冒険に満ちた散歩

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冒険に満ちた散歩

齋藤 路恵 (協力:岡和田晃)

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わたしたちはしばしば「もし~だったら」と考える。もし地球の温度が一度上がったら、もしドラえもんの道具が手に入ったら、もし今この人生が夢だったら。
わたしたちはあり得たはずの別の可能性と隣り合う。つまり、想像を通じて異界と隣り合っている。
異界と写真について考えてみる。
写真はかつて異界の扉ではなかったか。カメラは異界への瞬間移動装置だったのでは? いや、きっとカメラは今日においても移動装置なのだ。わたしたちは写真に慣れ、長い間に、あるいは驚くほどの短い間に、そのことを忘れてしまったのだろう。
ここにフォトゲームブックがある。これを通して、わたしたちはかつて異界の創造者であり、今日において、なお異界の創造者であることを思い出してみよう。

こちらはあまのしんたろう氏のフォトゲームブックのサイトだ。

(あまの氏のフォトゲームブック「ウィンベー・バカンス」3頁の写真)

フォトゲームブックのしくみはそれほどむずかしいものではない。選択肢があり、それをたどると、ある写真、ある物語に行きつく。
おそらく少し勉強すれば同じような形式のものを作れるはずだ。

これらのゲームブックに使われている写真は現実に存在する場所だ。だが、写真とともに進行する物語は必ずしも日常生活の延長とは言えない。
日常のようで日常でない物語、読み手はその中を回遊することとなる。

カメラについて少し考えてみよう。最初期のカメラはまさしく魔法だった。複雑で危険な薬品を使いこなす。そして、自らを陰画紙に定着させる。それは絵画と似たものだったが、絵画とはまったく違うやり方で自らの客観視を可能にするものだった。
やがて技術革新が進み、写真は誰にでも撮影可能になった。進歩したカメラはわたしたちに手軽なフレーミング技術を与えてくれた。フレーミングとはここでは、世界を四角く切り取ることを指す。

もともと人間の視覚に境界線はない。上下左右への自由な移動。好きな場所にピントを合わせ、それをまた一瞬で変える。人間が視界をフレーミングするようになるのは、紙やキャンバスといった限りのあるものに、世界を写しかえようとしてからだ。
カメラは無限定な世界を四角く切り取って見せる。世界を四角く切りとること、それ自体は絵画もよくやっていた。だが、絵画の構図は手作業である。作者は時間をかけて絵の構図を完成させる。カメラはボタンを押した瞬間に世界が切り取られる。
カメラのフレーミングはしばしば意図せざる世界を出現させる。その偶発的な世界は、わたしたちの日常でありながら、わたしの意図によらない。それは異界なのだ。それも、限定され、完成した異界。切り取られた世界は完結した一つの世界だ。
写真は無限にズームアップできる世界でもある。ズームの限界がきたら、複写をやり直し、またズームすればいい。むろん、ズームアップすれば精度は下がる。すぐに何が何だかわからなくなる。でも、ズームアップできなくなるわけではない。理論上は永遠にズームアップを繰り返せる。
一方でズームダウンには限りがある。ズームダウンを繰り返すとやがて対象の外側が入ってくる。外側の侵入を防ぐことはできない。ズームダウンの限界は切り取られた世界の区切りであり、完結である。
わたしたちは無限の深さを持つ写真の内部において、また、無限の広がりを感じることができる。写真の中にあるもの、写真に写り込んでいないものの外部を想像する。外部の広大さはフレームによってこそ拡張される。
目で風景を見る場合、それは無限定の世界だ。見えない部分、世界の外側は遠くにある。
フレームの中の空間は制限されていて、世界の外側はすぐ近くにある。ビルの物陰の狂人を恐れるように、わたしは写真の奥の世界を恐れる。フレームの外側、あの闇の内に潜むものはなんだろうと警戒する。
見知った世界とよく似た異界の光景。ぼんやりとした不安の影。テキストはその闇の風景に輪郭を与える。曖昧で見えなかったもの、ぼやけていた輪郭が浮き上がり、世界が屹立する。わたしはその微かな瞬間に立ち会う。
でも、闇から現れでるものは恐怖の怪物とは限らない。暖かい日差しと穏やかな海、地に足をつけて暮らす人のやさしい言葉かもしれない。見えてはいたが、気づいていなかったものが瞬間に立ち上がる。
一方で、テキストはすべてを見えるようにするわけではない。テキストはさらに光の当たらない場所、より濃い闇を生み出す。テキストが行うのは世界の対照(コントラスト)をはっきりさせることだ。
人はテキストで書かれたものに注目する。テキストで書かれなかったものは目に入らなくなる。それまでぼんやりと見えていたものが闇に溶け込む。テキストによってそれは不可視になる。茫漠とした地になり、足元に暗闇を与える。

テキストを読む。予想と違う位置に輪郭線が引かれる。少し驚く。でも、理解できる。過去にそれを知っていたわけでもない。知っていたわけではないのに理解している。
変わった風景ではない写真。どこかにありそうだが、どこをとったのかわからない写真。

もう異界に入る準備はできている。テキストが立ち上がる。ああ、やっぱりここはいつもと違う場所だった。

これはわたしが作っても同じことだ。写真を撮る。影ができる。別の世界が始まる。テキストをつける。世界の闇が濃くなる。闇から声が聞こえてくる。わたしはこの闇からの声を知っている。闇から声がすると知っていた。懐かしい。
さあ、わくわくしよう。強い光と濃い影の中、わたしの冒険に満ちた散歩が始まる。

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しゃしんか あまのしんたろう こうしきさいと ヤミーアートミュージアム

http://shintaro-amano.com/

『戦えば死がくる』

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『戦えば死がくる』

本文:伏見健二 解説:仲知喜 協力:岡和田晃、伊藤大地、蔵原大、高橋志行、田島淳

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 今回お届けするのは、伏見健二さんによる『戦えば死がくる』の再録です。著者である伏見健二さんの許可をいただき、初出である『RPGマガジンNo.5(1990年9月号)』から24年の時を経て再掲させていただくことが可能になりました。
 今年は西暦2014年です。平成元年生まれの人が『戦えば死がくる』が掲載された時は2歳だったことになります。当時20歳の人が今年46歳。嗚呼、隔世の感とはこのことですね。というわけで、今回の再掲と合わせて、伏見健二さんによる『戦えば死がくる』を読者の皆さんにより楽しんでもらえますよう、本稿の後に解説を付け加えさせていただきました。なお、初出時の本稿には別枠に『ストームブリンガー』の戦闘ルールシステムの解説が添えられていました。

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戦えば死がくる
FIGHT AND LET DIE
――“ストームブリンガー”における戦いと死をめぐる考察――

伏見健二 (文字起こし:伊藤大地)

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1 戦えば死がくる

 “ストームブリンガー”と言えば、M・ムアコックの『エルリック・サーガ』をベースとした独特の背景世界や魔術について語られることが多いのですが、その戦闘システムも大きな魅力の一つです。しかしそれはあまりにも激しく、あまりにも壮絶で、卸し難いものです。
 まるで黒の剣・ストームブリンガーそのもののように、あなたの剣はしばしば自己の意識を持ったかのごとく敵の血をすすり、叩き潰してきたのではないでしょうか。
 “ストームブリンガー”において、「敵」の存在はコンピュータRPGのように克服すべき障害物として記号化することを許されません。今回はちょっとだけシリアスに、“ストームブリンガー”における戦いと死について、さまざまな観点から考えてみることにします。シナリオづくりやマスタリング/プレイ術の参考になればいいな、と思います。
 敵の存在は重く、返り血は熱い……。
 たまにはそんなRPGをしてみましょうか。
 ビギナーの人たちにはちょっと読みづらいかもしれませんが、サラリと一読してみてください。

2 戦いとはなにか

GM:さあ、君の前には長身の男が立ちはだかっている。前髪を右目に垂らし、その足元には老いた大きな狼がまとわりついている。
ロート:あーっ、でたな、こいつ!「ラシウェル、なんの用だ、そこをどけ!」
GM:ラシウェルはわずかに笑みを見せたようだ。
「ロート、去れとは言わぬ。だが、ここは通せぬ。決着の時が来たようだ」と言っている。
ロート:……うぅっ、ついにこいつと正面からやるはめになるのか。

 まずは戦闘を行う理由について、いくつかのパターンを類別してみましょう。哲学や心理学、宗教など、いろいろな要素と見地からの分類が考えられますが、ここでは簡易に表面的にだけとらえてみます。まあ、一緒に考えてみましょう。

1)自己防衛のための戦闘
 多くの戦闘はこの形を取ります。ごく単純に言えば、「モンスターが襲ってきた」という状況などですね。自分の生命への危機、苦痛の忌避などを理由とする戦闘行為です。
心理的側面も考慮に入れれば、すべての攻撃は自己防衛によるものだと言えるでしょう。

2)他者防衛のための戦闘
 他者が何者かに攻撃されようとしている場合に、代わりに戦いを買って出るというもので、職業としての護衛はその代表的なものです。

3)障害排除としての戦闘
 ある場所を通過したいのだが、そこには敵対する存在がいて排除しなければならない。という場合があります。これは最終的な目的を達成するために必要な副次的戦闘と言えます。たとえば、財宝が眠る洞窟に入るには入口のモンスターをまず倒さなければならない……という場合がこれに当たるでしょう。

4)目的達成のための戦闘
 暗殺がこのパターンの典型です。相手の存在自体が自分の目的の障害となる場合に、この種の攻撃が行われます。
 シナリオでキーとなる戦いはたいていこのタイプのものですが、ほかの手段による解決が存在しないかどうか熟慮したいものです。

5)衝動による戦闘
 安っぽいサスペンスのようですが、衝動的な感情によって戦闘にが起こる場合もあります。精神的なストレスの代償行為として攻撃衝動にかられるという経験は、みなさんにもあるのではないでしょうか。このパターンの攻撃は、必ずしも勝利を得ることを目的としていません。

6)自己証明のための戦闘
 ことに男性において、自己の優位を証明するのは戦いに勝利することであるという、限りなく衝動に近い理論が存在します。そうした心理を象徴的に強調して表現するヒロイック・ファンタジーにおいては、特に重要な動機になっています。

7)肉体的欲求による攻撃
 動物が食欲にかられて攻撃をする、というような種類の攻撃行動です。
 ただし、動物はたとえ空腹でも、盲目的にわれを忘れて攻撃をするわけではないということに注意してください。ほとんどすべての場合、食物獲得のための戦いは冷静で注意深い行為であり、動物が食欲のために見慣れない生物(たとえば鉄をまとった人間)を襲うことはありません。動物がそのような攻撃をするのは、テリトリー維持のためのみです。

3 剣を抜く前に

ロート:「ラシウェル、俺はお前を友とも思っている。一度はともに戦った仲ではないか!」
GM:「猿め、友とはおこがましい」と身を震わせながら言うと、彼は剣をすらりと抜き放つよ!
ロート:ううむ、勝てたとしてもただでは済みそうにないよなぁ。やはり彼女の件でそんなに怒っているのかな?
GM:他にも思い当たるのかい?(笑)「お前を彼女のところへはいかせぬ!」
ロート:「リナスの幸福を真に望むなら、そこをどけ!」って怒鳴るぞ。心理的動揺を誘うって奴。

 さて、ひどくラフな分類でしたが、戦いというワードに含まれるさまざまな要素が見えてきたと思います。
 まず第一に、戦闘が目的であるのかあるいは手段なのか、それを意識しなければなりません。それは、回避できる戦いであるか、避けられない戦いであるかの区別でもあります。
 ことに“ストームブリンガー”というRPGにおいては、勝利の見通しがつきにくいということもあって、この見極めが重要なのです。「気晴らしに戦闘がしたいなあ」などと言っていると、ごくつまらない一撃で命を落とすことになるでしょう。
 ですから、必然的に“ストームブリンガー”においては、戦闘のスリリングな魅力のみに頼ったシナリオを行うことは難しいと言えましょう。コンピュータRPGのような、遭遇→交戦パターンのスタイルそのままのシナリオには不向きな戦闘システムなのです。
 “ストームブリンガー”において、戦いのリスクはあまりにも甚大です。ゲームマスター(以下GM)はその点をよく考えて、シナリオのストーリーと何ら関係のない、重要性の低い戦闘でプレイヤーキャラクター(以下PC)を殺してしまうことがないように気をつけてください。たとえプレイヤーの判断の甘さや不注意が原因だとしても、PCがプレイヤーに不満の残るつまらない死を迎えるのはよいことではありません。そのようなプレイでは、ゲームのおもしろさを十分に引き出すことはできないからです。
 そうした事態を避けるとりあえずの解決法としては、戦闘の回数を減らすことが第一でしょう。またプレイヤー側にも、無用な戦いは避ける姿勢が必要です。
 しかし、無用な戦いと避けられない戦いは一体どうやって区別されるのでしょうか。それにはGMとプレイヤーが「物語の呼吸」に対する敏感な感覚を共有することが必要です。「優れたプレイヤー術とは、GMの望んでいることを鋭敏に察知してGMの演出するストーリーにしっくり溶け込む主人公を演じることである」といった極論もありますが、そうした側面は否定できません。
 ぼくは「負ける戦いはしない」などという主張に代表される、PCはロジカルなコンバット・マシンになるべきだというような考え方には賛成できません。プレイヤーに必要なのは、キャラクターの感情状態を把握し、それを楽しむという姿勢でしょう。PCが激しい怒りを感じるような局面であれば、感情に身を任せて強大な敵に挑むのもよいと思います。
 しかし、その瞬間の感動を高めるためにも、譲るべきところは譲り、耐えるべきところは耐えるべきでしょう。それこそが「物語の呼吸」にほかなりません。
 そうですね……『水戸黄門』などの日本娯楽時代劇を例にとってみましょう。物語のクライマックスにいたるまで、主人公はののしられ、軽んじられる役回りを演じます。しかしそれゆえに、悪代官の前に印籠をかざす瞬間の壮快感が高められるのです。
 出会う相手とことごとく戦い、け散らして目的を達成するよりも、そのような心理的やりとりを背景にたったひとつの戦いに臨むことの方が、何倍も楽しいことではないでしょうか。
 “ストームブリンガー”では、戦いこそが最高のドラマなのです。

