目をつむったまま身じろぎもせずにいたことから、死産と間違えられた。十三になるまで一言も喋らず、痩せこけてもの思いにふけるかのようにじっとしていることが多かったため「静の君」とあだ名される。しかしながらグンドは非常に賢く、人の話しも早くから理解していた。故に、老大公マレストルはいつも残念がっていたという。老大公の嫡子はグンドただ一人しかおらず、言葉の喋れぬものをストラディウムの大公主として自分の後を継がせることはかなわなかったからである。

ところがグンドは、十三になったその日、生まれて初めて言葉を話したのである。彼は老大公にむかって「父上が公位をお譲りになられるのは、いつか」と、たずねたのだ。自分の息子を唖とばかり思い込んでいたマレストル大公は非常に喜び、「もっと話せ。さすればおまえに公位を譲ろうぞ」と答えた。そこでグンドは老大公に話を始めた。

「……産まれてくる前、定かな記憶はすでにないのですが、私は長い長い間、おそらく海にいたようです。

ある時たくさんの妖精達が沈んできました。彼らはとても高貴で美しい顔立ちしていましたが、そのほとんどはどこかしら酷く傷つき、傷口からは血が流れ出していました。私は恐れ、ただただ妖精たちが緑色の髪をゆらしながらゆっくりと落ちてくるのを眺めていました。
すでに死んでいるのか、生きているのか、妖精たちはピクリともうごかず、そのまぶたはかたく閉じられたまま開かれようとしません。しかし、ただ一人、ひときわ高貴な容貌の妖精が目をあけ、両手を前に――そう、まるで何かを抱きとめようかとするように――のばして沈んできました。 「ストラディウムは来ず、為に、我はアウルのかいなに招かれて眠らん青き大海の底、緑なる海の藻とともに、我が髪は静かにゆれるだろう。今や遠く遥かな、純白の、アウロンが浜道を夢みつつ……(*2)。――おまえ、行って伝えておくれ。ストラディウムはその誇りを失わずにいてよいのだと。そう、すべては我がはらから、リュクセインによるのだから。ああ、悲しいかな! 人は後に我がはらからを、アル=ガルッド、アガルッド、‘誇り、奪いしもの’と呼ぶだろう。だから、おまえ、行って伝えておくれ! ストラディウムの民人に。ストラディウムは人の子の誇りを失わずにいてよいのだと。もし、ストラディウムが人の子故の誇りにこだわれば、それはストラディウムの為によいことにはならぬ――』その高貴な妖精は、私にそうつげると、まぶたを閉じ、類まれな輝く深い青色の瞳を隠しました。そしてその瞬間、私は何かに押し上げられるかのような感覚に襲われ、あたりは闇につつまれたのです。

このようにして私は産まれ、自らに告げられた言葉の意味と私の為すべきことを考えてきたのです。これまでの年月、ずっと」

マレストルは驚き、心ひそかに自分の息子がただならぬ存在ではないかと思った。

「最近に至って」と、グンドは続けた。 「私はようやく自らの為すべき道々、そう、 ‘主(あるじ)の道’(ローズ・トゥ・ロード)のいくつかを見いだしたような気がします。
私は、自分が産まれる以前に出会ったあの海の妖精の名に、今や疑いを抱いておりません」

「そは、誰ぞ」と、マレストルは恐る恐るたずねた。

「――リミン。かの偉大なる妖精王。“緑藻(メダウモッド)の”リミンです」

マレストルは確信した。あのリミン、「真の色彩」を二(一説には三)種同時に帯びた唯一の者、太古の魔法に通じ、海神アウルの血を直接ひくという“緑藻の”リミンに会ったというのだろうか? しかも、産まれてくる前に!

「わしには、とうてい信じられん……」マレストルは頭を振って、グンドの母であるカンナを呼びに行かせた。カンナは由緒あるファライゾンの家系に生まれた娘てあり、言葉の真偽を判断する卓越した特殊能力を持っていた。

カンナもマレストル同様、わが子のしゃべるのを確かめ涙を流して喜んだが、グンドが例のリミンの話をするに及ぶと、やはり困惑した表情を隠せずにいた。

「この子が私をはるかに上回る力を持っているのでない限り、この子はただ真実のみを申しております」と、カンナはマレストルにむかって言った。「そして、私は、自分のこの力に関して、ユルセルームで他と伍した時、そうは低い能力だと思っておりませぬ」

「父上、お約束どうり、ストラディウムの公位をお譲りいただきとうございます」

グンドは屈託なく言うと、両手をマレストルヘ差しのばした。

「公位を得て、どうするのだ」

マレストルは怪しみ、躊躇して手を握りしめた。

「ストラディウムがリミンを裏切り、ためにアウロンの浜道を血で汚すよう好計を謀った妖女アガルッドと、彼女が君臨する“灼熱の血忌の国”ヒュノーを討つのです」

わが子の壮大なる話に、マレストルは苦々しげな表情を顔いっぱいに浮かべた。かつて「西方の守護」たる栄光に満ちた誇り高き人間族の地、ストラディウムの名誉を地に落としめた忌まわしい事件を思い出したのだ。

「ヒュノーを討つなど、今のストラディウムの海軍兵力では、とうていかなうわけがないぞ。それに、おまえの話が本当だとして、確かリミンは『もし、ストラディウムが人の子ゆえの誇りにこだわれば、それはストラディウムのために良いことにはならぬ』と告げておったのではないか」

「父上、しかし、それは我ら人間族全て、そしてユルセルーム全土にとって益なることとなるでしょう。

いかに、たばかられたといえ、ユルセルームの至宝である古の妖精たちが自由に住まう最後の国、その国を滅ぼすのに手を貸してしまった人間族の国ストラディウムが、その償いもせずにどうやって来たる大戦の日、デュラの猛攻を我らが同族、人間族が闘えましょうや」

グンドはそう言うと、沈黙を続けるマレストルに業を煮やしたように自室へ駆け戻り、城から抜け出してしまった。

グンドはかねてから秘かに調べていた、ストラディウム建立時からの秘密の地下迷路を丸一日かかって抜け出し、ストラディウム本島の山脈中西部にいるという伝説の刀鍛冶一族、山小人(ニムロ・ノイロ)のダロム一族をたずねた。

最初ダロムの刀鍛冶たちは、年端もいかぬグンドの戯言などに耳も貸さなかった。しかし、グンドが近くにあった「やっとこ」で自らの八重歯を抜き、これを用いてディヴァイン・ソードを造れというに及び、ダロムの刀鍛冶は真剣にならざるを得なかった。グンドが抜いた八重歯はなんと紫水晶でできており、抜いたとたんに淡い紫の光を薄闇のなかに放ちはじめた。ただ事ではない、と思ったダロムの刀鍛冶たちは、ついに自分たちの頭領で、かつ最高の腕を持つヒンテサン・ダロムを呼んだ。ヒンテサンはグンドとその八重歯を一目見ると、深々と頭を下げ「アウルとザリの寵愛を受けられた貴公は、人間の姿にあって何を私に命じられるのか」と、たずねた。

