伝統ゲームを現代にプレイする意義(第3回)

草場純

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「瀕死の伝統ゲーム」という表現は穏やかでないが、誰もプレイすることのないゲームは、信仰することのない宗教や、誰も演奏することのない音楽のように、滅亡したと言ってよいだろう。ならば、「殆ど忘れ去られた」ゲームは「瀕死」と言ってよいかも知れない。

音楽は楽譜があれば再現できるが、古代や中世の音楽は残された楽譜が少なく、記述も不完全で、たとえ再演されたとしても、それが古代・中世の響きであるかどうかは、検証の方法がない。宗教はもっと深刻で、一度忘れ去られた神々は、神像があっても教義が残っていても、蘇ることは難しい。エジプトの神々は、ピラミッドに、パピルスに、多く姿が残され、かつて莫大な数の人間の信仰を受け、崇められ、巨大な体系が築かれていたにもかかわらず、現在ラーを信仰するような人々は殆どいないのではあるまいか。聖書・聖典の類では、しばしば神々は人類に鉄槌を加え、これを滅ぼすが、現実には人類こそが、神々を滅ぼすわけである。もちろんエジプトの宗教が後世に与えた影響は無視できないし、現在でも信者がいないとは限らない。だが痕跡も残さず滅びてしまった宗教なら、復活することは考えられまい。

さて、ゲームは宗教よりは音楽に近く、ゲーム用具やきちんと記述された(ここが問題だが)ルールブックがあれば、再現はむしろ容易である。もちろんそうして再現されたものが、果たしてかつてのものと同様なのかは音楽と同じく検証は難しいが、ルールがアルゴリズムであるからには、宗教のように信仰心や、音楽のように感覚に依存するもの以上に、かなりかつてのものに近いと考えてもよいだろう。実際、「滅びたゲーム」とは、そのようなルールすら残されていないものを指すのである。

では「瀕死のゲーム」とはどんなものか。それは(完全にではなく)殆ど忘れ去られたゲームである。

こうした瀕死の伝統ゲームをプレイすることは、囲碁・将棋・象棋・チェス・双六などの、現在でも多くのプレイヤーがいる伝統ゲームをプレイすることとは、相当に意味が異なる。では、どこが異なるのか。「瀕死の」伝統ゲームをプレイすることの意味・意義は、奈辺にあるのだろうか。
そうした具体的なゲームの一例として、以下にククの例を挙げて考察してみよう。

ククはイタリアのカードゲームであるが、何度かたまたま知り合ったイタリア人に尋ねてみたが、知っていた人に会ったことがない。その意味で瀕死と診断してよいと考える。

このカードは、様々なゲームができる準汎用カードであるが、現在日本の一部に流布しているルールは「カンビオ」であり、これは1980年に法政大学の江橋崇教授によって紹介されたものであって、それ以前に日本で知っていた人は皆無であったと考えられる。江橋氏のそのまた元は、1979年にデンマークのラーセンが復刻したGNAVカードとそのルールである。ヨーロッパの事情は、私には正確には掴みかねるが、それまでは恐らくヨーロッパでも忘れられたゲームであったろうと推測されるし、現在でも決してよく知られているゲームではない。

前回述べたように、忘れ去られるには忘れ去られる理由があって淘汰されたと考えられるから、このゲームが誰の心も掴んで離さないほど魅力的なゲームであるはずはない。では、果たしてそんなゲームをやる意味はあるだろうか。

私自身が初めて「かるたをかたる会」でやらせてもらったときも、子どもの遊びという印象であった。農民が農作業のあと、村の酒場で一杯ひっかけながら、小銭を賭けて遊んだという話を聞くにつけ、ギャンブルゲーム、すなわち金でも賭けなければ面白くないゲームと感じた。何せ、手札はたった一枚。プレイもただ一度、それも隣と交換するかしないかを判断するだけなのである。カードは40枚だが、特殊な役を持つカードも僅かに6つしかなく、それもあまり意味がなさそうに感じた。カードには、それら役札を含めて単純にランクがついているだけで、スートの区別すらない。そんなゲームが面白いだろうか? 面白いはずがないではないか。

だが私は、マッセーンギーニ社(イタリア)のカードを手に入れ、自宅に帰ってボードゲーム仲間と何度か遊んでいるうちに、このゲームの面白さを文字通り「発見」していった。たった1枚の手札のただの1プレイが、「最も弱い札を持っていた人だけが負ける」という何でもないルール(負け抜けシステム)のために、うまく働くのである。初め冗長で半ば無意味と思えた役札の特殊能力も、実はよくできていることを知って驚かされた。誠にゲームばかりはやってみなければ分からない。そして私にとって何よりも衝撃だったのは、そのようなシステムのゲームを他に全く知らなかったという点であった。

私はシステム派なので、「ゲームの本質はシステムだ」と思っている。ここで言うゲームのシステムとは、「競りシステム」「神経衰弱(記憶)システム」「はげたか(バッティング)システム」「双六システム」などのゲームのジレンマを生み出す、最も基本的な仕掛けのことである。こうした基本システムでは全く新しいものを生み出すことは難しい。人間の考えることはどうしても類型化しやすいし、長い淘汰の歴史があるということは、逆に言えば様々なシステムが繰り返し試されたということであり、新しいものを生み出すための試行錯誤が既になされたということであるからだ。ある意味、新しいゲームとは、それまであった基本システムの、新しい組み合わせのことでしかなく、しかしそれも立派な創造であることは間違いない。

ところが私がククの面白さに気づいたとき、私はその類型を思いつくことができなかった。似たゲームがないのである。(厳密にはイギリスのランターゴーラウンドが唯一似たゲームである。だがランターゴーラウンドも極めてマイナーなゲームだ。)すなわち私は、古いゲームに新しいシステムを見出したのである。

瀕死の伝統ゲームを遊ぶ意味の一つが、ここにあると私は考える。忘れ去られようとするゲームは、逆に言うならその時点での社会との接点の薄いゲームである。だからその内実が知られていないという意味で、新しい。かつ伝統ゲームであるからには、それが遊ばれ続けた長い時間の中での洗練が期待できる。瀕死のゲームにつねに新しいシステムが見出せるというようなわけではもちろんないけれど、現在のゲームの持つ相との異質な相をそこに見出すことは少なくない。つまり瀕死の伝統ゲームというのは、それが生み出されたときの社会との相互関係すなわち相を、現代の相の中にもたらすタイムカプセルであるとも言えるのだ。

考古学者は古い墓の中から、時に思いがけず古代の見知らぬ文化を発見することがある。ごく最近も、出雲で室町時代の将棋盤が出土した。我々も忘れられようとしている古い伝統ゲームの中に、知られざる文化を発見しようではないか。そしてここが重要なのだが、本当に忘れられてしまったら(復元する手がかりがなくなってしまったら)、それは滅亡した生物同様、永遠に人類から失われてしまうのである。

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『ウォーハンマーRPG』リプレイ「魔力の風を追う者たち」ウェブ再掲記念;非公式対談――遊んでみて“改めて/新たに”わかった、会話型RPGの批評性

 今回お披露目するのはAnalog Game Studiesでは初の試み、対談記事です。

 かつて『GAME JAPAN』誌で『ウォーハンマーRPG』のリプレイシリーズ「魔力の風を追う者たち」が連載されていましたが(2008年3月号~5月号)、そのシリーズがインターネット上においてPDFファイルとして再掲され、無料で読むことができるようになりました。

 現在、すべての回がウェブ上に記載されていますが、その完結を記念して、リプレイの参加者のうちAnalog Game Studies会員でもある者たちが、リプレイに参加した感想を対談形式で自由に語ってみるという企画を実施してみました。

 日本は諸外国に比して文芸誌が数多く出版されている国だと言われていますが、文芸誌上では対談形式で、特定の小説などを絡めることで自由に発想を膨らませていき、作品に参加した/あるいは受容した経験を深めつつ、さらに広い社会的文脈へと繋げる試みが頻繁になされています。この対談は(水準を満たしているのかはさておき)、そうした方向性を目指した試みです。

 もちろん、版元の公式の対談ではありませんので、この対談の文脈を押さえていなければ『ウォーハンマーRPG』を、そしてリプレイを楽しむことができないのか――などというご心配はまったくありません。あくまで想像をさらに膨らませるために役立てていただくためのリプレイ参加者の現場の声、非公式の注釈(コメンタリー)としてご理解いただけましたら幸いです。

 なお、『ウォーハンマーRPG』とは、ドイツ三十年戦争近辺のヨーロッパを模したケルト的な多神教的世界を舞台に、「混沌」と呼ばれる存在との戦いをライトモチーフとした会話型ロールプレイングゲームのことを指します。現在でも第2版の日本語展開が継続しています。
 『ウォーハンマーRPG』についての情報は、

・『ウォーハンマーRPG』日本語版公式ページ
http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/

・Wikipedia『ウォーハンマーRPG』:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BCRPG

・TRPG.NET Wiki『ウォーハンマーRPG』
http://hiki.trpg.net/wiki/?WarhammerFRP


 以上のサイトから概観をつかむことが可能です。


 『ウォーハンマーRPG』のリプレイそのものは、日本語版公式ページの以下のURLから、無料でダウンロードできます。
http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/gamejapan/index.html

 また『ウォーハンマーRPG』日本語版公式サイトでは、今回の対談で話題にしている「魔力の風を追う者たち」ばかりではなく、続篇シリーズ「混沌狩り」(全三回)も掲載されております。併せてご覧いただけましたら幸いです。(岡和田晃)

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『ウォーハンマーRPG』リプレイ「魔力の風を追う者たち」ウェブ再掲記念;非公式対談――遊んでみて“改めて/新たに”わかった、会話型RPGの批評性
 岡和田晃(ゲームマスター、ライター)×高橋志行(灰色の魔術師エックハルト役)

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●はじめに 

岡和田: 本日はお忙しい中、対談に応じていただき、ありがとうございます。
高橋: こんばんは。宜しくお願いします。
岡和田: 『GAME JAPAN』の08年3月号から半年間連載された『ウォーハンマーRPG』のリプレイが、2年半の月日を経て、ウェブで再掲されました。今は雑誌名も『ゲームジャパン』とカタカナ表記になったし、会話型RPGのサポートはウェブが主になったのですが、しかし『ウォーハンマーRPG』は、新作サプリメント『スケイブンの書――角ありし鼠の子ら』もこの対談が掲載される12月24日に新発売となっており、翻訳に関わった者の気持ちとしては、まだまだ展開を続けていきたいと思っています。
 ということで非公式ではありますが、リプレイ再掲記念のプライベート座談会ということで、今回GM・ライターの岡和田が、プレイヤー(「魔力の風を追う者たち」では灰色の魔術師エックハルト役で)参加してくれた高橋さんをお招きいたしまして、簡単な対談をしてみたいと思う次第です。なお、リプレイを未読の方は、公式サイトから無料ダウンロードが可能ですので、ぜひご覧になってみて下さい(http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/gamejapan/index.html)。
高橋: 丁寧な紹介、ありがとうございます。当時は僕自身もとても楽しんでプレイできました。こうしてWebで公開されて、とても嬉しく思います。
岡和田: 高橋さんは、自身で運営されていた主に会話型RPG(TRPG)を考察するウェブログ上でも当初から素晴らしいプレイリポートや論考を書いてくれて、連載の成功を陰からサポートしてくれました。あまりお手盛り感のない客観的な紹介をしてくれていたのもよかったですね。 

スケイブンの書-角ありし鼠の子ら (ウォーハンマーRPG サプリメント) [大型本] / スティーブ ダーリントン, ロバート J シュワルブ (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)


●ストーリー重視のための魔術師Onlyパーティ 

高橋: 毎回キッチリ感想書けるだけ刺激的だったということもあります(笑)。最初は、四人全員魔術師なので、普段のセッションより「考える手応え」が豊富にありましたね。
岡和田: なぜ全員魔術師かというと、『魔術の書:レルム・オヴ・ソーサリー』というサプリメントの紹介という意味合いもあったのですが……。それ以上に、ストーリー重視にしたかったのです。現在の『ウォーハンマーRPG』は第2版なんだけれども、ルールブックが出た直後に身内でテストプレイした際、旧版のシナリオをコンバートして遊んだら、あっという間に全滅しちゃったということがありまして。
 ちなみに『さまよえる魂』という旧版のシナリオ集の冒頭、「流血の夜」というシナリオです。あまりに内容がエグいせいか、これだけ第2版にコンバートされていません(笑)
 内容は、暴雨風の中、突然、ミュータントに馬車がひっくり返される。 必死でミュータントと戦って、逃げた先には怪しい館(笑)。そこから先は『注文の多い料理店』な展開というか……。このシナリオは面白く、「Role&Roll」誌に連載されている人気RPG紹介マンガ『スピタのコピタの!』で『ウォーハンマーRPG』が紹介された際にも、このシナリオが遊ばれたようです。『スピタのコピタの!』を読めばわかりますが、ものすごくホラー映画的、それもB級的な意味でも面白いものです。ただ、当時は私の運用がヘタクソだったんですね。
高橋: 聴いただけで報われないシナリオだとわかりますね(笑)。「報われない」といっても、ゲーム的にってわけじゃなく、あくまでPC視点ですけど。ウォーハンマーは意志力テストがほぼ『クトゥルフ神話TRPG』におけるSANチェック(=正気度喪失判定)みたいなものだから、『クトゥルフ・ダークエイジ』(http://hiki.trpg.net/Cthulhu/?CthulhuDarkAges)っぽいノリでも遊べるでしょうけど……。
岡和田: SANチェックでも、行動がまったくできなくなって、一方的にボコボコですから(笑)で、一方、『クトゥルフ・ダークエイジ』っぽい要素があるのはその通り。『ウォーハンマーRPG』はある意味、『クトゥルフ神話TRPG』シリーズのようなフレーバーのゲームでもあるんです(『ダークエイジ』はけっこう戦えるのですが、そこもちょっと似ています)。そして『魔術の書』も、記述の7割はフレーバーテキスト(=ルール上厳密に管理されているわけではないが、オールドワールドの世界の記述を豊かにしている文字情報)で、魔法の本質、魔法の系統、どうやって魔法をかけるか、世界における魔法の位置づけ、などといった記述がよりどりみどりでして、これが『魔術の書』の強みだと思います。これをどうやったら活かせるかということで、ああいう展開を考えました。
 経験点も2000と多めでスタートして、まま語られる「『ウォーハンマーRPG』=マゾプレイ」という偏見を消したかった。いや、たしかにマゾプレイでも面白いのですが(笑)、ゲームを見る角度を変えたかったんです。だから思い切って全員魔術師(笑)となった次第。そうすることで、「魔法を生きる糧」としている人たちの生活や人生そのものにまでスポットを当てて、そうした部分からストーリー的な面白さを提示してみたいと考えた次第です。

魔術の書:レルム・オヴ・ソーサリー (ウォーハンマーRPGサプリメント) [大型本] / マリアン・フォン・シュタウファー (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 見田 航介 (翻訳); ホビージャパン (刊)クトゥルフ・ダークエイジ (Role & Roll RPG) [単行本] / シュテファン ゲシュベルト (著); Stephane Gesbert (原著); 坂本 雅之, 中山 てい子 (翻訳); 新紀元社 (刊)


●フレーバーテキスト、小説の設定との兼ね合い 

高橋: フレーバーテキストは、確かに他のゲームより豊富ですね。『D&D』も、たとえば三版以降は特に、呪文周辺のフレーバーテキストに胸躍らされるものがありますけれど、今の時代に合わせて、フレーバーを乗せるところと乗せないところがはっきり区別されている印象です。
岡和田: 三版以降の『D&D』は、ものすごく好きで狂ったように遊んだものですが(笑)、プレイグループのスタイルに合わせて、情報が取捨選択されていくんです。
高橋: その上で、岡和田さんのGMでは、アルトドルフに関する設定が、シナリオ内の課題としてどんどん組み込まれて行った。「あのフレーバーがこんな風に料理されるのか!」というのが、かなりありましたね。フレーバーテキストを単にデジタルに処理してしまうと、ウォーハンマーに限らず、背景設定の濃いルールブックのほとんどが「単に、無意味な記述の束」になってしまう。アナログで、パラメータにしにくいところをGMの側で課題として変換する作業は、やっぱり会話型RPGならではのテクニックであり、ゲームデザイン的に重要な部分だと思うんですよね。
岡和田: それはありがとうございます。なるべく、いわゆる蔑称としての「吟遊詩人GM」になりたくなかったんですよ。「美しいお話」を聞かせるだけ、ってやつ。「吟遊詩人」的なスタイルでも面白いことはできますけれども、私の趣味ではあんまりない(昔さんざん痛い目を見たので……)を。それとは別に、アルトドルフが舞台だと、ウォーハンマー小説が利用できるという強みもありました。
高橋: ウォーハンマー小説の『ドラッケンフェルズ』は、旧訳と新訳、両方読みました。新版もいいですが、旧訳の日本語のリズムも味わい深かったですね。
岡和田: 『ドラッケンフェルズ』は、確か参加者には全員読んでもらった気がします。そのうえで、シナリオにはアルトドルフを舞台とした続篇『ベルベットビースト』の小ネタを入れたりして(笑) 『ドラッケンフェルズ』のジュヌヴィエーヴをプレイするというのは、実際のセッションだと私もやったことがありますし、旧版の未訳サプリにデータはあったのですが、今回のリプレイではやりたかったことが違いました。だからあくまで、アルトドルフに生きる名もなきPCたちが主軸として話が動いていく、という方針をメインに据えたわけです。 

ウォーハンマーノベル ドラッケンフェルズ (HJ文庫G) [文庫] / ジャック ヨーヴィル (著); クリステル スヴェーン (イラスト); 待兼 音二郎, 崎浜 かおる, 渡部 夢霧 (翻訳); ホビージャパン (刊)ウォーハンマーノベル ベルベットビースト (HJ文庫G) [文庫] / ジャック ヨーヴィル (著); クリステル スヴェーン (イラスト); 待兼 音二郎, 矢野 真弓, 木暮 里緒 (翻訳); ホビージャパン (刊)


