《遊びにひそむ民俗 3》

《遊びにひそむ民俗 3》

●本文:草場純(遊戯史学会・理事)、解説:蔵原大(遊戯史学会・理事)

————
《本 文》

 日本(とは限らないが)の民俗の中には、いろいろなところに「形式化された問答」というのがある。

 昔話の中では山姥(やまんば)とお札(ふだ)が問答をしたり、犬・猿・雉も黍団子(きびだんご)による利益誘導もさることながら、桃太郎との問答によってお供となっていくと考えるべきだろう。ヤマトタケルに至っては、ことあげによって命を落とす。そう言えば「人狼(じんろう)」は、問答によって命を落とすゲームとも言える。

 伝承遊びに注目すれば民俗的な問答は更に顕著で、今まで紹介した「今年の牡丹(ぼたん)」でも、「あぶくたった」でも、オニとコドモの問答は、遊びの主要な部分を占めている。よく知られる「花一匁(はないちもんめ)」も「問い」と「答え」の繰り返しによる、文字通りの問答が遊びの本体であり、民俗の透けて見える部分でもある。


( https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=l2Bgxl06NX4 )

  問 ♪ふるさとまとめて花一匁 答 ♪ふるさとまとめて花一匁
  問 ♪となりのおばさんちょっと来ておくれ 答 ♪鬼がこわくて行かれない
  問 ♪おふとんかぶってちょっと来ておくれ 答 ♪おふとん破れて行かれない
  問 ♪お釜かぶってちょっと来ておくれ 答 ♪お釜底抜け行かれない
  問 ♪鉄砲かついでちょっと来ておくれ 答 ♪鉄砲弾なし行かれない
  問 ♪それはよかよか どの子が欲しい 答 ♪あの子が欲しい
  問 ♪あのこじゃ分からん 答 ♪この子が欲しい
  問 ♪このこじゃ分からん 答 ♪相談しよう
  問 ♪そうしよう

 それぞれに隠喩されているものの詮索は民俗学に譲り、ここでは遊びからゲームに発展した「問答」を見てみよう。

「なぞなぞ」などの言葉遊びは、ゲームと言うよりはクイズだが、明治から大正期に流行った字花(チーハー)は、それなりにゲーム性が高い。これは親が予め定められた漢熟語の中の一つを正答と指定し、曖昧なヒントを出して回答を募るギャンブルゲームである。こうした「親の決めた正答を子が察して当てる」というゲームシステムは、手本引きなどにも見られるものである。とは言えもちろん日本の専売と言うわけではない。現代では、たほいや(ディクショナリー)や、アップルトゥアップルなどとして多用されている。絵が絡めば、ディクシットやカレイドス、アイデンティクやテレステレーションなどもこの類といえるかもしれない。

  とは言え、例えば「ディクシット」と「手本引き」を比較したとき、その文化的な背景の大きな違いに、深い考えを覚えずにはいられない。これを民俗の違いに結びつけるのは、牽強付会に過ぎるだろうか。

————
《解 説》

草場純氏は、双六の前近代史研究などで知られるゲーム研究者です。
本文は、草場氏が以前にNPO法人世界のボードゲームを広める会「ゆうもあ」の機関誌『ゆうもりすと』に掲載した記事の転載です。

なお草場氏は、三宅陽一郎氏(デジタルゲーム学会・理事)と共に「ゲームデザイン討論会」を開催しております。2015年3月には、神保町にある「奥野かるた店」で公開討論会のパネリストを務められました。

【ゲームデザイン討論会―公開ディスカッション2015.03.14】
遠藤雅伸も登場。アナログゲームとデジタルゲームの歴史的邂逅レポ(エキサイトレビュー、小野憲史)
「ゲームデザイン討論会」のハッシュタグ:#game_dsgn。


( https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=fG-l8z3bIkQ )

《遊びにひそむ民俗 2》

《遊びにひそむ民俗 2》

●本文:草場純(遊戯史学会・理事)、解説ほか:蔵原大(遊戯史学会・理事)