グンドはヒンテサンに自分の八重歯を渡し、これをもって奪われた人の子の誇りを取り戻してふたたびエルダノンとエンダラトスとの絆の礎になるような剣を造ってほしいと頼んだ。ヒンテサンはひどく恐縮し、言った。「生きているうちに真の色、スィーラの力の現われにふれることができるとは……。しかも、それを用いて自らの作とするものを造れるとは、なんと刀鍛冶冥利につきることか! 私は畏ろしい。が、やらせていただきますぞ」

ヒンテサンはグンドの紫水晶の八重歯を手にすると、夢かうつつの独り言のようにつぶやいた。 「真の紫の色は、大気と稲妻の主、ザリの力の現われ。わだつみのアウルが王座にひかえる水龍たちは、竜巻をもって水中より天に昇るという。竜巻のなかで龍たちはザリのよびかけにこたえ、天に向って吠えるとき、その口よりは紫の稲妻が激しくはっせられるという。彼らが持つのは紫の真の色を帯びた牙。してみると、あなた様はアウルとザリの寵愛を受けるザラバウムイラ(紫牙龍)のうまれ変わりに遠いありません」「山小人たちにどのような信仰があるのか、私はくわしくないのだが、私自身は“生まれかわり”だの“前世”だのということは考えないようにしている。私は、私が今、何をしていくのかだけを考えていたい」 (グンドは答えた)「恐れながら、しかし、“これから”は、“これまで”と無関係ではありますまい。いかにも“闇の中の炎”らしいお言葉ではありますが……(註1)」

このようなやりとりがあったのち、ヒンテサンはグンドも含めていっさいの者を自分の仕事場の外に出し誰も中に入れようとはしなかった。したがって、ハウセル(*3)がいったいどのようにセヴァーン・エト・ザラバウムイラ(紫牙龍の剣)なる異名をとる“鞘なき”グンドの剣、すなわちグンダルバウセ(グンドの牙)なる名のディヴァイン・ソードをつくりあげたかは、全く伝わっていない。ただストラディウム王室書庫の資料には、以下のようなことが述べられている。
……ヒンテサンがこもった山が、七夜後に震え、山頂は突如として黒雲を戴き紫の雷光を発し始めた。グンドと驚いたヒンテサンの弟子たちは、ヒンテサン自身の仕事場がある山の中央最深部に通じる長大な洞窟を、あわてふためいてかけおりていった。灼熱の溶鉱炉を間近に控えるヒンテサンの鍛冶場をおそるおそるのぞくと、金床の上には見事な貴金属と宝石であしらわれたツカが置いてあった。が、肝心の刀身はつけられていない。それどころか、ヒンテサン自身の姿も、どこにも見当らなかった。ヒンテサンの弟子たちは怪しみ、うろたえ騒いだが、グンドは落ち着きはらってツカの先、本来はそこから刀身がのひているはずの箇所に自分の八重歯が備え付けてあるのを見てとると、長いツカを手にとって、帯にはさみこんだ……

グンドはこうして「グンダルバウセ」を得、マレストルやカンナを初め、城の者全てがグンドの行方を案じて大騒ぎのストラディウム城へと帰還したのである。

グンドは帰り道にあっては地下道を通らず、あえて城の正門の前に立って父、マレストルを呼ばわった。 「我が父にして、ストラディウム公マレストル殿と、その臣下の方々よ。とくとく見定めよ。こは我が牙にして、我が意志なり!」グンドがそう大音声でよばわると、マレストルをはじめとする城の人々は、たちまち城の外壁の上にむらがってグンドを見下ろした。

グンドはその鞘なき剣を天上に向かって捧げ上げた。――すると見よ! 七枝に分かれた紫電が、かのツカに埋め込まれたグンドが八重歯へと天より到り、その様、あたかも雷電の刃が、突如、顕われたかのようである。グンドはあっけにとられる城の老々の眼前にて、手に持つ剣の重みに堪えかねるかのごとく、全身の力をふりしぼって、やおら剣を降りおろした。

大地にそのまま紫電がたたきつけられ、大地に紫電が走り、目指すストラディウム城門に及んだ。かつて外よりは決して開けられた事がなく、また、開け得ぬとされた「三大門」(註2)の一つ、人間族の大門、ストラディウムの大門が呻き、人間族の王たる王グンドに応答し、振動とともに、その口を開いたのである。伝説では、この時、デュラの黒太主ユレーグは王座より立ち上がり、本国マストより第一黒龍騎兵の召喚を命じたという。時にイーヴォ歴1485年(一説には1442年)(*4)、紫の月。かくてグンドは、弱冠十三の歳にしてストラディウムの大公主に迎えられ、「大戦」は新たなる展開を見せることになった。

「大戦」の詳細に関しては『ユルセルーム戦史』に詳しいので、ここでは簡単にのぺるものとする。

アタティオンの炎とともにデュラの大陸軍侵攻が始まったが、グンドは名高い「イラフロノウム越え」を行ってダーの要塞を一時的ではあるが逆包囲し、この他に包囲されていたローダニゾンの精兵を救出。が、莫大な量の敵兵を前にローダニゾンの軍は徐々に後退、遂にローダニゾンは崩壊する。グンドはローダニゾンの難民をデュロン山脈中にかくまい、この地の山小人皇王、“赤髭の”シクロスと協力してデュラの軍に側面から圧力を加え、その進撃速度を鈍らせるぺくデュロン山脈中の無数の坑道から出撃する遊撃隊を組織。戦況が膠着状態となるに及んで、統一王朝の王、“一角龍の”イルク・セイリオンにヒュノー強襲を上奏した。イルク・セイリオンは「公主殿の“直接嘆願権”はただ一度のみ。公主殿が自領の城を守るか、ヒュノーの城を破るかである」と宣り給うが、はたしてグンドは後者を選んだ。「たとえストラディウムの城がおちようとも、ヒュノーを討たずしていかに人の子が自らの内に、真の城をうち建てることができましょうや」グンドは毅然と言い放ったという。