●NPCの活躍 

岡和田:その意味では、魔女のレジーナのリアクションはとてもよかったと思います。 高橋さんのエックハルト(影の学府の中堅魔術師)も、オピニオン・リーダー的に動いていてGMから見ても嬉しかったですね。
 リプレイの第1話「破滅の天使」は、ジェットコースター的な展開をあえて意識しているんですが……。そこでエックハルトは機敏に動いてくれました。もたもたしていたら、ナーグル腐れ病でみな死んでましたよ(笑) いや冗談じゃなく。
高橋: いやいや、あの魔術師四人に対して、シルダ(香子さんのドワーフPC)を慕うドワーフ三兄弟、戦士キャラがついていなかったらまずかったと思いますね。とはいえ、ドワーフ三兄弟もナーグル腐れ病にかかって大変なことになってましたが。あの描写も、セッション現場では4ページでは収まらないくらい洒落になっていなかった。
岡和田: 実はですね、ガンツ・グンツ・ゴンツの三兄弟っていうのは……。私のアドリブで生まれたんです(笑)
高橋: それは、戦力補強の意味合いでですか?(笑)
岡和田: いやいや、酒場のシーンから最初始まったわけじゃないですか。ここで、PC同士を引き合わせるわけですよ。そこで、いろいろ小ネタをぶつけて反応を見ていくわけですよね。シルダの場合、ガンツ三兄弟となぜか相性がよかったという事情があります。 


●魔狩人フレイザー 

岡和田:面白かったのは、魔狩人のフレイザー。これ、連載当初に人気があるキャラだったんですけど、基本的な枠組みはプレイヤーの皆さんに作ってもらったんですよね。というかぶっちゃけ、高橋さんが考えたんでしょ(笑)リプレイ読み直すとエックハルト/高橋さんの発言になってますし。フレイザーという名前は私が付けたんですが。由来は古典的名著『金枝篇』のフレイザー卿ね。読むとSAN値(正気度)が減ります(笑)
高橋: あ、そういえばそうでしたね!(笑) 最初のプレーヤー間の設定相談で、横井さんに「なんで魔女なのに、こんな都市部に居るの?」って話になって、その時に企画会議風に「まあ、居てもおかしくないよね」とばかりに挿入したはず。
岡和田: いやその前に、「なぜPCたちはパーティを組んだのか」という無茶振りを考えてもらったんじゃなかったかな。ワイワイ言いながら設定作るのって、楽しいでしょ。GMとしても楽でいいし(笑)、何よりプレイヤーにシナリオへダイレクトにコミットしてもらいたかったので、その最初の課題だったんですよ。課題というと上から目線っぽくて偉そうですが……。
高橋: 僕は会話型RPGのセッションで、「いま参加者間で共有されている設定群から、むりのない推論をして、べつの設定をどんどん生産していく」のが楽しみの一つなんですよね。自由連想ってわけじゃなく、一定の理屈をつけて繋げるのが好きなんです。なので、横井さんへの提案がきっかけで、フレイザーみたいな人気キャラが育ってくれて嬉しく思います。
岡和田:フレイザーが最終的にどうなるかは、初期段階では白紙でした。初めは、謎解きが煮詰まったら出てくるキャラにしていたんですよ。で、プレイヤーとの相互干渉の結果キャラが出てきて、第3話でああいう末路を迎える。裏話としては、当時読んだばかりだった伊藤計劃の小説『虐殺器官』に影響を受けています。そしてフレイザーは、PCたちの、心理学的な「シャドウ」を意識したつもりなんです。GM的な運用としては。『ゲド戦記』に登場する「影」。セリーヌの『夜の果てへの旅』に出てくる、語り手の行く先々に現れる謎の男、ロバンソン。
高橋: 最終的に、そういう物語の王道的な役回りを帯びさせていったということなんですね。 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA) [文庫] / 伊藤 計劃 (著); 早川書房 (刊)影との戦い―ゲド戦記 1 [単行本] / アーシュラ・K. ル・グウィン (著); ルース・ロビンス (イラスト); Ursula K. Le Guin (原著); 清水 真砂子 (翻訳); 岩波書店 (刊)夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫) [文庫] / セリーヌ (著); Louis‐Ferdinand C´eline (原著); 生田 耕作 (翻訳); 中央公論新社 (刊) 


●PCたちの役割 

岡和田: そうそう、『ウォーハンマーRPG』なので、キャラクターは最初っからヒーローとして完成されていないんですよ。あくまでも生活者で、むしろ途中で朽ち果てる連中がほとんど。でもそれはそれで楽しいし、やりがいがあるのは不思議なところです。PCたちも、他のNPCと比較するルール的なアドバンテージは運命点があることだけ。おまけに、経験点2000からのセッションということで、初期運命点は逆に減らしてもらっています。そうした条件で、少ない運命点をガンツ三兄弟に注ぎ込んだシルダは偉かったですねぇ。
高橋: シルダ=香子さんの三兄弟運用は素晴らしかったですね。
岡和田: あれは、理想の姐御というか……。
高橋: レジーナは基本的に主役、というより渦中の人。
岡和田: シルダ役の香子さんは、普段はとってもいい子なのに(笑)それと、ウルフガングはPCたちがすっぽかした事後処理を引き受けてくれる役割かなあ。そうした設定が、自然に共有されていく感じで、GMとしても面白かったですね。戦闘にあまり紙幅を避けなかったんですけど、戦闘でいちばん活躍していたのはウルフガングですからね。ガンツ三兄弟を除きますが(笑)
高橋: どんどん野獣化していく様が、次シリーズの『混沌狩り』を予見させるような流れでしたね。
岡和田: 続くリプレイシリーズの『混沌狩り』は、ウルフガングのプレイヤーの坂本さんの本領発揮というか……。でも、野人はヒロイック・ファンタジーの本質なんですよ(力説)。ロバート・E・ハワードの 『コナン』しかり、『ルーンクエスト』のオーランス人然り。
 ……あっ、今気がつきましたが、「影」という意味では、フレイザーとエックハルトはパラレルなキャラクターですね。ただ、エックハルトは内面がないキャラクターですよね。そこがレジーナとたぶん違う。シルダとも違うかな。あくまでプラグマティスト。ここは高橋さんのある部分が反映しているのでは(笑) 

黒い海岸の女王<新訂版コナン全集1> (創元推理文庫) [文庫] / ロバート・E・ハワード (著); 宇野 利泰, 中村融 (翻訳); 東京創元社 (刊)


●発言に至る過程、物語的な連関性 

高橋: そう言われれば、そうですね。僕は、会話型RPGゲーマーとして、いろんなリプレイを楽しく読ませてもらっているわけですけれども……もしやる側に回るとすれば、「何を考慮して、その発言に至ったか」というところを、なるべく透明にしてプレイしたいし、そういうのを読んでもらいたい、という方針でいるんですよね。
岡和田: 私が読者として、リプレイに期待するのもまさにその部分だったりします。試行錯誤の過程というか。物語が生成される過程というか。その部分。小説で言えば、文字として「書く」以前の過程ですよね。いや、書かれるその瞬間のメカニズム、と言うべきでしょうか。そこがリプレイを読んでいて私としては楽しみにしている部分です。
高橋: そのセッションの現場で、いろんな〈状況の要素〉があるわけですよね。流行り病とか、魔法の政治性とか、社会権力とか……。そのうち、何を評価して、何をゴリ押しして、その発言を選び取るかというのは、特にフレーバーテキストが豊富なウォーハンマーにおいては特に、重要な点だと思ってました。
岡和田: それを小説で表現すると、ひどく込み入った場合になることが多いんです。もちろん面白いんですけどね。さっき名前が出ました『ドラッケンフェルズ』のジャック・ヨーヴィル(キム・ニューマン)は、そこをエンターテインメントに落とすのが上手い人です。逆に、「選び取る」ことのテーマを広げていくと、ジャン=リュック・ゴダールの映画のようにすることも、たぶんできると思います。『新ドイツ零年』とか、一筋縄では行かない映画ですが、ある意味すごく本質的に会話型RPGに近いと思っています。
高橋: フレーバーをGMだけが拾っていても、プレーヤーの側が意味付けて、確かな“状況打破の一歩ずつ”にしていかないと、という気持ちがあります。僕が会話型RPGのプレイング中に、常に気をつけていることでもあります。素朴な設定を、ゲーム的な設定に貪欲に取り込んでいくのもプレーヤーの仕事といいますか。
岡和田: そこはGMとして客観的に見ていても、伝わってきましたよ。ただ最近では「ぐだぐだ」と呼ばれてしまうことも多いんですが、実はこの過程って大事なんじゃないかと自分としては思っています。だから「ぐだぐだ」は私の中では、NGワードにしているんです。

新ドイツ零年 [DVD] / エディ・コンスタンティーヌ, ハンス・ツィシュラー, クラウディア・ミヒェルゼン, アンドレ・ラバルト, キム・カシュカシアン (出演); ジャン=リュック・ゴダール (監督)


●「口プロレス」の弊害? 

高橋: それは、「口プロレス」という言葉の弊害だと思いますね。たとえば、どれだけパーティの中で自分のキャラづけが巧く行っていても、それが「そういうキャラだから」というだけでは、本当の意味での説得力がない。「あの設定を活かせば、こんな風な解決策を編み出せて、その為にこんな判定を要求できるのではないか……」と、自ら継続判定を編み出すところまでいけばいいと思うわけです。
岡和田: 『ウォーハンマーRPG』って、悪い意味での「口プロレス」とは全然違ったからねぇ。今回のリプレイのセッションも、特にそうだった。
高橋: そもそも、『ウォーハンマー』が採用するパーセンテージ・ダイスはケイオシアムのBRP(=ベーシック・ロールプレイング)の文脈を受け継いでいると僕は考えています。その元祖である『ルーンクエスト』や『クトゥルフ神話TRPG』もまた、色んなお膳立てをプレーヤーの側が引き寄せて、それから判定を試みる、というテクニックがしばしば用いられますよね? そのぶん、D100を振る回数は制限されていない。時間の管理がゆるいぶん、ゲームマスターに追い込まれれば判定回数をみるみる減らされるようにもできているのがBRP的なゲームの特徴です。そこでプレーヤーは、単に思いつきを言葉で表すのではなくて、既存のルールブックの中にある判定系から落とし所を探って、「判定がありうる場所」をプレーヤーの側から提示していくのが、いいと思うんですね。
岡和田: そうそう、より自然な表現で言うと、その世界で生きている理屈が、プレイヤーを縛るのではないかと思います。
高橋: そしてそのためには、GMは、いろんな発想に耐え得るだけの状況想定を、用意してくれている必要があります。良い公式シナリオにはそういう「状況想定」のためのフックが沢山あります。その想定の豊富さが、GMのセッション・ハンドリングを助けるわけです。そういう意味で、ルールブックで提供される「世界設定」は実はフレーバーに止まらない。「準ルール」あるいは「潜在的に機能しうるルール群」とも言える。もちろん、何を「ルール」に昇格させるのかが、現場のGMやPLの意見調整によって決まってくるのが、また面白いのですけれど。


●1980年代のシナリオ・ノウハウをどう継承するか 

岡和田: おっしゃるとおりですね。インターネットで無料ダウンロードできる私が訳したシナリオの中だと、『隠された宝石にまつわる諸事情』という作品が、それに該当すると思います(http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/dl_scenario.html)。
高橋: コンピュータRPGでも、最近では『The Elder Scrolls IV: Oblivion』などの、いわゆる“箱庭型RPG”の再評価が目立ちます。でもそれじゃあ会話型RPGにおける箱庭型はなんだったかというと、この「状況想定」がどれだけ網羅的か、ということだと思うんです。
岡和田: おっしゃるとおりではないでしょうか。高橋さんの労作である『ロールプレイング・ゲームの批評用語』(http://www.scoopsrpg.com/contents/hakkadoh/hakkadoh_20070927.html)の言葉をお借りしますと……〈共同ゲームデザイン〉の、ルール・メカニズム内の位置づけをユーザーがどう認識するか、でしょうか。ちなみに〈共同ゲームデザイン〉(http://www.scoopsrpg.com/contents/hakkadoh/hakkadoh_20070927.html#sharedgamedesign)については、昨年にSF乱学講座というイベントで講演をさせて頂いたときに紹介させていただいて、聴講者の方々から好評を得ることができました。この場を借りて、厚くお礼申し上げます。
高橋: ありがとうございます。「ゲーム論×物語論」という文脈で論じられていたのは聞き知っていたのですが、それは知らなかった(笑)。国際大学GLOCOMでも、一時期RGN(ゲームと物語に関する研究会)が行われたいたことがあり、今でもUTREAM.TVを利用したRGN-uが細々と続いているのですが、SF論壇の方でもそうした試みが始められているのは、とても心強いですね。
岡和田: シナリオに話を戻しますと、箱庭RPGに興味がある人は、『ウォーハンマーRPG』の資料やシナリオ読むべきですよ。いや、本当に。
高橋: まあ……1980年代までの、特に海外の会話型RPGシナリオって、「今の会話型RPGプレーヤー」とは全然異なる文脈やリテラシーを要求しているところはありますので(笑)、一概に言えないのですけれども。今遊んだら「クソゲー」認定されかねないけど、当時はそうとも限らなかったんじゃないか? という。この辺は、クリアに語りたくても、なかなか難しいところです。
岡和田: 80年代の海外RPGを代表するシナリオとしては、私は『クトゥルフ神話TRPG』(『クトゥルフの呼び声』)の『ニャルラトテップの仮面』を挙げたいですね。『ウォーハンマーRPG』の『アルトドルフの尖塔』は、その正統な後継作だと思います(デザイン・コンセプトという意味で)。『アルトドルフの尖塔』のライターをしているデイヴィッド・チャート氏は、『アルス・マギカ』という優れた未訳RPGにも関わっていて、宗教学や神道を研究してもおられるようです。『救済の書:トゥーム・オヴ・サルヴェイション』という宗教サプリメントのライティングにも参加しています。いつかインタビューしたいですね。
高橋: 『アルトドルフの尖塔』は、書籍で出ている公式シナリオ集ですね。
岡和田: はい。アルトドルフの設定を兼ねたキャンペーン・シナリオ集なので、お得感がある良作ですね。翻訳の定木さんの訳文も美しく、素晴らしいものです。
高橋: 『ニャルラトテップの仮面』といえば、先日僕がサークルで遊んだ『黄昏の天使』(=日本で初めて刊行された『クトゥルフ神話TRPG』キャンペーンシナリオ)などは、その『ニャルラトテップの仮面』の頃の空気を濃く受け継いでいて……つまり、1話からそれはもう、大変なわけです(笑)。キーパーの方は、その80年代CoCシナリオを一通り知ってる人なので信頼しているわけですが、このシナリオに関してはもう、SANチェック以前に、PCの体力がもたない場合すらある(笑)。でも、僕が思うに、それは海外の……1974年ごろからひたすらD&Dやルーンクエストなどに親しんできたヘヴィゲーマー向けに打ち出されたからこそ、今遊んで難しいのであって、直輸入して遊んでみても、簡単には把握できないというだけだったのではないか、とも思ったんですよね。
岡和田: 当時は雑誌サポートなどがされていたと思いますが、現在に至るまでは、なかなか遊び方のノウハウが広く共有されてこなかった、という部分があると思いますね。しかしそうした部分を差し引いてもなお――『黄昏の天使』は有坂純さんと門倉直人さんの共作ですが――間違いなく国産RPGのシナリオの最高峰です。ぜひ、再版してほしいと思います。中古では40000円以上の値がついているケースもあるみたいですよ。
高橋: 実はこないだ、プレーヤー2人で無理やりやったんですよ。改変一切抜きで。
岡和田: 1人2キャラとか? それとも残機制?(笑)
高橋: いえ、1人1役ですよ(笑)。明らかに役割分担しきれないスキルがあるので、もう、最近のシナリオでは味わえない恐怖感がありました。途中でSANチェックどころか、身体的にやられる危険性が何度もありました。それでも、僕も、相棒役を務めた先輩ゲーマーも、10年以上色々シナリオやってきてるので、「無調整でも、これくらい先読みできないと当時のゲーマーとしてはダメだったのかな?」くらいの風景は見えましたね。2010年現在でやるなら調整前提かもしれませんが、今回は敢えてキーパーにお願いして、無調整でやったんです。2キャラで(笑)。2話目以降どうするかはまだ決めかねていますが、ぜひ最後までやりたいですね。100点満点がありえなくても、走り抜きたい。
岡和田: 走り抜いていると、やがて見える光景が変わってきますよ。例えば『黄昏の天使』の後半では、それまでのストレスがカタルシスに徐々に変わっていくんです。また、個人的にシナリオのフレーバーでツボだったのは『遠野物語』と「物部氏」(笑)。そうした走りがいのある強度が80年代のシナリオの良い部分だと私は思っておりまして、いわゆる「現在の」会話型RPGの特徴的とされる要素も、この頃のシナリオには色々入っています。

アルトドルフの尖塔 (ウォーハンマーRPG 冒険シナリオ) [単行本(ソフトカバー)] / David Chart (著); ホビージャパン (刊)救済の書:トゥーム・オヴ・サルヴェイション (ウォーハンマーRPG サプリメント) (ウォーハンマーRPGサプリメント) [単行本(ソフトカバー)] / ロバート J シュワルブ, エリック ケイグル, デイビッド チャート, アンドリュー ケンリック, アンドリュー ロウ (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)


●『アルトドルフの尖塔』とリプレイの関係 

岡和田:『ウォーハンマーRPG』の話に戻りますと……。2005年に原書が出たこの第2版は「現在の」RPGですが、先ほど名前が出た『アルトドルフの尖塔』には80年代的な試行錯誤が、自然に盛り込まれていると私は思います。
高橋: シナリオそれ自体が、マスタリングの指針、「運用教則」としても読めるようにデザインされていた、ということですね。
岡和田: その通り。かつてのRPGのノウハウって、雑誌媒体かプレイグループのファンジンが担っていたと思うんです。でも現状、昔のRPG雑誌って、けっこう入手しづらいものがあります。今ならネットで議論も出ますし、『Role&Roll』など現在の商業誌でのフォローアップももちろんありますが、それでも埋もれたものは多い。とても残念です。海外の場合も似たようなところがあると思いますが、一方で海外ものの強みとしましては、そうしたノウハウを、実はシナリオのバリエーションで落とし込んできたのかな、というところがあるとずっと思っていまして。 『アルトドルフの尖塔』は、シティ・アドベンチャーがメインのシナリオなんですが、一本道的な構造とは正反対。ネタバレにならない範囲で言うと、アルトドルフの人間関係が詳細に設定されていて、その渦中を渡り歩きながら「情報点」を獲得していく。つまりシティアドベンチャー・人間関係・情報収集のシステム化が試みられているわけです。『ウォーハンマー・コンパニオン』という追加ルール集でも、情報収集の際に幸運点を使わせるオプションなんかがありまして……。そのあたりの幅を広げようとしているところがありました。
 リプレイの場合は、『アルトドルフの尖塔』も『ウォーハンマー・コンパニオン』も発売される前だったのですが、実は情報収集については、原書で読んでいた『アルトドルフの尖塔』のメソッドを意識しています。つまり具体的には、情報の提示の仕方かな。情報点っぽいランク付けが私の中で決められていたんですよ。
 ただ、エックハルトの動き方は、魔法(呪文)というオプションを使って、良い意味で予想を裏切ることがありました(笑)
高橋: やっぱり魔法使いたいですよねえ。できるだけマヌケかつ地味なやり方で(笑)。一見カッコよくないくらいが好きなんですよね。