——————————
《本 文》

「今年の牡丹(ぼたん)」は、前回に挙げた「あぶくたった」よりもっと忘れられた、既に失われたと言ってもそう間違いでない遊びです。ただ失われるのがあまりにも惜しい遊びでもあります。

〔◆ 解説者注:下の『こどものうた140選』(ドレミ楽譜出版社、1992)に「今年のぼたん」が収録: http://www.gakufu.ne.jp/detail/view.php?id=6081 〕

『こどものうた140選』
『こどものうた140選』(1992)

「今年の牡丹(ぼたん)」の全体は、以下の六つに分かれています。

 ●1.コドモ達が輪になって遊ぶ
 ●2.オニが現れて問答をする
 ●3.オニを含めてコドモ達が輪になって遊ぶ
 ●4.オニが「帰る」と言って再び問答になる
 ●5.オニをコドモが囃(はや)す
 ●6.鬼ごっこになる

案外複雑な構造をしているのですが、要するに鬼ごっこであるわけです。しかし民俗と重なるのはその前遊びに当たる部分なのです。

上で書きました「●1」「●3」の輪になって回る部分ですが、「♪今年の牡丹(ぼたん)はよい牡丹(ぼたん)、お耳をからげてスッポンポン、もひとつからげてスッポンポン」で耳をからげるのは、蛇よけ、とも魔よけとも言われます。オニはそれで理由を作って帰るのです。

そもそも鬼ごっこは、民俗学に言う感染呪術の雰囲気があります。オニは、悪霊であり、「穢(ケガレ)」であるわけです。その穢(ケガレ)は、接触によって憑依(ひょうい)感染します。オニに触られたコドモがオニになり、オニは穢(ケガレ)を染(うつ)すことによって、コドモに戻るわけですね。こうした穢(ケガレ)は、観念上のもののはずですが、子ども達の遊びの中でも、民俗のなかでも共同観念として実在化するのです。

〔◆ 解説者注:余談ですが「ケガレ」の意味をくわしく知りたい方には…… ⇒ 宮本要太郎「「ケガレ」の意味に関する比較宗教学的考察」(2008)http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/1334

実は、「今年の牡丹(ぼたん)」の中では明確に表明はされませんが、オニは蛇の精であるのです。穢(ケガレ)は蛇精として形象化されます。その証拠に姿は人間に見えても、影を見たり、後ろから見たら蛇そのものなのです。

だから上記の「●5」で、「♪だれかさんの後ろに蛇がいる」と囃(はや)されることになります。この遊びでは、囃(はや)されるたびに「わたし?」「違うよ。」「ああよかった!」という問答が二度繰り返され、三度目に「わたし?」「そう!」で、「●6」の鬼ごっこが始まります。そこにはクライマックスにむけて緊張を高めていく効果とともに、オニとコドモとの距離を物理的にも心理的にもとっていく工夫があります。

現代のボードゲームにもそうした印象を与えるものがあります。例えば、下の画像の「ミッドナイトパーティーなどは、単なるサイコロ遊びを越えた独特の興奮とスリルをもたらしますが、それはこうした心の深層の民俗学的感覚を呼び覚ますからかも知れませんね。 <終わり>

ゲーム「ミッドナイトパーティー」jplogo2

(◆“ミッドナイトパーティ.” メビウス ゲームズ: http://www.mobius-games.co.jp/Amigo/Mitternachtsparty.htm )

——————————
《解 説》

草場純氏は、双六の前近代史研究などで知られるゲーム研究者です。
本文は、草場氏が以前にNPO法人世界のボードゲームを広める会「ゆうもあ」の機関誌『ゆうもりすと』に掲載した記事の転載です。

なお草場氏はtwitter上で、三宅陽一郎氏(デジタルゲーム学会・理事)と共に「ゲームデザイン討論会」を開催しております。
第一回目の記録: http://t.co/13dMZ4mlST
第五回目の記録: http://togetter.com/li/682287
ゲームデザイン討論会」のハッシュタグ:#game_dsgn。