運命の1940年(*5)、赤の月。統一王朝の大軍は突如エンダルノウム南方からナーハン方面へと進撃を開始し、すでにドゥーロンを席捲してギュロンに侵入しはじめていたデュラ主力と、正面から対する構えを見せた。この動きを見て、ヒュノーの主力はユルセルーム大陸エンダルノウム地方の南岸へ上陸。手薄になった南方を一気に北上、統一王都エンダルノウムを襲おうとした。――だが、この時、グンド率いる精兵「ストラディウム海騎兵」が巧みな迂回行動をとってヒュノー本島へ上陸。主力のいない炎の島、ヒュノーのアガルッド宮に向かって猛進。とはいえ、忌まわしき土地の毒気、熱に散々悩まされつづけた。この間、統一王朝の主力はただちにエンダルノウムに向かってこれを守るべく、全速で引き返し始める。主力が帰るまでの間、竜王イルク・セイリオン自ら率いるエンダルノウムの僅かばかりの近衛軍千人は、「十の十倍」といわれる圧倒的なヒュノーの主力十万と七日七夜にわたって激闘を展開、討ちとったヒュノーの将は数知れなかった。なぜならエンダルノウムの近衛兵は「一対一であれば黒龍騎兵も闘うのを避ける」と、歌にまでうたわれた精鋭中の精鋭であったし、イルク・セイリオンの黄金色の槍“オザノング”には何者も抗し難かったから。だが七日目にして、遂に戦線は破れる。

戦線の崩壊とともに突出したイルク・セイリオンは包囲、殲滅されかかった。この時、さすがの“竜王”イルク・セイリオンも自らに与えられた、ただ一度のオザンに対する“直接嘆願権”の行使を覚悟した、と伝えられている。しかし、結局、間一髪間に合ったラムザス疾走騎兵らによって救われることになった。そしてこの後、統一王朝軍の主力が到着し、この時はエンダルノウムの陥落は避けられたのである。

一方、グンドらのヒュノー強襲部隊は、イルク・セイリオンの部隊がエンダルノウムの存亡を賭て死闘を繰り広げている間も、溶岩流によって守られたアガルッド宮を攻めあぐんでいた。アガルッドの門前は激しい熱と毒気が渦巻き、これを守る溶岩巨人らの攻撃は苛烈をきわめた。千人にも満たぬグンドの部隊の将兵らは、一人、また一人と消耗していった。“人の子の誇り、奪いし妖女”アガルッドは勝ち誇ってグンドらの前に姿を現し「“緑藻の”リミンすら騙されたものを、人の子の浅知恵、かたはら痛し」と嘲笑った。寡黙なるグンドも、この時は声高く「リミンが、メディート、アウル両大神への“直接嘆願権”を持ちながら、これを行使せざるは何ぞ! 情深きリミンは、そなたに最後の機会を与えるべく、自ら大海の底に沈んだのだ!」と叫び、天と地の問、大気とイカヅチを治めるサリに対し、自らの、最初で最後の“直接嘆願権”を行使した。グントの喉笛からスィーラ自らが口にする神聖語の正確な音韻によってザリの真名が呼ばわれ、守護大神ザリ自身の力が太古の誓約に従ってあらわれた。突如生じた暴風雨の中、グンドの両手に握られたグンダルバウセは紫光を帯び、たかだかとそのイカツチの刃を天にのばした。グンドがグンダルバウセの猛き刃を前に振り降ろすと溶岩巨人などは粉々にふきとび、塔は震え、城門は毀れた。グンドらは、そのまま城内へ突入し、アガルッド宮の守備隊はザリの力を得たグンドの怒りの前に、ただ散り散りになって逃げ惑うばかりだった。この時、アガルッド自身は半身にグンダルバウセによる激しい火傷を負い、どのような妖術を用いても、二度と惑わしの美しい容姿をとり得ぬ、イカヅチの走った醜い跡を残すことになったと云われている。

かくて“灼熱の血忌の国”と呼ばれ、デュールにより火をもって大海から持ち上げられたという恐怖の島ヒュノーは、一人の定命の人間によって鎮定されたのである。

しかし、エンダルノウム攻略に向ったヒュノーの主力は、帰るところを失ってかえって死に物狂いとなり、ついには全滅するまで闘って統一王朝の主力に対しても無視できぬ損害を与えた。とはいえ、この後ほぼ七年間、戦線は膠着状態となり、統一王朝の難民の多くが、より安全な地域へと逃れることができたのである。

1497年末、薄青の月。ふたたびデュラの大攻勢が始まった。海で、陸で、デュールの魔力を得た黒太主ユレーグの軍は、ストラディウムを主力とする西方守護連邦の軍を完膚無きまでに撃破。グンドの父、マレストル・ベレドールは旗艦“西方の星”ストラクステルと共に大海の底へ沈む。奇しくも、リミンその人が沈んだアウロン沖であった。以後、城塞都市ストラディウムは三年間にわたる十重、二十重の包囲を受ける。グンドは何度も包囲の突破を試みたが果たせず、グンダルバウセの威力は相変わらずすさまじいものではあったけれども、二度と大神ザリの力そのものを現すことはなかった。なぜなら、グンドに許されていたスィーラへの“直接嘆願権”はただの一度のみであり、グンドはこれをすでに行使してしまったからである。包囲されたストラディウムの兵士たちは、確実に疲弊していった。だが、二本の足をして彼らを立たせ、支えていたのは、グンドの偉業であったことも、また、まきれもない事実であった。

しかし1950年末(*6)、薄青の月。今や、デュラの魔王にしてユルセルームの支配者を公然と名乗る、ユレーグ自らの指揮する第一黒竜騎兵が、“西方守護”ストラディウムに最後の一撃を与えるべく突撃の準備をするに及び、グンドは遂にストラディウム“西方守護連邦軍”の解散を命じる。「各自、これからは自らの最も大事とするものを守れ」グンドが最後に下した解散の命令に従って、兵士たちは自分の家族のもとへと絶望的な脱出の準備を始めた。しかして、グンドはストラディウムの大門の前を離れようとはせず、問いただす臣下らに、グンドは答えたという。「ここより、後にある全てが、私の最も大事なものであるから、私はここに残る」、と。
町に放たれた炎が、時折漆黒の夜の闇を照らし、今しも崩れ落ちようとするストラディウムの大門を前にしたグンドの瞳は、これから自分が向おうとする運命をうつして限りなく黒く、深かった。

そうしたグンドの側に近寄る、二人の騎士がいた。一人は、ロードンのヒンドルス、いま一人はユル・ストラディウムのハクセオイといった。グンドは何も言わなかった。戦のさなかヒンドルスは身寄りの全てを失っていたし、ハクセオイはそもそも生まれたときから、ただの一人だったからである。ハクセオイの額に残る傷跡は、臨月だった彼の母の腹を貫いたデュラの兵士の槍がつけたものだった。

大門の崩壊のその瞬間、三人の騎士は電光のように突撃し、黒龍騎兵のただ中に突っ込んでいった。グンダルバウセが一閃し、黒龍の首がはねられ、ヒンドルスのバーニング・ソードが乗手を甲冑ごと燃え上がらせた。ハクセオイの長槍は黒龍の首を貫き、さらにその乗り手までをも貫いた。第一黒龍騎兵は動揺し、混乱した。不敗を誇る第一黒龍騎兵が僅かとは言え、退却したのは、この時をもって他にはない。この間に、多くの者が秘密の地下道を通って、城外へと脱出した。