ウォーハンマー・コンパニオン (ウォーハンマーRPGサプリメント) [大型本] / ウォーハンマーデザインチーム (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)


●海外での雑誌サポート 

高橋: 旧TSRからWizardsにかけての『Dungeon』や『Dragon』、その他のアメリカ・イギリスでの雑誌サポートがどうなっていたのかは、(僕も知りたいんですが)よくわからないんですよね。
岡和田: 『ウォーハンマーRPG』の場合は、「White Dwarf」という雑誌がありました。「白色矮星」と「白いドワーフ」をかけています。現在は「White Dwarf」はミニチュアゲームの雑誌になっているみたいですけど、私が訳した公式サイト掲載のダウンロード・シナリオの多くは、昔の「White Dwarf」が初出です。
高橋: BBCのコメディドラマみたいな名前ですね(笑)。あ、『レッド・ドワーフ号RPG』もってますよ(笑)。機会がなくて、まだ遊んでないけど。
岡和田: 私は『宇宙の戦士』RPGに『宇宙空母ギャラクティカ』RPGに、『スター・ウォーズ』RPGを持ってますよ(笑)
高橋: ……いかん、「遊べるかどうか目処の立っていない海外RPGを買った自慢」になりかけている(笑)
岡和田: (笑)。で、2版になって『ウォーハンマーRPG』は、本国でもウェブがサポートとの大きな部分を担っていました。公式サイト上でシナリオ・コンテストをやっていたんです。例えば、ダウンロード・シナリオの『ライク川にかかる橋』(http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/dl_scenario.html)。
というシナリオはその優秀作。このシナリオはすごい。なんと、シーン制です(笑)
高橋: 素晴らしい!(笑)
岡和田: 後に『D&D』第4版の『ダンジョン・マスターズ・ガイドII』でも紹介される「カットシーン」という考え方が出てきます。そうそう、『ウォーハンマーRPG』第2版開発当初のプロジェクトのトップは、80年代にファイティング・ファンタジーのシナリオを創っていた人なので、その意味では、良い意味で『ウォーハンマーRPG』は80年代マインドの正嫡だと言えますね。
高橋: ああ、そうだったのですか!(笑)
岡和田: マーク・ガスコインという人がプロジェクトのトップにいました。『ファイティング・ファンタジー』シリーズの設定をまとめた『タイタン』に、ゲームブックの中でも設定とストーリーの連関に力を注いだ佳作『最後の戦士』が日本での代表作でしょうか。『タイタン』は、文庫RPG史上に残る傑作だと思ってます。安田均さんの翻訳も愛が篭っていて素晴らしかったですね。ジャック・ヴァンスの『魔王子』シリーズなどの背景が、きちんと訳語に反映されたりしたんです。 

タイタン-ファイティング・ファンタジーの世界 (背景世界資料集) [文庫] / M. ガスコイ…
復讐の序章 (ハヤカワ文庫 SF―魔王子シリーズ (631)) [文庫] / ジャック・ヴァン…


●システムの私的運用を語る 

岡和田:岡和田は個人的に、システムで公式にサポートされる前の、いわばシーン制の私的な運用が昔から好きなんです。例えば『ドラゴン・ウォーリアーズ』というケルト的な雰囲気を押し出した素晴らしいRPGがあるんですが、これはシステム的には良い意味での『クラシックD&D』フォロワーだったんです。クラスは1巻だと、騎士とバーバリアンしかない(笑)いわゆるロールプレイ支援システムも皆無。でも、面白い。現在では、英語版は続刊を込みにした合本として復刊し、シナリオなども刊行され続けていますが、私が以前このシステムでやってたシナリオは、まぎれもないシーン制だったんです。発狂しているんか、オレ。
高橋: すごい、ある意味『ヴァンパイア:ザ・マスカレード』の先を行っている(笑)>騎士とバーバリアンしかない
岡和田: そうそう(笑)どういうシナリオかというと……。現在の観点からわかりやすく説明すると『ヴィンランド・サガ』の4巻みたいな……。
高橋:『ヴィンランド・サガ』って(笑)
岡和田: まず、バーバリアンが襲撃をかけるわけですよ。もちろん『ヴィンランド・サガ』とは違って、女子修道院を襲って虐殺するんですが。そこに信仰に疑問を持った乙女がいる。自分がリンボに陥ると思っている。一方、その乙女と血縁の騎士がいるわけですな。二人は乙女をめぐって熱い台詞をぶつけ合う。この一連の流れをシーン制で演出していったわけですね。ただし、背後にはキリスト教と、キリスト教にケルトが習合するという時代の変遷を加味しています。ちなみに元ネタはトールキンの詩ですね。
 で、素晴らしいのはこういう設定が『ウォーハンマーRPG』で再現できまして(笑)  サプリメントを使えばヴァイキングが再現できるんです(笑) 『堕落の書:トゥーム・オヴ・コラプション』というサプリメントに!
高橋: 『堕落の書』は良いサプリです!
岡和田: D1000で混沌変異が決まるという(笑)
高橋: 僕は10代後半の頃、まだシステム評価のノウハウをよくわかってなくて、むりやり『ソードワールドRPG』で、改造人間シナリオを決行したことがあるんですよ。もちろんシステム面ではメチャクチャだったのですが、もしその時に『堕落の書』とウォハンの基本ルールブックがあれば、確実にそれを選んで遊んでましたね。
岡和田: ミュータントものか、なるほど。改造人間ってそっちね。アメコミっぽくなってきました。『アイアンマン』とか。
高橋: そうそう、ファンタジー設定における石ノ森章太郎(ただし正義の問題はない)みたいなものを素朴にやってたわけですね。若い頃ほど、「どうすれば、自分の素朴なアイディアが、ゲームデザインという表現に落ちるか」について先走る傾向がありますよね(笑)。中高生だと、いろんなシステムを比較する予算もないですから。
岡和田: あー、よくわかります。それでは『ウォーハンマーRPG』が最適解かなあ。余談ですが、最近『マーダー・アイアン』という小説を読みまして、これは石ノ森章太郎を正面からリスペクトした作品で、その「強さ」を再確認した次第です。ちなみに私は『トンネルズ&トロールズ』(T&T)を使って、『ロマンシング・サガ3』をやろうとしたことがありました。中学生の時ですけど。つまり、あのゲームでたまに出てくる戦争シーンの再現のため(笑)
高橋: T&Tは集団戦闘(マスコンバット)でも頑健な反応を示すから、よい選択だったのではないかと思います。どう転んでいったのかは興味がありますが。
岡和田: え、いや……あるレベルになると、「地獄の爆発」(一定の範囲のあらゆるものを分解する呪文)でボーンと。それで終了(笑)
高橋: ええっ、陣形ルールとかは!?(笑)
岡和田: 考えてなかったです。
高橋: 酷いッ!(笑)
岡和田: そのあたりを改良する方向へ行けばよかったなあ、と今にしては思います。『ハイパーT&T』の社会思想社版の大規模戦闘ルールや『クラシックD&D』のウォーマシーン集団戦闘ルールを当時知っていたら、だいぶ変わったと思います。それと『RPGamer』という雑誌に載った芝村裕吏さんのT&T講座は、目から鱗でした。現在出ている第7版を使って、きちんとデザインしてみたいですね。
高橋: 芝村さんの『Aの魔法陣』3版、特にファンタジー編の特技は、T&T的なかけ算によるゲームスケールの跳ね上がりっぷりが色んなところに挿入されていて、大好きですね。「いばらの壁」があるのにとてもときめきました。

堕落の書:トーム・オヴ・コラプション (ウォーハンマーRPGサプリメント) [大型本] / ロバート・F・シュワルブ (著); 待兼音二郎, 鈴木康次郎, 阿利浜秀明, 見田航介, 杉山恒志 (翻訳); ホビージャパン (刊)Dragon Warriors: The Classic British Fantasy Roleplaying Game [ハードカバー] / Dave Morris, Oliver Johnson (著); Mongoose Pub (刊)ヴィンランド・サガ(4) (アフタヌーンKC) [コミック] / 幸村 誠 (著); 講談社 (刊)マーダー・アイアン 絶対鋼鉄 [単行本] / タタツ シンイチ (著); 徳間書店 (刊)トンネルズ&トロールズ 第7版 (Role&Roll Books) [新書] / ケン・セント・アンドレ (著); 安田 均, 柘植 めぐみ, グループSNE (翻訳); 新紀元社 (刊)ロマンシング サ・ガ3 / スクウェアAの魔法陣ルールブック (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [単行本] / 芝村 裕吏, アルファ・システム (著); エンターブレイン (刊)


●『混沌の渦』礼賛! 社会思想社礼賛!! 

岡和田: でもね、『T&T』から『ウォーハンマーRPG』というのは、社会思想社ファンとしては正統な進化というか発展系だったんですよ。
高橋: なるほど、そういう線で見ると、岡和田さんは確かにまっすぐ歩んでいる(笑)
岡和田: そうですよ、補足するとその間プレイし、現在もたまに遊ぶものが『混沌の渦』(http://hiki.trpg.net/wiki/?Maelstrom)。わが最愛のシステムの1つ。『混沌の渦』をこれだけ愛しているのは、おそらく日本で私だけでしょう。挑戦者求む!(笑)
高橋: (笑)僕はまだ岡和田さんに推薦されて、辛うじて中古本を手に入れただけです。アレクサンダー・スコットがデザイン。1988年に佐脇洋平・清松みゆきが翻訳、ですね。
岡和田: いま海外では『混沌の渦』は復刊されています。当時は出なかったサプリメントもダウンロード販売されています。無料で落とせるものもありますね。デザイナーは初版当時は学生でしたが、今は数学の教授になっていて、驚きました。
高橋: 『混沌の渦』は、一応ケイオシアムのBRP(ベーシック・ロールプレイング)をもっと簡素にした感じのデザインですね。違うのは、史実の宗教改革期ヨーロッパを舞台にできるところ。
岡和田: 『混沌の渦』が英語圏的にすごかったのが、16世紀をすっごく真面目に表現しようとしているところ。ネイティブじゃないとなかなか調べがつかないような設定がてんこ盛り。もう少し産業論的なパースペクティヴも入れると、発売元がPenguin Booksなのも画期的でした。日本で言うと岩波書店が会話型RPGを出している、みたいな(笑)
高橋: オリジナルはPenguinだったんですね。それは凄い。Penguinから出たのは1984年。
岡和田: 『混沌の渦』は、私が知っている範囲だと4刷まで出てたなあ。つまりは売れたってことです(笑)
高橋: T&T→混沌→WH-FRP1eという流れなわけですね、岡和田さんのゲーマー的青春は。
岡和田: いえーす。厳密に言えば、『ハイパーT&T』、『アドバンスト・ファイティング・ファンタジー』、『モンスター・ホラーショウ』というミッシング・リンクもあるんですが(笑)
高橋: 本当に社会思想社の純血種という感じですね(笑)
岡和田: 嬉しかったのですが、コミック『スピタのコピタの!』4巻で、けっこう凝ったシナリオを創ってリプレイを載っけてもらっています。プレイヤーは緑一色さん、河嶋陶一朗さん、小林正親さんと、無意味に豪華(笑)
高橋: 今までぼんやりとしていたパズルのピースが全てはまったような、なんというか(笑) 

スピタのコピタの!4 (Role&Roll Comics) [コミック] / 緑一色 (著); 新紀元社 (刊)


●『魔法陣グルグル』対『ウォーハンマーRPG』!? 

岡和田: で、そろそろリプレイの話に戻ると……。
高橋: もう脱線しすぎでしょ、岡和田さん!(笑)
岡和田: 逸脱はRPGの本質だと論じている人がここにいるんですが(笑)
高橋: 脱線する前に言えばかっこいいんだけど……(笑)
岡和田:確かにそうだ(笑)。で、 リプレイの第3話「至高魔術」は、シーン制を意識したシナリオでした。第2話は逆に探索メインだったんです。ペーター・シュピーゲルベルヒというNPCも出てきているんですが。ドロテーアの故郷の恋人ですね。
高橋: 第2話は、八大魔法学府のそれぞれに比較的自由にアクセスできましたね。お陰で色々と試せました。
岡和田: レジーナが体験入学した「輝きの学府」ですね。一方、エックハルト家庭教師のバイトで「黄金の学府」に絡む。
高橋: レジーナの入門は、魔女と正規の魔術師、2つのキャリアのルールも絡んできて、面白かったですね。
岡和田: そうですね。そうそう、魔女と、その前進の似非魔術師って、すごくシナリオに絡みにくいんですよ。基本、隠者ですから。
 ときに高橋さんは『月刊少年ガンガン』で育ったらしいといういう秘密情報がこちらの手元にあるのですが、わかりやすいように『魔法陣グルグル』に例えると……。
高橋: 『魔法陣グルグル』(笑)。はい、90年代中盤はガンガンとギャグ王で育ちましたねえ。三笠山出月『うめぼしの謎』と牧野博幸『勇者カタストロフ!!』は復刊本も買ったほど。ってガンガンじゃなくてギャグ王ばっかりだな……。
岡和田:ククリのおばあちゃん。あれが似非魔術師。ククリが魔女。エックハルトがニケで、フレイザーはキタキタ親父なんです(暴論)
高橋: 僕には非常にわかりやすいですけど、いいんでしょうか読者おいてけぼりで(笑)
岡和田: しまった、リプレイのどこかに「ただし魔法は尻から出る」とこっそりNPCに言わせておくべきだったか(笑)
高橋: ちょッ……岡和田さん、前半とノリがだいぶ変わってきてませんか?(笑)
岡和田: 逸脱はRPGの本質なんで(笑)
高橋: (終わるのかこの対談……?(笑))
岡和田: それかフレイザーに、「魔女かどうかを見分けるコツがある。それは、魔女の魔法は尻から出ることだ。そう『魔女の鉄鎚』に書いてある」と言わせるとか。でもそれだと、キタキタ親父じゃなくなるなあ。
高橋: それは史実の異端審問官でなくとも鉄槌を下したくなる魔術師だな……いや、尻から出ても人間は人間……はっ、何を考えさせられているんだ(笑)
岡和田: 真面目な話ですよ。こういう遊び方も『ウォーハンマーRPG』では可能なんです。この前は企まずして『サウスパーク』みたいな展開になりました(笑)
高橋: それは何重にも輪をかけてひどいと容易に想像がつく(笑) 

魔法陣グルグル (1) (ガンガンコミックス) [新書] / 衛藤 ヒロユキ (著); エニックス (刊) サウスパーク 無修正映画版 [DVD] / トレイ・パーカー, マット・ストーン, アイザック・ヘイズ, ジョージ・クルーニー (出演); トレイ・パーカー (監督)


●先行リプレイの影響 

高橋: ともあれ俗魔術と、中堅魔術のキャリアで得られる魔術とのあいだには、能力にしても暴発危険性においても、大きな差が設けられていますよね。
岡和田: その差が社会的な裏付けに由来することで、設定的な裏打ちがある。だから面白いし、ギャグもできる。『魔方陣グルグル』が、デジタルゲームの『ドラゴンクエスト』のパロディから、少しずつ独自設定を作ってきたとしたら、『ウォーハンマーRPG』はまったく逆の流れでパロディ的な部分が抽出されうるんです。
高橋: 確かに、初期『ウォーハンマー』文庫版シリーズの紹介のされ方が、しばしば比較的ゴツいものとして語り継がれてきた印象はあります。漫画『ベルセルク』のモブシーン以外ないッ、みたいな感じでよく先輩ゲーマーに言われて育ちましたよ。
岡和田: そのあたりの紹介はけっこう難しくて、初版のリプレイでも、そういう意味では友野さんはものすごく気を使って丹念な仕事をされており、私はとても尊敬しています。初版の友野詳さんのリプレイ『破壊の剣』の第1話は、いきなりホームタウンが滅びるところから始まるの(笑)シャンディゲールという街を事細かに設定したのに、すぐに壊しちゃう。なんて潔いんだ、友野さん(笑)
 私のリプレイの第2話のタイトルは「アルトドルフが燃えている!」でしょ。これには確実に、友野さんの影響があったと思います。シャンディゲールの街が滅びる様と、アルトドルフにコーンの嘲笑が轟く様がパラレルに。
 そうそう、おまけに、初版の友野さんのリプレイ第4章「ブレトニアの弾丸」はミステリですよ、しかもトリック型。叙述トリックみたいな話は、どちらかというと会話型RPGではやりやすいんですが、そうじゃないんです。
 おまけに、『去年マリエンバートで』という映画があるんですが、これは友野さんの『プラーグの妖術師』に「去年マリエンブルグで」という話が収録されていて、それで間接的に名前を知りました(笑)『プラーグの妖術師』にせよ、エーヴェルスという有名なドイツの幻想作家の「プラハの大学生」から来ているとの説明がなされており、私はこれでエーヴェルスを知りました。ちなみに、『ウォーハンマーRPG』の未訳サプリメント『Realms of the Ice Queen』では、そのプラーグという街の詳細な設定が書かれていて、これは是非訳したい!(笑)
高橋: ああ、そのお話は貴重だ。僕はウォハンの存在に気付いた時には、全部高額ないし絶版になっていて……。
岡和田: 私も買ったときはすでに本屋で埃をかぶった状態でした。私は81年生まれで、友野さんのリプレイは小学生の時に出ていた。それでも世代はずれていたんですが、遡る形で私は中学生の時にからすでに、過去の80年代に出た傑作RPGを自分なりに集めていたんです。
高橋: なるほど。僕は84年生まれで、会話型RPGを始めたのが96-7年とか、その辺ですね。僕は中学生の頃は、『ワースブレイド』と『シャドウラン』にハマって、その後はファンタジーよりシャドウランの裏設定にばかり凝ってたから、ほかに行く余力がなかった(笑)。今じゃ初版時代からのサプリメントを50冊前後持ってる始末で。これをAmazonもろくにない高校の頃から集めてたかと思うと、けっこう笑えてきます。i-OGMさんにはお世話になりました。
岡和田: いや、それは素晴らしいことだと思いますよ。僕は当時は『シャドウラン』には逆にそこまで深入りできませんでした。これが二人の進路や関心のあり方の差異をわかりやすく表しているような気がします(笑) 