——————————
【むりやり関連書籍】

TVアニメ「ノラガミ」公式サイト
「ノラガミ」 http://noragami-anime.net/

 

「18 大祓(おおはらえ)」. 神社本庁 | コラム:
http://www.jinjahoncho.or.jp/column/000043.html

 

網野善彦『中世の非人と遊女』
『中世の非人と遊女』
http://www.amazon.co.jp/dp/4061596942/ref=pd_sim_b_2?ie=UTF8&refRID=1CH2WQ0VDXZTX6WQMD3B

——————————

遊びに潜む民俗 1

《遊びに潜む民俗 1》

●本文:草場純(遊戯史学会・理事)、解説ほか:蔵原大
——————————
《本 文》

◆◆♪あぶくたった 煮え立った 煮えたかどうだか 食べてみよ ムシャムシャムシャ◆◆※注

( https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=Nfv3cY8VnLY )

野外の童(わらべ)遊びが滅んでいく中、まだ残っているのが、この「あぶくたった」とあとは「花一匁(はないちもんめ)」「初めの一歩」ぐらいでしょうか。ところでこの「あぶく」は何のあぶくなのでしょうか。何が煮え立ったのでしょうか。もう少し遊びを追ってみましょう。

あぶくたった」では、コドモ達は輪になって一人のオニを取り囲みます。オニはしゃがまされ、ムシャムシャムシャのときに つつかれたりします。ですから、煮えるのはオニなのですが、果たして鬼が煮えるものなのでしょうか。そうでないなら、オニ とは一体何でしょうか?

この後、二度同じことを繰り返し、三度目に「もう煮えた」と言われ、オニは別の場所に移されます。そこはコドモ達によって「戸棚」とされます。

◆◆♪トダナに仕舞って、鍵かけて、ご飯を食べて、お布団敷いて、電気を消して、もう寝ましょう◆◆※注

コドモたちが寝てしまうと、オニが「トントントン」と言います。コドモ達が「何の音?」と聞くと「風の音」などとオニが答え、コドモ達は「ああよかった。」と応じます。そして三回目(とは限らないが)にオニが「お化けの音」と答えて、コドモ達は逃げ、ここから鬼ごっこが始まり、掴(つか)まった子が次の鬼になるわけです。

煮られ、食べられ、戸棚に仕舞われ、お化けになるモノって何でしょう。実はこれは「小豆(あずき)の精」なのです

古代の社会には、イモ文化圏、マメ文化圏、イネ文化圏、ムギ文化圏、コーリャン文化圏などがあり、それらは重層しつつ基本的には産業革命まで続いたとされます。「あぶくたった」は、そうした日本文化の古層にまで辿れる遊びだと思われます。

いや逆に、産業革命以後の近代文化に覆われたイネ文化の、そのまた下に隠されたイモ・マメ文化だからこそ、遊びの中にようやく命脈を保ってきたとも考えられます。

それは丁度ヨーロッパで、万聖夜(ハローウィン)の夜にジャック・オ・ランタンを先頭に飛び出してきて翌日の万聖節には上層のキリスト教に覆われて再び地下へ消えていく、キリスト教以前の精霊たちのようです。

すなわち子ども達は、遊びの中に文化の古層を学ぶのだとも考えられるのです。<終わり>

※解説者注:皆さんご存知のように、いわゆる民謡とは、役所や企業から押し付けられた既製品ではなく、各地の人々が個別に工夫した風習・口伝です。民謡には時代・地域ごとに多彩なバリエーションがあります。ですから皆さんがお聞き及びの「あぶくたった」と本文のそれとが若干異なることはご了承ください。

——————————
《解 説》

草場純氏は、双六の前近代史研究などで知られるゲーム研究者です。
本文は、草場氏が以前にNPO法人世界のボードゲームを広める会「ゆうもあ」の機関誌『ゆうもりすと』に掲載した記事の転載です。