グンドらが目指したのは、このデュラ最強の軍の深奥、闇よりなお暗い甲冑に身をかため、ひときわ大きい黒龍にまたがり、リミンの長槍シンサレアをもってしても倒れる事無く、 “虚無の剣”アガレイの使い手、デュールが自らの身を裂いて創造したという忌まわしきフェルダノン、魔王ユレーグ、そのものだった。その様は、あたかも夜の大海に沈みゆく一個の真珠のようであったという。圧倒的な闇の中、僅かな光がひときわ暗い闇へと急速に接近し、ひとたびの閃光の後に、消えた。グンド、その人の生涯のように。

グンドの死体が発見されたという、いかなる記録も残ってはいない。この後、ストラディウムは徹底的に破壊され、4年後、新たに魔族グドルの軍を加えて、統一王朝の都エンダルノウムはイルク・セイリオンの叫びとともに陥落。そして、1509年。聖都ファラノウム前面にて、遂にファライゾンの執政フィキタスは執政の職を降り、イーヴォを求め、“ファライゾンの破壊石”を行使。デュラの主力は瞬時にして壊滅し、現在のシリネラ湖ができた。黒龍騎兵とユレーグは当初のデュラ領へとひきこもった。

この後の約200年間、ストラディウム山中に隠れ暮らす者にとってはもちろん、非力な人間族にとっては、あまりにつらい「大混乱期」がつづくが、そんな中にあって、ただ彼らを支え、闇のなかに奇跡のように輝く星のごとくに彼らを導いたのは、グンドと、彼があらしめ、かつて人間族が行なったユルセルームへの裏切りにより失われた“西方守護たる人間族の「誇り」”そのものであった。ただこれ故に、彼らは真の「貧困」に陥ることなく、1700年、遂にストラディウムを再興する。そして、1750年には、かつての「西域」ほぼ全域を含む、ストラディウム連邦を不死鳥のように形成するのである。

「グンドの物語」終)

(註1):“闇の中の炎”とは、数ある「人間族」を表す呼び名の一つである。デュールによってその存在のきっかけを与えられた「人間」が、限りある「生」において、試行錯誤の闇のうちに自らの生きざまを天上に向って投げかける様を、燃焼する炎のありさまにたとえたものと云い伝えられる。翻って、これを「刹那的」とか「やけくそ」的な意味として用いる場合もある。

(註2) :「三大門」とは、聖郡ファラノウム、続一王都エンダルノウム、西方守護ストラティウム、以上三都市の城門を指す。

【編註】(門倉直人、岡和田晃)

*1 エルダ(中期西方読み)もエルロウダ(精霊古語詠み)も間違いでないように、ストラディウムの読み方について、ストラデュウムもストラデュームも間違いではないが、この文献上ではストラディウムで統一している。

*2 伝え聞くところによれば、“眠らん”は、前の“かいなに招かれて”を受けると同時に後の“青き大海”をも修飾する。時の匂い、またグラデーションといった移ろいへの詠嘆など、妖精族の雅で詩歌的文体において多用される傾向があった。「招かれて」の部分は「抱かれて(いだかれて)」とする異本が存在するという。

*3 ハウセルとは、語源的には「潜在する神威を鍛え顕す、神業をなす特別な鍛冶場、その火、燃料、送りこむ風、鎚、金床の全て」を意味した――が、後に、単に優れた業物を鍛え上げる「鍛冶場」を意味する言葉になり、結果的に四王国時代では、それは「山小人の鍛冶場」という意味へ(ほぼ)語の運用が変わる。そして、薄暗がりの時代以降は、また「ちゃんとした正規の(施設の整った)鍛冶場」という意味に一般化する。つまり、ここはこの文献時の語の運用に合わせ――ハウセル(山小人の鍛冶場)とするか、ハウセル(特別な鍛冶場)などと理解するのが良いだろう。あるいは逆に山小人の鍛冶場という慣用を念頭に置き、ハウセルはあくまで表音を意味するという理解の仕方も可能だろう。

*4 この箇所について、ファラノウム図書館にあるイーヴォ派諸国に於ける公式史書ではっきりしているのは、1490年にヒュノーがグンドにより滅ぼされたという一点のみ。そこからの類推においては、1485年説が正しいと見るべきだろう……。ただし、ミレアの黒塔伝承のように時間軸を撹乱するような混沌の呪縛が関与している可能性は常にある。なお、ストラディウムの『公統譜』あるいは『五公譜』ではグンドは1485年の即位となっている。

*5 ヒュノーがグンドによって滅ぼされたのは1490年が正しく、異説はない。しかしながら、この箇所はこの文献上で数字音に意味をもたせた意図的アナグラムという説がある。

*6 正式な史実では、1500年の薄青の月でグンドがストラディウムの大門を開き最後の突撃をしたこととなっている。ただ、本文献において、なぜこのような記載がされたかということについて、単なる誤りではないという説がある。すなわち、グンドはこの時に戦死していないという「見立て」を行なうことで、グンドの再来が成就すると信じられた、一種の呪術的表記という説だ。つまり実際には1500年という運命の年の冬に(死体こそ見つからなかったが)戦死したグンドを、ここで数字を「1950年末」と「文字にして刻み流布」することで、ある種「将来のグンド、あるいはグンド的なるもの」の黄泉がえりを祈願するという、その手の呪術、祈祷が込められた可能性を示唆している。そして実際、1950年代の末は大暗黒期におこったフェリア水没前後と類推され、そこに黄泉がえったグンドが現れ、その活躍が、続くインジークによる大暗黒期終焉の予言に関係しているという言い伝えは(根拠はともかく)西方人の人気の物語になっているようだ。

ローズ・トゥ・ロード (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / 門倉 直人 (著); エンターブレイン (刊)

 

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グンドの物語 by 門倉直人(Naoto Kadokura) is licensed under a Creative Commons 表示 – 継承 3.0 Unported License.