ベルセルク (1) (Jets comics (431)) [コミック] / 三浦 建太郎 (著); 白泉社 (刊)ウォーハンマーRPGリプレイ1 破壊の剣ウォーハンマーRPGリプレイ2 プラーグの妖術師


●ゲーム表現に、どのように「意味」を付与するか 

高橋: 『グルグル』や『サウスパーク』あたりの話に話を戻すと、シナリオを強く規定しないわりに、フレーバーが豊富だから、色んなテクスチャをその上でのっけられる……という感じが魅力なんですかね。
岡和田:テクスチャをのっけるというよりも、ギャグを整理させる構造ですかね。ゲームのお約束、あるいは人種差別をギャグで笑うのって、不謹慎でしょう。でも、過剰に目を背けるのも逆に不自然だったりする部分もあります。
高橋: そうですね。先日、人文研究者の方と「ゲーム書籍におけるヘイトスピーチ」の話になったんですが、「少しでもユーザが不愉快になり得る発言はベンダの側で自重すべき」という態度は、ひとまず娯楽商品の担い手として、正しいとは思うんですよね。 ただ、その場でひたすら「自重しろ」と制するだけでは、何か大事な論点を取りこぼしつづけるんじゃないか、という気分になるのも事実です。商品である以前に、「ゲームデザインという表現」を、もっとフラットに語ることはできないのか、とは常々思っていました。
岡和田: ヘイトスピーチが蔓延する現代に生きると、重みがよくわかりますね。翻訳にあたっても、気を使います。その意味では、このリプレイは最初からきわどいネタを扱ったけど、無意味に弄んでいるわけではありません。きちんと理由はあるし、セッション時には参加者に共有されていたように思います。レジーナとドロテーアの霊が対峙するシーンも、その裏があったから重みがありました。あれは戦慄しましたよ、同じ卓にいて。あとはガンツ三兄弟を手駒っぽく使ってきたシルダが、徐々に兄弟に転移していくのも面白かったなあ。エックハルトはそこのところ、クールでしたね。チェーザレ・ボルジア的というか、なんというか。
高橋: エックハルトがなぜそうなっているのかというのは、僕の考えが反映されているのかも。会話型RPGの面白いところの一つに、扱っている対象が「単にコマである」のと「血肉のある設定である」とが、時にトレードオフを起こすところですよね。そこをどちらか一方に割りきってしまうと、その後のゲームの展開は、どこか味気なくなってしまう。
岡和田: その通り。ゲームが進んでいくと、その二分法がどんどん崩れていくわけですよ。
高橋: 僕の場合は、エックハルトの「守りたいもの」を過剰に設定しなかったので(笑)。レジーナやシルダがすでにそれぞれの重荷を十分受け持ってたので、その上で四人の課題をすべてまるっとゴールさせないといけない。それを「課題」と感じて、あれこれ策を講じるポジションを楽しんでいました。
岡和田: エックハルトはいい意味で、脇を固めてくれましたね。いや、本当に。ただ、誤解されると困る部分としては、レジーナは主役じゃないんです。みんなが主役。つまり、各々のキャラクターにはそれぞれの目標があって。そこを絶対評価にしたほうが面白いんじゃないかと、僕は思ってます。つまり『ウォーハンマーRPG』を遊ぶ場合には、各々が自分なりの自己実現の目標をどう達成したか、あくまで絶対評価の観点から見た方がよいのではないかということですね。


●魔術師の理想は『陰陽師』!? 

高橋: じゃあ、僕がどういう「自己実現」をもってたかをぶっちゃけてしまいましょう。まず、僕の魔術師の理想は、『陰陽師』における安倍晴明なんですよね。しかも小説版(夢枕獏)じゃない、漫画版『陰陽師』。岡野玲子版の後半が我が魂の書みたいになってまして(笑)。「トゥルー・ニュートラルでありたい白魔術師」。一般的な陰陽師イメージともまたちょいと外れてるんですが、会話型RPGで魔術関連の設定を考察する際の一つのイメージリソースになってます。
岡和田: 岡野玲子版……だと……。でもそれって魔法使いの王道でもあると思いますよ。
高橋: 「無注目」を敢えて使っているのは、素朴に『陰陽師』の影響ですね(笑)。
岡和田: なん……だと……。
高橋: ウォーハンマーの世界にどう馴染ませるかを重視していたので、今までずっと黙ってました(笑)。というのは、僕自身がセッション直後に「実は○○という作品から……」と言うと、ちょっと熱が冷めてしまうという経験がけっこうあるので。カジュアルでも、コンベンションでも、言わないことにしてます。気付いてくれるひとだけ気付いてくれればいいか、くらいのあんばいです。
岡和田: それはその通り。『魔術の書』の設定にせよ、「元ネタ」から来るんじゃなくて、あくまでも一から設定を積み上げていったものですが、でプレイの時は、あえて八大魔法学府の「キャラを立たせて」みました。そこから深めたかった、という思いがあったのですよ。
高橋: 単に「類型」を借りているというより、「繰り返し追求したい魔術師像」というものが漫画版『陰陽師』にあるので、それと『魔術の書』とで“共振”できるところは何か? ……と考えると、自然とあの灰色学府へ向かったんですね。
 僕は会話型RPGをあまり「他メディアの翻訳先」としてはあまり捉えていないんです。あくまで、他メディアの優れた表現を「このゲームならではの再構成」で勝負できるところはないか、という発想で、やっていますね。自立・独立した表現形式として捉えたい。その上でプレイをしていたい。
岡和田: それならばわかります。自分なりに消化→昇華のラインを組み立てるというか。 

陰陽師 (1) (Jets comics) [コミック] / 岡野 玲子, 夢枕 獏 (著); 白泉社 (刊)


●会話型RPGの批評性 

岡和田: 第3話のタイトルが「至高魔術(ハイ・マジック)」となっているのも、最終的に、各々の魔法は至高魔術に止揚されるか、あるいはダハール、つまり黒い風に堕落するかという設定を自分なりに捉え直そう、という思いがあったからです。「至高魔術」はハイエルフの魔法なんですが、その理論は明らかに考え方がドイツ哲学から来ているんですよ。しかも異端思想と近代思想が出逢う場所が確実に意識されている。
高橋: 以前、ブログで「多神教と一神教が善悪逆転しているところが、オールドワールドの魅力だ」というような旨の記事を書かれていましたね。
岡和田: 善悪というより、歴史的経緯と逆なところがより重要な点です。それは「近代」の成立に対する、原理的な批判ともなっていると思うんです。
高橋: 「至高魔術/八大魔術」の関係もまた、オールドワールドの大きな物語仕掛けである「一神教/多神教」の関係と並列できるということでしょうか。
岡和田: おっしゃるとおりです。だから至高魔術はゲーム・メカニズムでは表現できません。それは、ゲーム・スケールの「外部」にあるんです。しかし、世界設定での批評性と、プレイングにおける批評性はイコールではありません。プレイングの批評性は、世界設定そのものにも向けられることがあります。リプレイでも実際、私が強く誘導することなくても、自然にマスター・プレイヤー間で「共同ゲームデザイン」されていきました。
 個々のメカニズム、たとえばシーン制についても同様です。『ウォーハンマーRPG』のゲーム・メカニズムは、シーン制を許容はするのですが、システム・レベルでシーン制を強制はしていないんです。使うかどうかは、ユーザーが各々のスタイル、あるいはその時のシナリオ・コンセプトに応じて判断することになります。
高橋: そうですね。シーン制は、シナリオの狙いに合わせて使えばとても便利ですが、それはプレイングあるいはマスタリングの領分であって、システムデザインの領分とはまたちょっと違う。
岡和田: 誤解されやすいので補足しておくと、シーン制を否定するつもりはまったくないんですよ。私は『深淵』の渦型プレイも大好きですので。
高橋: もちろんそうですね(笑)。僕も色んなゲームで活用してますし、シーン制をルール・メカニズムの大前提に置いたものも非常に面白い。システムを選択する段階で「遊びたいゲーム」のイメージが掴めていれば、後は使い手次第です。
岡和田: シミュレーション的なリアリズムとシーン制の活用。これらのよい関係性かな。もちろんシミュレーション的なリアリズムというのも難しい問題で、これはこの前、蔵原大さんにウォーゲームの基礎研究の文献(鎌田伸一「ウォーゲームの方法論的基礎」)を紹介していただいて、ようやくわかりかけてきました。あ、ここでのシミュレーションというのは、哲学的なシミュレーション(ボードリヤールなど)の意味では必ずしもなくて、ウォーゲームが前提としているような戦略論的なシミュレーションです。あるいは政治としてのウォーゲーミングでもよいでしょうが……。
 そのうえで、「運用」とゲーム・メカニズムのよい関係というのがあると思っておりまして、それは時として両者の調和であったり、両者を違いに批評的な視座を向けさせることになったりするのではないかと。『ウォーハンマーRPG』の場合、『D&D』的な遊び方と、『クトゥルフ神話TRPG』的な遊び方に二極化される傾向が、実はあると思います。「ルールを使うか、それとも設定を使うか」と言い換えてもよいかもしれません。
高橋: 敢えての運用、アクロバットな運用でも、意外な楽しみが引き出せたりしますよね。そこを「メカニズムがこういう風になっているから」という理由だけで、消極的な遊び方しかしないのは、もったいないかなあと思う時もあります。同じメカニズムでも、駆動の仕方を変えれば、ぜんぜん違った味わいがでてくるはず。

深淵 第二版 (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / スザク・ゲームズ, 朱鷺田 祐介 (著); エンターブレイン (刊)


●歴史と個人は繋がっている

岡和田: 少し話を進めると、高橋さんがリプレイ第2話をもとに、論考を書いてくれましたよね。「RPGにおける〈プレイング〉の内実」という傑作(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20100822/1282520395)。
高橋: 2008年に一回、今年の9月末にリライトしたものを再掲したものですね。ただ傑作というのはだいぶ違うような……(笑)。
岡和田: もとのバージョンは、リプレイへのコメンタリー、注釈として極めて精度が高いものでした。
高橋: 以前のはほとんどサマリーみたいだったので、骨組みを書き直したものです。
岡和田: いや、あれはあれでよかったと思います。ああいう手法が必要になる時も多いと思います。で、今回のウェブ再掲にあたって同じ論文を書き直されましたね。
高橋: 後は、あまりでしゃばったら連載中に悪いな、と思ってまして。
岡和田: 理論が実プレイを疎外する意識があったんでしょうか?
高橋: 今回のWeb版再掲にあたって、岡和田さんが「前にこんな記事が!」とURLを貼ってくれたので、「あれじゃ改めて読んだ人がわからないはずだ」と思ったんです。それで、急きょ書き直した。
岡和田:知的な謙虚さを保って頂いたというわけですね。ありがとうございます。ただ、自分的にはものすごく助かっている面がありまして、近代批評というのは、現場的な発想から生まれてくるものだと思うんですよ。小林秀雄もそうだった。西洋における美学思想の原点のひとつに『ギリシア芸術模倣論』という作品を著したヴィンケルマンという美術史家がいますが、彼の発想も現場的なところから出てきたもののように思っています。体系的な知ではなく、現場で芸術に触れて、そこから素直な感想が立ち上がってくる、その感動こそを大事にしている評論と言うか。だから私はあえて言いたい。「理論が実プレイを阻害する」というのは誤解です。なぜならば、どんな理論でも、必ず個人から出発しているから。
高橋: 物凄く大きく出てますよね……!(笑)
岡和田: いや歴史と個人は繋がっているんです。大げさなんてことはありません。そこは自信をもってよいと思います。例えば、一例を出しましょうか。至高魔術の思考法って、私にには既視感がすごくあったのです。至高魔術の思考法は、18世紀ドイツの批評家、フリードリヒ・シュレーゲルの発想によく似ているところがあるように思えます。シュレーゲルは、近代批評の確立者の一人として、必ず言及される人物です。「アテネーウム」という先鋭的な雑誌を編集して、そこで未来のフィクションのあり方について語りました。彼にとってのフィクション=文学は、他のジャンルを巻き込みながら無限に生成・発展を遂げていくものであるとともに、それ自体「はりねずみのように」完成されたものでもあるんです。その意味でシュレーゲルは近代批評の確立者でありながら、逆にそれを常に脱構築させようとしている特異な人でもありました。
 至高魔術は、つまり「魔法」という『ウォーハンマーRPG』の根底を形成する要因ですよね。しかし「魔法」は同時に、混沌の生(き)の力そのものでもある。「混沌」というのはある意味、無限に発展していく自生的な力です。反対に、至高魔術は、完成された揺るぎのないものです。それこそ、「はりねずみ」のように。だから「混沌」はぶっちゃけ、近代のメタファーではないかと私は思っています。
高橋: なるほど。ということは『ウォーハンマーRPG』の背景設定は、ゼロから突然生まれてきたわけではなくて……。
岡和田: もちろん理論的なバックボーンがあり、しかもデザイナーはおそらく半分くらい自覚的でしょう。で、私の目には、そうした『ウォーハンマーRPG』の設定の構造と、今回高橋さんがリプレイへの注釈を通して理論を生み出した過程が、パラレルに見えたわけです。
高橋: ヨーロッパ的人文知の土壌に影響を受けている。どうしたって、調べればそういうところに到達しちゃうわけですね。それは“お勉強のための勉強”では全然なくて、心の赴くままにデザインしようとしたら当然そこまで来てしまうようなもの。
岡和田: その通りです。今度発売される『スケイブンの書――角ありし鼠の子ら』なんて、近代的な人間観、ルネッサンス以降のヒューマニズムの完全なパロディになっていますからね。それは批評的な意味合いもあってそうなったのでしょうが、楽しみの結果として設定深めていき、たどり着いた世界に近いと思います。でも、デザイナーは彼らだけではないんですよ。私たちユーザーだって、『ウォーハンマーRPG』を遊ぶことを通じて、彼らのデザインに間接的に協力しているんです。つまり高橋さんは、『ウォーハンマーRPG』の共同ゲームデザイナーの一人だったんだよ!
高橋: (笑)。少なくとも、岡和田さんの提供したシナリオの中に少しでも貢献できたなら幸いです。
岡和田: そこは「な、なんだってー!」と言わないと(笑)
高橋: Ω ΩΩナ、ナンダッテー ……呆気に取られてリアクションに困ったんですよ(笑)

ロマン派文学論 (冨山房百科文庫) [文庫] / フリードリッヒ・シュレーゲル (著); 山本 定祐 (翻訳); 冨山房 (刊)


●エッセーとハード・サイエンスの循環 

岡和田: 真面目に話を戻すと、これは極論でもなんでもなくて、近代の人文知的な発想は、そこから出てくるものだと私は思います。つまり、世界と人間との断絶と、そこから恢復する過程。いわば広義のエッセーですね。高橋さんが「RPGにおける〈プレイング〉の内実」で語ったことって、僕にはそうしたエッセー的なところが出発点にあると思う。いや、ハード・サイエンスを目指しているのはわかるんですよ。
高橋: あ、なるほど。エッセー/ハード・サイエンスという対比で言われたら、ようやく納得が行った(笑)。すぐに「実証は?」と突っ込まれる前に、「エッセー」のところから問題としっかり向き合おうよ、一緒に……という態度は僕はけっこう好ましく思ってます。
岡和田: エッセーとハード・サイエンスは循環できると思うんですよ。私は最近、「21世紀、SF評論」というところに『ローズ・トゥ・ロード』論を掲載いただきましたが(http://sfhyoron.seesaa.net/article/173296285.html)、この原稿で目指したのは、鷲巣繁男という詩人のエッセーのような、ある意味、理論では厳密に捉えきれない中間領域について文学的に斬り込むという方法です。反対に、ある意味でハード・サイエンス的な姿勢を、翻訳という仕事ではなるべく心がけるようにしています。自分の作家性を、良い意味で殺すというものですね。リプレイにしてもそうです。岡和田の独りよがりなノベライズにするのは、できるだけ避けたい。翻訳とハード・サイエンスはそういう意味で、相通じるところがあると思います。
高橋: もちろん一方では社会学徒なので、将来的に実証を捨てちゃいけないですが……ゲーム研究の、特に人文知が関わるところは、みんなが思ってる以上にまだまだ人文知が足りてない。「実証でまず成果出せ」という以前の状況です。なにせ、それじゃ魅力的な仮説すら立てられないですから。そうなると、人文知に限定しないまでも、エッセー的な立ち上がりをまず各人で鍛えていかないと、面白い話、さらには面白い実証も、やりようがないですね。
岡和田: 人文知的な蓄積は、着眼点、アプローチの独創性に出ると思います。まずは独創性を担保する。それは大前提。そのうえで、実証は逆に、きちんとしなければならない。
高橋: そうですね。本当にそう思います。