なお草場氏はtwitter上で、三宅陽一郎氏(デジタルゲーム学会・理事)と共に「ゲームデザイン討論会」を開催しております。
第一回目の記録 http://t.co/13dMZ4mlST
第五回目の記録 http://togetter.com/li/682287

——————————
【むりやり関連書籍】

●草場純ほか『ゲーム探検隊』
51pNXY6Vh3L._SY450_
http://www.amazon.co.jp/dp/4903746011

●柳田 國男『明治大正史 世相篇 新装版』
http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1590820

●二宮宏之『深層のヨーロッパ』 (民族の世界史シリーズ)
http://www.amazon.co.jp/dp/4634440903

——————————

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第16回)

草場純(協力:伸井太一、岡和田晃、高橋志行)

――――――――――――――――――――――――――――――――

◆第15回はこちらで読めます。◆

――――――――――――――――――――――――――――――――

前回の予告どおり、今世界の様々なゲームの、「民族」(エスニシティ)的な受容の相を、具体的に見ていきたい。

その際に、Analog Game Studiesの読者にとっては、まず、伸井太一氏の「ドイツ・アナログゲームの歴史楽――ボードゲーム『イライラしないで』Mensch ärgere Dich nicht(メンシュ・エァゲレ・ディッヒ・ニヒト)」が重要な導きの糸となるだろう。
伸井氏の論考では、ドイツにおける『イライラしないで』の受容が、社会的な背景と絡めながら論じられており、私も啓発されるところが大きかった。
もし未読の方がいるならば、是非お読みいただきたいと思う。

同論によれば、ニュルンベルク市のおもちゃ博物館では、『イライラしないで』が1910年ごろに考案されたものと紹介されているという。そして、第一次世界大戦を契機として、ドイツで『イライラしないで』は大きく浸透を見せ、ドイツの国民的ゲームとして広く認識されるようになるわけだが、伸井氏は主題を明確にするためか詳しく触れていないものの、この『イライラしないで』には、実のところ長きにわたる「前史」が存在する。

1863年にイギリスで、『イライラしないで』によく似た『ルド』というゲームが販売され、その後、フランス、スペイン、オランダなどに広まったと言われている。この『ルド』が『イライラしないで』の祖であると、私は考えている。
任天堂から出ていた『ディズニー ロケットゲーム』が、『ルド』そのもの。私の子供のころは、はなやま(現在の株式会社ハナヤマ)などから、『飛行機ゲーム』として出ていたので遊んでいた。また『ルードゲーム』という名でも出ていたと記憶している。中国では「飛行棋」と呼ぶそうで、これはうまいネーミングだろう。
この『ルド』がドイツに渡ったのは、1925年にドイツのオットーマイヤー(ラベンスバーガー)社が出したことによる。シュペア社はそれを改変して『コピットゲーム(帽子取りゲーム)』として売り出した。これも私は子供のころだが、遊んだことがある。仄聞するところでは、現在でもラベンスバーガー社から出ているそうだ。

では『イライラしないで』はもともとイギリスのゲームかと言うとそうではなく、そのまたもとは、インドにまで遡る。オリエンタリストのトマス・ハイドが1694 年に『パチシ』として記述しているのが、ヨーロッパにおける初出とわれている。
インドではムガール帝国で遊ばれていたのは間違いなく、その頃に『パチシ』と呼ばれていた。ルールはほぼ同じだが、6面体ダイスではなく、2面体ダイス(いわゆる「宝貝」)を6個ふる。これは中国の六博と同じで、例によって中国起源説を唱える人もいる。
16世紀のムガール帝国で遊ばれていたところまでは確実で、そこで『パチシ』と呼ばれていた。『パチシ』は25という意味で、今でもスペインなどでは『ルド』ではなく、『パチーシ』と呼ぶそうである。一説によると起源は9世紀にさかのぼり、それが本当なら1200年の歴史のあるゲームとなる。尤も六博説を取れば、これは春秋戦国時代だから2400年の歴史となろう。