4 戦いにおいて

GM:きれいな円弧を描いてブロード・ソードが振り下ろされる!……(コロッ)「さあ受けてみろ!」
ロート:フッ、俺だって成長しているのさ。(コロッ)キィン!ほおら、やすやすとかわした。
GM:「できるな!それでこそ俺のライバルと言えよう。フハハハッ」
ロート:こっちはそんなつもりはないぞお。

さて、戦いの危険そして危険であるがゆえに避けられる戦いは避け、本当に重要な戦闘に集中すべきだということは語りました。ここでは、迷いを断ち切り、実際に戦いに臨むにあたっての注意点を考えてみましょう。
 “ストームブリンガー”の戦闘システムは、戦いの手応えを十分に感じさせる優れたものです。
 降りかかる鋭い刃、そしてそれを受け流す時の手の痺れるような感触、ざらりと滑る鋼と鋼、そして敵の刃がガリッと装甲を削って肉をえぐる……血と共に力が抜けてゆく……体の動きが鈍くなってゆく!……
 しかし、システム自体の完成度が高いゆえに、しばしば戦闘は工夫のない平面的な切りあいに終始しがちです。
 たしかに“ストームブリンガー”の戦闘は大きな興奮を与えてくれますが、豊かな感覚においてなされたロールプレイが、戦闘が始まった途端に確率に一喜一憂する単純なサイコロの振り合いに「モード切り替え」してしまうのはいかにも残念です。
 だからぼくは、「戦闘中もなるべくしゃべりましょう!」と提言したいのです。戦っているPCの身振りを興奮のあまり演じてしまう……などというのは困ってしまいますが、敵を切る時のセリフや効果音はプレイを盛り上げます。
 また、戦闘空間は体育館のようなフラットな平面ではないのですから、現場のシチュエーションを想像する助けとなるような語りも効果的です。
 「足元の砂利が滑って回避に失敗した!」とか「空を切った件がレンガを削って粉が散った」といったちょっとした語りを加えると、戦闘のビジョンは一層輝きを増しますし、単に切り結ぶ以上の戦術を思いつくきっかけともなるのです。
 このような語りには、プレイヤーも積極的に参加してください。些細な行為の描写は、GMに対する越権行為にはなりません。

5 特殊な戦術の扱い

ロート:こんなところでクリティカルでもくらったらしゃれになんないから、〈体術〉でラシウェルの脇をすり抜けるぞ。道はどんな感じ?
GM:乱暴に組まれた石畳が、下り坂になって地下へ続いてるよ。かなり暗くて先はよくわからない。
ロート:「じゃ、悪いがラシウェル、ことが片付いたら相手をしてやろう」……(コロッ)クリティカル・サクセス!一瞬の疾風のようにすり抜けたってところかな?
GM:ひゃあ、よく出たね。でも、「ま、待て!やつを逃がすな!」という叫びが後ろから聞こえて、オオカミの吠え声が追ってくるよ。
ロート:ううっ、そうだったあ……。

 特殊な戦術をプレイに導入するのはなかなか難しいことです。思いつくのもさることながら、ルール上でどのように処理をするべきなのか、それを決定する感覚はなかなか得られるものではありません。ぼくもいまだに臨機応変かつ的確な処理ができずに、プレイ後に後悔させられることがしばしばあります。
 実例を挙げてみましょう。PCと敵キャラクターが1対1で斬りあってるシチュエーションで、もうひとりのPCが敵の顔に熟れたトマトをぶつけると宣言したとします。
 実際には、このような行為を成功させるのはとても難しいことでしょう。絶えず動き回る敵の顔にみごとにトマトが命中することなど、小説か映画でなければまずありえません。
 ……しかし、RPGというものは現実より小説や映画に近いものなのです。プレイヤーの顔を見回すと、皆がその思いつきに目を輝かせています。とても「そんなの100回に1回しか成功することじゃないよ」とは言えません……。
 こういう時、まずどんな判定をプレイヤーが期待しているのかを大事にしなければなりません。プレイヤーが状況に抱いているビジョンとGMのビジョンを調整し、統合する作業が必要となります。その2つが食い違ってしまう場合ほど、つまらなくいらだたしいことはないのです。
 この場合は、手投げ武器と同じような処理が適当でしょう。〈ジャグル〉技能の成功率を2分の1にしてボーナスを足した値で成否を判定します。相手はトマト攻撃に不意を付かれるので、回避はできないものとします。命中箇所については、深く考える必要はないでしょう。攻撃が成功したならば、それは狙いあやまたず顔に命中したでかまいません。なぜなら誰もがその結果を期待しているからであり、RPGは結局楽しんだ方が勝ちだからです。ただし、外れたら味方に当たってしまうなどの演出をするのもGMの大事なつとめです。
 特殊な戦術を用いる場合、結果は印象的に、ただし甘すぎないというバランスを保つことに注意しましょう。この場合は……まず空想してみてください。剣で切り結んでいる最中に、トマトが顔に当たったらどうなるかを。まずびっくりして動きが止まり、攻撃や受けができなくなるでしょう。プレイにおいては1回の攻撃不能と2回の回避不能、その程度がちょうどよいと思います。敵の目を見えなくしたりするのはプレイヤーに対して寛大すぎるでしょう。この程度で、PCは十分に勝機をつかむことができるはずです。
しかし、奇策はあくまで奇策でしかありません。特殊な戦術は戦闘の重要な要素ではありますが、GMはそれをあまり評価しすぎないように自戒すべきです。
 たいまつは剣より強いと信じている人に会ったことがあります。また、油の引火性を過大に評価しすぎている人もたくさんいます。投げつけるために小袋に分けた油や目潰し用の砂袋を持ち歩いているキャラクターは、ぼくは嫌いです。
 RPGにおける戦いは、キャラクターどうしのコミュニケーションの最後の局面であり、「哀しい手段」です。そのように戦いで敵の裏をかいたり、奇策で勝利すること自体に楽しみを見出そうとするのは本末転倒のそしりを免れません。

6 そして死がくる

ロート:「あ、クリティカルヒットだ!」
GM:ううぅ、それはきついぞ。(コロッ)ああ……。剣はラシウェルの守りの刃をくぐって薄い鎧に潜り込んだ。鮮血が散る……。ダメージは振るまでもないな。
ロート:メルニボネ人でも血は赤いんだな……。
「ラシウェル、だいじょうぶか?」
GM:おいおい(笑)。「フッ、こんな……ものだな。……お笑いだ……」
ロート:「目を閉じて少し休め……あとで迎えに来てやる……」ううむ、すっかりセンチメンタルだなあ。
GM:「……あまい、やつめ」とぜいぜい喉を鳴らして言った後、静かになるよ。
ロート:死顔は安らか?
GM:残念ながらそうでもない……。

 結果が勝利でも敗北でも納得できるという状況においてのみ、戦いは行われるべきです。しかし戦闘に臨むからには、全力で勝利を狙う以外の選択はありません。戦いとは、ひとつしかない命を賭ける行為なのです。
 ただ、この時忘れてならないのは勝利の定義です。相手を彼岸に送り出すことだけが勝利だ、という考えはあまりに単純です。場合によっては敵を倒すのではなく、相手の動きを引きつける目的の戦いもあり、その目的が達成されればそれは勝利と言えるでしょう。
 戦闘を始める前に自分が戦いに臨む目的を把握し、また戦いにおいて相手と自分の心理的優位のバランスを読み取ることが重要です。たとえば、剣を抜くしぐさをしただけで退散するゴロツキだっているでしょう。すべての相手と本気で戦う必要はないのです。
 しかし、先にも述べたように命を賭けて戦わなければならない局面は避けようもなく存在します。そしてその戦いにおいてPCに死が訪れることも十分に考えられるのです。
ぼくはプレイヤーが戦いの選択をしたならば、「死ぬ前の心の準備はできたかな」と聞くようにしています。変にRPGに慣れてしまったGMとプレイヤーには「苦労しても結局はPCが勝利する」という無言の了解が存在してしまうことが多々あり、PCが死ぬとひどく腹を立てる(そしてGMを非難する)プレイヤーはたくさんいます。ですから、高いリスクをともなう選択を選ぶのであれば、結果の責任は自分にあるということをプレイヤーは自覚しなければなりません。そのためにも、プレイヤーの頭を冷やし、戦闘の危険を把握させる必要があるのです。
 無論、RPGはGMとプレイヤーの戦いではありませんから、「戦うというなら死んでもかまわないんだな」とばかりに強力な敵で迎え撃つというGMも、何か勘違いしています。
ここで考えるべきなのは、ゲーム世界におけるGMとプレイヤーの立場の違いです、GMは世界の環境そのものなのですから。そこに働いているすべてのファクターを理解しています。しかしプレイヤーには、PCが知覚している(はずの)こと以外はわからないのです。目の前の相手が強力で自分は勝てないと判断すれば、熟練の冒険者であるPCはそれを理解し、戦いを避けるでしょう。戦える相手と判断するからこそ、戦端を切ろうとするのです。
 そしてそうした判断の根拠はGMから得られる情報しかないのですから、この時GMが適切な情報を与えないとすればそれはアンフェアです。敵の強さについて暗示的な情報を与えてもPCが気づかない時は、「今の君たちでは絶対に勝てないから逃げたほうがいいな」ぐらい直接的に言ってよいと思います。それでもなお向かっていくのであれば、それはプレイヤーの自由です。その時はPCが死ぬことに対してプレイヤーは覚悟し、納得もしているのですから、決してつまらない体験ではないでしょう。
 プレイヤー・キャラクターに死が訪れた場合、それは大事に受け止めなければなりません。GMが「ほうら、無理をするから」とか「ダイスの目が悪かったねぇ」などと言いわけじみたことを言うのはもってのほかです(これはつい言いたくなることです。誰しも経験があるのではないかな)。
 パーティーが仲間を失ったならば、皆でそれを弔い、別れの酒杯をあおりましょう(地の王グロームの司祭がいれば嬉々として埋葬してくれるでしょうが)。
 “ストームブリンガー”における死には、そうするだけの重さがあるのです。
 極論ですが、“クトゥルフの呼び声”においてPCの発狂がゲームの重要なフレーバーであるのと同じように(自分のPCがSANチェックに失敗するとなぜか嬉しいのはぼくだけかな)、“ストームブリンガー”においてはPCの死が重要なフレーバーだと言えましょう。
 「冒険の目的はなんだ?」と聞かれて「死に場所を探している」と答えるのっていい感じです。『眠狂四郎』とか、昭和30年代の時代劇のノリですね。そういうプレイスタイルは、『エルリック・サーガ』の世界の魅力を十分に引き出してくれるでしょう。
 「死がくるからこそ、今は生きていると言える。死が生を輝かせる」という言葉があるように、非存在への転落の危険が、紙上のデータに過ぎないPCへの感情移入を高めるのです。いかにしてキャラクターを息づかせるか、その演出技術によってプレイの質は格段に違ってきます。死の重さこそは、そうした演出の最大のチャンスなのです。“ストームブリンガー”で、ぜひそれを試してみてください。

7 ストームブリンガーのRPG論

GM:……で、どうする?
ロート:……やつの死を伝えなくちゃいけない人がいる。
GM:あ、そうだね。
ロート:狼にラシウェルの亡骸を守るように命じて、奥に進むぞ。リナスを止めなくては……。
GM:地の奥の方から、重苦しい巨獣の吠えるような響きが聞こえてくるよ。気をつければ大地の律動も感じる。