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門倉直人(かどくら・なおと)
ゲームデザイナー。国産初のテーブルトークRPG『ローズ・トゥ・ロード』のデザイナー。その独得かつ幻想的な世界観は、いまなお数多くのユーザーを魅了し続けている。
代表作は『ローズ・トゥ・ロード』、『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』、ゲームブック『魔法使いディノン』シリーズなど。
(『ローズ・トゥ・ロード』リプレイ『ソングシーカー』(新紀元社)より)

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グンドの物語は、とてもTRPG的な物語です。すなわち、とても、やわな構造をした双方向的もの語り遊戯であります。
そこには初出のグンドの物語(『変異混成術師の夜』に収録前の、遊演体ニューズレター掲載のもの)への反響、思いといったものが反映され、疑問点、矛盾点への考察やら四方山がインタラクティヴに響き合い続けています。
神話が重層性を深めていくのには曖昧性、ゆらぎといった要素が不可欠であり、古においてそれは口伝による伝播ということが大きな役割を果たしたと言えましょう。
「邪気」という言葉が「蛇鬼」という言葉として同音連想をからめて様々な物語を生み出したように。
これは文字による伝播が前提であれば、なかなか思いつかない神話生成の要因かと思うのです。
それゆえ現代に於いて、誤植、誤解、誤変換、取り込みエラー等々も、それは神話が新たな枝葉を伸ばす「意味を吸い込み、依り憑かせ、また変異混成させる、偶然という名の真空」ととらえるのです。
だから、私は今でも、このグンドの物語を稚拙な語運用を恥ずかしく思いつつも、(一読者として)とても楽しく読めたところがありました。(門倉直人)

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Analog Game Studiesでは、以下の記事でも『ローズ・トゥ・ロード』に触れています。併せてご覧になって下さい。

・『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた

・「忘れたという、その空白の隙間で--門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第4回)

草場純

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◆第3回はこちらで読めます◆

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前回のククに続いて、もう少し「瀕死」の伝統ゲームについて見ていこう。

ククについては、その復興・伝播についての重要な問題点がある。これについては私も当事者の一人なので、余人にはできない立ち入った考察もできるし、それをここに述べることは、記録という意味からもそれなりに重要であり、恐らく興味を持たれる方もおられよう。だがそれは、この論考のもう一つの柱「ゲームの受容」の段で詳述することにして、ここではひとまず他のゲームについて眺めていくことにしたい。

事柄の性質上、馴染みのないゲームが並ぶし、ルールについて詳しく説明する紙幅もなく、ご存知ない方には甚だ分かりにくく纏まりのない話になるかもしれないが、前以てご容赦願いたい。

まず、「黒冠」を扱おう。別名を「青冠」、「色冠」、「黒冠色冠」などとも言う。これは百人一首の遊びである。

まずこれが瀕死かどうかだが、私の調べたところ私以前にこのゲームを述べた文献は、一件しか見つからなかった。その後の精査で郷土史などの中に類似の遊びが触れられているものをいくつか見出したが、普通の出版物としては他にはなかった。例えばこのサイトの読者で「子供の頃、友達とやった。」とか「親から教わった。」というような人、即ち「伝承」した人はどの程度おられるだろうか。

百人一首の遊びといえば「かるた取り」と「坊主めくり」が主だろう。やったことはなくとも、そのような遊びを聞いたことのない日本人は、殆どいないのではなかろうか。特に「かるた取り」は黒岩涙香以来の「競技かるた」としてルールが確立し、また海外にはない(と思われる)独特のシステムとして、日本文化の一端を担っていると言っても過言ではなかろう。短歌という定型詩をゲームと結びつけたという意味でも極めて興味深い。これは後述する投扇興にも通ずる側面である。百人一首に関する出版物は、それこそ汗牛充棟とまでは言わなくとも、膨大である。ところが、私も片っ端からそのような出版物に目を通してみたが、一言半句も「黒冠」「青冠」を見出すことはできなかった。これを以って瀕死と言わずとも、虫の息ぐらいは言ってもいいのではないだろうか。

で、「黒冠」はどのようなゲームかをごく簡単に述べれば、4人でプレイするパートナーシップのカードゲームである。使用するのは百人一首の絵札(読み札)であり、字札(取り札)は使わない。絵札は描かれた人物の主に被り物により、黒冠・姫・坊主・矢五郎・縦烏帽子・横烏帽子と二枚の特殊札に分類する。これがいわばスート(トランプで言えばスペード・ハート・ダイヤ・クラブ)に当たるわけだ。しかもゲーム論的に興味深いのだが、すぐ想像されるようにこれは市販されている百人一種の種類によって、スート構成が異なるということである。こうしたアバウトさは、近代的なゲームにはあまり見られまい。これを一人25枚ずつ手札として配る。

ゲームの目的は手札を早くなくすことであり、これはパートナー同士のどちらが達成しても構わない。プレイの基本は、初めを除いて二枚ずつ出して行くが、一枚目は直前の人が出した種類(スート)と同じ種類を出さなければならない(受け)。二枚目(攻め)は任意であり、戦略的なことを言えば次の人の持っていない種類を出すとより勝ちやすい。一枚目で受けられなければ(あるいは受けたくなければ)パスをする(パスに追い込まれる)ことになる。

トランプでよく行われる大貧民に似ているとも言える。中国の天九牌のゲームにも似ていると言えば似ている。欧米に広く分布するトリックテイキングゲームにも少し似ている。北欧のキューカンバー、東欧のセドマにも、似ていると言えば似ている。だがそれらのどれとも違うのである。

「システム」という言葉をどのような深さで捉えるかは、なかなか難問である。このゲームをケーススタディーとして「システム」を考えるなら、手札を順に出して行って早くなくすという大きな意味での「システム」としては大貧民やウノ、ノイなどに似ている。だか基本的に二枚ずつ出し、隣との戦いの連鎖になっている「サブシステム」としては、どれとも微妙に異なる。ククほど劇的ではないが、私はここにまた新たな(サブ)「システム」を見出すのである。これを仮に「黒冠システム」と呼んでみよう。

前回も述べたように「瀕死」のゲームは、現在のメインストリームと接触の薄いゲームと言える。そこではメインストリームでは淘汰されてしまうシステムが、保存されたり確かめられたりしているわけである。つまり「瀕死」のゲームはシステムの保存庫であり、実験室だとも言える。

前回の繰り返しになるが、私はここに伝統ゲームをプレイする意味の一つを見出すのである。

面白いことに「黒冠システム」のゲームは、日本の各地に伝統ゲームとして散見される。代表的なのは、石川県能登町宇出津の「ごいた」である。これは元来は将棋の駒を使った黒冠である。ただ、「攻め」が一周続き、ここはよりトリックテイキングシステムに近いと言えそうだ。

他にも茨城には「ゴンパ」とか「丸将棋」と呼ばれた黒冠システムのゲームがあるし、東京(江戸)には「くろ大黒」という、黒冠のバリエーションがあったと言われる。北陸には「色てん」という、また少々細部の異なったゲームが、今も細々と遊びつがれている。

更に、明治期には「芋将棋」という黒冠システムのゲームが売られていたし、その元は江戸時代の「受け将棋」であったとも言われる。

またかつては、「合駒かるた」といって、花札でやるゲームもあったと伝えられている。

すなわち、少なくとも百五十年以上前から、黒冠システムのゲームは、文献に記録されることこそ少ないものの、地下水脈のように日本の各地に広まり、細々とではあっても遊びつがれてきたのである。