しかし、『パチシ』で最も興味深いのは、アステカに伝わる『パトリ』である。これは、誠に残念ながらスペインの植民地支配のため、失われた。またパチシがインドからイギリスへわたったのももちろん、植民地支配の結果に他ならない。
ちなみにこのパトリは、正確なルールは不明なものの、遺されたゲーム盤はなぜかパチシにそっくりという、アステカの伝統ゲームである。

さて、ここまで縷々述べたことは、ドイツの子供たちがみな一度は遊んだとされる『イライラしないで』が、実は真空から突如ドイツに発生したものではなく、長い前史があるということにまとめられる。そのオリジンは、確実なところに限っても16世紀のインドにまで遡ることができるだろう。
しかしここでよく注意しなければならないことは、ゲームに限らず小説などにも言えることだが、創作や著作権に関する考え方が、当時と現代では大きく異なるということである。
現在発売される新しいゲームの多くは、「ライナー・クニツィア」とか「アラン・ムーン」とか、クレジットされているのがむしろ常識である。日本人の名も、例えば「カワサキ」「カナイ」「キサラギ」「ハヤシ」などの名が、すでに世界に流通している。
けれども、これは21世紀の「常識」であって、むしろ記名されないのが「常識」という時代もあったのだ。これは議論のあるところではあるが、ルールそのものの著作権は、現在でも認められているとは言い難い部分がある。いわんや100年、200前に於いておやである。ゲームのルールシステムと著作権のより良き落とし所については、今後、積極的な議論が重ねられる必要があろう。本稿では、記名の是非を論じようというよりも、文化史的な観点から、パラダイムの変遷を指摘した次第である。
つまり私は、『イライラしないで』が実は創作ではないと告発したいのではなく、伸井氏の記事に触発され、当時は似たようなゲームを名前だけ変えて出すようなことが普通に行なわれていたということを指摘しつつ、失われた系譜を簡単ながら辿り直してみた次第である。

この点に関し、この6月2日になされた澤田大樹氏の講演「批評のためのドイツゲーム現代史」において、極めて興味深い指摘がなされている。
澤田氏によれば、ドイツゲーム・ユーロゲームの成立前夜、「伝統ゲーム由来の近現代ゲーム」が数多くつくられているというのである。時期としては19世紀から20世紀の前半に当たる。例としては上記のパチシ由来のコピットゲームのほか、ハルマ由来のダイヤモンドゲーム(チャイニーズチェッカー)、アフリカのマンカラ由来のワリやオワール、インドネシアのスラカルタ由来のラウンドアバウト、マダガスカルのファノロナ由来のワルツなどと、大きくは広まらなかったものを含めて、多数見出せるのである。
さらにオセロの名で日本では広く知られているリバーシも、1888年にロンドンで特許が取られている。これも、典拠は不明だが田中潤司氏によれば、ハンガリーの民族ゲームが更にその元であるという。(ハンガリーは植民地とは呼べないだろうが。)

こうした現象に先行するのがスポーツの事例である。例えばバドミントンはインドのプーナを「改良」したものであるし、ラクロスはアメリカ(と後に呼ばれる)大陸のネイティブの遊びを「改良」したものである。このような現象は、明らかに「民族」間の文化の伝播であるし、またゲームの受容のある形態(相)であるということが言える。一方これらはまた、ポスト・コロニアリズム理論の枠組みから見ても、興味深い現象と言うことができよう。
ここでまたスポーツから卓上ゲームに話を戻せば、現代日本の麻雀も、明治時代後半の初期植民地主義によって、中国や「満州」の地に「発見」され、「改良」されて、大正期そして昭和期に広まったものと言うことができそうだ。時代と地域を平行移動すれば、澤田氏の枠組みがそのまま敷衍できる。

ゆえに、『イライラしないで』のように、子供の遊びとして、あまり識者からは顧みられないゲームが、澤田氏の提唱するような大きなゲーム史の枠組みの中に位置づけられるというのは、私としても大きな発見であった。
貴重な提起として、伸井氏の記事には重ねて感謝したい。