 『エルリック・サーガ』がヒロイック・ファンタジーの異端児であったように、その特徴を取り込んだ“ストームブリンガー”もRPGにおける異端児となり得ます。
 死が常に近くにあるからこそ、この世界におけるキャラクターは、納得のいく密度の濃い人生を歩んでゆかなければなりません。馴れあいは禁物です。
 もちろん、死から逃げ続けることは可能です。新王国といえども、平和な時代、平和な地方を探せば見つからないわけではないのです。
 しかし、感情が乾燥して平坦になっている現代社会に生きるぼくたちが、RPGのプレイの中で激しい感情の揺れ動きを体験することは意義あることと感じます。それはある時は激しい憎悪であり、殺意ですらありますが、半面身を挺する愛であり、世界を救う倫理とヒューマニズムでもあるのです。
無論、娯楽であるRPGにおいて過剰にそうした体験を追求しようとするのは考えものです。きっととても疲れてしまいますよ。ぼくだってそうです。でも時々そういった真面目でぎすぎすとした悲劇的な側面を持ったプレイをしてみたくもなるのです。
 ほのぼのとしたプレイも楽しいものですし、非常識やギャグプレイで笑うのもいいです。RPGのプレイスタイルを限定するのはおもしろくありません。さまざまなプレイスタイルが体験できるからこそおもしろいのです。
 今やRPGは円熟期、多くのゲームが出版され、それぞれのおもしろさがあります。われわれは個々のシステムと世界設定の魅力を引き出して楽しくプレイすればよいのであって、「RPGはこうプレイすべきだ」などと概論的な意見が適用する時代は終焉を迎えたと言ってよいでしょう(もちろん、プレイのマナーについては概論的に語られるでしょうが)。
 メインディッシュとして本格的なRPG、たとえば“ルーンクエスト”や“ワースブレイド”のキャンペーンを行いながら、時には“ストームブリンガー”のように個性の強いRPGや手軽に遊べるRPGをプレイする、というのがぼくの考える理想的なRPGホビーライフです。
 最高に美しいボックスアートを持った“ストームブリンガー”ですが、決してコレクション用アイテムで終わらせずに、その華麗にして凶悪な、プレイアブルにしてサスペンスフルな魅力を存分に楽しんでください。

8 おしまいに

 今後の展開ですが、そろそろ待望の追加ルール&シナリオ集“ストームブリンガー・コンパニオン”が出るようです。また、『エルリック・サーガ』第7巻(早川書房)も翻訳進行中とのこと。中身をちょこっと教えてもらったぼくは気が重いのですが、翻訳家の井辻朱美先生を声援しましょう。また、先生のお書きになった歌集『水族』(沖積舎)にはエルリックを題材にした短歌が収録されているようです。ファンは要チェック!
 という感じで、比較的地味だった“ストームブリンガー”はそろそろ飛躍を迎えます(ですよね、Mさん)。熱心なファンのみなさん、辛抱強く待っていてくれてありがとう。では、よいプレイを!

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解 説

 文:仲知喜 協力:蔵原大、高橋志行、田島淳

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伏見健二

 介護福祉士。作家、ゲームデザイナー、おもちゃ企画者。 伏見さんが『戦えば死がくる』を執筆したのは21歳のときです。武蔵野美術大学を卒業後、フリーライターとして活動しておられました。大学生の頃から伏見さんはアナログゲーム雑誌『TACTICS』の読者ページの常連投稿者で、ストームブリンガーのファンジン『ストームブリンガー・シナリオ集』『ストームブリンガーキャンペーン・修羅の業』を発表するなど、熱心なファン活動を行っていました。 『TACTICS』でのデビュー作は『ストームブリンガー』のシナリオ『紫水晶と鮮血』でした。その後、魔法ルールのサポート記事『新王国における書物と魔術』、マイルーン人をテーマにしたシナリオ『金翅の聖獣』などを手掛けています。伏見氏の代表作である『ブルーフォレスト物語』はこの記事と同年の1990年、ツクダホビーから発売されました。
公式プロフィール: http://www.blueforest.jp/~fushimi/guide.htm

マイケル・ムアコック

 マイケル・ムアコックは今年で75歳になるSF作家です。彼は、エルリック・サーガの最初の作品『夢見る都』を21歳の時に書上げました。24歳の若さにしてSF誌『ニュー・ワールズ』の編集長になり、60年代のイギリスで始まったニューウェーブSFという反体制的で急進的なSF運動を先導する役割を担いました。マイケル・ムアコックの代表作には、『この人を見よ』『グローリアーナ』そして「エターナル・チャンピオン・シリーズ」があります。

エターナル・チャンピオン・シリーズ

 「エターナル・チャンピオン・シリーズ」とは『エルリック』『ホークムーン』『コルム』などのヒロイック・ファンタジー小説の総称です。エターナル・チャンピオン・シリーズの主人公たちは皆「永遠の戦士(エターナルチャンピオン)」という存在の化身であり、多元宇宙を舞台に転生を繰り返しながら永遠に戦い続けている戦士とされています。
 神話学者のジョセフ・キャンベルが世界中の英雄神話の母型に着目し共通する構造を明らかにすることで、大きな影絵のように1つの英雄像を浮かび上がらせたように、ムアコックは多元宇宙という合わせ鏡の中央に一人の戦士を立たせることで、英雄の前後に途方もない世界の広がりを作り出しました。
 しかし、エターナル・チャンピオン・シリーズの主人公たちが、決して鏡に映ったオリジナルの複製ではないところに、このシリーズの妙妙たる魅力があります。彼らは、内面と肉体にハンデを背負っています。『コナン』に代表されるそれまでのヒロイック・ファンタジーの主人公が沢山の模倣作品を生み出したように、コナンはヘラクレスの、あるいはあらゆる神話英雄の、巨大な影の中に滲み込んでいきます。
一方で、永遠の戦士たちはこの影の中にとどまること拒絶しています。その手がかりが、エターナル・チャンピオンのハンデ(傷)ではないかというのがわたしの見立てです。彼らは、このハンデに苦しみ思い悩む。途方もなく広がる宇宙の中で、痛みに身を悶えさせ、悩みに縮こもりながらも、この苦悩こそが実在の証であると百万の虚像に向かって主張する……。
 このような思弁的な内容もさることながら、エターナル・チャンピオン・シリーズはヒロイック・ファンタジーの王道である血沸き肉躍る冒険譚でもあります。そこにムアコックのお家芸ともいえる異国情緒がプラスされ、異世界を堪能できる素晴らしいファンタジー作品となっています。

ストームブリンガー

 黒い魔剣の名を冠したこのゲームは、『エルリック・サーガ』を題材にした会話型ロールプレイングゲームです。 1987年にケイオシアム社から第1版が発売されました。今回の『戦えば死がくる』は、『ストームブリンガー』(ホビージャパン/1988)の第2版日本語版をもとにして書かれています。システム(ルール)は『ルーンクエスト』や『クトゥルフの呼び声』と同じベーシック・ロールプレイングをベースにしています。『ストームブリンガー』は、たいへんシビアな戦闘ルールと、オーバーパワーなデーモンや精霊の召喚ルールが特徴です。『ストームブリンガー』は版上げに際してタイトルがころころ変わってややこしいのですが、途中で『エルリック!』に変わり、また『ストームブリンガー』に戻ったと覚えておけばいいでしょう。現在、エンターブレインから発売されている『MICHAEL MOORCOCK’S ストームブリンガー』はストームブリンガーの最新版(第5版)にあたります。

TACTICS誌、RPGマガジン

 ホビージャパンが刊行していたアナログゲーム専門誌です。1981年創刊-1990年頃に休刊しました。初期はウォー・シミュレーションゲームを専門としていましたが、80年代に入ってからは当時流行した会話型RPGを多く取り上げるようになりました。RPG マガジンは1990年から1999年まで刊行されていました。

Traditionelle japanische Spiele für Herr Reiner Kunizia

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Traditionelle japanische Spiele für Herr Reiner Kunizia

 草場純 (協力:クリスチャン・バウムバッハ、岡和田晃)

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 2013年3月23日、メビウスゲームズ20周年記念パーティーが催されました。そこでは世界的なゲームデザイナーであるライナー・クニツィアが招待され、東京の文京シビックセンターで講演を行ないました。その話もよかったのですが、翌日、折角日本に来たのだからと、私の提案で日本の伝統ゲームをクニツィア先生にレクチャーしようという運びになりました。
 以下はその時に用いた、クニツィア先生用の資料です。友人のクリスチャン・バウムバッハ氏にドイツ語訳してもらったのを渡しました。そちらも合わせて掲載いたします。

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■日本の伝統ゲーム

 こんにちは、ようこそおいでくださいました。心より歓迎いたします。
 せっかく遠路はるばるお越しくださったので、よくあるゲームではなく、昔から伝わる日本独特の伝統ゲームをいくつかご紹介いたします。ただし、これらは現代日本では決して一般的ではなく、むしろ知らない日本人の方が多いと思います。また時間がありませんので、実際にやっていただくのは「ごいた」程度で、あとはお見せするだけになると思います。
 お楽しみいただければ幸いです。

1:ごいた…石川県北部の宇出津(うしつ)地方の漁民に、19世紀中ごろから伝わる遊びです。日本のゲームには珍しいペア戦で、早く手札をなくした方が勝ちです。本来、独特の道具を使って遊びますが、それを私がカード化してみました。

2:投扇興(とうせんきょう)…日本のダーツですが、ダーツとはかなり趣が違います。18世紀後半に京都で考案された遊びで、扇を投げて的に当て、落ちた形で点をつけます。道具が日本的な美しさを持っています。

3:旗源平(はたげんぺい)…19世紀前半に石川県南部の金沢(かなざわ)で考案されたダイスゲームです。単純な遊びですが、道具立てはきれいです。

4:東八拳(とうはちけん)…19世紀中ごろに江戸(昔の東京)で考案された、アクションゲームです。きつね(だんなに勝つ)の動作か、だんな(鉄砲に勝つ)の動作か、鉄砲(きねに勝つ)の動作を、二人同時にします。これをリズミカルに繰り返し、三回連続して勝てば最終的な勝ちです。

5:手本引き(てほんびき)…一人の親(ディーラー)と何人かの子(プレーヤー)が対戦するギャンブルゲームです。親が1~6の数字カードを1枚伏せて出し、それを子が当てるというだけのゲームですが、独特の心理戦になります。

6:盤双六(ばんすごろく)…日本のバックギャモンです。日本には7世紀に伝わり、独特の発達をしました。現在ではバックギャモンにとってかわられた、滅びたゲームです。

7:うんすんかるた…九州の人吉(ひとよし)地方に伝わるカードゲームです。16世紀末にポルトガルから伝わったものが独特の発達をとげたトリックテーキングゲームです。

8:花札…これも7と同じくポルトガルから伝わったカードゲームが、別の発達をとげたもので、日本からさらに韓国、ハワイ、パラオなどに伝わりました。これは現在でも多くのプレーヤーがいます。カシノやスコポーネに似ています。

9:絵取り…18世紀にオランダから伝わったペア戦のトリックテーキングゲームで、現在は島根県の掛合(かけや)だけに伝わります。

10:ゴニンカン…9が、さらに変形したもので、20世紀初めから青森県で盛んにおこなわれています。

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Traditionelle japanische Spiele

Hallo und willkommen in Japan! Wir freuen uns alle wirklich sehr über
Ihren Besuch.

Als Dank dafür, dass Sie den weiten Weg auf sich genommen haben,
möchte ich Ihnen heute ein paar besondere, weniger bekannte Spiele
vorstellen, die traditionell in Japan gespielt wurden. Heutzutage sind
die Spiele leider etwas in Vergessenheit geraten, sodass selbst die
meisten Japaner sie nicht mehr kennen. Da wir heute nicht viel Zeit
haben, beschränken wir unser Testspiel auf das Spiel „Goita“. Die
anderen Spiele stelle ich Ihnen nur kurz vor.

1. Goita: Bei diesem Spiel aus der Mitte des 19. Jhd., dass von
Fischern aus dem Gebiet Ushitsu im Norden der Provinz Ishikawa stammt,
werden Teampaare gebildet, was für japanische Spiele ungewöhnlich ist.
Es geht darum, seine Hand möglichst schnell auszuspielen. Ursprünglich
wurde es mit speziellen Spielsteinen aus Bambus gespielt, doch ich
habe daraus ein Kartenspiel gemacht.

2. Tōsenkyō (Fächerwurf): Lässt sich ein wenig mit Darts vergleichen,
auch wenn es sich grundsätzlich anders spielt. Dieses Spiel wurde in
der zweiten Hälfte des 18. Jhd. in Kyoto erdacht. Dabei wird ein
Fächer auf ein Ziel geworfen und je nachdem, wie er zu liegen kommt,
werden unterschiedlich viele Punkte vergeben. Die Spielgegenstände
bringen die japanische Ästhetik zur Geltung.

3. Hatagenpei: Ein Würfelspiel, dass in der ersten Hälfte des 19. Jhd
in Kanazawa im Süden der Provinz Ishikawa erfunden wurde. Es ist ein
simples Spiel mit hübschen Utensilien.

4. T ō hachiken: Ein aktionsreiches Spiel, das Mitte des 19. Jhd. in
Edo (Alter Name von Tokio) erfunden wurde. Ähnlich wie bei
Stein-Schere-Papier zeigen zwei Personen gleichzeitig eins von drei
Handzeichen: Fuchs (gewinnt gegen Edelmann), Edelmann (gewinnt gegen
Gewehr) oder Gewehr (gewinnt gegen Fuchs). Rhytmisch (zur
musikalischen Begleitung) werden so lange Zeichen gezeigt, bis einer
der Spieler drei Mal hintereinander gewinnt und somit das Spiel für
sich entscheidet.