●Analog Game Studiesの展望 

岡和田:それで、この対談は「Analog Game Studies」という新しいプロジェクトのブログに掲載されるわけですが……。 
高橋: まだ猛暑だった頃に誘われたあの企画ですね。たしか、自分の会話型RPGサークルの定例会で飲んでた時に、岡和田さんから電話が来たんだ(笑)。
岡和田:そんな時だったんだ(笑)。
高橋: なんだかんだで20分くらい説明聴かされました(笑)。その時は、「季刊R・P・G」みたいな雑誌をウェブで展開できないか、という話でしたね。
岡和田:そうです。「季刊R・P・G」は、アナログゲーム専門誌でありながら、ゲーム以外の色々なジャンルの話と関連付けた記事が読める、とても貴重な雑誌でした。残念ながら4号で休刊してしまいましたが、幸いながら私も仕事をさせていただくことができまして、『トラベラー』や『村上春樹RPG』(笑)について、自由に書かせていただきました。自分が捉えた『季刊R・P・G』のようなコンセプトを、ウェブでは広い層にアプローチしていき、潜在的なニーズを活性化できるのではという意識がありました。それこそ、検索で何気なく引っかかって気になって読んだり、そういう潜在的な読者をアナログゲームにより興味を持ってもらう、ひとつのきっかけになるかな、と。
 もちろん、現状「Role&Roll」「ゲームジャパン」「GAME LINK」など、私が仕事をさせていただいている雑誌に不満があるわけではまったくありません。「Role&Roll」や「ゲームジャパン」や「GAME LINK」に、私はレポート記事や汎用記事などをたくさん書かせていただき、そこでもRPGやボードゲームの楽しさを描きつつ、他のジャンルとも横断できるような工夫を微力ながら凝らしていたつもりです。今後も「Role&Roll」「ゲームジャパン」「GAME LINK」などでお仕事をさせていただきたく思うつもりです。
 ただ、現状、こうした雑誌にアクセスする機会が得られていない人に対しても、ウェブならば無料なので紹介がしやすく、そこから「Role&Roll」「ゲームジャパン」「GAME LINK」などの雑誌や、そこで紹介されている各種の作品やイベントに触れるような、そういうハブにもなれればよいな、と考えているんです。
 Analog Game Studiesの活動は、だから商業的なものと敵対するつもりはまったくなくて、文字通り「繋げる」言説を目指しています。特にアナログゲームと学術は、Analog Game Studiesで蔵原さんがレビュー(http://analoggamestudies.seesaa.net/article/172911744.html)を書いた『太平洋戦争のif[イフ]』の共著者である歴史学者の大木毅さんなど、横断的な活躍をされている方が多くいらっしゃいます。ただ、そのための環境や場書が満遍に整備されているとは、必ずしも言えない部分があるのも事実ですね。そういった状況に物足りなさを感じている方々に向けても、Analog Game Studiesは情報発信をしていきたく思っています。
高橋: そういう話でしたね。僕自身はアナログゲームのうち、会話型RPGに強くコミットしてきた人間ですが、会話型RPGにしても、「会話型RPGそれ自体に詳しい」というだけではなかなか遊びの輪が拡がらなくて、ぜんぜん別の分野で懸命に頑張ってきた人にゲームデザインならではの表現をプレゼンしていく方が、手応えがあるなと思っているんです。何かの分野で一点突破すると、むしろ色んなジャンルの人と仲良くなれるというか……そういう部分が会話型RPGの「面白い!」の部分を支える人的要素になっているように思います。
岡和田: おっしゃりたいことはよくわかります。私自身にもそういった部分があります。文芸の世界とゲームの世界、両方への興味関心を持続していくことが、ゲームを長く楽しんでいくキーだったんです。ドイツ哲学とオールドワールドの設定を同時に読む、と。誰から強要されたわけでもないんですが、むしろ私にとってはそれが自然でした。
高橋: そしてそれについて語るということは、何か一つの狭い分野での教養を誇ったり、無意味な上下関係を生み出してしまうようなこととは全然別で、むしろ色んな分野に開かれたゲームの面白さを育てることに繋がると思うんですよね。Googleで誰もが知識やコンテンツにあっけなくアクセスできてしまう時代に「ゲームデザインにしかできない楽しさ」を考えて行くためには、僕たちを含めたゲーマーの知らない世界を出来るだけ一箇所に集めてみた方が、面白いことがあるんじゃないかと。僕はAGSの展望をそういう所に見ています。
岡和田:まさにそのとおりだと思います。加えて、私は昔からどちらかと言えば独学者気質が強いので、何かを楽しむためには、深く潜っていけばいくほどいつかは鉱脈に辿りつけるんじゃないかという思いがあります。楽しむための勉強をし、楽しむために探究する。そうした探究のツールとして会話型RPGを、ひいてはアナログゲームを捉えています。ヒエラルキーの形成とは別にある、「楽しむ」ための教養。それこそが真の教養であると思うのですが、広く出版やネットの現在を見るに、そうした場はどんどん狭まってきているという感触があります。危機感を抱いていると言ってもかまいません。だからこそ、Analog Game Studiesのコンセプトを広く知っていただきたい。私はそう考えています。


※読者の方からメールでご指摘をいただき、「佐藤洋平」を「佐脇洋平」に修正させていただきました。御迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした。(2010.12.29)
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 対談に登場した『ウォーハンマー・コンパニオン』のプレビューが、無料で公開されています。
 同書の0章と1章をまるまる読むことができます(PDFファイル)。『ウォーハンマーRPG』の豊穣な世界をぜひともご堪能下さい。
http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/dlfiles/whcp_pv.pdf
ウォーハンマー・コンパニオン (ウォーハンマーRPGサプリメント) [大型本] / ウォーハンマーデザインチーム (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)

 また、本日12月24日発売予定の『ウォーハンマーRPG』の新作サプリメント『スケイブンの書』のプレビューも無料公開されています。『ウォーハンマーRPG』の予備知識がほとんどなくても、楽しめる小話がたくさん紹介されています(PDFファイル)。
http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/dlfiles/chr.pdf 
スケイブンの書-角ありし鼠の子ら (ウォーハンマーRPG サプリメント) [大型本] / スティーブ ダーリントン, ロバート J シュワルブ (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第2回)

草場純

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◆第1回はこちらで読めます◆

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ゲームには全てそのゲームの内実(実際のルール)と、受容(人々がそのゲームをどう受け入れているか)との二つの側面がある。
まず、内実の側面に目を向けて考察してみよう。

伝統ゲームの内実に関してはっきり言えることは、長い伝統を有しているゲームは無数のテストプレイが繰り返されているということである。

創作ゲームをプレイした人は誰でも、「このゲームはテストプレイしたんかいな」という感想を持たれたことが、一度ならずおありだろう。(笑) つまり創作ゲームにおいては、そのテストプレイは、絶対的に重要である。

ゲームのルールは端的に言ってアルゴリズムであるから、実際に走らせてみて初めて機能を発し、評価が可能になる。一部のシミュレーションゲームのように、シナリオだけを楽しむというのも、ありえるとは言え、ゲーム本来の姿ではなかろう。

創作ゲーム(どんなゲームでも最初は創作ゲームだ)は、テストプレイを通してデバッグされ、洗練され、ゲームとしての体をなす。しかもそれは様々な戦略をとる多様なプレイヤーに、ある程度繰り返しプレイされることが重要である。

世にあるゲームのうち、こうした要件を満たさないと思われるものは、決して少ないとは言い切れまい。その点、伝統ゲームは折り紙つきだ。

例えば囲碁は、少なくとも二千年のテストプレイが繰り返されたということができる。しかも数え切れないほどの人々によってである。尤もだからと言って完全に洗練されたルールになっているか、と言うと、必ずしもそうでないところが面白いのだが、それについてはまた後述しよう。

伝統ゲーム、特に現在でも盛んにプレイされている多くのゲームは、実質的にテストプレイが繰り返され、無数の淘汰をかいくぐって現存しているからこそ、伝統ゲームたりえている。こうしたことは広く「伝統」一般にかかわる現象であろう。しかもその本質がアルゴリズムであるゲームは、その他の歌舞音曲や芸能の類に比べて、それを取り囲む社会の変容から影響を受けにくいと考えられる。もちろん文化現象であるからには、影響を受けないということはありえないのだから、あくまで程度問題に過ぎないのではあるが、少なくとも現在もプレイされている伝統ゲームは、そうした淘汰圧を跳ね返して残存、あるいは変容してきた内実の結果である。

結論すれば、伝統ゲームの内実は歴史によって保証されているのである。

では、現在滅亡してしまった、あるいは瀕死の伝統ゲームはどうだろうか。

一例を挙げれば、中国の「六博」は、春秋時代から千年の命脈を保って滅亡した。現在でもゲーム盤は多数出土し、プレーの状態を活写する「俑」まで出てくるのに、ゲームのルールは不明と言わざるを得ない。こうした状況は生物の系統に似ている。一度滅んだ生物が復活することがありえないように、「千年の伝統」は消滅してしまったのである。ではその理由は何だったのだろうか。ゲームの内実の問題だったのだろうか、それとも受容の変化故なのだろうか。

それを考えるのに、もう一つ例をあげてみよう。

エジプトのセネトというゲームも、恐らく千年前後の歴史のあるゲームと考えられる。だが、現在これを日常的にプレイする人は恐らくいないだろう。ルールはかなり復元されているが、絶対確実というわけではない。だから以下は全て推察である。

セネトを復元ルールでプレイする限り、少なくとも私は面白いとは思えなかった。これを理解してもらうには、日本の絵双六を考えてもらえば分かりやすいだろう。少なくとも現代日本の大人が、ゲームの楽しみとして絵双六をやることは私にはあまり考えられないが、いかがだろうか。セネトを復元ルールでやる限り、それは運の要素が強く、絵双六より更に悠長で、私には退屈に思えた。セネトは絵双六と違って戦闘の要素があるので、その分実力の要素が加わるが、反面ゲームに時間がかかるのである。もしこの感想が私だけのものでないならば、セネトはその内実により滅びたのだろう。つまり一千年のテストプレイにより、淘汰されたのである。

現代的な感覚で断定するのは極めて問題があるのは自覚しつつ敢えて言うなら、古代エジプトではもっと面白い盤上ゲームがまだなかった、ということなのだろう。逆に言うなら、こうしたゲームが受容される社会がそこにあったということになる。それがどのような社会であったかを想定することは、ゲームから歴史へと遡る、新たな歴史的手法となりえるのかも知れない。ゲームの相は、社会の相を反映している(あるいはひっくるめて社会の「相」と見られる)と考えるわけである。

では滅んだゲームは全てその内実によるのだろうか? 実は決してそうは思えないのである。

これを考えるのに、現在瀕死の伝統ゲームについて見るのが極めて示唆的である。

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◆第3回はこちらで読めます◆

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【レビュー】RPGゲーマーのための『ペルディート・ストリート・ステーション』ガイド

【レビュー】RPGゲーマーのための『ペルディート・ストリート・ステーション』ガイド
仲知喜

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ペルディード・ストリート・ステーション (プラチナ・ファンタジイ) [単行本] / チャイナ・ミエヴィル (著); 鈴木康士 (イラスト); 日暮雅通 (翻訳); 早川書房 (刊) Perdido Street Station [マスマーケット] / China Mieville (著); Del Rey (刊)

なんなんでしょうこの面白さ。チャイナ・ミエヴィルの『ペルディード・ストリート・ステーション』はアーサー・C・クラーク賞および英国幻想文学賞を受賞した、ダーク・スチームパンク・ファンタジー小説です。

え? いま、わたし、ダーク・スチームパンク・ファンタジーって言いました? いや、ほんと、この作品は一言で言い表すのが難しい小説なんです。舞台は〈バス・ラグ〉と呼ばれる異世界の巨大都市国家。〈バス・ラグ〉は蒸気機関による摩訶不思議な駆動力が発達した世界。スモッグに覆われた暗い空に聳える高層建築物。その上空には飛行船が浮かび、高層建築物の間をスカイレールと呼ばれる鉄道高架橋がうねりながら張り巡らされる。〈バス・ラグ〉は奇怪な魔法理論が学問として定着した世界。飛行船の隣を生命魔術で創りだされた飛翔型ゴーレムが飛び交い、鉄道高架橋下の薄暗がりには主人に見捨てられた使い魔が腹をすかせて獲物を待ち伏せしている。そんなSFでもないしファンタジーでもない、刺激的な、科学と魔法のハイブリッド。というかジャンルの壁なんかぶち壊しながら疾走する、お行儀なんてクソクラエのエンターテイメント作品なのです。ああ、そうだ、原作者のミエヴィルはこの作品をこう表現していました。『ペルディード・ストリート・ステーション』は「ニュー・ウィアード」である。

とか言われてもなぁ、と思っちゃいました? はっきり申しまして、ぼくもとっつきにくかったです。序盤、ダメダメな科学者アイザック(ぽっちゃり体型)が、身体は人間だが頭部は甲虫というゲッとするような恋人リンと痴話喧嘩シーンが続いたりして、もしかして難解な作品なのかも? と不安になったくらいです。
しかし、主人公の科学者アイザックのもとにサイメックの鳥人族ヤガレクがやってきて、大罪の代償として失った翼を取り戻したい、もう一度空を飛ばせてほしいと懇願してから、ストーリーはだんだん速度を上げていきます。一方、唾液彫刻のアーティストであるリンのもとに悪名高い暗黒街のボスから自分の彫刻を作ってほしいという奇妙な依頼が舞い込み・・・・・・。アイザックが謎のイモ虫を手に入れたときにはもう、ページをめくる手が止まりませんでした。わたしも久しぶりでしたよ、こんなに熱中した本は。え? イモ虫が何ですって? それはナイショです。

作者のミエヴィルは『ペルディード・ストリート・ステーション』についてこうも述べています。「とにかくモンスターが書きたかった」。「でしょうね(笑)」と頷くほかございません。

(編注;リンク先の画像は“Dragon”#352からの抜粋です)
http://njoo.deviantart.com/art/World-of-China-Mieville-48266205?offset=10

(編注;イラストレーターのサイトです)
http://www.andrewhou.com/

(編注;PSSとは関係ないクリーチャーが入っています)
http://www.andrewhou.com/portfolio/character_creatures_small.jpg

『ペルディード・ストリート・ステーション』には鳥人、昆虫人、両生類人が出てきます。サボテン人間も出てきます。魔法使いが出てきます。錬金術師が出てきます。リメイドと呼ばれる改造人間が出てきます。次元界を瞬間移動する巨大な知性のある大クモが出てきます。都市の大使館区には地獄の大使館があります。労働決起集会を鎮圧しようと空飛ぶクラゲに乗った民兵が現れます。狙撃兵が魔法使いに千里眼のサポートされながら煙幕ごしの射撃をします。スパイダーマンならぬカマキリ男が出てきて、バットマンよろしく謎のヴィジランテに活躍します。人間に寄生する「手」が出てきます。しかも、そいつらが空を飛びながら火炎を吐いて空中戦を繰り広げます。廃棄された機械の意識が集まって人工知性体が誕生します。冒険者たちが姿を一目見ただけで放心状態に陥る怪物を相手に視線をそらしがら戦いを挑みます。それからそれから……謎が謎を呼びます。とにかく凄いんです。

鼻息が荒すぎですね。ちょっとクールダウンしましょうか。

「S-Fマガジン」(2009年8月号 No.641)のチャイナ・ミエヴィル特集の記事を読むと、ミエヴィルはRPG経験者であることがわかります。「もう十二年ほどご無沙汰だ」とは言ってますが、けっこう夢中になって遊んでたんじゃないでしょうか。だって、『冒険者たちが姿を一目見ただけで放心状態に陥る怪物を相手に視線をそらしがら戦いを挑む』シーンなんて、『経験者』じゃないとあそこまで真に迫った描写できませんもの(笑)。また“Dragon”(2007年2月号Issue#352)では、ミエヴィルのインタビュー記事とBas-Lag Gazetterと題された『ペルディード・ストリート・ステーション』の世界をD&D(第3.5版)で遊ぶための世界設定と多数のモンスターデーターが掲載されました。このたありも、ミエヴィルの創造した世界とRPGゲームの親和性の高さを裏付けるものだと思います。

(編注;ミエヴィルのゲーム歴について詳しいインタビュー記事です)
http://www.believermag.com/issues/200504/?read=interview_mieville

ミエヴィルはローカス賞と英国幻想文学大賞を受賞したあと、(彼にとっておそらく初となるゲームライターの仕事として)『Pathfinder RPG』のサプリメントをデザインしたという異色の経歴の持ち主です。

『ペルディード・ストリート・ステーション』のことを、権威ある賞をいくつもとったからって小難しい作品じゃないかなんて思わないでください。これは、極上のエンターテイメント作品なのです。いや、むしろ、ゲーマー視点があってこそ楽しめる作品だとぼくは言いたい。『ベルディード・ストリート・ステーション』は『モンスター・マニュアル』1,2,3に“Fiend Folio”までぶちこんで、プレイヤー種族全解禁、プレイ中の妄言をかたっぱしから世界設定に採用したようなイカシたシティ・アドベンチャーです。同じゲーマーとして尊敬と共感と愛を感じることのできる魅力に満ちています。RPGゲーマーに強くオススメしたい作品です。

あ、最後に一言だけいいですか?
あなたが『ペルディード・ストリート・ステーション』を読み終えたら、アイザックの選択について、ヤガレクの決断について、どう感じたか、わたしに聞かせてください。でもそれは次の機会でけっこう。今度我々が“フラネスの宝石”グレイホークか“壮麗な都”ウォーターディープか、はたまた“塔の都”シャーンか、どこかの都市の路地裏で出会った時にでも。答えはあなたの目を見ればわかるはずですから。

【チャイナ・ミエヴィルの邦訳書籍】

キング・ラット (BOOK PLUS) [単行本] / チャイナ ミーヴィル (著); China Mi´eville (原著); 村井 智之 (翻訳); アーティストハウス (刊)

ペルディード・ストリート・ステーション (プラチナ・ファンタジイ) [単行本] / チャイナ・ミエヴィル (著); 鈴木康士 (イラスト); 日暮雅通 (翻訳); 早川書房 (刊) ジェイクをさがして (ハヤカワ文庫SF) [文庫] / チャイナ ミエヴィル (著); 鈴木康士 (イラスト); 日暮雅通, 田中一江, 柳下毅一郎, 市田泉 (翻訳); 早川書房 (刊)

アンランダン 上 ザナと傘飛び男の大冒険 [ハードカバー] / チャイナ・ミエヴィル (著); 内田 昌之 (翻訳); 河出書房新社 (刊) アンランダン 下 ディーバとさかさま銃の大逆襲 [ハードカバー] / チャイナ・ミエヴィル (著); 内田 昌之 (翻訳); 河出書房新社 (刊)

【チャイナ・ミエヴィルのRPG関連書籍】

■Dragon Issue #352
http://paizo.com/store/paizo/dragon/issues/2007/v5748btpy7tlo

■Pathfinder Chronicles: Guide to the River Kingdoms (PFRPG)
Pathfinder Chronicles: Guide to the River Kingdoms [ペーパーバック] / China Mieville, Elaine Cunningham, Chris Pramas, Steve Kenson (著); Paizo Publishing (刊)

http://paizo.com/store/downloads/pathfinder/pathfinderChronicles/pathfinderRPG/v5748btpy8d50