SF乱学講座「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える(2009年7月5日) 第1回

―――――――――――――――――――――――――

【テーマ連載】「ゲームと文学をリンクする」

SF乱学講座「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える(2009年7月5日) 第1回

岡和田晃 (協力:草場純、田島淳)
―――――――――――――――――――――――――

【但し書き】

本稿は2009年7月5日(日)に東京・高井戸で行なわれた市民講座「SF乱学講座」(前身たるSFファン科学勉強会から数えると、半世紀近い歴史を持つ市民講座で、「SFマガジン」に毎号告知が載っています)での講義を録音し、文字に起こして整理したものです。本講義は“ゲームと文学をリンクするという目的”で行われました。原則、細かな点には手を入れてはおりません(なので、以下の自己紹介等の情報は、2009年当時のものとなります)。

テーマ連載「ゲームと文学をリンクする」と題し、複数回に分けて公開していきます。聴講者の方の感想と併せてご参照いただき、ゲームと文学のよりよき関係について考えるよすがとしていただけましたら、幸いです。

【事前の内容紹介文】

SFがテクノロジーと人間との関わり合いに焦点を当てた文学形式であることは論を待ちません。しかし、「情報」として作品内にテクノロジーを組み込むだけではなく――J・G・バラードや筒井康隆らが示してきたように――爛熟したテクノロジーが人間を、ひいては表現そのものをもダイレクトに変容させてしまうところにも、SFの面白さは宿るものと私は考えます。

それゆえ、SFの在り方を考えるには、SF内で描かれる情報の種類だけではなく、SFを規定する表現そのものの在り方についても思考の幅を広げる必要があるのではないでしょうか。

かような問題意識のもとに、参加者の方々と一緒に、SFという表現の可能性について考えてみるつもりです。

具体的には、私が近々上梓する評論「青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」(『社会は存在しない』所収、南雲堂近刊)と、ロールプレイングゲームについての単著『ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド』の両者(編注:ともに2009年に刊行された)がいかなる問題意識のもとに書かれているのかの解説を軸にして、「ナラトロジー」(批評理論としての物語論)と「ルドロジー」(批評理論としてのゲーム論)の両局面から、SFという表現の在り方が今後いかように深化しうるのかを考察しようと思っています。

「いわゆるハードSF的なアプローチの他にも、アクチュアルな表現としてSFに接することは可能だ!」ということを知っていただけましたら幸いです。

―――――――――――――――――――――――――

●はじめに

皆様、はじめまして、岡和田晃と申します。今回はお忙しいなか、また日本SF大会と日程が重複しているさなか、わざわざ足をお運びいただきまして、ありがとうございました。

今回は皆様に「「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える」と題した講演をさせていただこうと思います。岡和田の話すことそのものをフィーチャーしたイベントというのはこのSF乱学講座が初めてとなります。拙い部分も多々あるでしょうが、なにとぞ、お手柔らかにお願いいただければと思います。

 

●自己紹介

さて、私はゲーム、特に「ロールプレイングゲーム」(RPG)という分野のライティング仕事を文芸批評と並行して行なっています。RPGのライティングとは、ゲームのシナリオを書いたり、設定を翻訳したり、チェックしたりする、という仕事でして、ほかにもイベントの取材をして結果をレポートしたりと、色々な仕事をしています。後述しますが、ゲームライティングといっても、会話型のロールプレイングゲームの場合、ゲームの運用そのものにもクリエイティヴィティが求められますから、ジャーナリストよりは小説家に近い仕事かもしれません。

一方、文芸評論・SF評論の仕事は主に「speculativejapan」という、ワールドコン・Nippon2007という世界規模のSFイベントを契機として結成されたグループをベースに活動しています。かつて「NW-SF」という雑誌を主催していた山野浩一さんや、山野浩一さんとの論争が日本SF史の基礎となった荒巻義雄さん、そして「NW-SF」で翻訳家としてデビューし、今も精力的に活動を継続している増田まもるさんらが活動しています。