5. Tehonbiki: Ein Glücksspiel, bei dem ein „Elternteil“ (Dealer) gegen
mehrere „Kinder“ (Spieler) spielt. Der Dealer legt verdeckt eine Karte
von 1 bis 6 aus, die daraufhin von den Spielern erraten werden muss –
sehr einfach, aber mit einer interessanten psychologischen Komponente.

6. Bansugoroku: Japanisches Backgammon, das im 7. Jhd nach Japan
überliefert wurde und sich danach auf besondere Weise entwickelte.
Leider wurde es mittlerweile von Backgammon vollständig verdrängt.

7. Unsunkaruta: Ein Kartenspiel aus der Gegend Hitoyoshi auf der Insel
Kyushu, das sich aus ursprünglich aus Portugal überlieferten Spielen
entwickelt hat. Dabei müssen Stiche gewonnen werden.

8. Hanafuda: Wie Nr. 7 beruht auch dieses Kartenspiel auf einem
portugiesischem Ursprung. Die in Japan entwickelte Variante breitete
sich wiederum nach Korea, Hawai, Palau und in andere Länder aus.
Hanafuda wird heutzutage sehr beliebt. Es ähnelt Casino und Scopone.

9. Edori: Dieses Kartenspiel wurde im 18. Jhd. aus den Niederlanden
überliefert. Dabei müssen Spielerpaare Stiche erziehlen. Heutzutage
ist es nur noch in Kakeya in der Provinz Shimane lebendig.

10. Goninkan: Hat sich wiederum aus Nr. 9 entwickelt und wird seit
Beginn des 20. Jhd. in der Provinz Aomori gerne gespielt.

(Übersetzung:Christian Baumbach)

増川宏一語る「研究の切り口」―その〔3〕(全3部)

増川宏一語る「研究の切り口」―その〔3〕(全3部)
(本文:増川宏一、解説・レビュー:蔵原大、協力:草場純、仲知喜)

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■【解 説】
  蔵原 大

 増川宏一といえば、ゲーム研究にとって「大先輩」にあたる、遊戯史研究の分野でご活躍されてきた高名な研究者です。将棋や賭博(ギャンブル)の盛衰に関する増川先生の史学研究について、ご存知の方も多いでしょう。

■ 遊戯史学会:http://www.gameshistory.net/

 先日、幸運にも増川先生とご縁ができましたので、当AGSの草場純顧問を介して、遊戯史や歴史研究における「研究の切り口はどのように見つけたらよいのか」をお聞きしました。遊戯史(あるいは歴史学やゲーム研究)はどんなポイントから研究してゆく学問なのか、ということをお訊ねしたわけです。

 以下の【本文】は、増川先生のご承認を得て、先生よりいただいたお手紙を転載したものです。長くなりますので、今回は三分割したうちの最後の部分「その〔3〕」を公開しました。

●その1( http://analoggamestudies.com/?p=199 )
●その2( http://analoggamestudies.com/?p=359 )

はすでに公開中です。

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■【本 文―その〔3〕】
  増川宏一

(その〔2〕 からの続きです)

 資料を探すのも大事な研究の一環です。信頼できる第一級の資料に辿りつくことは立派な研究活動です。

 よい資料を入手したら、それをどう読み解くか、自分の力量が試される問題です。大切な箇所に気がつかなかったり、見落とさないように鍛錬しておくことが必要です。これが無いと「猫に小判」で、たぶん私はいつも見過ごしているのではないかと思っています。

 遊戯史研究は、従来の史資料を遊戯史の観点から再検討することです。例えば『中世法例史資料』のなかに大和薬師寺の「薬師寺博奕制禁評定記録」(永禄一一年・一五六八年・三・二)の評定で「博奕徳政」のことが述べられています。この数年前も寺領内の博奕倍増とあるのですが、ついに博奕徳政をせざるをえないようになっています。賭博で負けた借財を全部チャラにする、という意味でしょうが、日本の遊戯史上、このような珍しいことがあったのにこれ迄、どなたも言及されませんでした。それで『(仮題)日本遊戯思想史』で述べることにしました。

 記録類の内容を積語しなければならない一例です。

解説コメント:この「博奕」とは「バクチ」ことギャンブル行為。なお「永禄一一年」とは、「桶狭間の戦い」が永禄三年(一五六〇年)、イギリスの劇作家シェイクスピアの生誕が永禄七年(一五六四年)に相当〕

 以上が先日の御手紙の返事です。御満足いただけなかったように思いますし、参考にならなかったと思います。

 研究の苦労や失敗談は幾つかありますが、これこそ参考にならないので省略しました。

 私は「遊び」を人間の生活のなかで正当に位置づけたいと思い、そのためには不当な評価や蔑視、無視を正そうと常々思っています。

 粗雑な返事になりましたが御容赦ください。

[追伸]
 私は次作『(仮題)日本遊戯思想史』の下書きのため毎日忙しくしております。昨日は長時間図書館で戦前戦中の「少年倶楽部」の少年小説を読み耽りました。とても懐しく、完全にタイムスリップした一日でした。少年に与えた軍国思想も「切り口」のひとつでしたので。

[二伸]
 切り口というのは一定の視点から述べることで、追伸のところは、「少年に与えた軍国主義、軍国思想」は、誰がどのようにして与えたのかを告発したい、という意図からです。あの時、手紙に書いたと思いますが、太平洋戦争が始まってまもなく、ミッドウェー海戦で日本海軍は大敗北で、戦死者三,〇五七名でした。この戦死者のうち、一四歳で海軍に志願した者八名、一五歳で志願した者三九名、一六歳で志願の者一五八名、一七歳で海軍に志願して戦死した者二六一名です。戦争が前途有為の青少年を殺したことに憤りといたましい気持ですが、それとは別に、一四歳、一五歳は親の反対を押し切ってか、親に隠して志願したのでしょう。その子供達は、つい先刻まで米英撃滅カルタで遊び、征け少年よ、という絵双六で遊び、少年倶楽部の軍事冒険小説で米英と闘うことを教え込まれ、海軍に志願して戦死したのです。

ミッドウェー海戦

 私は玩具や少年物語物が戦死へ誘う用具に転化した、本来楽しむべき遊戯具が、たとえ一時的にしろ、限られた社会状況にせよ、本来と異なる役割を果した、と知り、遊戯史研究の視野が開けたように思いました。これも『日本遊戯思想史』に記しましたが、どの立場からモノを見るか、が「切り口」の最も大切なことと思います。

(おわり)

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■【レビュー:増川宏一『将棋の歴史』】
  蔵原 大
将棋の歴史

 なお読者の中には増川先生の業績に不案内な方もおられるかもと思い、ここに先生のご著書のレビューを付け加えました。理解の一助にしてくだされば、幸いです。

 ところで増川宏一先生の名前を世に知らしめているものは、やはり先生の将棋史にかんする研究の成果でしょう。そのまとめにあたるのが、平凡社から出された『将棋の歴史』です。

http://www.amazon.co.jp/dp/4582856705

 よく将棋は、日本の伝統文芸のひとつとして引き合いに出されます。棋士たちの活躍やコメントが週刊誌に載ることだって、そう珍しくありません。にもかかわらず意外にも、将棋に関する歴史は、研究者が少ないせいか、今でも誤解されていたり、よくわからない点が少なくないのです。

 例えば……

 ▼日本の将棋は、中国の由来か、東南アジアから来たのか?
 ▼昔の「大将棋」「中将棋」は、実際にプレイされていたのか?
 ▼江戸時代、将棋指しは幕府から優遇されていた、というのは本当か?
 ▼明治から今まで、将棋とマスコミはどう寄り添ってきたか?

などなど、案外に知られていない諸々の事柄について、増川『将棋の歴史』は丁寧に解説してくれます。

 こうした将棋に関する歴史をひも解いていくと、いわゆる「伝統」「日本文化」が、外国の影響を受けていたり、思いがけない方向にチェンジしたり等、単なる古めかしさとは一線を画することが分かってきます。

 それというのも「伝統」とは、太古からの既定路線ではなく、昔の人・今の人・外国の人・この国の人々が作り出していく合作だからなのでしょう。将棋を通じて、改めて日本のモノづくり文化、クールジャパンを考え直すというのも面白いかもしれませんね。

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■【むりやり関連書籍】

● 山田芳裕『へうげもの』(漫画)
へうげもの
( http://www.moae.jp/comic/hyougemono )

 もともと茶の湯は、将棋と同じく、海外から伝来したポップな食文化の一つでした。茶の道に半生をかけた稀代のオタクこと古田織部のケシカラン生涯を追いかけるクールなマンガ!
 カッコイイって、こういうヤツだね。

● 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
自由にしてケシカラン人々の世紀
( http://book.akahoshitakuya.com/b/4062584670 )

 中世の将棋は、もともと公家・僧侶といったセレブ限定の遊びだったと考えられています。コマを漢字で見分ける将棋、あるいは短歌のような文字遊びは、読み書きができない庶民には閉ざされていました。

 それが戦乱の南北朝時代になると、社会の表舞台に「悪党」「異類異形」なるパンクなベンチャー人が出没し、「江湖」という開かれた実力主義が駆けぬけ、公序良俗をかき乱しつつ、将棋を始めとする諸々の文化を庶民へと解放していくのです。

 『自由にしてケシカラン人々の世紀』は、アニメ『もののけ姫』、後醍醐天皇や楠木正成に象徴される「異類異形」「異形の王権」の生きざまをヴィヴィッドに描きつつ、世の中の混乱から生まれる歴史のイフこと「可能態」を足がかりにアキハバラの今、現代世界の変革まで見すえた野心作です!

増川宏一語る「研究の切り口」―その〔2〕(全3部)

増川宏一語る「研究の切り口」―その〔2〕(全3部)
(本文:増川宏一、解説・レビュー:蔵原大、協力:草場純、仲知喜)

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■【解 説】
  蔵原 大

 増川宏一といえば、ゲーム研究にとって「大先輩」にあたる、遊戯史研究の分野でご活躍されてきた高名な研究者です。将棋や賭博(ギャンブル)の盛衰に関する増川先生の史学研究について、ご存知の方も多いでしょう。

■ 遊戯史学会:http://www.gameshistory.net/

 先日、幸運にも増川先生とご縁ができましたので、当AGSの草場純顧問を介して、遊戯史や歴史研究における「研究の切り口はどのように見つけたらよいのか」をお聞きしました。遊戯史(あるいは歴史学やゲーム研究)はどんなポイントから研究してゆく学問なのか、ということをお訊ねしたわけです。

 以下の【本文】は、増川先生のご承認を得て、先生よりいただいたお手紙を転載したものです。長くなりますので、今回は三分割したうちの「その〔2〕」を公開しました。
●「その〔1〕」はすでに公開済み。
「その〔3〕」も公開です。

(Note: Some of the game images below are quoted from the British Museum for scholary & non-commercial purpose according to the Standard Terms of Use: (http://www.britishmuseum.org/about_this_site/terms_of_use.aspx). Their copyright is preserved by the Museum.)

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■【本 文―その〔2〕】
  増川宏一

その〔1〕からの続きです)

 明治以来、遊びは学術研究の対象になりませんでした。そのため研究の蓄積も充分ではありません。皆様がゲームという大きなテーマに果敢に取り組んでいられることに私は敬意を表します。よくぞ頑張っていられると尊敬もし、感嘆し、激励したいと常に思っています。

 私の考えを詳しく述べる紙数もありませんので、気付いていることを簡略に述べると、盤上遊戯の歴史に興味をもっているのは、少なくとも五〇〇〇年という長い歴史をもち、現在に至るまで起伏も多く、分岐して様々な方向に向かい、或いは独創や隆盛、衰退や消滅があるのは、まさに人間の歴史と共通していること。ですから「ゲームに反映されている人間の歴史」とでもいえることを追及したいこと。すなわち巨視的な観点からが一つ。

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 画像は、大英博物館の所蔵品「ウルの宮中ゲーム」。イラク南部の古代都市遺跡ウルで発見され、紀元前2600~2400年頃のもの。

The image is quoted for scholary purpose from “British Museum – The Royal Game of Ur” ( http://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/me/t/the_royal_game_of_ur.aspx ). The copyright is preserved by the British Museum.