こうしたことは二つの面から興味深いと思われる。

一つは庶民史の側面である。そうしてもう一つは「ゲームのニッチ」の面からである。

夙に「歴史は支配者の歴史である」と言われて久しい。正史を編纂するのは時の支配者であるし、史料も圧倒的に「そちら視点」が多く残される。社会システム自身が為政を体現したものであるともいえよう。それ以外の歴史の目は乏しいといわざるを得ない。これに対して、「遊び」は、そうした区別なく楽しまれ伝えられ、息づいている。つまり遊びやゲームは、歴史を今までと違った視点で切り開く可能性を持っているわけである。ここにもう一つの、「伝統ゲームを現代にプレイする意味」があると、私は考える。

もう一つの「ゲームのニッチ」とは、生物学で言うニッチ、すなわち生態学的地位ということである。

安易な比喩やアナロジーは危険であるのは承知のうえで、私はゲームは生物のように、進化・分化・興隆・衰退・滅亡を繰り返すと考えている。「ゲームの生態学的地位」すなわち、ゲームのニッチは、それを推し進めた私の一つの仮説である。すなわち「ゲームのシステムは、人類の遊び時空間の中で、他と区別される地位を持つ」ということである。これは単なる仮説であり、ここでわき道に逸れると本題に戻れなくなるので、深入りは避け、一言だけ言及しておくことにする。

人類が、深海における熱湧水に新しい生態系を見出したのはそんなに古いことではない。はおり虫(チューブワーム)は、硫化物の分解という我々好気生物の営みとは全く別のシステムによってエネルギーを得、子孫を残してきた。

黒冠システムのゲームは、様々なバリエーションが日本の各地に人知れず少しずつ残っている。私には「黒冠システム」のニッチを、いろいろなゲームが襲い分け合っているように感じられるのだが、いかがだろうか。

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◆第5回はこちらから読めます◆

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『秘身譚』とルナー帝国(第1回)

『秘身譚』とルナー帝国(第1回)

 Analog Game Studiesは、アナログゲームとそれ以外の社会的要素を取り結ぶことを大きな目標として掲げています。この問題意識に則り、現在「マガジンイーノ」(講談社)で連載中のコミック作品『秘身譚(ウィタ・アルカーナ)』(伊藤真美)と、この作品と共通したモチーフを採用した幻想世界である「グローランサ」とを題材として、「『秘身譚』とルナー帝国」という主題でテーマ連載を行なうこととなりました。
「グローランサ」とは各種の神話素を混交させた独自の色調を有していますが、そのなかでも多民族・多宗教の巨大帝国として君臨するルナー帝国の退廃的な魅力は数ある創作世界の中でも異彩を放ち、洋の東西を問わず熱心なファンを有しています。第1回目は、『秘身譚』の担当編集者K・Nさま(ご本人の希望により、イニシャル表記とさせていただきます)が『秘身譚』と「ルナー帝国」に共通するモチーフについて記事を書いて下さいました。

ところで「グローランサ」については、Wikipedia日本語版の記述が充実しています。ご存知ない方は、まずはリンク先の解説をご覧下さい。(岡和田晃)

・グローランサ(Wikipedia日本語版)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B5

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【テーマ連載】『秘身譚』とルナー帝国(第1回)
『秘身譚』担当編集K・N

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つい先日、ツイッターの一角で、ある漫画作品が、(会話型RPG「ルーンクエスト」の背景世界である)幻想世界グローランサに登場するルナー帝国を想起させる、という話題がのぼりました。その作品の名は、伊藤真美氏によって描かれている『秘身譚』です。この小文では、この『秘身譚』と「グローランサ」(ルーンクエスト)について触れていきます。

秘身譚(1) (KCデラックス) [コミック] / 伊藤 真美 (著); 講談社 (刊)

『秘身譚』は、紀元3世紀の古代ローマ帝国を舞台に繰り広げられる、歴史と神話が入り混じった冒険活劇です。物語は、ローマ皇帝カラカラの暗殺で幕を開け、シリア属州都アンティオキアを舞台に、月の満ち欠けにより半陰陽に変化する少年・エラと、彼の庇護者である軍士官、グナエウス・D・ポリオを中心にして、ローマ帝国の帝位を巡る争いが話の軸となり、展開していきます。太陽神「エラガバル」を奉じ、帝位奪還を狙う前帝の外戚の一族や、ポリオが率いる秘密結社「夜の辻」の幹部の面々、野心的な女性医師など、彼らを取り巻く人々も、『秘身譚』では生き生きと描かれています。

作品内でも見られるように、広大な版図を持つローマ帝国の領域内では、(ギリシア化された)ローマ古来の神々や、ギリシアの密儀宗教、オリエント諸都市の神々、ガリア(ケルト)やゲルマンの自然神、原始キリスト教、ミトラ教など、様々な神々や宗教が同時並列的に信仰されていました。作中にも、アンティオキア市の守護神である、幸運の女神テュケー(ローマ名:フォルトゥーナ)、死と月の女神ヘカテー、シリアの太陽神エラガバルなど、幾柱かの神々の名前が登場し、物語の中で重要な役割を果たします(因みにキリスト教も、新興宗教としてほんの少しだけ触れられています)。ローマ人はこれらの宗教を受容しながらも、思考と理性を重んじるギリシア哲学もよく学び、文化や慣習が異なる多様な地域を支配する必要から、万人に共通して適用するルール=「法」を最重要視して、その体系の整備に努め、帝国内の安定に努めました。

一方で、自らが誇る「文明」を許容しない国家や文明に対しては、非常に冷酷に対応し、大規模な破壊や残忍な処刑や虐殺を全く厭いませんでした。領域内に組み込んだ地域では、ローマ風の都市計画を推し進めて道や建物を建設し、ラテン語を支配階層への教育で広めて、生活環境や思考方法での「ローマ人」化を一方的に推し進めました。そして何よりもローマ本国の皇帝への忠誠を、現地の神々や信仰よりも上位に置くように強く求めました。ユダヤ民族やゲルマン民族は、この政策にたびたび反発してローマに戦いを挑み、大規模な反乱や戦争を何度も引き起こしてきました。

「中世以前の技術・文明段階の世界で」「自文化の受容を強制し」「古来の信仰や習慣を守ろうとする民族を抑圧する」「様々な神々が住まう地における巨大帝国」……。グローランサ世界におけるルナー帝国が、『秘身譚』の舞台である古代ローマ帝国と重なるのは、当然のことだと思われます。ですが奇妙なことに、グローランサの創造者であるグレッグ・スタフォードは、「ルナー帝国のモチーフはササン朝ペルシアである」と述べているのです。しかしササン朝ペルシアはローマ帝国と時代こそ重なりますが、ペルシア民族主義を打ち出して独自の文化を優遇した王朝でした。ところで、ササン朝ペルシアが創成した場所であるイラン高原中部もまた、アレキサンダーの東征の範囲に含まれており、したがってササン朝もヘレニズム文化の影響を免れ得なかったと考えるほうが自然でしょう。では何故、我々は古代ローマ帝国のイメージをルナー帝国の中に見るのでしょうか? 私が考えるに、『秘身譚』の舞台である「ローマ帝国東方」に、その答えはある様に思われます。