「speculativejapan」には「ニューウェーヴ/スペキュレイティブ・フィクション・サイト」とありますが、わかりやすく言えば「純文学」と「SF」の境界線上にある作品についての批評を掲載していくプロジェクトなのですね。その活動の延長線上で、「SFセミナー2009」というイベントでは「若手SF評論家パネル」というパネルに出演し、合宿では「Speculative Japan (J・G・)バラード追悼『楽園への疾走』読書会」、「仁木稔さんというSF作家の『HISTORIA』シリーズを語る」なるパネルを主催いたしました。

商業ベースの批評では、『社会は存在しない』という共著が南雲堂から刊行されました。なにやら危険な題名ですが(笑)、マーガレット・サッチャー、そう、「鉄の女」こと、イギリスの元首相の有名なセリフ「社会は存在しません。あるのは国家と個人だけです」という有名な文句を下敷きにした本なのですね。つまり、サッチャーが推し進めてきた――現在ではネオリベラリズム(新自由主義)と呼ばれる、社会保障を切り捨て「小さな政府」を推進する経済政策が特徴的なグローバル資本主義が、日本のフィクションにいかなる影響を与えたのか、それを特集的に論じている評論集です。

こちらに私は、「青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」という400字詰め原稿用紙換算で80枚ほどの論考を寄稿しました。商業媒体において批評の肩身は、年々狭くなってきておりまして、文芸誌を見ても掲載される内容の多くは「広告」であっても「批評」と呼べるものではなくなっています。そうしたなかで、ようやく書きたいことが書けた、という手応えがあります。

また、ほぼ同時期に、私の初めての単著であるところの『アゲインスト・ジェノサイド』という本を出させていただきました。『アゲインスト・ジェノサイド』は、RPGの「リプレイ」という分野に属する本です。なかでも、ジャック・ヒギンズやジョン・ル=カレらの仕事、つまり「冒険小説」を意識した長篇小説のような内容になっています。新書サイズですが、その実、内容はぎっしり、かなりのボリュームがあるんです。

『社会は存在しない』に収録された批評と、RPGリプレイ『アゲインスト・ジェノサイド』。これら二篇は、一見まったく異なる作品ではありますが、実は共通した問題意識に基づいて書かれています。そのことを中心に、お話を進めさせていただきます。

 

●在野で批評をするということ

私の仕事のうち、フリーライターとしての仕事は、わかりやすいものだと思いますが、批評の仕事については、もう少し、説明が必要かもしれません。
身も蓋もない言い方になりますが、そもそも批評とは、ある意味において図々しいものです。日本における近代批評を拓いた重要な立役者に小林秀雄という人がいますが、小林の時代から、自分がそれと直観したことが――たとえそれが通説に反していたとしても――社会において普遍的な価値を持つ、意見として提出するに足ると信じ、言葉を磨いていくことが根本的な出発点となっています。その問題意識がいかなるものであるのかをなるべく噛み砕いて説明していくことで、何らかの思考のヒントを提示できたらと考えています。

なお、私は批評の仕事をしているといっても、学会にも所属していなければ、大学院で指導教官を得ているわけでもありません。在野の批評の徒として、ここに来ているつもりです。私が大学にいたころは、アカデミズムに安住せず、在野で批評をすること、それ自体が、状況に対しての批評的な態度となる、そのような選択が許された時代でした。

在野であることのメリットは、まったく組織にいることの恩恵を受けられないということです(会場笑)。つまりはフリーランス・ライターですね。この立場にこだわりはないつもりですが、フリーランスでいることの長所は、学閥のような面倒くさい「しがらみ」に対して、できるだけ批評的な位置を崩さないでいられることでしょうか。反対に、自分の発言の保証を自分で取るしかないとも言えるわけで、自分の発言の前提を常に疑わなければなりません。つまり自分が、自分の指導教官なのです。必然的に言葉は重くなります。今回の講義は、そうした疑義の繰り返した結果の産物だとご了解ください。在野であることを自己目的化しているわけではないので(笑)、将来的には、どこかに所属することもあるかもしれませんが、出発点が在野にあるので、この精神は保持していきたいと考えています。