 古代シュメール文明に属するウルの町並みをごらんになりたい方は、大成建設の「古代文明都市ヴァーチャルトリップ」へ→( http://www.taisei.co.jp/kodaitoshi/civil/civilization.html )。

 次は、ゲームが変化するのは、遊び手である人間がゲームを変えていることで、変える人間はその時代の風潮、考え、感覚、流行、嗜好、信条など、その時代の環境に影響されていると考えています。その時代に生きている人々の感覚が投影されてゲーム(又はルール)が変えられる、と思っています。

 この両者のなかにも「切り口」は見つけられると考えています。例えば、江戸の黄表紙本に現われている滑稽や諧謔、才覚や人情は、そのまま歌舞伎にも反映していますが、かるたや絵双六にも表われています。ですから江戸の雰囲気というのも一つの「切り口」でしょうし、多色刷の錦絵と同等な絵双六は、遊戯具に示されている芸術性という視点からも採り上げることができます。

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〈「江戸名所双六」(国立国会図書館所蔵、転載許可取得済み)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1310733〉

 今、私が下書きをしている次の本の或る一章は「戦争と遊戯」をひとつの「切り口」に考えています。これには、戦争による遊びのかげり(細かいことで申し訳ないのですが、日中戦争が始まると神戸市内の麻雀荘が激減したこと等)から始まって、勇ましい紙芝居など、これも或る時代を「切り口」にしたといえるでしょう。

 このような様々な「切り口」があることに気づかれたら、自分の最も得意とする分野で「切り口」を見つけるようにしたら、案外、容易に発見できるかもしれません。あまり自信の無い分野は避けたほうがよいでしょう。但し、全体からの関連でどうしてもここで、これをテーマにするべきだ、または必要か、しなければならない、となったら話は別です。資料を探し、いやでも取り組むと自分の勉強になります。

 資料を探すのも大事な研究の一環です。信頼できる第一級の資料に辿りつくことは立派な研究活動です。

(その〔3〕に続きます)

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■【レビュー:増川宏一『盤上遊戯の世界史』】  蔵原 大
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 なお読者の中には増川先生の業績に不案内な方もおられるかもと思い、前回同様、ここに先生のご著書のレビューを付け加えました。理解の一助にしてくだされば、幸いです。

 シルクロード、という言葉の説明はとくにいらないでしょう。古代から現代に至るまで、世界中をさまざまな文物が往来しています。もちろんシルク(絹)だけではありません。今ならインターネットで無料ゲームが配信されますが、昔のゲームはヒトの手に抱えられて、山を越え、砂漠を越えて、海の彼方からやって来たのです。囲碁・将棋しかり、トランプしかり。

 この『盤上遊戯の世界史』は、シルクロードをはじめとする交易の道を通じて広まったゲームが、その変遷や伝わったルートと共に紹介されています。それも将棋(象棋・チェス)やトランプといった、お馴染みのコンテンツにとどまりません。「ポロ」(馬に乗ってボールを打ちあう遊び)や「マンカラ」(アフリカ・東南アジアなどでの伝統ゲーム)、さらには古代オリエント史の中に消えてしまった謎のゲームまで網羅されているのです。

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 画像(シエラネオネ製)は、大英博物館の所蔵品であるマンカラ・ゲームの基盤。マンカラは、アフリカや東南アジアに見られる盤上ゲームです。

The image is quoted for scholary purpose from “British Museum – Mancala (wari) board” ( http://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/aoa/m/mancala_wari_board.aspx ). The copyright is preserved by the British Museum.

 『盤上遊戯の世界史』は、どんな時代であれ、人類が遊びにそそぐ情熱とエネルギー、その大きさを感じさせてくれる名著だといえるでしょう。とくに日本ゲームの海外進出を考えておられるプロの皆さんにとっては。

 さて『盤上遊戯の世界史』の構成はつぎの通りです。

 ○ はじめに
 ○ 第一章 オアシスの路
 ○ 第二章 草原の路
 ○ 第三章 海のシルクロード
 ○ 第四章 日本への伝来
 ○ おわりに―新たな問題提起

 この本では、ゲーム研究の意義が、人類史そのものへの問いかけに重ね合わせて述べられています。皆さんへのご参考に、以下一部引用しました。

 「本書は人間が創り上げた文化の重要な側面を示す遊びについて考察するものである。盤上遊戯を主題としたのは、一万年近い歴史があり、進化ともいえる起伏に富んだ過程をみることができるからである。人々によって遠くまで伝えられた跡を知ることも可能だからである。何よりも人間の意志や意欲が反映されているからである。

  遊びは長い年月の間に枝分かれして、多種多様になった。新しく考案されたものや、しばらくして消えたものもある。遊び継がれてきたものには、楽しみを追い求める人間の姿があり、幾世代、幾十世代にわたって、あるいはもっと長い年月にわたって遊ぶ歓びを伝えてきたからである。これらの遊びから人間の営みの跡を辿ることにする。つまり遊びの歴史を調べることは人間の歴史を解明することにつながる。本書は、このような視点から遊びをとりあげていくものである。」(『盤上遊戯の世界史』pp.15-16)

 遊びやゲームって、ほんと奥深いですね。

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 画像は、大英博物館の所蔵品である古代エジプトのゲーム「セネト」です。セネトは今から1000年以上前に「滅んでしまった」ゲームでして、本来のルールや遊び方は謎につつまれています。

 セネトについては、当AGS顧問の草場純の解説をごらんください。

The image is quoted for scholary purpose from “British Museum – Senet game” ( http://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/aes/s/senet_game.aspx ). The copyright is preserved by the British Museum.

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■【ムリヤリ関連書籍】

● ヒカルの碁(アニメ・漫画)
 http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/hikaru/
 http://www.amazon.co.jp/dp/4088727177

● 藤本徹『シリアスゲーム―教育・社会に役立つデジタルゲーム』
 http://www.amazon.co.jp/dp/4501542705

 先ほどの増川先生曰く「遊び手である人間がゲームを変えている」の最たるものは、ゲームが遊び以外の領域で成果をあげていることかもしれません。現代の医療や大学教育などの、その現代の現場におけるゲームの社会的効用を追跡した書籍です。

 日経ラジオ「マネー女子会」のシリアスゲーム解説(by 藤本徹)は、コチラでお聴きできます→ http://www.radionikkei.jp/podcasting/themoney/2013/12/player-post-121.html
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● 石井米雄・吉川利治『日・タイ交流600年史』
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 日本の将棋は、はるばる東南アジアから伝来したと言われています。またPCに欠かせないHDD(ハードディスク)、その世界的需要の大半を担っている国は東南アジアのタイだとか。この『日・タイ交流600年史』は平安の頃から江戸、明治そして現代にも続く日本とタイとの交流について、東南アジア史の大家であった石井先生、吉川先生がまとめられた一作です。

 東南アジアの人々って、日本人とはどんな係わりを持ってきたのか? 意外に多い日本との接点をお知りになりたい方には特にお勧めです。

増川宏一語る「研究の切り口」―その〔1〕(全3部)

Analog Game Studies(アナログ・ゲーム・スタディーズ、略称AGS)は、2010年10月の結成以来、ウェブマガジン・各種イベントの運営、ゲームや関連分野における研究・実践・出版活動などを行なって参りましたが、このたび独自ドメインを取得、新たな発信基地として本サイトを設定、心機一転してさらなる飛躍を目指すことになりました。旧サイト(http://analoggamestudies.seesaa.net/)から、随時コンテンツを移行しながらの情報発信となりますが、今後ともAGSへのご理解・ご協力のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。リニューアル第1弾として、遊戯史研究の大家である増川宏一さまの寄稿をお愉しみ下さい。(Analog Game Studies代表・岡和田晃)

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増川宏一語る「研究の切り口」―その〔1〕(全3部)

(本文:増川宏一、解説・レビュー:蔵原大、協力:草場純、仲知喜)

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■【解 説】
  蔵原 大

増川宏一といえば、ゲーム研究にとって「大先輩」にあたる、遊戯史研究の分野でご活躍されてきた高名な研究者です。将棋や賭博(ギャンブル)の盛衰に関する増川先生の史学研究について、ご存知の方も多いでしょう。

■ 遊戯史学会:http://www.gameshistory.net/

先日、幸運にも増川先生とご縁ができましたので、当AGSの草場純顧問を介して、遊戯史や歴史研究における「研究の切り口はどのように見つけたらよいのか」をお聞きしました。遊戯史(あるいは歴史学やゲーム研究)はどんなポイントから研究してゆく学問なのか、ということをお訊ねしたわけです。

以下の【本文】は、増川先生のご承認を得て、先生よりいただいたお手紙を転載したものです。長くなりますので、今回は三分割したうちの「その〔1〕」を公開しました。
●「その〔2〕」
●「その〔3〕」も公開です。
※記事中の「国立国会図書館所蔵」資料は、他文献・サイトなどへの転載をご遠慮ください※

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■【本 文―その〔1〕】
  増川宏一

前略

「研究の切り口はどのように見つけたらよいのか」というお訊ねについて、私は以下のように考えています。

いわゆる「切り口」は人によって異りますので、十人十色と云ってもよいでしょう。私の場合を具体的に示しますと、『賭博の日本史』(平凡社選書・一九八九)の時には、「第三章 教養としての賭博――中世の賭博」、「第四章 社交としての賭博――近世の賭博(一)」、という章建てにしました。「切り口」と云えるかもしれません。

第三章は、かなりな量の公家の日記(活字本として出版されています)を読んだところ、聞香、闘茶、連歌、詩歌や和歌の合せもの等が遊びとして非常に多く記されていました。天皇や皇族も含む公家達は、ほぼ同じ様な環境で育ち、教育をうけていますので、嗅覚を競う遊び、味覚を比べる遊び、文学的知識や才能を競う遊びが成り立っていました。つまり私は、「どの公家にも共通している行為」を一つの考察の対象にして、いわば「切り口」として「教養」という観点から採り上げてみたのです。

第四章は、主として「黄表紙本」(或いは単純に「黄表紙」)と刑法の判例集を述べた『御仕置類例集』を参考にしました。判例集もかなりな量で、他の犯罪に分類されているなかにも「遊び」があります。

〈黄表紙本『美男狸金箔』(十返舎一九 作・画、国立国会図書館所蔵、転載許可取得済み)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532473〉

共通しているのは、町人が交際する場合に遊んでいることです。社交を「切り口」にしました。三章四章の「切り口」は、無論、担当の編集者と懇談の際に話をして、大いに賛成してもらったものです。

他の場合も、絵双六の歴史を調べている時に、双六の製作過程から絵双六を観た場合、双六を奢侈禁止という視点から見た場合、など、一つのテーマであっても様々な角度から見ることができます。そのなかの或る角度が「切り口」になるのでしょう。
人によって異なるのは、前述の公家の日記を読んだ歴史家のなかには「悪党の世紀」という観点から考えた人もあり、公家の荘園からの収益と低下、という観点から考えた人もあります。近年では「公家の病気」という観点から考察した人もいます。すなわち、その人の関心やテーマによって異なります。

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〈タイトル (title):〔源氏双六〕、収載資料名 (publicationName):〔双六〕(国立国会図書館所蔵、転載許可取得済み)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1304980〉(引用者注:あるいは「源氏絵合わせかるた」「呼び出しかるた」か)

同じゲームを採りあげるにしても、様々な視点から考えられます。ゲームを実践やルールから考察された方には優れた人達が沢山いらっしゃることは私もよく承知しております。

明治以来、遊びは学術研究の対象になりませんでした。そのため研究の蓄積も充分ではありません。皆様がゲームという大きなテーマに果敢に取り組んでいられることに私は敬意を表します。よくぞ頑張っていられると尊敬もし、感嘆し、激励したいと常に思っています。

 

〈滑稽本『東海道中膝栗毛』(十返舎一九 作・画、国立国会図書館所蔵、転載許可取得済み)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558997〉

(その〔2〕に続きます)

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■【レビュー:増川宏一『日本遊戯史―古代から現代までの遊びと社会』
  蔵原 大

なお読者の中には増川先生の業績に不案内な方もおられるかもと思い、ここに先生のご著書のレビューを付け加えました。理解の一助にしてくだされば、幸いです。

http://www.amazon.co.jp/dp/4582468144

もちろん遊びは楽しいものですし、そうであって全く問題ありません。けれど同時に、遊びの明るい側面とは対照的な「影の部分」が存在するのも また事実です。遊びの「影の部分」を紐解くことは、今のゲームに関わる方々にとって決して無益ではないでしょう。なにしろ江戸時代の武士や町人が「将棋」「富くじ」「さいころ賭博」に熱中した姿と、現代の私たちが競馬、パチンコ、携帯ゲームにハマってしまう姿とは、けっこう似通っているように思えるからです。

そうした遊びの日本史、つまり本文で挙げられていた『賭博の日本史』のいわばダイジェスト版が、2012年に出た『日本遊戯史』です。ここでその見どころ、あるいは遊びの「影の部分」の一部をご紹介しましょう。

内容は、古代から現代まで、日本の人々がつくりあげ親しんできた遊びの姿とその盛衰を描いたものです。といって囲碁・将棋のようなポピュラー物にとどまりません。相撲などのスポーツ、和歌・俳句・百人一首といった文学的遊びもさりながら、本書独自の「切り口」は「ギャンブル」。先にあげたゲームが賭け事と深く結びついていた事実、それぞれの時代の人々がゲームを使ったバクチに熱中してきた姿について詳しく検証されています。ゲームの普及や普遍性、将来どんなゲームが生き残るのか、といった問いへの好材料となるでしょう。