ローマ帝国における東方とは、小アジアやシリア、パレスティナ、アラビア、エジプト、メソポタミア等にある属州や皇帝直轄領で構成され、現代では「中近東」とされる地域にあたります。ここで重要なのは、これらの場所がアレキサンダー大王が征服してギリシア文化と融合して初めて「西洋」に組み込まれたのであり、それまではアッシリアやヒッタイト、新旧バビロニア、アケメネス朝ペルシアなどの、古代オリエントの諸帝国が何千年もの間、興亡を繰り広げた場所だったということです。

専門家ではない我々一般の人々が「ローマ」という言葉から想像するのは、多分に古典古代や現在のイタリアから得られる“西洋的”なイメージでしょう。確かに古代ローマは、建築や法体系、言語などで、現代西洋文明の重要な基層を成す文明でしょう。ですが、東方においては、ローマの支配下にあっても、(ヘレニズム化されてギリシア文化を融合した形での)古代オリエントの影響が、非常に強く残っていました。中でも支配者の頂点たる王や皇帝を、地上に存在する神そのものとして崇拝する習慣は根強く、東方においては、ローマ皇帝の偶像をたて、神として崇めたという記録は数多く残っています。

中央集権支配を容易にするこの思想は、ローマ中央政府にも受け入れられ、ディオクレティアヌス以降及び東ローマ帝国においては、支配原理として採用されることになります。因みにローマなどのイタリア諸都市や西方の属州では、皇帝を地上に居る神として崇拝する習慣は、そこまで強く根付かなかったようです。

また、ササン朝ペルシアの王朝創成の場所であるイラン高原中部も、アレキサンダーの東征の範囲に含まれ、ヘレニズム文化の影響を免れ得なかったと考えることが自然でしょう。そもそも前王朝のパルティアは、ギリシア文化を積極的に受け入れており、「ペルシア文化の独自性」はどのようなものかは、不明な点は多いと思われます。

上記のことを考え合わせると、ルナー帝国は、「オリエント化されたローマ」のイメージと、「ヘレニズム化されたオリエント」のイメージを併せ持った、文字通り「幻想の帝国」である、と言うことができるのではないでしょうか。我々の感覚とグレッグの発言に相違があるのでは無く、ひとつの曖昧なイメージを、別々の側面から見ているともいえるでしょう。

『秘身譚』は、ローマ帝国を舞台としていますが、東方における「古代オリエント」の部分が、強く描かれている作品です。伊藤氏が描く、緻密且つ濃密な古代世界を、今後とも是非ご堪能ください。

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『秘身譚』担当編集K・N

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
『秘身譚』とルナー帝国 by K・N is licensed under a Creative Commons 表示 – 非営利 – 改変禁止 2.1 日本 License.

秘身譚(1) (KCデラックス) [コミック] / 伊藤 真美 (著); 講談社 (刊)

【オビの紹介文】
「紀元217年、皇帝カラカラの暗殺を機に、世界最強の帝国ローマは大きく揺らぎ始める。帝位を簒奪した新帝マクリヌスは、東方の要アンティオキアで地位を安定させるべく、街を闇から牛耳る軍士官、Cn・D・ポリオを逮捕せんと画策するが!? 爛熟と退廃そして神秘と幻想に満ちた古代地中海世界を、美麗なビジュアルで描く、歴史ロマン幻想譚、堂々の開幕!!」

【Wikipedia日本語版より】
主人公の少年(または両性具有)のエラと、エラの保護者であり、街を闇から牛耳るローマ軍団士官グナエウス・ドミティウス・ポリオは、次第に皇帝の座を巡る陰謀に巻き込まれていく。

【参考】
「秘身譚とコンシューマーゲームのコラボ」4gamer.netの記事
http://www.4gamer.net/games/096/G009649/20091221006/

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本コラムをきっかけとして「大規模な破壊や残忍な処刑や虐殺を」厭わなかった軍国主義帝国ローマをもっと知りたくなった方向けの参考書二冊をご紹介いたします。

○『戦略の形成』(上)
戦略の形成〈上〉―支配者、国家、戦争 [単行本] / ウィリアムソン マーレー, アルヴィン バーンスタイン, マクレガー ノックス (著); 石津 朋之, 永末 聡, 歴史と戦争研究会 (翻訳); 中央公論新社 (刊)
同書の第二章で、古代ローマ共和制を地中海世界全体の覇者にのしあげた社会的メカニズムとしての「軍国主義体制」が解説されています。

○『図説 古代ローマの戦い』
図説 古代ローマの戦い [単行本] / エイドリアン ゴールズワーシー (著); ジョン キーガン (監修); Adrian Goldsworthy, John Keegan (原著); 遠藤 利国 (翻訳); 東洋書林 (刊)
良くも悪くも古代ローマの象徴である軍事システムについて、その誕生から滅亡までの千年近い歴史をまとめて解説しています。(蔵原大)

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今回のテーマ連載では『秘身譚』とルナー帝国の歴史的な背景の関わりが指摘されていますが、一方で『秘身譚』は二〇世紀文学の傑作、アントナン・アルトーの『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』とも背景設定を共有した文学的な裏付けを持つ作品でもあり、ジェンダー論、あるいはある種のオリエンタリズムの観点からも魅力ある読解可能性を有した優れた作品です。
単行本は一巻が発売されたばかりですが、その鮮烈な表現は読者に衝撃を与えました。コミックという表現を通し、既存の方法では成し得なかった新たな文学性へ突き抜ける予感をもたらす逸品だと言えるでしょう。
どうぞ、「己が宮殿の厠の中で己が護衛の兵士らによって殺された墓場なき死者、ヘリオガバルスの屍をめぐって、血と排泄物がおびただしく流れたと同様に、彼の出生のときにもその揺籃をめぐっておびただしい精液が流れたのであった」というアルトーの文(多田智満子訳)を念頭に置き、『秘身譚』の頁を繰ってみて下さい。絢爛たる性と血の饗宴が、トリマルキオの晩餐のごとく、あなたを待ち受けています。

ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト (アントナン・アルトー著作集) [単行本] / アントナン アルトー (著); Antonin Artaud (原著); 多田 智満子 (翻訳); 白水社 (刊)