『Pathfinder Chronicles: Guide to the River Kingdoms』は、パスファインダーRPG(Paizo社、未訳)の世界設定資料の一つです。
題材になっているRiver Kingdomはさまざまな勢力が群雄割拠する地域です。そんな土地柄を反映させてか、この作品には複数の書き手が参加しています。チャイナ・ミエヴィル、クリス・プラマス(ウォーハンマー2版、Dragon AgeRPG)、スティーブ・ケンソン(Mutants & Masterminds、Freedom City)、エライネ・カニンガム(SF作家。フォーゴトンレルムやスターウォーズのノベライズを手掛ける)が名を連ねています。

※この本について『クトゥルフ神話TRPG』のサプリメント『マレウス・モンストロルム』や、クラーク・アシュトン・スミスほか『エイボン
の書』共訳者の立花圭一氏曰く、「ミエヴィルの担当パートはなかなかに凄いので一読の価値があると思いますよ。淡水環境下で生き延びるために呉越同舟して頑張るマーフォーク、サフアグン、シー・ハグ、トリトン他諸々の海生水中知性体連合ですよ。」(http://twitter.com/k1Tachibana/status/560635607777280

クトゥルフ神話TRPG マレウス・モンストロルム (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / スコット・アニオロフスキーほか (著); 立花圭一, 坂本雅之 (翻訳); エンターブレイン (刊)

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第1回)

草場純

「伝統ゲーム」とは何のことを言うのだろうか。単に古いゲームのことを言うのだろうか。案外そうかも知れない。

伝統ゲームとしてイメージされるものには、どのようなものがあるのだろうか。思いつくままに並べてみよう。

囲碁、将棋、連珠、双六、麻雀、花札、かるた、などは「日本の」伝統ゲームと言ってあまり異論はないだろう。これにトランプのいくつかのゲームを加えてもいいかも知れない。もっとも、これらも古い時代に伝来してきたことが逆に確実で、そういう意味からはむしろ「伝統」とは何か?という問題を孕む。

例えば麻雀は百年ほど前に伝来したものである。一方『モノポリー』は五十年ほど前には伝えられている。では『モノポリー』も伝統ゲームなのだろうか。それとも、五十年と百年の間のどこかに線が引かれるものなのだろうか。

『オセロ』が商標を取ったのは四十年ほど前だが、リバーシが「返し碁」などという名で日本に伝わったのは明治期であり、その後「源平碁」の名で広まった時期もある。筆者も子供の頃にやった覚えがある。リバーシがロンドンで特許を取ったのは1888年のことだから、百年を越えている。すると『オセロ』(リバーシ)は伝統ゲームなのだろうか。

トランプは、三度ほど日本に伝えられた。16世紀にポルトガルから、18世紀にオランダから、19世紀にイギリスやアメリカから。だから第三波から数えてさえ、軽く百年を越えている。だがトランプ全体を日本の伝統ゲームと言うのは、何となく抵抗がある。これはなぜなのだろうか。

上に挙げたゲームは、どれも日本ではそれなりに広く知られている。例えばいかに『カタンの開拓者たち』がブームになったとは言え、日本全国つつうらうらまで知れ渡り、子どもから大人までこぞってやるというようなことはない。一方、退潮傾向にあるとは言え、将棋を知らない日本人は少ないのではないだろうか。もちろんここで言う「知っている」は「存在を知っている」ということであって、「ルールまで理解して普通に指せる」ことを要求してはいないが。

だが、必ずしも伝統ゲームが、「よく知られている」とは限らない。例えば盤双六は江戸時代末には忘れ去られてしまったし、藤八拳は滅びてこそいないが、殆ど知られていないのではなかろうか。

つまり、一口に伝統ゲームと言っても、広く膾炙されているものあり、忘れられようとしているものあり、滅んでしまったものありで、その相は多様である。だから「伝統ゲームをプレイ」する場合も、そのゲームがどのような相にあるゲームかによって、意味づけは大きく異なることになるだろう。

似たような位置にあるのが「外国の」伝統ゲームである。

本来ゲームは、国家などとは無関係であるはずだ。インドで2から8世紀の間に生まれたとされる将棋(チャトランガ)は、国境も民族も越えて世界中に広まった。例えば古代ギリシアでアストロガロスと呼ばれていたダイスゲームは、殆ど同じものがブリューゲルの絵にも描かれ、モンゴルで現在も遊ばれていたりする。

ところが逆に、世界の多くの国で遊ばれているチェッカー(ドラフツ、ダーメ)は、日本ではあまり遊ばれない。こうした外国の「伝統」ゲームは、また少し違う相にあるとも言える。同様に日本で知られていないが外国では盛んな伝統ゲームの例としては、天九牌、マンカラ、などが挙げられる。

更に、外国の伝統ゲームで、衰亡しているものもあり、これらはまた別の相のゲームと言える。名前をあげても仕方がないかも知れないが、ファノロナ、スラカルタ、六博などがその例になろう。

こうした、あまり知られていない「外国の伝統ゲーム」を遊ぶことに、何か積極的な意味があるのだろうか。 そこを考察してみたい。

ゲームの概念は近年大きく変わってきた。現代日本で「ゲーム」と言えば、一般には電源ゲームと言ってよさそうだ。伝統ゲームは少なくとも電源ゲームではない。(例えばコンピュータ将棋などを、どう考えるかの問題はあるにしても。)そればかりか「ゲームの理論」などというときの「ゲーム」は、それ以前のゲームの概念より広く捉えている節がある。ではそうした現代において、「伝統」ゲームはどのような意味を持つのだろうか。

私はそれには二つの側面があると考える。一つはゲームの内実の面であり、もう一つはゲームの受容の面である。

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◆第2回はこちらで読めます◆

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地方のアナログゲーム(RPG)事情:「沖縄」編

 Analog Game Studiesでは、アナログゲームを中心とした理論的な探究を志向しつつも、同時に理論では往々にして忘れられがちな“現場感覚”についても、同じくらい重視していきたいと考えています。
 アナログゲームを定期的に楽しんでいくためには、そのための環境を構築・維持していく努力が必要不可欠ですが、この点、苦労されている方も多いはず。
 仕事で取材を重ね、あるいは実際にコンベンションなどで数々のゲーマーとお話をさせていただく機会が増えてきますと、「政令指定都市レベルの大都市(とりわけ、関東圏)を離れると一気に環境構築のためのハードルが上がってしまう」という声をよく耳にすることに気づきました。
 もちろん地方でも充実したゲーム環境を構築されている方は多いのですが、地方ならではの独特の苦労があるのも、また事実。私自身、上京してからこそ悩む機会はなくなったものの北海道の人口11000の小さな町の出身ですので、(やむをえない部分があるにせよ)こうした状況には昔から悩まされてきたことを思い出した次第です。
 そのような折、沖縄県でアナログゲーム(特に会話型RPG)を遊ぶことための環境作りに尽力されている近藤誠さまに寄稿をお願いし、沖縄においてゲームサークルを立ち上げるまでの経緯と現在、今後に向けての意気込みをお話していただくことができました。(岡和田晃、文責は下記の解説部分を含む)

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地方のアナログゲーム(RPG)事情:「沖縄」編  
 近藤誠 

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 Analog Game Studies 立ち上げおめでとうございます。 

 私は現在、沖縄に在住していますが、地方のアナログゲーム事情を紹介することにより、都市圏の人には、地方の現状を知って頂き、地方の人とは、お互いに励ましあい、この趣味を継続されている人には、ライフワークとして誇りをもって続けて頂き、残念ながら一時離れている人には、再びこの楽しみを再開して頂くきっかけになれば幸いです。 


● 1、沖縄以前 

 私事ですが、私は、アナログゲームは、同級生と『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下D&D。この時に遊んだのは1985年に株式会社新和から日本語版が発売された『D&Dベーシックセット』、いわゆる“赤箱”ってやつです。)からはじめて、様々な会話型RPGを経験し、アナログゲーム(主に会話型RPG)に慣れ親しんできました。(多くの方々と同様?)しばらくは、身内のみで、小ぢんまりと遊んでいました。就職してからは、2~3年毎の転勤で住まいを転々としたこともあり、年に数回、地元へ帰ったときしかプレイできませんでした。

 オープンにいろいろな人と交流を持ち始めたのは、関東に転勤してからです。きっかけは、とあるオープン・コンベンションに参加してから。そこでは、参加者が皆、楽しむことに貪欲だったのです。そして、はじめて参加した私も楽しめるよう気遣ってくれたのです。お互いが刺激をし合い、助け合い、それはそれは楽しいゲームでした。また、別のゲーム会へも誘って頂き、そこでも良い環境でゲームを楽しませていただきました。それからは、いろいろな人と一緒にプレイすることが楽しくて楽しくて。ほぼ毎週ゲームです。 


●2、沖縄 

 さて、この4月に沖縄へ転勤となりました。実は、沖縄への転勤は2回目でしたが、以前は、新たな人との出会いが億劫で、ゲームサークルへ参加していませんでした。でも今回は、新たな人となるべくたくさんゲームを楽しみたくて早速オープンなコンベンション、ゲームサークルを探してみました。 

 幸い沖縄でも、「Worldwide D&D Game day」(ウィザーズ・オヴ・ザ・コースト社が、D&Dのアドベンチャー、マップ、ミニチュアやトークンを無料で提供し、全世界で開催される『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のイベント。日本語版提供はホビージャパン社)が、6ヵ所開催されており、全箇所に参加申込をして、なんとか1ヵ所で参加することができました。 

 また、オープンなボードゲームサークルが3ヵ所ほどあり、そのうち1ヵ所は会話型RPGもプレイできました。残念ながらサークルの例会日が重なってしまい、参加できるのは月1~2回。 

 しかし、毎週ゲームをしていた私には、物足りないのです。そこで、新たにゲームをするメンバーを集めることにしました。もっと遊びたい人が、もっと楽しめるようにです。 

 ウェブで掲示板を立ちあげ、Twitter、mixi、TRPG SNSなど様々な媒体で呼びかけを行ないます。興味ありそうな人へ、SNSで個別にメッセージを送ったりもしました。しかし、最初の1週間は、まるで反応がありませんでした。ゲーム人口が多い関東では考えられない事態だったので、かなり不安になりました。幸運にも1週間後に掲示板への最初の書き込みがありました。しかし、それから1週間は、またもや反応がありません。

 ゲームサークルで話を聞くと実は、携帯電話以外でインターネットへアクセスする方法を持っていない人が結構多いようです。ならばと、掲示板はなるべく文章を短く、携帯電話でも閲覧しやすいように改良、携帯で閲覧可な旨を伝えて、興味をもってくれそうな人にアドレスを連絡するなど、地道な活動を続けます。 

 この間に思ったのは、自分も同様なのであまり強くは言えないのですが、皆、結構、内向きで、過去の思い出にひたり、新たな出会いを求めていなくて、現状が最高だと思っているということです。私も、以前に新たな出会いと良い環境を体験していなければ、声も挙げず、転々と転勤していた頃のように年に数回遊べるだけで満足していたでしょうが……。

 次第に何らかの書き込みをしてくれる人が増え、幸運にも最初の立ちあげから約2ヵ月後、日曜日に第1回定例会が開催です。会場は何と病院!そう、入院されている人もメンバーです。その後は、毎月、順調に回を重ね、もっと遊びたいという人が出てきて、11月からは、土曜日の会もスタートしました。 

 先日も都合がついたので一緒にプレイしてみたいという書き込みがあり、今度、単発のゲーム会も催します。 

 最近の悩みは会場の確保です。 

 オープンな会なのでなるべく公共施設で開催したいのですが、近くの公民館は、スケジュールが詰まっていたり、アナログゲームへの理解がなかったり、使用者の居住地域に関する制限が厳しかったりと、未だに使用できていません。カラオケボックスや誰かの自宅での開催となってしまい、仲間内で開催しているのとあまり変わらない状況。これは何とかしたいと思っています。 


●3、今後に向けて 

 地方と言っても、声を上げて2ヵ月後に新たな会を開催できた恵まれた奴が何言っているんだと思われるかも知れませんが、皆さん、一歩前に進んで、新たな楽しみを求めて声を上げてみませんか。

 そのきっかけとして最適なのが、今月、日本全国各地で開催される「D&D“赤箱”Game Day」です。
 これはかつての新和版の“赤箱”と同じ――小説『ドラゴンランス』シリーズのアートワークでも有名な――ラリー・エルモアのカバー・アートをそのまま活用しつつ、中身をD&Dの最新第4版対応にアップデートさせた入門ルールセットである『D&D第4版スターター・セット』、通称“新赤箱”に対応したWorldwide D&D Game Dayのことを意味します。

 私も沖縄県名護市で、「D&D“赤箱”Game Day」にいちプレイヤーとして参加します。楽しみにしているのは、新たなる出会いです。 

 皆さんと一緒にプレイできる日を祈念して。 



・D&D“赤箱”ゲームデイの案内
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/news/dnd_gameday/201012.html

・D&D第4版Webリプレイ「竜(ドラゴン)の予言に選ばれし者たち」
http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/article/web_replay_eb/index.html

・D&D第4版Webリプレイ「妖侠デイン流離譚」http://www.hobbyjapan.co.jp/dd/article/web_replay/index.html


ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版スターター・セット [大型本] / ジェームズ ワイアット, ジュレミイ クロフォード, マイク ミアルス, ビル スラヴィクシェク, ロドニー トンプソン (著); 桂 令夫, 岡田 伸, 北島 靖巳, 楯野 恒雪, 塚田 与志也, 柳田 真坂樹 (翻訳); ホビージャパン (刊)



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近藤誠(こんどう・まこと) 
 1973年名古屋生まれ。公務員。中学時代からアナログゲームに親しむ。
 好きなゲームは『D&D』と『指輪物語ロールプレイング(MERP)』。
 年齢を重ねて社会や個人が変化する中、どのようにアナログゲームを皆と共有し、続けていくか日々試行錯誤。 

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
地方のアナログゲーム事情(沖縄編) by 近藤誠(Makoto Kondou) is licensed

under a Creative Commons 表示 – 改変禁止 2.1 日本 License.

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 なお近日発売されるアナログゲーム総合情報誌「Role&Roll」Vol.75には、去る10~11月に開催された「Worldwide D&D Game Day 『プレイヤーズ・ハンドブックIII』」についてのレポート記事(文:岡和田晃)が掲載される予定です。
 ここには近藤誠さまに情報提供をいただいた沖縄においてのWorldwide D&D Game Dayの模様をはじめ、東京、大阪、徳島といった全国各地でのGame Dayの様子が、参加者の声を交えて報告されています。
 今回の記事をお読みになられた方は、どうぞこちらもご覧いただけましたら幸いです

『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた

 Analog Game Studiesでは、狭義の評論、コラム、論考等に限定せず、さまざまなタイプの記事を掲載していく予定です。
 その一環として、東條慎生さまの『ローズ・トゥ・ロード』(通称『Wローズ』)体験記を寄稿いただきました。先だって東條さまのウェブログで公開されていたものですが、ご本人の快諾を得まして、若干の加筆修正を加えたうえでAnalog Game Studiesに転載させていただきます。
 私は常々、アナログゲームと広義の文学(物語)は相性がよいと思い、両者の折衷点を模索してまいりました。そして今回、まったく会話型RPGに触れたことのない、しかしながら継続的に読書や執筆活動を続け、長年文芸同人を主宰しているような“アナログゲーム初心者”の方が、まったく新しいコンセプトの会話型RPGに触れたらどのような想いを抱くのか。その結果をレポートとしてまとめていただくことができました。
 もちろん、いわゆる「ゲーム畑の言葉」も面白いものですが、そのような表現からは見えてこない何かがこのレポートには現れていると感じます。
 『ローズ・トゥ・ロード』や会話型RPGをご存知ない方も、ぜひ、お読みになっていただけましたら幸いです。(岡和田晃、文責は下段の解説部分を含む)

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『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた
 東條慎生

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ローズ・トゥ・ロード (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / 門倉 直人 (著); エンターブレイン (刊)

 もうずいぶんと時間が経ってしまったけれど、十月頭の某日、岡和田晃さん、編集者の吉原さん、みなぱとさんらと一緒に、『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやった。岡和田さん以外は全くの初対面で、どういう人なのかも知らない状態だった。

 『ローズ・トゥ・ロード』というのはゲームデザイナー門倉直人氏によるRPGで、1984年に最初のものが出て、その後いくつかバージョンを経て、今年新版が出た。今回プレイしたのは今年のもの。

ローズ・トゥ・ロード – Wikipedia
ファンサイト:Alternative Stories

 まあいわゆる「テーブルトークRPG」というもののひとつで、国内産のものでは最も古い部類(初?)らしい。TRPGというのはプレイヤーがひとつところに集まって、それぞれがゲーム中のキャラクターを演じ、操り、ゲームを進行させていくというもの。

 一般にRPGと呼ばれるゲーム機でプレイできるコンピュータRPGというのは、このTRPGをコンピュータ上で再現したものなので、TRPGをTRPGと呼ぶのは話が逆になってしまい、もともとは卓上RPGをこそ「RPG」と呼ぶものであったらしい。ゲームカテゴリについて、「アドベンチャー(冒険)」と「ロールプレイング(役を演じる)」というのはそれぞれ逆じゃないか、という定型のネタがあったけれど、これはRPGがそもそもテーブルゲームだったという起源が忘却されたために起きたことが原因のひとつ。各プレイヤーがそれぞれキャラクターを演じてプレイするからロールプレイングゲーム、というわけだ。

 『ロードス島戦記』がこうしたRPGのリプレイ(RPGをプレイした様子をなんらかの形で記録したもの)を基にしていることはよく知られていて、私もそこらへんから卓上で行うRPGというものが存在することを知ったように思う。私もまずはテレビゲームのRPGを先に体験した。世代のせいか、交友関係のせいか、まわりにTRPGを嗜んでいる人というのはお目に掛かったことがほとんどなく、触れることも今までなかった。
ロードス島戦記―灰色の魔女 (角川文庫―スニーカー文庫) [文庫] / 水野 良 (著); 出渕 裕 (イラスト); 安田 均 (原著); 角川書店 (刊)

 とはいってもどういうものか、というのは間接的な情報などでおぼろげには知っていたし、以前岡和田氏がリプレイを非常に面白い形態で出版した『アゲインスト・ジェノサイド』という本を読んだこともあったのだけれど、実際にプレイしてみるのは今回が全くの初めてだった。

ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド (Role&Roll Books) (Role & RollBooks) [新書] / 岡和田 晃 (著); アークライト, アークライト, 狩岡 源, 狩岡 源 (監修); 新紀元社 (刊)

 それでいてこの『ローズ・トゥ・ロード』という作品は結構独特なものらしく、言葉によって世界が出来ている、という言霊的な世界観を基にしていて、じっさいにゲームプレイにおいてもサイコロを使わない。基本的にキャラクターのパラメーターも数値ではなく、なんらかの言葉によって決められている。

 門倉氏はロラン・バルトや万葉集、折口信夫等の文学や民俗学の研究もしている人らしく、そうした言葉、文学への関心がゲームの世界観の背景にもなっているようだ。また、『ローズ・トゥ・ロード』の世界観はトールキン、ル=グィン等の古典的ファンタジーの世界観を下敷きにしているとのこと。

この世界観を共有する短篇小説がウェブで公開されているので、興味のある方は一読を。

 小説・ホシホタルの夜祭り(著・門倉直人)

 事前に岡和田氏からはゲームの「言葉決め」というプロセスでもちいるための本を三冊ほど、「物語が生まれる時」あるいは「世界が生まれる時」という題で選んだ本を持参して欲しいという指定があった。

 私が持ち出したのは以下の三冊。

古事記注釈〈第8巻〉 (ちくま学芸文庫) [文庫] / 西郷 信綱 (著); 筑摩書房 (刊)
古事記注釈〈第1巻〉 (ちくま学芸文庫)

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫) [文庫] / サイモン シン (著); Simon Singh (原著); 青木 薫 (翻訳); 新潮社 (刊)
宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)

宿命の交わる城 (河出文庫) [文庫] / イタロ・カルヴィーノ (著); 河島 英昭 (翻訳); 河出書房新社 (刊)
宿命の交わる城 (河出文庫)

 パッと思いつきで選んだので、古事記あたりはまったくベタだけれど、神話、宇宙論、小説、とある程度カテゴリをばらしてみた。

 まあ、当日のことをつらつら書くのもアレなので、ざっとかいつまんでみる。

 まず面白いのはやはり言霊的な世界観を持つ設定。これはそのままゲームシステムをも規定していて、数値を持たずに本からランダムに選んだ言葉を組み合わせたものを、キャラクターのパラメーターとして設定する。魂の故郷、とか旅のきっかけ、とか弱点言葉だとか、そういうものをそれぞれ本のなかから選ぶ。このとき、どんな本から選ぶかで出てくる言葉の方向性もずいぶんかわるので、かなり意外な組み合わせを見ることが出来て、これ自体面白さがある。私が組み合わせたものでは、「重力の回想録を読む(「宇宙創成」が効いている)」、「闇の中央集権(「古事記註釈」から、これは逆にベタだけど)」という不思議ワードが出てきたりする。まあ、古事記註釈は固有名詞、地名が多すぎて使いづらかった。

 で、これはゲーム進行もそう。普通のRPGはもうちょっとダンジョンとか戦闘とかあるんだろうけれども、ここではもっと「探索」寄りのシステムに感じられる。これはゲームマスターがどういうシナリオを用意するかが大きい気もするけれど。一日の探索で、誰かと出会ったり、何かを見つけたりする過程で、ある「言葉」を得ることがある。その言葉はストック場のようなところにストックされ、パーティメンバーの共有のストック場に提示して共有することもできる。さらに、クエストのなかである「言葉」が鍵として出てきた場合、これまで得た「言葉」をばらしたり再構成したり(場合によっては漢字にして、偏と旁に解体してさらに他の漢字のパーツと組み合わせてひとつの字に戻したりもする)して、同じ言葉をこちら側で生成することで先へ進めるようになることもある。

 戦闘においてもやりとりされるのは言葉だ。相手のステータスにある言葉と「響き合う」言葉をこちらの言葉のストック場から見つけ出して、それが何故「響き合う」のかを理屈づけたりこじつけたりして、相互の言葉に脈絡を作ることで、相手のステータスを無害化していく、というようなプロセスを辿る。

 そういった言葉、意味を基本的な媒介物として用いて進行していくのが、このゲームということらしい。

 まあ、なにぶんはじめてやったRPGがこれなので、他のRPGとの比較が出来るわけもないので、そうした意見としてご了解いただきたい。セッション自体も時間の関係で一回だけ、チュートリアル的なものをプレイしただけなので、経験として不足だらけだ。

 個人的には、『ローズ・トゥ・ロード』というゲームは自由度の高さが印象に残る。言葉決めにしても、言葉の再構成にしても戦闘にしても、ことは数値ではなく、言葉の形や意味を各自解体、再構成しながら進めていくため、プロセスに多様な幅が生まれ得るんじゃないだろうか、ということ。非常にクリエイティブ、ともいえるか。

 この自由さが逆に素人の私にはやや難しいところはあったものの、熟練のプレイヤーが集まると、これは面白くなるんじゃないかという感触がある。

 自由、ということではもともとRPGがそういうゲームだという話でもあるだろう。ある程度基本的なルールと舞台を用意しておいて、あとはゲームマスターとプレイヤーのやりとりのなかでその場その場で物語が生成していくわけで、即興的な創造性が要求されるゲームではある。物語、設定、時にはルールもその場その場の必要性、展開に応じて作成される。

 リアルタイムでプレイしていると、あ、この展開はこういう話になっていくのかな、と想像しつつ先の展開を予想して自分の行動を決めていくわけだけど、逆に、想定される展開に対して真っ向から逆張りしていくプレイスタイルもありだろう。イベントが発生したときも、ゲームマスターとプレイヤーのその場のやりとりのなかでまるで予想できない展開が始まったりして、即興コントを見ている気分になるときもあった。

 物語、お話というものがオンタイムで、マスターとプレイヤー、プレイヤー同士のなかでできあがっていくプロセスをその場で見ることができる、そういう面白さがRPGにはあるというのがよく分かった。物語を作ったりするのに非常に勉強になる遊びなんじゃないだろうか。瞬発性が要求されるわけで、物語をある程度要素に分解しつつ、その場の具体的な状況につなげていく訓練になるようにおもった。

 そういえば、『ロードス島戦記』もそうだけど、ライトノベルにとどまらず、ゲーム業界などでもRPGと密接なつながりがあるのを見ることがある。作者、門倉直人氏が代表だった遊演体というのはここら辺に素養があるなら確実に一度は聞く名前じゃなかろうか。

遊演体 – Wikipedia

 『フルメタルパニック!』の賀東招二とか『腐り姫』の星空めておとか。新城カズマもここにいたという。

われら銀河をググるべきや―テキスト化される世界の読み方 (ハヤカワ新書juice) [新書] / 新城 カズマ (著); 早川書房 (刊)

 さらに重要に思えるのは、ルール、プロセスが常に意識されるなかで、物語を展開していく、というところ。『ローズ・トゥ・ロード』では世界設定とゲームルールがきっちり対応しているわけで、これは他のRPGも世界設定、ルールをいかに独自に設定するかがゲームコンセプトとして非常に重要なんだろうと思う。プレイしながら、物語を考えつつ、ジャンルのルールや構造を反省的に見返す視点が必要になってくる。これはコンピュータRPGと異なる点かも知れない。コンピュータRPGでは、ルールのなかで、という印象だけれど、TRPGではルールの境界線上でゲームは進行していく印象がある。

 ここで、以前岡和田氏が論じていたSFや文学とゲームとのつながりという論点が想起される。世界の構造を省みたりそれを改変したりするのはとてもSF的な発想に見えるので、岡和田さんがファンタジーやTRPGをSFとつなげて論じられるのは、そうした経験からきているのか、とその点からも面白かった。この論点については以下の記事で少し触れている。

SF乱学講座 岡和田晃 – 「「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える」 – Close to the Wall

 RPGとゲームルール、という論点では、これは小説にスライドするとメタフィクションの話になるんだと思う。上記記事では岡和田氏のRPGリプレイ『アゲインスト・ジェノサイド』を、「やたら高度で複雑なメタフィクション」と見ているわけだけど、じっさいにやってみるとますますその印象は強くなった。

 その意味で、自賛じみてくるけれど、私が言葉決めの題材にカルヴィーノの『宿命の交わる城』を持っていったのはまことに当を得ていたように思えてならない。

 『宿命の交わる城』は、ある場所に集まった男たちが、タロットカードだけを用いて身の上話を相手に伝える、というかたちで、言葉だけで物語を組み上げる小説のアナロジーになっているメタフィクショナルな作品。さらに、卓を囲んだ者たちがタロットを使って物語を語っていく様子はまるでRPGのようではないか。

 素朴な感想としては、やはり手慣れたプレイヤーはうまくことを運んでいくなあ、と感心しきりだった。日本のRPG黎明期から遊んでいるベテランのアナログゲーマーである吉原さんが展開をうまく転がしていくので、素人としては非常に助かる。そしてかなりノリの良いみなぱとさんが絡んだ完全なコント展開は爆笑ものの出来で、斜め上にガンガン向かっていく様子は最高だった。私は喋るのとか演じるのとか即興とかが総じて苦手な質なので、スムーズにとはいかなかったのだけど、RPGというものが非常に興味深く示唆深い代物だと言うことは実感できたという収穫はあった。

 というわけで、ある初心者のRPG体験記、でした。呼んでくださった岡和田さん、一緒にプレイした吉原さん、みなぱとさん、その節はどうもありがとうございました。

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東條慎生(とうじょう・しんせい)
 1981年生まれ。肉体労働と十二指腸潰瘍。笙野頼子いわく「ネット野武士」。
 活字出現例としてはオンライン書店bk1からの書評本「熱い書評から親しむ感動の名著」にニコルソン・ベイカー『中二階』の書評が、「ぱろる」という児童雑誌(の廃刊号)に「ゆうやけ」という童話が載ったことがあります。
 文学同人「幻視社」を編集しています。「幻視社」4号(2009)では、版元「早稲田文学」の許諾を得たうえで小説家・向井豊昭の未発表作品の収録を含む特集を実現いたしました。
熱い書評から親しむ感動の名著 [単行本] / bk1with熱い書評プロジェクト (著); すばる舎 (刊)
・ブログ
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/

※以上、「幻視社」4号の自己紹介に追記

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『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた(本文)

by 東條慎生(Shinsei Tojo) is

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 補足しますと、本記事で触れられている物語、RPG、アドベンチャーゲームの関係性について、80年代、日本の会話型RPG黎明期とリンクする同時代的な紹介を兼ねて深く語った書物としては、安田均『神話製作機械論』がございます。入手が難しい一品ではありますが、ご興味のある方はそちらを読まれることをお勧めいたします。

神話製作機械論 [単行本] / 安田 均 (著); ビー・エヌ・エヌ (刊)

 なお、本記事が先行公開された暁に『ローズ・トゥ・ロード』に関係されている、門倉直人さま、長月りらさま、梨里守さまより、コメントをいただきました。
 それぞれご許可をいただきましたうえで、この場をお借りしてご紹介させていただいます。

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【門倉直人】(『ローズ・トゥ・ロード』デザイナー)

 いろいろ興味深いアプローチがあればあるほど、わくわくして、とても時間が楽しくなっていきます。
 Wローズって、自分が参加してないセッションでも、どんな「もの語り」が生まれたかが気になってしかたない、そんな作品にしたいという「熱」があるので……。

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『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた(コメント by門倉直人) by 門倉直人(Naoto Kadokura) is licensed under a Creative Commons 表示 – 非営利 – 改変禁止 3.0 Unported License.

【長月りら】(ライター、「Role&Roll」(アークライト/新紀元社)にてリプレイ「リプレイスソング」を連載中)

 TRPGをはじめて遊ぶ時の戸惑いや喜びが伝わってきて嬉しくなりました。
 Wローズは、TRPGゲーマーの間ではかなり評価の分かれている作品ですが、逆に未経験者はするりと世界に入り込めてしまう不思議なシステムでもあると思います。
 ですから、ゲーム畑でない方から、このゲームが広まって行くのはむしろ自然なあり方なのかもしれません。

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『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた(コメント

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【梨里守】(『ローズ・トゥ・ロード』デザイン協力)

 1回のプレイのみでチュートリアル的なものをプレイした、とのことでしたが、内容の濃さに興味深く読ませていただきました。
 感想としては、物語を作る勉強に触れられておりましたが、自分が小学生のころにWローズを使って物語を作る授業があったらなあ、と感じました。
 今はどうだか知りませんが、小学生のころ地図一枚で物語を作る授業がありました。そこで地図の代わりにWローズを渡して、生徒一人一人が作ったシナリオをクラス全員でプレイする。クラス全員で1つのシナリオをプレイするのも……これは風呂敷を広げすぎでしょうが、理解のある先生がマスターである生徒の補助に入ればもしや、と想像してしまいました。
 まあ無謀な考えでしょうが、見てみたいですね。

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『ローズ・トゥ・ロード』というRPGをやってみた(コメント by梨里守 by 梨里守(Mamoru Nashizato) is licensed under a Creative Commons 表示 – 改変禁止 2.1 日本 License.

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 なお、長月りらさまの『ローズ・トゥ・ロード』リプレイ「リプレイスソング」は、アナログゲーム情報誌「Role&Roll」に連載されており、ご興味のある方はそちらも合わせてご覧ください。
軽妙な掛け合いのみならず詩的な叙情やゲームとして楽しむための工夫が随所に凝らされており、プレイングの雰囲気を伝える4コマ漫画や『ローズ・トゥ・ロード』の遊び方を伝える解説部分も充実した、贅沢なリプレイ・シリーズです。
 「リプレイスソング」掲載の「Role&Roll」、現在発売中の号はこちら。
 新展開を迎えたばかりです。
Role&Roll Vol.74 [大型本] / アークライト (編集); 新紀元社 (刊)

会話型RPGにおけるメタ化

会話型RPGにおけるメタ化  齋藤路恵
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本稿は会話型RPGにおけるメタ化について考察したものである。
会話型RPGにおけるメタ化は程度の差こそあれ、必ず起きるものであり、それが会話型RPGにおける重要な魅力の一つとなっている。メタ化により、会話型RPGは現実に対する一種の思考実験の場として役に立つ可能性もあるが、反面意識せずに他者の痛みを取りこぼしたり、現実社会の偏見の再生産をしたりする可能性もある。

【パロディの楽しみ】
私はパロディが好きである。
10代の頃からパロディに親しみ、とり・みきや唐沢なをきをといったマンガ家を愛読していた。とり・みきが手塚治虫から受け継いだという、マンガの文法そのもので遊んでしまうような手法を愛している。
マンガの文法で遊ぶというのは、例えば、後ろから迫りくる敵に対して逃げ場を失った主人公がコマ割りの枠線にしがみついて難を逃れる、というようなそういった手法である。
物語の主人公が物語の外のものを利用するのである。

唐沢なをきはこの文法遊びをメインに据えた作品でシリーズを書いているほどである。
カスミ伝S (ビームコミックス文庫) [文庫] / 唐沢 なをき (著); エンターブレイン (刊)
別の例をあげよう。

手塚治虫の作品だと思ったが、出典が定かでない。おそらく『火の鳥』の一シーンであったと思う。
キャラクターが食料にするため、ウサギを射止める。射られたウサギの姿は草むらに隠れて見えず、背中の矢だけが見えている。キャラクターが射止めた矢を拾うと矢の先のウサギは既に丸焼きになっている。
キャラクターは顔をこちらに向け、読者に対してこっそりとささやく。「いくらマンガとはいえ、ひどい省略だよな」
手元にないので、不確かな記憶だが、大きく外してはいないと思う。
これは言ってみれば、マンガのキャラクターによる自己相対化であり、メタ化である。
目の前の状況をあたかも他人のものであるかのように一段外側から見ているのである。

【本稿中の言葉の定義】
今何気なく「自己相対化」「メタ化」と言う言葉を使ったが、本題の会話型RPGについて触れる前にこの文章での用語の定義をしておこう。
最初は読み流しておいて、後でこれらの言葉が出てきたときにここに戻ってくるとわかりやすいかも知れない。
メタ化とは、一つ外側の視点から物事を見ること、とする。外側の視点から物事を見ることで少なくとも一つはこれまでと違った視点が導入されることになる。
例えば、「自分のメタ化」とは自分を一つ外側の視点から見ることである。

次に「相対化」という言葉について。
相対化とは、他の対象との比較により、視点や判断基準の複数化を行うこと、とする。
自己相対化は、自分の立ち位置や思考の位置、属性等を他と比較すること。他の人や他の視点からみた自分を想像すること、とする。
他者との比較そのものは、必ずしも自己を否定するものではない。
しかし、視点が増え、判断基準が増えるほど全てにおいて高評価を得ることが難しくなり、結果として自己の総合評価の低下が起こりやすい。  自己の中に否定的なものを探すことを目的に行われる相対化は反省となる。

メタ化と相対化の違いについても書いておく。
メタ化は相対化の一種である。
もう一度言うとメタ化は一つ外側の視点から物事を見ることである。
例えば「文章を書いている私についての文章を書く」などということである。
このメタ化は理論上無限反復できる。「『文章を書いている私、についての文章を書いている私』に対する文章を書く」と言った具合である。
同様に、相対化は比較により視点や判断基準の複数化をもたらすことである。
外側から見ることは必ずしも必要でない。
例えば「文章を書いている私」に対して「何を書いているのか」「いつ書いているのか」「何のために書いているのか」「過去に文章を書いた時と何か違うのか」等と複数の視点を持ってみることが相対化である。
ここに「文章を書いている私を文章化するとはどういうことか」という視線を持ってくることも可能であり、したがってメタ化は相対化の一種である。
最後に後半出てくる「ネタ化」「他者化」という言葉にも触れておく。
ネタ化は目的に対して有益な効果を得られないようなメタ化を指す言葉、とする。これは一般的な用法というよりは、私の独自の定義である。
他者化は、ある視点に注意が向くことで他の視点が忘れ去られること、自分に利害関係のない他の視点が切り捨てられること、とする。

【視点の往還】
さて、会話型RPGの大きな特徴にプレイヤーキャラクター視点とプレイヤー視点を常に往還しながら遊ぶという点がある。
これは自分が演じるプレイヤーキャラクターを外側(プレイヤー視点)から見ると言うことであり、メタ化であると言える。
会話型RPGでは、通常一人のプレイヤーが一人のプレイヤーキャラクターを用いて遊ぶ。
プレイヤーキャラクターは、会話によって紡がれる物語(シナリオ)の登場人物である。
プレイヤーは自分の担当するプレイヤーキャラクターをうまく物語の中で動かして物語の形成と、参加者全員が楽しむことを目指す。
(以下プレイヤーキャラクターをPCと、プレイヤーをPLと略すことにする。)
このPCとPLの間に齟齬が出ることがままある。