なお『日本遊戯史』の構成はつぎの通りです。

○ はじめに
○ 第一章 遊びの伝来と定着
○ 第二章 中世の遊び
○ 第三章 華麗な遊びの世界
○ 第四章 遊びの近代と現代
○ 終章 遊戯史研究
○ おわりに
○ あとがき

今の遊びの場では、ゲームの「課金」問題、ちょっと前の「コンプガチャ」騒動のように、お金に関するシリアスな課題が浮上中です。野球や相撲などのスポーツ賭博についても、再三報道されてきました。ですが、そもそも遊びと「課金」またはギャンブル性とは、元から表裏一体なのです。『日本遊戯史』では、将棋や相撲以外にも「双六」(すごろく)や「かるた」(カードゲーム)の古い姿を通じて、ギャンブルの起源が取り上げられています。ゲームとギャンブルとの結びつきは、テクノロジーの違いこそあれ、今も昔も共通すると言えそうです。

さらに付け足すと『日本遊戯史』では、時の権力が発するギャンブル(遊び)禁止令に逆らって庶民が、そして武士や貴族、なんと皇族でさえ平然と、もちろん金品を賭けて遊んできた赤裸々な姿にも目配りが行き届いていました(一例として天皇家の遊びについては本書pp.127-128,135-138)。かつ書中で紹介されるエピソード、たとえば「第三章 華麗な遊びの世界」の中には、これまた現代のゲーム(とくに同人系)を連想させる点が多々あります。

たとえば「すごろく」は、江戸時代いくども「奢侈」「風俗よろしからず」等の理由で取り締まりの対象となりました。けれどその都度バリエーションを変えて生き残る、この生命力はまさにサブカルチャーのお手本です(本書pp.168-178で詳解)。やがてその力は、明治以後には文明開化の、そしてついには軍国主義のプロパガンダさえ担ってしまいます。極論すれば「人生ゲーム」や「リアル脱出ゲーム」( http://realdgame.jp/ )だって、今なお生きる「すごろく」の一種ではないでしょうか。

〈「江戸名所双六」(国立国会図書館所蔵、転載許可取得済み)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1310733〉

こうして見ていくと、中国のことわざの「上に政策あれば、下に対策あり」という言い分は、日本ゲームの領域でもまた時代を越える普遍的事実なのかもしれません。遊びに関わってきた人々の底力、その広がり・奥深さを単にながめるだけでも、面白く元気づけられるように感じます。きっとそれは、遊びという行為を人が追い求める、その根源にある人間性につながっているのでしょう。

最後になりますが『日本遊戯史』のユニークな点の一つは、「終章 遊戯史研究」とありますように、遊びの「研究の蓄積」つまり遊びに関する史学研究の流れが、著者ご自身の実体験を踏まえて語られていることです。遊びの研究が権力によって大きな影響を被ってきた事情、学術の「影の部分」と社会とのむずかしい関係について指摘されています。

結論としては、今のゲームの研究・ビジネスにおいて独自の「切り口」を模索されている方々への非常な刺激剤となりえるのが、本書『日本遊戯史』です。「本来の人間が持っている積極性、活動性を表わすものとしての遊びの真実を伝えたい」(本書p.4)とするその内容が、皆さんのご参考になれば幸いです。

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さまざまな遊びは消長を繰り返しながら遊び継がれていく。総体にせよ個々の遊びにせよ、遊びがどのような方向に向かうのか、遊びの近い将来を決定するのは人間である。人が遊びを創り伝えている。これが遊びの歴史であろう。

―増川宏一『日本遊戯史』p.295―

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■【ムリヤリ関連書籍】

● 柴田ヨクサル『ハチワンダイバー』(漫画)
http://www.amazon.co.jp/dp/4088771850
● つのだじろう『5五の龍』(漫画)
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4120017907?vs=1

● R・カトナー、S・K・オルソン『ゲームと犯罪と子どもたち―ハーバード大学医学部の大規模調査より』
( http://www.amazon.co.jp/dp/4844327089 )
ゲームと犯罪と子どもたち

・ゲームはいわゆる「ゲーム脳」をつくりだすのか? ゲームは子どもに悪影響を及ぼし犯罪を助長するのか? ハーバード大の研究チームが、児童を対象とする社会調査の成果を切り口に、ゲームやニュー・メディアをめぐる噂や政治的言説の真偽を検証した研究書です。

● 牧原憲夫『全集 日本の歴史 第13巻 文明国を目指して』
( http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_9784096221136 )

・幕末から明治へ、幕藩体制から天皇制へと変わる日本で、庶民の暮らしはいったい何がどう変わったのか? 福沢諭吉の「人の上に人をつくらず」ってホントはどんな意味? 「開国」「文明開化」がもたらした自由競争という名の差別・侵略を切り口に、近代化による格差社会の形成を明らかにした研究書です。
今日のTPP問題につながる通商・物流の影響を多く取り上げ、コラム「博打と博徒」(p.290)では増川先生の研究にも触れています。

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ドイツ・アナログゲームの歴史楽――ボードゲーム『イライラしないで』Mensch ärgere Dich nicht(メンシュ・エァゲレ・ディッヒ・ニヒト)

 『ニセドイツ1≒東ドイツ製工業品』『ニセドイツ2≒東ドイツ製生活用品』(共に社会評論社)という一風変わったタイトルの本をご存知でしょうか?
 自動車、雑誌、ボードゲーム(!)などなど……。いまだ日本では広く知られていない、旧東ドイツの文化風物を豊富なユーモアと写真でわかりやすく紹介する書物で、その独特のアプローチから各紙誌で高い評価を受けました。
 とりわけ、「なんだかよくわからないけれども恐ろしそう」というイメージだけで済ませられてしまいがちな旧東ドイツでどのような生活が営まれていたのかが具体的によくわかり、批評性も豊かな素晴らしい本です。
 その『ニセドイツ』の著者の伸井太一さまが、とかくいかめしい印象を受けがちな歴史学を、奥深さはそのままに、知的な楽しさを掻き立てる「歴史楽」と見てもらえるようにと、ボードゲームを題材にコラムを寄せて下さいました。
 どうぞお愉しみください。(岡和田晃)

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ドイツ・アナログゲームの歴史楽――ボードゲーム『イライラしないで』Mensch ärgere Dich nicht(メンシュ・エァゲレ・ディッヒ・ニヒト)

 伸井太一

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 ボードゲーム『イライラしないで』Mensch ärgere Dich nicht(メンシュ・エァゲレ・ディッヒ・ニヒト) 1910年頃に製作
記念切手
(2010年に発売された記念切手 de.Wikipediaより)

 『Mensch ärgere Dich nicht(イライラしないで)』を知らないドイツ人はいないと言ってもよいくらいの超有名なボードゲーム。その題する通り、このゲームをプレイして「イライラ」した経験が心の傷となって記憶に残っているドイツ人は多いのではないだろうか。本ボードゲームが世に出た1914年から現在に至るまでの売上数は、7000万箱だと言われている(*1)。
 本稿ではこの『イライラしないで』について、「歴史学/楽」を絡めて解説してみたい。では、まずはルールを説明しておこう。
イライラ1
イライラ2
イライラ3
(『イライラしないで』のゲーム盤: wikiより)

■『イライラしないで』のルール

・プレイヤー人数:2~4人(6人用の盤もアリ)
・プレイ時間:約30分~1時間
・基本ルール:各プレイヤーは、サイコロを振って持ち駒4つ全てを自分の目的地(お家)のマスに誰よりも早く入れることを目指す。ここで圧倒的に重要なサイの目は「6」だ。6を出さないと自コマの待機地点から周回フィールドに自コマを出すこともできない。また、6を出せばもう一度サイコロを振るチャンスが訪れるので、一気に逆転するときも、逆転されるときも6が大きな役割を果たす。
 周回フィールド上に自コマがひとつでも存在し、1~5の目が出れば、それを目的地へ向けて進めることができる。6が出た場合は、もちろん周回フィールド上の自コマを6マス進めてもよいし、待機地点から自コマを周回フィールドに出してもよい。そして6が出たということは、さらにもう一度サイコロを降ることができる。
 また、周回中に相手の駒と同マスに止まった場合は、その相手駒を待機地点に追い戻すことが出来る。逆の場合は、自コマが追い返される。

 以上が基本ルールだが、なにせ100年もの間、ドイツで愛好されているボードゲームなので、無数の家族内ルールをはじめとして地方ルール、そして変形ルールのバリエーションが存在している。その中でも一番の変りダネのルールが、「共産主義的イライラしないで」である。『イライラしないで』は先に説明した通り、本来は4色のコマを使用するのだが、「共産主義」ルールでは一色である(赤が最適とされている)。まず、誰かが6を出して周回フィールドにコマを出すと、全員が「平等に」自コマを周回フィールドに出す。ここから、共産主義が理想とする平等社会における矛盾の再現が始まるのである。つまり、盤上に出ている赤いコマ4つのどれかひとつを自由に動かすことができ、それを自分のゴール地点に入れることを目指す。最初の標的は、もちろん最短ルートにある右隣のプレイヤーが出したコマとなり、これを自分のゴール地点に入れてしまうのが手っ取り早いだろう。しかし、他のプレイヤーが、自分のゴール地点を追い越させてしまう可能性もある。ここが、共産主義下であっても「ゴールは目指さなければならない(利益は得ないといけない)」状態における、「駆け引きや足の引っ張り合い(旧共産圏の権力争いに見られた権謀術数)」を再現している。これは、既に「イライラ」のレベルを超え、共産主義社会における人間性の露出といっても良い状態に陥り、お互いの人間関係にしこりが残ること必至のルールなのだ。

■『イライラしないで』の「イライラ」ポイント

 本ゲームはふたつの大きな「イライラ」から成り立っている。まずは、「6」が出るまで周回フィールドに出られないイライラ。そして、相手コマに乗っかられてしまい、自コマを周回フィールドから待機地点に戻さねばならないイライラだ。ちなみにドイツ語のMensch(メンシュ)は「人間」という意味だが、この場合は「おい、君」などの呼びかけと取るのが独和辞典的には正しいのだろう。しかし、現代の語用でMensch!で「チキショー!」のような意味で用いられているので(ベルリンだけかも……)、今となってはこの怒りや悔しさを表すMenschの方が近い気がする。
 しかし同時に、快感も用意されている。「6」が連続で出た場合だ。このときは高らかに叫ぼうではないか、「ずっと俺のターン!(By遊☆戯☆王)」と!そして、相手コマの後ろに付きロックオンしたときの快感。しかし、相手コマを越えてしまうと今度は逆にロックオンされてしまうのだが……。

 なお、『イライラしないで』(の類似ゲーム)は、日本の「ドンジャラ」のキャラ商戦のごとく、キャラクター商品化されている。例えば、プーさんやガーフィールド、そしてキティちゃんなどである。ただし、愛くるしいキティちゃんであっても、のんびりしているプーさんであっても、イライラするものはイライラすると思うのだが……。

■『イライラしないで』の歴史

 次に『イライラしないで』の歴史的背景や本ゲームから見える歴史について考えてみたい。ニュルンベルク市のおもちゃ博物館では、『イライラしないで』の特別展(2004年7月~2005年2月)が開催されていたので、まずはその広報用の資料を元に、『イライラしないで』の歴史の概略をまとめてみたい。その後、このゲームが生まれた20世紀初頭のドイツについて触れながら、『イライラしないで』を解題していく。どうか、イライラしないで読んでいただきたい。

 本ゲームが生まれたのは1910年頃とされており、前掲の切手も開発100周年として2010年に販売されている。ただし、実際に商品化されたのは1914年のことである。発明者は、ミュンヘン市の労働者街に住むサラリーマンのヨゼフ=フリードリヒ・シュミット。彼は子供たちと19世紀に発明されたボードゲームで遊んでいたが、戦術的・戦略的な要素が強く、ゲームの勝敗にどうしても「経験の差」や「年齢の差」が出てしまうことを問題視していた。そこで、シュミット氏は老若男女すべてが楽しくプレイできるように、サイコロを用い運の要素を高めながらルールをより簡略化させた結果、『イライラしないで』が生まれたのである。

 本ゲームが発売開始された1914年といえば、第一次世界大戦が開始された年である。発売当時にはそれほど有名ではなくヒットしなかったが、シュミットは戦争中の兵士への現物寄付として、3000箱の『イライラしないで』を贈った。その後、兵士内でルールが簡明なこのゲームはよく知られるようになり、戦争が終わった翌々年の1920年には、なんと100万個を売り上げていた。人間の「イライラ」の最大の集合体ともいえる戦争が『イライラしないで』を一躍有名にさせたのである。

 19世紀末のドイツでは、ボードゲームが兵士の戦略学習のために用いられており、より戦術的に複雑化する途を辿っていた。それと正反対の流れで、大衆受けするような簡単なルールの『イライラしないで』が、戦争によって流行するのは歴史の皮肉だろうか。いや、この『イライラしないで』の流行は皮肉と言うよりかは必然だったといえよう。つまり、20世紀には労働者といった「非ブルジョワ階級」も盤上遊戯に愉しむ時代が到来していたということなのだ。労働者街在住のサラリーマンが発明した本ボードゲームは、20世紀初頭のドイツ社会の発展と大衆化の好例を示しているのである。