さて、「グローランサ」を背景世界として採用した『ルーンクエスト』や『ヒーローウォーズ』などの会話型RPGは、その誕生時からSFやファンタジー文学等の物語ジャンルと密接な影響関係を有してきました。世界最初の会話型RPGにして、現在でも世界最大のプレイ人口を誇る『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(D&D)が、J・R・R・トールキンの『指輪物語』やロバート・E・ハワードの「コナン」シリーズ、ひいてはマイクル・ムアコックの「永遠の戦士エルリック」シリーズといったファンタジー小説群に多大な影響を受けていたことは広く知られる通りです。
またモチーフのみならず物語構造の観点から見ても、『幻影都市のトポロジー』のアラン・ロブ=グリエ、『宿命の交わる城』のイタロ・カルヴィーノに『334』のトマス・M・ディッシュ、あるいは『帝都最後の恋』のミロラド・パヴィチといった20世紀文学の優れた書き手の方法に、RPGにも通じる相互干渉性(インタラクティヴィティ)を見出すことは容易でしょう。
さらには『トンネルズ&トロールズ』の一人用アドベンチャー『恐怖の街』やスティーヴ・ジャクソン&イアン・リビングストンの手になる『火吹山の魔法使い』といった「ゲームブック」はいまだ人気を博していますし、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』シリーズの一つ『アドバンスド・ダンジョンズ&ドラゴンズ』の背景世界を活用した小説『ドラゴンランス』シリーズのように、RPGから生まれ、広い読者に感銘を与えた小説群は数多く存在します。
近年においては、ドミニカ出身の作家ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(邦訳は新潮社から近刊予定)のように、ドミニカの独裁者ラファエル・トルヒーヨの治世に象徴される――自然主義の方法における表象を拒否した――圧倒的な政治的現実のうねりを描くにあたって、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』をはじめとしたRPGの方法が効果的に活用され、高い評価を受けた小説作品すら現れました(2008年ピューリッツァー賞受賞)。

かようにモダニズムを引き継いだ新たな形式の物語表現とRPGには切っても切り離せない影響関係が存在しています。そしてRPGには、物語世界の持つ特性や手触りのようなものを活かしつつ、コンセプトをダイレクトに反映した独自の因果律を有した世界観を構築していくことが可能なところに、重要な特性が根ざしています。イメージや幻想性――詩心(うたごころ)と言い換えてもよいかもしれません――を掬い上げながら、その中で人間が生きて動いて、ドラマを乗せていくことのできるような背景世界の存在。RPGと物語表現の交点を考えるにあたり、この部分を軽視することはできません。
それゆえRPGの背景世界である「グローランサ」と物語表現としての『秘身譚』が交わる地点を考えることは、RPGの可能性を広げることにもなるでしょう。

なお批評の現場にいると、(相互干渉性を前提とした)背景世界の充実に代表されるRPGの構築性については、まだまだ批評の言語が追いついていないという思いを日々強くします。ゲイリー・ガイギャックスは(背景世界を的確に踏まえた)RPGのシナリオが文学として評価される日の到来を夢想しました(『実践ゲームマスターの達人』)が、物語表現の未来を考えるためには、ガイギャックスの憧憬についてきちんと向き合う必要があると私は確信しております。そのための第一歩として、『秘身譚』は優れた思考の種を与えてくれるでしょう。

最後になりましたが、ルナー帝国の設定については、グレッグ・スタフォードの手になる『グローランサ年代記』にも詳しい記述が存在します。入手が難しいかもしれませんが、図書館に入っていることが多い作品ですので「グローランサ」にご興味をお持ちの方はぜひお読み下さい。
会話型RPG『ヒーローウォーズ』も、ルナー帝国の解説は充実しています。こちらはまだ比較的入手が容易なはずです。(岡和田晃)

幻想神話大系 グローランサ年代記

ヒーローウォーズ―英雄戦争 (TRPG series) [単行本] / ロビン・ロウズ, グレ…

「忘れたという、その空白の隙間で--門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」(「21世紀、SF評論」)

【外部活動紹介】「忘れたという、その空白の隙間で--門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」
岡和田晃

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Analog Game Studiesにおける活動ではありませんが、Analog Game Studiesメンバー(今回は岡和田)の活動のうち、Analog Game Studiesの読者の方々へ、特にご紹介したい活動がひとつございます。

日本SF評論賞チームの公式ウェブログ「21世紀、SF評論」に、Analog Game Studiesでもレポート記事が掲載された会話型RPG『ローズ・トゥ・ロード』について、物語論の知見から分析した長篇評論「忘れたという、その空白 の隙間で--門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」を掲載いただいております。主にトールキンの凖創造論を軸として、「門倉直人」という固有名を物語論 (ナラトロジー)の地平に思いきり引き寄せる作業を行ってみました。

「忘れたという、その空白の隙間で--門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」(「21世紀、SF評論」)
http://sfhyoron.seesaa.net/article/173296285.html

昨年私がSF乱学講座という市民講座で公開講義を行なった際、聴講されていた翻訳家の増田まもるさま(J・G・バラード『千年紀の民』の翻訳が近刊予定) から、アナログゲームの有する可能性の一つに、いわゆる(フィクションにおける)オールドウェーヴの「読み直し」があるのではないかというコメントをいた だきました。

ここから翻って考えるに、アナログゲームが既存のフィクションの「読み直し」として機能するとすれば、フィクション内部での革新運動、例えばSFのニューウェーヴ運動については、ゲームという文脈でいかなる「読み直し」を与えられるのでしょうか?

かつて「オフィシャルD&Dマガジン」誌ではライターの藤川俊一氏と滝祐一氏との対談において、J・G・バラードの「時の声」と『ダンジョンズ& ドラゴンズ』が同一の地平で語られましたが、そこで示唆された「読み直し」の位相の重要性は、増田まもるさまのご指摘と相俟って、今後ますます高まりを見 せるのではないかと思われます。

例えばニューウェーヴ運動は、ラングドン・ジョーンズの編纂したアンソロジー『新しいSF』に 象徴されるように、時代が要請した最も先鋭的な表現でもありました(ジョーンズとともにニューウェーヴ運動を牽引したマイクル・ムアコックは『新しい SF』の序文において、『新しいSF』収録作を「読者志向」であり、「大衆との関わりを念頭に置いている」と告げています!)。

そして今回の論考では、あくまで試論レベルではありますものの、そうした地点を瞥見することができたと自負しております。どうぞ、ご笑覧いただけましたら幸いです。

また今後は、【外部活動紹介】というカテゴリーのもと、Analog Game Studies外で(主にメンバーや協力者の手で)発表された論考や作品、講演活動などをもご紹介していく予定でございます。ご期待下さい。

なお、増田まもるさまが管理人をつとめられるニューウェーヴ/スペキュレイティヴ・フィクションのサイト、「Speculative Japan」(http://speculativejapan.net/) は、Analog Game Studiesをブログロールに登録して下さっています。「ゲームについての思弁が人間理解に欠かせないことは、いうまでもありません」とのお言葉を下 さった増田まもるさまに感謝いたしますとともに、今後ともいっそうの友誼をお願い申し上げる次第です。(岡和田晃)