これは『クトゥルフ神話TRPG』を遊んだことのあることのある人にとってはよくわかる感覚であろう(*1)。
クトゥルフ神話TRPG (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [単行本] / サンディ ピーターセン, リン ウィリス (著); 中山 てい子, 坂本 雅之 (翻訳); エンターブレイン (刊)

『クトゥルフ神話TRPG』は、以下のような世界観に基づいている。
私たちが知らないだけで、宇宙は強大な力を持つ邪神に支配されている。その強大な力は気配を感じただけで精神に異常を来たす程である。強大な力の真実に近づけば近づくほどその人物は狂気に陥っていくのである。
物語外にいるPLは物語の世界が邪神に支配されたものであるということをもちろん知っている。
だが、物語内のPCは世界が邪神に支配されているなどと言うことは知らない。
(邪神の支配について詳しく知るほど発狂に近づく。発狂したPCは病院に入院する/させられるなどして、ゲームから除外される。)
私たちが「世界は邪神に支配されている」などと言ってもまともにとりあってもらえないのと同じように、PCたちも邪神の話はまともにとりあげてもらえないと思っている。
そればかりか、PC自身が邪神の存在を否定しようとすることもある。
例えば、人里離れた屋敷に一人で住んでいた老人が変死を遂げた。PC A は老人が読んでいた奇妙な書物が何かその死に関係しているようだ、老人の屋敷に本を探しに行こう、と主張している。しかし、医者である PC B は「老人の死はただの持病からの心臓発作にすぎず、そのような調査は必要ない」と思っている。
しかし、PC B のプレイヤー PL B は、「この物語はおそらく老人の死と書物が関係するシナリオであろう」、と推測している。
この場合、PL B は、 PC B が納得して老人の屋敷の調査に行くような理由を考えなくてはならない……(*2)。

さて、このプレイスタイルを見てどのように感じただろうか。
もしかしたら
「今はあんまりこういうスタイルにしたくないな。もっと世界やキャラクター視線に入り込んで遊びたい。もっと深くPCを演じたい」
という人や、
「今はもうちょっと現実的でないキャラが遊びたいなぁ。想像力を活かしてもっと自由に破天荒な世界やキャラで遊びたい気分」
という人もいるかもしれない。

【世界への埋め込み】
ここでPCとPLの関係、物語世界への埋め込みの関係について考えてみよう。

 

物語世界中心・PC高埋込

中間領域・PC中埋込

PC中心・PC低埋込

 

世界観を重視しながら、PCとPLを限りなく近づけて遊ぶやり方がある。
この場合、PCを深く演じるため、安定した世界観が求められる。
ころころ設定が変わっているのでは、PCを安定して演じることができない。
逆にPCをあくまで架空世界のキャラクターと割り切って遊ぶやり方もある。
キャラクターを別の世界にコンバートしたりする。  ファンタジーで遊んでいたキャラクターに学園物をやらせたりする。
『クトゥルフ神話TRPG』のプレイ時はこの中間形態の遊び方をとることが多い。
PCは原則的に物語世界の規則や設定に従うが、行動によっては多少の設定の変更も参加メンバー間の裁量で許される。
とはいえ、『クトゥルフ神話TRPG』で物語世界重視のプレイが不可能なわけではない。
設定を現実のPL設定に近づけて、場所やストーリーの運びもで実際にありそうなものにし、リアルなホラーものを目指す事も出来る。
キャラクターの設定を活かしたプレイも可能である。
拳法の達人の高校生や、霊能力をもった拝み屋女子高生が、大挙したゾンビたちをバッタバッタとなぎ倒すような現実離れしたストーリーも可能である。

ルールブックやサプリメント(追加資料)で示されている世界観で、そのシステムのだいたいのプレイスタイルの見当がつくこともあるが、それはあくまで目安に過ぎない。
同じ人がいつも同じプレイスタイルとも限らない。
今回はゾンビシナリオをやっていた人が、次回はリアルホラーをやる、というのは良くある話だ。
なので、それと知らずに、物語中心プレイをとてもやりたい人とキャラクター中心プレイをとてもやりたい人が同席した時は悲劇が起こる。
物語世界中心プレイヤーからみれば 「キャラクターのために世界を変えてもいいというご都合主義。みんなで遊ぶべき世界を理解しようとせずに自分のキャラを目立たせることばっかり主張している。みんなで楽しもうという気に欠けている」
となってしまうし、
逆にキャラクター中心プレイヤーからみれば 「公式設定にこだわる権威主義の設定厨(厨…中学生並みに幼稚ということを表すスラング)。「それは世界観的に無理でしょう」「物理的に無理でしょう」って言ってばっかり。もっと気楽に楽しめばいいのに。みんなで楽しもうという気に欠けている」
となってしまう。

【細部の限界】
ここまで読んで、普段会話型RPGをやらない人は
「PCに深く没入したいプレイヤーは現実世界や史実に近いリアリティ重視の世界を好み、PCに距離を置い遊びたいプレイヤーは物語的な破天荒さのある世界を好むのだな」と思うかもしれない。
が、実際に会話型RPGをやる人の実感とはそれとは違っている。
「物語に入り込むために破天荒な公式設定を忠実に守る」というやり方をとる人も割合いるのである。

これは、現実や史実の世界に近づけようとするほど物語に穴を作らないのが難しくなったり、活劇の要素が薄くなったりするからだと思われる。
例えば、中世ヨーロッパ風の世界で遊ぶことを考えよう。
「あなたは貧しいが自作農のはしくれのキャラクターです。朝起きるとあなたの家で大事に飼っていた豚がいなくなっています。柵が壊れた様子はありませんが、どうにかして逃げ出したのかもしれません。あるいは誰かが盗んだ……。
農繁期で他の家は忙しくしており、気軽に手伝いを頼みにくい状況です。
あなたも本当は自分の畑の世話をしなくてはなりません……。
家には、他のPCである妻と12歳の長男と10歳の長女と乳飲み子がいます。
豚が迷子になったのなら、早く見つけないと野生の生き物に襲われたり、崖から落ちたりするかも知れません。
豚が通りそうな道はどこでしょうか。
誰か協力をしてくれそうな人はいるでしょうか。
家族総出で探した方がいいでしょうか。少しは畑に人を置いた方がいいでしょうか……。」
私はこういう設定は非常に好きだが、荒々しい戦士や知力にたけた魔法使いをやりたい人はなんだか違うと感じてしまうかもしれない。
シナリオの作成者も「豚の足の速さはどれくらいか? 」「畑はどのような状況か? 農繁期というがやらなくてはいけないことは何か? 畑に水をいれることか? 雑草取りか? 害虫駆除か? それによって人のさき方が違う」などと聞かれてしまうかもしれない。
豚の足の速さなんてどうやって調べればいいのだろう?
そもそも中世における豚が現在の豚と同じような品種だったとも思えない……。
手慣れた作成者であれば、聞かれた時にその場で、「大人の全速力と同じくらいのスピードが出るよ。ただし、あまり長距離は走れない」「水入れと雑草取りと害虫駆除の全部だよ」などと答えられるかもしれない。実際確認のしようがないので、そこは適当に割り切ってそれっぽい仮定をするしかないのだ。

現在が舞台であれば話はよりややこしくなるかもしれない。
シナリオ作成者:「地下鉄内は電波が届かないよ」
PL  A:「最近は地下鉄構内の電波状況を改善しているから、この路線で、この電話会社なら、音質は悪くても通信できるんじゃない? 」 などとなるかもしれない。
会話型RPGが細部を演じて行くものである以上、こうした細部はある程度虚構で設定せざるを得ないのだ。
したがって世界に埋め込まれたPCに入り込むと言っても限度がある。
活劇を楽しむなら、むしろ破天荒な設定を忠実になぞる方が納得しやすい……。

【没入する楽しみ/相対化の楽しみ】
さて、では破天荒で細部を気にしなくてすむような世界なら、PCに深く入り切ることは可能であろうか。
これはおそらく、人による。
深い没入を阻害するものとして、物理的要因と内的要因が考えられる。

物理的な要因は単純だ。
クライマックスでPLの1人が「すみません、ちょっとトイレいいですか? 」
自宅でやっているなら、クライマックスで家族がドアをノック。「○○、ちょっといい? 夕飯なんだけど……」
しかし、これらの要因は実はさしたる問題ではない。
自分がテレビに夢中になっているときに、トイレに立った記憶を思い出せばいい。
繰り返し邪魔が入るのでなければ、さして問題もなく物語世界に戻って来れたはずだ。

むしろ、深い没入を阻害するものは多くの人にとっては内的な要因だ。
要するに「成りきって陶酔しちゃっているところを人に見られるのは恥ずかしい」ということだ。
映画を見た後、自分の部屋で成りきって主人公のモノマネをしていたら、家族に見られていて赤っ恥……。
似たような体験は多くの人がしていると思う。
インターネットの動画サイトではときどきこの手の動画が流出して同情の声があがったりする。
しかし、ロールプレイをもっと演劇的な役作りとして捉えており「役に入り込んでいるときの私」を割り切って観察することができるタイプの人もいる。
あるいはPCへの没入が極めて深いところまで達したため、PL視点の恥ずかしいという感情が抹消されている状態というのもある。
このようなPL視点の抹消は、よく起こる人もいれば、滅多に起こらない人もいる。
だが、没入できる人が没入できない人より深く楽しんでいるかというとそういうわけではない。
没入しないタイプの人はパロディのようなメタ化の楽しみを持つことができるのだ。
強い感情移入をしつつも、同時にその自分を外から眺める、というのはそれ自体で楽しい。
少なくとも私は間違いなくそうである。
実際の日常生活でもそうだろう。
われを忘れて夢中になることが楽しいときもあれば、自分なりに分析したり自説を考えたりするのが楽しい時もある。

【メタ化のメリットとデメリット】
ここで少し現実の世界に目を向けてみよう。
現実の世界ではしばしばメタ化が悪い方向に働くときがある。
テーマは何でもいい。

例えば私が 「会話型RPGの面白さを理論的に分析してみよう!」
と言ったとする。
「自分語り乙(自分語りお疲れ様)」
「分析する前に自分のRPGライフ充実させろよwオレオレRPG論はつまらないんだよねww」
と言った反応がでるかもしれない。

これは会話型RPGの面白さを分析することに否定的な反応である。
しかし、なぜ会話型RPGの面白さを分析することが良くないのかに対する理由にはなっていない。
自分語りであることはなぜいけないのだろうか?
どのような仮説も提案も最初に個人から表出される以上、「自分語り」にならざるをえない。
「自分語り乙」というのもある種の自分語りに他ならない、ということである。
「オレオレRPG論はつまらないんだよねww」というのも、これまでのRPG論がつまらなかったというだけで、これから生まれるRPG論がつまらないという証左にはならない。
RPG論はすべてつまらない、あるいは、そのほとんどがつまらない、というならなぜそのようになるのかを説明しなくてはならない。
これをやらない以上、全く同じ刀で返されてしまう。
「オレオレRPG論否定はつまらないんだよねww」
お互いに「そういう態度こそがつまらないんだよww」とやりあうのは不毛である。
このメタメタゲームのような悪いメタ化を「ネタ化」と呼ぶことにしよう。

ネタ化の手法はそれこそいろいろあると思うが、よく見られる手法の一つは、「目的や手段を属性へと横滑りさせる」というやりかたである。
今の例でいえば、1つ目の反応はテーマを「自分語り」という個人の属性に横滑りさせている。2つ目の反応は「RPG論=つまらないもの」という属性を勝手に作り出し、レッテルを貼るという形で横滑りさせている。
もし、実際読んでつまらなかったとしても、まずなぜその論が面白くないのかを論じるのが先であろう。
もし、その論とこれまで読んで来た他の論に共通するつまらなさがあればそのことも述べれば良い。

「つまらなさは述べるまでもない」と思っていたなら、今度はなぜ書き手が見えるところで反応したのか、ということになる。
書き手は自分の書いたものである以上、さらに反応を返してくる可能性も高いからである。
単に「時間を無駄にしてしまった」とだけ愚痴りたいなら、少なくとも本人が直接目にしない可能性が高い場所でやった方が無駄な争いでさらに時間を浪費するのを避けられる。
真面目に何かを話したいならこの種の横滑りに関わる必要はないだろう。
こう書くと「オレのも横滑りですか? 」と嫌味を書かれたり「お前のが横滑りだ」と言われたりするかもしれない。
建設的な話をする気のない横滑りのための悪意なのか、真面目に話そうとしているが話し方が噛みあわないだけなのかは注意を要するだろう。
横滑りを排除した上で、目標に対してどのようなやり方が最適かを検討することになる。
そしてやり方を検討するには過去にどのようなやり方があったかを検討するのが効率的だ。

この過去の読み直し作業の一部に、会話型RPGは役に立つときがあるのではないだろうか。
会話型RPGは、もちろんどれほどがんばっても現実の再現ではない。細部をどうしても欠いてしまうのは先ほど見た通りだ。
しかし、大枠の思考実験をしてみるときはその call and responce が1人では得られなかった新しい知見を提出する可能性もある。
また、会話型RPGはなぜかメタメタゲームが起こりにくい気がする。
物語内世界の登場人物はすでにデータとしてある程度属性化されている。すでに属性化されているものを別の形で再属性化するのは手間がかかるということだろうか?
しかし、細かく考えれば、思考実験はデータ化されていない部分で起こることも多いだろうから、物語内世界ではメタメタゲームが起こらない/起こりにくいという理論的な証明にはならない。
限られた時間でミッションを解決するのが目的である以上、参加者の総意がメタメタゲームを排除する方向に働くのかもしれない。
メタメタゲームが起こらないというのは、メタの混入物に惑わされずに考えを進める手助けになるかもしれない。
しかし、会話型RPGにおけるネタ化(悪い効果のメタ化)はメタメタゲーム以外の形で現れることがある。

例えば、被差別者のロールプレイだ。
ファンタジーTRPGにはしばしば種族差別が取り入れられている。
PLはその種族差別を楽しむことも多い。
差別側だけでなく、被差別側であっても種族差別を楽しむことは多い。
ハーフリングが卑しいチビと馬鹿にされたり、エルフが高慢ちきの耳長と馬鹿にされたりする。
だが、もちろん現実の差別が楽しいものであるはずがない。
それが、楽しめてしまうのはなぜか?

これらが楽しめるのはPLが結局のところ「自分は本当は(ゲーム外では)、ハーフリングでもエルフでもない」と思っている限りにおいてではないだろうか。
例えばPLと同じ属性によって、PCが差別を受けた時、PLは腹が立たないだろうか。
求職中でアルバイトでようやく日々の暮らしをつないでいるPLが、冒険者PCを「その日暮らしの日雇いのくせに」と馬鹿にされた時、全く何も思わないだろうか。  「ゲーム内のことだから」と楽しめるだろうか。
私は楽しむ自信はない。

被差別者のロール楽しんでいる人は、演じると言う形でPC(被差別者)の状況とPLの状況を相対化しているはずだ。しかし、PLはPC達の痛みの感覚には感情移入していない。相対化のもたらした別の視点(PL視点)に注意が向かっているために、PC側の視点の一部が取りこぼされてしまっている。無意識のうちにPCは自分とは関係のない者として「他者化」されているのだ。
ハーフリングやエルフの場合は、現実に存在しない生き物のため、ネタ化が行われても胸を痛める人は少ないかもしれない。
だが、私たちがPLから離れたさまざまなPCを演じる以上、現実に存在するような偏見を無意識に再生産するような可能性がある。
例えば女性の表象はどうだろう。
さらわれるのは常に若く美しい乙女だ。
老婆は怪しかったり、男好きだったり、やりて婆だったり。
女戦士は「男勝り」だったりする。

男性キャラはどうだろう。
まず、さらわれない。特に美しくもない。
老人は怪しかったり、女好きだったり、やりてだったりもするが、
村の長老クラスになるとそんな極端なキャラクターは少数だ。

「女勝り」のキャラクターもお目にかからない。
これらの表象に胸を痛める人はいないのだろうか。
正直なところ、私は嫌である。
出てくる女性はみんな美人のシナリオも嫌だし、類型的な老婆も嫌である。
「お約束で現実はそうじゃないってわかってる」
という理屈は、他の視点の一部を抹消していないだろうか。抹消した視点が他者の痛みとつながっている可能性はないだろうか。新しい視点を手にしたつもりで、無意識に悪いメタ化を行っている、つまりネタ化している可能性はないだろうか。
会話型RPGにおけるメタ化は重要な楽しみの一つであり、自己に適応されれば現実社会への関心のきっかけとなりうる。しかし、安易な他者化に用いられれば、人を傷つけることになるだろう。

******************************************************************************* 〔脚 注〕
(*1)

『クトゥルフ神話TRPG』は、クトゥルフ神話の世界を遊ぶ会話型ホラーRPGである。TRPG はTable tale Role Playing Game の略である。Tabel talk は「雑談」くらいの意味で、TRPG は会話型RPGと同じものを指すと考えてよい。  クトゥルフ神話とはハワード・フィリップス・ラヴクラフトの描いた小説をベースに、続く多くの作家たちが神々や禁書の名称を貸し借り・共有することで作られた一連の神話体系である。  クトゥルフ神話の世界を遊ぶための(成功した)最初のRPGは、1981年にケイオアシム社(米国)から『Call of Cthulhu 』というタイトルで発売された。  日本での翻訳版は、まずホビージャパン社から1986年に『クトゥルフの呼び声』として第2版が翻訳・発売された。現在はエンターブレイン社から第6版の翻訳である『クトゥルフ神話TRPG』が発売されている。  いずれも世界観に大きな差はない。  ここでは現行の『クトゥルフ神話TRPG』を取り上げて話しているが、『Call of Cthulhu 』や『クトゥルフの呼び声』と読み替えてもらっても文意に影響はない。
(*2)キャラクターを相対する別の例として、また、意志決定の実際として以下が参考になる。 「TRPGにおける<プレイング>の認知的プロセス―高橋によるエックハルトの<意志決定>事例(改訂版)」。  http://d.hatena.ne.jp/gginc/20100822/1282520395