■シュミット社とドイツ・アナログゲーム

 『イライラしないで』の快進撃によって、シュミット社は一躍、アナログゲームの開発・販売の大手となった。『イライラしないで』は、まさにこのシュミット社の草創期に貢献した記念碑的なゲームだ。その後、シュミット社は各種パズルをはじめ、1984年に会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)『The Dark Eye(独語オリジナル名はDas Schwarze Auge)』を世に送り出すなど、ドイツのアナログゲーム界に大きく貢献していく。1997年には家庭用TVゲームの普及などで経営不振に陥り、他社に買い取られてしまったが、今もなお「シュミット」の名前は会社名として残されており、現在はカードゲームやボードゲームを一手に販売している。たとえば、ドイツ・ボードゲーム大賞の受賞作品の『カルカソンヌ』や『ドミニオン』の販売も手がけている(両作共に制作はハンス・イム・グリュック出版)。

 シュミットの歴史は、ドイツ・アナログゲームの歴史そのものであり、『イライラしないで』のヒットがなければ、ドイツが現在のようなボードゲーム大国になることもなかったもしれない。

■最後に:サイの目の〈差異〉

 最後に、さらに本ゲームの「イライラ」のポイントを、仮説めいたとある着想から今一度掘り下げてみたい。では、再度、『イライラしないで』で使用する盤をご覧頂きたい。
イライラ4
 それぞれが一周を回る距離(コマ数)は同じだが、スタート地点とゴール地点がずれている。が、スタート地点とゴール地点がずれている。この点が、より効果的にイライラに影響を与えているのではないだろうか。たとえば、黄色の自コマが一周を完全に回りかけており、長い道のりの終わりに差し掛かっているときに、他コマに乗っかられてコマがスタート前の地点に戻ったとする。当然、これはコマを戻す方とすれば非常に残念な気持ちになる。しかし、乗っかった方が周回スタートの直後(例えば緑のコマ)だったとすると、乗っかられた方の「長い道のり」と「残念さ」を、彼/彼女は真に理解することはできないので、黄色プレイヤーの残念感と緑色プレイヤーの罪悪感との間に差異が生まれるのだ。これによって、相手をイライラさせる/自分がイライラする効果が増大されているのではないだろうか。

 この観点から、再度、歴史と関連付けて『イライラしないで』を解題したい。本ゲームの登場は、産業革命後の発展などによって社会の流動性が高まった時代を背景にしている。たとえば、1910年頃といえば女性参政権運動が全世界的に盛り上がった時期でもある。『イライラしないで』は、社会の成員の多くが同じルールの上(盤上)で共存・競争しつつある時代の非対称性の不条理を見事に表した「感情のゲーム」であったのかもしれない。

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【脚注】

(*1)100 Jahre 100 Objekte, S.30.

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伸井太一(のびい・たいち)
 1977年生まれ。ヒストリーコミュニケーター/ライター(ドイツ近現代史、サブカルチャー等)。ドイツ・ベルリン在住。
 会話型RPGにハマっていた小学生~中学生の頃から、歴史学研究者を志す。現在、歴史の「学」と「楽」を架橋する試みを展開中。
 著書に『ニセドイツ1≒東ドイツ製工業品』『ニセドイツ2≒東ドイツ製生活用品』(共に社会評論社)がある。
 また、同人誌『FLOWORDS』(http://d.hatena.ne.jp/FLOWORDS/)では、アニメ論やドイツの日本アニメ受容に関する文章を発表。
 Twitter: nob_de


『マーダーゲーム』デザイナーズ・ノート

 『マーダーゲーム』という本格ミステリ小説(講談社ノベルズ、2009年)をご存知でしょうか?

 これはカードゲーム『汝は人狼なりや?』をモデルにしたゲームを基体とした本格ミステリ小説です。
ゲームを作品内に取り込む際の手つきのこの上ない繊細さ、そしてゲームのルールシステムと小学校という舞台の因果律をみごとに融合させている点がとりわけ素晴らしく、Analog Game Studiesの読者の方々には、気に入っていただけることまちがいなしの作品です。
その『マーダーゲーム』をお書きになったミステリ作家の千澤のり子さまが、『マーダーゲーム』デザイナーズ・ノートとして、『マーダーゲーム』が生まれるまでの話を寄稿して下さいました。
 本格ミステリ要素、小説、そしてゲームの三者は、いったいどのような交わりを見せるのでしょうか?(岡和田晃)


 『マーダーゲーム』デザイナーズ・ノート

 千澤のり子


マーダーゲーム (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)

「小説」の楽しみ方は人それぞれだが、「本格ミステリ」作品には、何かを「当てる」というゲーム的趣向が含まれている。一問即答のクイズ的な要素ではない。謎があり、謎を解く手がかりがあり、手がかりを探りながら正解に向かって推理をしていくというプロセスのことを指す。ユーザーは、奇怪な謎を解くために、伏線という名前のアイテムを集めながら、正解への道筋を組み立て、最終的に犯人役であるラスボスにたどり着く。「本格ミステリ」は、強度な武器や防具をそろえなくても、主人公が自力で結末までたどり着くことのできるRPGと捉えることもできるだろう。

 しかし、「本格ミステリ」+「小説」の場合は、「本格ミステリ」固有のゲーム性を強めていくと、何故か問題が生じてきた。いわゆる「人間が描けていない」という批判のことである。例えば、嵐の山荘で殺人事件が起きたら、パニック状態になったり警察を呼んだり、自分の身を守ろうとしたり、と必死になるのに、犯人は誰かと推理していくのはおかしいという意見がある。あるいは、普通の高校生がこんなに行く先々で殺人事件に遭遇するのはありえないという場合もある。それに対し、謎に対し推理をして解くことに主題を置いているのだから、人物は謎のために用意されたコマでもかまわないのではないか? と私は疑問に思っていた。けれど時を重ねるにつれ、「小説」には「小説」なりの見えないルールがあるのだろうと結論をつけている。「本格ミステリ」には「本格ミステリ」にしかないルールがあるのと同じように。

「小説」の意味は、辞書によると「作者の構想のもとに、作中の人物・事件などを通して、現代の、または理想の人間や社会の姿などを、興味ある虚構の物語として散文体で表現した作品(大辞泉)」と記されている。この定義に沿うと、「本格ミステリ」+「小説」とは、謎を解くことによって人間や社会の姿までもを表現した「小説」ということなのだろう。現実的に不可能な犯罪を、現実に起こりうることとして落としていく。主眼はそこにあるのだろうが、読み手も一緒にわくわくしたりはらはらしたりできるようなゲームとしての楽しみとは、遠いもののように感じられる。

 ならば、ゲーム的要素と「小説」的要素を融合させた作品は描けないだろうかと、いつしか私は試みるようになっていた。もちろん、作中内で、トランプ、チェス、マージャンなど、ゲームの登場する作品は過去にも存在している。あるいは、謎を解くことによって人物の本質を深く浮かび上がらせる作品もある。けれど、もっと、作中人物と読者の気持ちが一緒になれるようなゲームを用いることはできるだろうか、と私は探すようになっていた。「小説」でしか描けなく、かつゲームプレイヤーの楽しみを兼ね備えた作品。自分が過去に読んだ作品とは、なるべくかぶらないようにしようと記憶を呼び覚ましたが、浮かんでくるアイデアはどれも、過去の作品の模倣になってしまうような気がした。結局、実際にゲームをしている人たちの心理を描き、さらに読者も登場人物たちと同じようにゲームを味わえるような形を作ろうと構想を練っていった。この実験思考から、『マーダーゲーム』という一本の長編小説は生まれたのである。

 最初に考えたのは、プレイヤーの設定だった。大人がランダムに集められ、ゲームをする機会は、実際にはあまりなくて非現実的になってしまう。「こんなの状況ありえない」という反論が起きたら、「小説」のルールに適用できなくなってしまう気がした。賞金目当てと目的を明確にすればゲームプレイヤーは集まりそうだが、『ライアーゲーム』や『インシテミル』と同じような設定になりそうなので避けたい。もっと違和感を失くす方法はないのだろうかと試行錯誤を重ねていった。

 そして、「子供たちがゲームのプレイヤーになればいいのだ」という結論にいたった。子供なら、イレギュラーなプレイやゲームマスターへの反発をせずに、「ルールを忠実に守る」という倫理観を持たせやすい。さらに、たまたま近所に住む同じ年齢の子たちが集められた公立の小学校を舞台にしたら、バラエティ豊富に人物たちを作ることもできる。一石二鳥ならぬ一石数鳥のような気がした。「中学生か高校生を主人公にしてほしい」という要望があっても、小学校六年生以上に年齢を上げることはできなかった。

 肝心のゲームの内容は、舞台、人物と決めた後に考えた。ゲームが現実になっていく恐怖を植えつけるために、殺戮を主体とするゲームを探していたが、しっくりしたのが見つからず、完全にオリジナルのものを作った。

『マーダーゲーム』の中の「マーダーゲーム」の流れは、以下のようになっている。

1.プレイヤーたちは自分のスケープゴートとなるアイテムを学校のどこかに隠す。
2.アイテムと隠し場所をカードに記載する(他のプレイヤーには記載内容をわからないようにする)。
3.進行役はカードをまとめて封筒に入れ、ある場所に設置。
4.トランプでジョーカーを引いた人が犯人となる(誰が犯人かはわからないようにする)。
5.犯人役はプレイヤーたちにわからぬように、カードを入れた封筒を回収する。
6.一日に一回、犯人役は最初に決められた場所(『マーダーゲーム』では飼育小屋の裏)にスケープゴートを置く。
7.スケープゴートが置かれているのを発見された時点で、その持ち主の人は死亡扱いとなり、ゲームオーバー。
8.生存中の残りのプレイヤーは、死亡扱いとなった人のスケープゴートや隠し場所から犯人役を推理しあう。

 さらに9番目として、全員一致で犯人役を名指しできたら、犯人は自白しゲームセットというルールを用意していたが、『マーダーゲーム』内の発案者・杉田勇人は、「最後まで生存者たちが推理しあう楽しさ」を優先させたかったので、途中でゲームを終わらせることまで頭が回っていなかった(さらにもっと細かい規定があるが、本論では省略する)。

 この推理部分が人狼(編注『汝は人狼なりや?』)に似ていると感じたので、人狼をモチーフに持ってきた。人狼を主体にしていると見せかけて、実は、人狼の方が後付けだったのである。
タブラの狼(2009年版) / Lupus in Tabula - 4th Edition / ダヴィンチゲームズ究極の人狼 完全日本版 / アークライト

 本来ならば、もっと推理合戦の要素を取り入れたかったのだが、スケープゴートが現実化してしまい、登場人物たちは推理どころではなくなってしまう。これは、作者が「小説」としてのルールを意識しすぎた失点ともいえる。だが、ゲームの楽しさを奪われたのは登場人物たちだけであって、読者には推理をする=「何か」を当てる楽しさの「本格ミステリ」要素は残している(と、作者である私は思っている)。さらに、ゲームを現実化させるといったルールを破る者を登場させることによって、ルール違反者はいかにゲームを興ざめさせるかということも描いたつもりである。

 書き上げてみてわかったのは、「本格ミステリ」のゲーム性と「小説」のルールを融合させるのは非常に難しいということだった。「小説」のルールも、まだ感覚的にしかつかみとっていない。なので、そのルールが何なのか明確になるまで、しばらく「本格ミステリ」の「小説」に取り掛かってい
く予定である。

 次作は『シンフォニック・ロスト』というタイトルで今年の2月に刊行された。主人公たちは中学生だ。『マーダーゲーム』からひとりだけ、ゲストも登場する。『マーダーゲーム』ではゲームによって深まる団結力もテーマとしていたが、次は死体がいくつも出てきても崩れない団結心を、「本格ミステリ」のゲーム的要素と重ねて描いた。小説の味も含みつつ、作者と読者の文字による対局ゲームとして読んでいただけたら幸いである。
マーダーゲーム (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)シンフォニック・ロスト (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)

 マーダーゲーム (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)シンフォニック・ロスト (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)


千澤のり子(ちざわ・のりこ)
作家。1973年東京都生まれ。専修大学文学部人文学科卒業。2007年、宗形キメラ名義で二階堂黎人氏との共作である『ルームシェア 私立探偵・桐山真紀子』を発表。09年『マーダーゲーム』でソロデビューを果たす。著書に『レクイエム』(二階堂黎人氏との共作)、『シンフォニック・ロスト』がある。別名義で評論活動も手がけている。11年5月にはSF乱学講座にて映像における叙述トリックをテーマにした講演も行なった。


 先月、二階堂黎人氏と千澤のり子氏の共作『ルームシェア 私立探偵・桐山真紀子』がめでたくも文庫化されました(講談社文庫)。千澤のり子氏とのソロ作品とはまた違った味わいのある本作が、より手軽にアクセスできるようになりました。併せてお楽しみください。(岡和田晃)
ルームシェア 私立探偵・桐山真紀子 (講談社文庫) [文庫] / 二階堂 黎人, 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)
警視庁を辞めて私立探偵になった桐山真紀子は、埼玉県初の女性知事に警護を依頼されて銃弾を受けた。そのリハビリ中に、姪の早麻理(さおり)からネットで見つけたルームメイトがいなくなったので探してほしいと頼まれる。彼女の部屋に入ると、ポスターに隠された壁一面に罵倒や呪詛の言葉が書き殴られていた――。(裏表紙より)

GMが建設的にしゃしゃり出る方法について

 会話型RPG(TRPG)をプレイするにあたっては、ゲームマスター(GM)という存在が欠かせません。コーエン兄弟監督の映画を思わせるスラップスティックな物語を表現可能な『Fiasco』のようにGMレスのゲームも注目を集めてはいるものの、いまだ数多くの作品においてGMは必須となっています。

 このゲームマスターの「語り」(ナラティヴ)に、ホメロスの時代の叙事詩にも通じる、いわば口承伝統の技術の伝統に則った側面が存在することを否定する意見は少ないでしょう。しかしながら叙事詩のナラティヴ(語り方)と、近代以降の文化的なコード(共通項)に支配された私たちのナラティヴとの間には、少なくない距離感が介在しています。

 とりわけ近代の文芸批評は、ある意味、こうした距離感を認識するところから出発したものでした。文芸評論家のジェルジ・ルカーチは、叙事詩的な伝統に立ち返ることのできない近代文学の悲劇を「世界が神から見捨てられた悲劇」と呼んでいます(『小説の理論』)。

 近代以降の「ナラティヴ」が、一種の神なき時代の悲劇として措定せざるをえないのだとすれば、会話型RPGについて批評的に接するためには、当然、「ナラティヴ」のあり方について、いまいちど考えを進めることは必要な作業でありましょう。そこで「語り」に重きを置いたルールシステム、『クトゥルフ神話TRPG』(『クトゥルフの呼び声』)や『ワーウルフ:ジ・アポカリプス』の熟練ゲームマスター(ストーリーテラー)である汀亜号さまが、J・R・R・トールキンの『シルマリルの物語』を題材に、ゲームマスターの技術について、興味深いコラムをお寄せくださいましたのでご紹介いたします。

 『シルマリルの物語』は、同じ作者による『指輪物語』とは異なり、いわゆる近代小説のスタイルとは異質のナラティヴ、すなわち神話や叙事詩のスタイルを積極的に採用した作品です(*)。

 そのため、それ自体を(いわば直接の「模倣」の対象として)RPGで再現するには、いささかの困難が伴うのも事実です。汀亜号さまは、この問題をどのように考えたのでしょうか。(岡和田晃、下段解説部を含む)

(*)むろん、大江健三郎の『M/Tと森のフシギの物語』のように、両者を混淆させた作品も現代文学には存在します。『指輪物語』そのものにも神話的なナラティヴは部分的に介在しています。

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GMが建設的にしゃしゃり出る方法について

 汀 亜号

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■はじめに

 予め、ジャンルのお断りを。
 この覚書はTRPG(テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)というアナログゲームの、特にGM(ゲームマスター)と呼ばれる、ゲームの筋書き準備や展開管理を担当する参加者について、その手管を少々書き留めたものです。AGSをご訪問の方々のほとんどにはご紹介は不要でしょうが、複数方面のゲームを扱っておられる都合上、飽くまで確認までに。

 さて、こうして寄稿の機会を頂きましたものの、私は批評をするでなく、ゲームをデザインするでもなく、単にGMを務めるのが好きなだけの者です。TRPGに対しては単に消費者の立場にあります。ですから、高尚な何事かを期待なさっておられる皆様には、予めお詫びしておきます。私が書きますのは一料理のレシピ水準のメモでして、包括的な研究は他の皆様にお任せいたします。分析や総論からはほど遠うございますので、気を楽に読み流して戴ければ幸いです。


■『シルマリルの物語』を表現する

 きっかけは、Twitterをぼんやり眺めていて、ジャーマンメタルバンド「Blind Guardian」の話題をとっかかりに、岡和田さんと交わした雑談でありました。

 「Blind Guardian」はファンタジイ文学に造詣の深いバンドで、アルバム第8作『Nightfall in Middle Earth』(中つ国の夕暮れ)は、J・R・Rトールキンの『シルマリルの物語』を題材にしたコンセプト・アルバムとなっておりますが、その13曲目「Time Stands Still(At The Iron Hill)」は、『シルマリルの物語』で描かれる「俄かに焔流るる合戦」(ダゴール・ブラゴルラハ)においてなされた、「黒き敵」こと悪のヴァラール(唯一神イルーヴァータルに仕える天使のような存在)である“モルゴス”と、ノルドール・エルフの上級王“フィンゴルフィン”の果し合いを歌ったものです。

Nightfall in Middle Earth [CD, Import] / Blind Guardian (CD - 2007)新版 シルマリルの物語 [単行本] / J.R.R. トールキン (著); John Ronald Reuel Tolkien (原著); 田中 明子 (翻訳); 評論社 (刊)

 この曲に代表されるように、『Nightfall in Middle Earth』では、音楽という表現型式で『シルマリルの物語』が演出されるのですが、TRPGにおいて『シルマリルの物語』で描かれるかような場面を表現するにはどうしたらよいか、その際の手管について由無く話をしておりました。

 一騎打ちにおいてフィンゴルフィンは敗退を喫します。そして一方のモルゴスも、『シルマリルの物語』(や続く『終わらざりし物語』等において、さまざまな挿話が語られながら)滅びを迎え、時代が下った『指輪物語』では過去の話として語られる対象となります。

 それでは『シルマリルの物語』を、TRPGでどのように表現できるでしょうか。キャンペーン(連続セッション)を前提にした話です。

 私が即興で考えた演出の方向性は次のようなものでした。

1) GMに対し「GMよ、あなたはモルゴスだ」と告げ、モルゴスの視点から話を語らせる

2) 全ての話は断末魔のモルゴスが見る走馬燈として描く。である以上、シナリオの順番は時間に従っていなくてよい。むしろ、後から見れば決定的瞬間だった時と場だけを辿らせてよい

3) セッションによって確定した事実が、その世界の辿ってきた歴史的事実となり、かつ、最後に描かれる(最初は陰に隠れている)モルゴスの末期を変えていく

4) 末期が決定されるたびに、GM(モルゴス)は次のセッションの展開を軌道修正する

5) PCの成長はシナリオ終了ごとに起こしてよい。時間的には不整合が出るけど気にしない。死亡した場合のみ、復活のコストを追加ルールとして定めておく。フィンゴルフィンが死んだらキャンペーンは失敗、終了でも構わない

 このようにすれば、GMが『シルマリルの物語』について抱いている印象を建設的に語りに組み込めます。また、思い出話だった筈のものが、参加者によって修正され、その修正がいつの間にか現実を変更していく、という不思議な感覚を味わえると考えました(百物語の頃からある、話が現実を侵すという、魔法的な愉悦ですね)。

 これは、「皆でやる思い出話」をTRPGに応用したものです。集団で昔に思いを馳せる時、私たちがよくするのは「納得する思い出を組み立てること」であって、正確なデータを復活させることではありますまい。参加者の思いに従って過去は変わっていくものですし、それで構わない。

 では、TRPGのセッションにおいてもそれで構わないとしてしまえば、整合性やらに縛られずに大きなドラマを遊べるのではないかと思います。


■GMが個性を出すには?

 実は私が文字に起こせるレベルで考えたのは最初のアイデアだけです。この先は由も無い語りとなりましょうがご容赦を。やや一般に、GMが個性を出す手管について、今回のアイデアを起点に短くまとめておこうかと存じます。

 原作や緻密な世界設定があるゲームを遊ぶに当たって、GMが苦労する事柄の一つとして、雰囲気の演出があります。情景を見ているのは通例PCですから、そこにある情感をGMが描いてPLに押しつけてしまうのは大抵愚策です。しかし、叙事的な語りだけでPL諸氏を共感せしめるには話芸が要り、これも大変です。では、何故ここが悩みになるかと問うと、それはGMが中立たらんとしてしまうからです。

 中立者たるGMでは情景が描けないというのならば、語り部としてのGMもまた個性的であることを積極的に受け容れていけばよい。何に対しても全く客観的で中立な人、などという気持ち悪い何かを(失礼、口さがないもので)目指すのはいったん止めて、嘔吐感を伝えようとしたサルトルのように、その人らしく語っていいではないか、と私は思います。ただ、単に建設的かつ個性的であれと言われても却って困ってしまう。

 そこで、主要NPCにGM自身を投影せざるを得ないように仕組むのが、セッション全体に対して建設的な手の一つであろうと思います。そのNPCはキャンペーン全体の流れに添え遂げる事が予め分かっている人物でなければなりませんし、PLの気紛れで舞台から抹殺される危険が少ない立場と能力を持たないといけません。そのために私が思いついたのは、悪のヴァラールたるモルゴスによる、断末魔の走馬燈でした。

 GMを投影するNPCの設定方法は、他にも色々あり得るのだろうと思われます。そこはGM諸氏の愉しい妄想にお任せすることになりましょう。

 悪文を充分に長く書きすぎましたので、これにて筆を擱きたいと存じます。半端な覚書にお付き合い下さった皆様、有り難うございました。ご参考とまで行かずとも、暇潰しになりましたならば誠に幸いです。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
GMが建設的にしゃしゃり出る方法について by 汀亜号 is licensed under aCreative Commons 表示 – 改変禁止 3.0 非移植 License.
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 本コラムではゲームマスターの技術について語られましたが、ルール・メカニズムの内部においても、RPG側はこうした問題については試行錯誤を重ねてきました。

 『指輪物語ロールプレイング』においては、舞台となる「中つ国」の歴史的背景の表現に集中することで、こうした幣を乗り越えようとしてきました(『指輪物語ロールプレイング』では、地域ソースブックの情報を活用し、『シルマリルの物語』の主たる時代背景「第一紀」で冒険を繰り広げることができます)。

 近年発売されたシステム、たとえば『ダンジョンズ&ドラゴンズ』第4版では「神話級」というゲーム・スケールを採用することで、近代以降のナラティヴ(語り方)では表現が難しいとされる壮大なストーリーを自然に表現することが可能となっています。

 また『ブルーフォレスト物語』第3版においては、キャラクターを「亜神」と規定しつつ、近代的理性では代補しきれない人間表現のあり方に焦点を当てた「権現」システム等、種々の画期的な試みを取り入れることで、既存の物語構造やアーキタイプとしての無自覚な反復に留まるのではなく、主眼たるゲームマスターのナラティヴそのもののあり方の認識に焦点を当てる設計がなされています。

 今回ご紹介する汀亜号さまのコラムは、こうしたルール・システムの冒険ともリンクしうる、優れた提言になっているものと思います。(岡和田晃)

「世界劇場」から外れた演技者ジュヌヴィエーヴ――ジャック・ヨーヴィル『ドラッケンフェルズ』と「流血劇」についての試論(付記:「向井豊昭アーカイブ」のご紹介)

去る6月12日に東京で開催されました第12回文学フリマでは、Analog Game Studiesでは「Eclipse Phase Introduction Book For 2011 Japanese」を作成して無償頒布を行ない、好評を得ました

この「Eclipse Phase Introduction Book For 2011 Japanese」を委託していただいた「幻視社」では、このたび「向井豊昭アーカイブ」と題しまして、(遺族の許可を得たうえで)「幻視社」4号で特集されていた反骨の作家・向井豊昭さまについての記事をオンラインで公開するはこびことになりました(http://www.geocities.jp/gensisha/mukaitoyoaki/index.html)。

向井豊昭さまの小説は、クロード・シモン『三枚つづきの絵』に影響を受けた物語型式の自由さを追求した作風となっており、とりわけ構造と密接に結びついた言葉遊びや詩歌への強い関心は、ルドロジー(ゲームを研究する学問)的な方法論とも親和性が高いと言えるでしょう。
そして「向井豊昭アーカイブ」と連動する企画としまして、Analog Game Studiesでは、(「幻視社」主幹の東條慎生さまの許可を得たうえで)その他「幻視社」4号(「特集:見えないもの」)所収の論考のうち、 Analog Game Studiesの読者の関心領域にも強く共鳴するだろう、「ウォーハンマー」世界を舞台にした文芸評論(ジャック・ヨーヴィル論)をウェブで再掲させてい ただくことになりました(同号は、在庫がすでにありません)。
「幻視社」主幹の東條慎生さま、ならびに購読者の方々に改めてお礼を申し上げます。

試論ということもあり荒削りで恐縮ですが、本稿を、そして「向井豊昭アーカイブ」をご覧ください。そしてRPGやアナログゲームと文学(SF)の、幸福なパートナーシップを体感いただけましたら幸いです。(岡和田)

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※この記事(試論)は、大幅改稿のうえ、2014年5月5日に文学フリマ会場で先行発売される予定の商業誌「TH(トーキング・ヘッズ)」No.58(アトリエサード/書苑新社)に収録されましたので、削除させていただきました。