 

●「SF」は「近代」の産物

さて、今回は「SF乱学講座」ということもあり、これらの前提を「SF」に引きつけてお話をさせていただきます。「SF」がテクノロジーと人間性の関係を主軸とした文芸ジャンルであるということは、多言を要さないでしょう。

むろん、広義の「SF」、ひいては「幻想文学」という括りでは、私たちが思い浮かべるような「SF」の成立以前にも、優れた作品は多々存在します。例えば、旧約聖書。あるいは、『オデュッセイア』。モーゼの十戒で海が割れたりだとか、一つ目の巨人キュクロプスに出くわすだとかいった内容は、現実離れした荒唐無稽な内容ともいえ、その荒唐無稽さは「SF」として解釈できるようにも思えます。

ですが、ここでは「SF」を「近代」の産物として理解することにしましょう。それは、「SF」を「SF」と認識する姿勢が、産業革命と出版産業の拡充を経て、生まれた考え方であるからです。「実は何々がSFだった」という遊びは、私も好きでよくやりますが(笑)、話をわかりやすくするためにこうした文学史的な経緯を重視します。

さて、「近代」とは何なのかを具体的に措定するのは難しい行為ですし、そもそも実証主義的な歴史学では「近代」という概念が具体的な形として成立するかどうかすら、怪しい面があるのもまた事実でしょう。しかし、ルネッサンスにおける人間観のドラスティックな変化を経て、官僚と常備軍を備えた「国民国家」や、国民のアイデンティティを規定する「近代文学」が成立は、「近代」の重要なキーとなります。

いわゆる「近代文学」の登場人物は皆、際だった個性を有しています。ロシアの作家・ツルゲーネフは、「近代文学」の類型を、シェイクスピアの戯曲に登場する「“ハムレット”型」と、セルバンテスの小説の主人公である「“ドン・キホーテ”型」に分けています。ハムレットにせよ、ドン・キホーテにせよ、それぞれ病的なまでに極端な人物造形ですね。でも、彼らは「近代人」の典型、すなわち「国民国家」のパーツの一部分として受け入れられる。つまり、著名な批評の言葉を借りれば「ハムレットは我らの同時代人」、というわけなのです。それは、「近代文学」へ本質的に根ざした特性と言い換えることもできます。

「近代文学」を定義づける条件のひとつに「内面」の「発見」があると言われますが、一方で「近代文学」と「SF」の違いとは、「社会」における「個人」の内面だけではなく、「社会」の変動と「個人」の関わりについて、より主題的に考察したところにある。そう、私は考えています。

 

●社会システムへの思考実験としての「SF」

主題的とはどのようなものでしょうか。ダルコ・スーヴィンというSF評論家がいるのですが、彼は『SFの変容』という著作で、16世紀のトマス・モア『ユートピア』を、SFの端緒のひとつと見ているわけです。『ユートピア』には、当時のイギリスで行われていた「囲い込み」運動(エンクロージャー)、地主が羊毛の取り引き量を増やすために牧場を拡大し、そこに住んでいた民を追い出す運動ですが、それを批判する下りが出てきます。

モアが描くユートピアには「囲い込み」のような、非人道的なことをする者はいない。ひとつの島に批評的なイメージを集約しつつ、それを国家と対比するわけです。宇宙船も光線銃も『ユートピア』には出てきませんが、社会をめぐる環境の変動という意味で、『ユートピア』は「SF」の祖型であると言えるでしょう。

事実、現在も「SFマガジン」で樺山三英という優れた作家が、『ユートピア』やオーウェルの『1984年』や、ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』など、ユートピアを主題に連作を書き続けています(注:2012年、『ゴースト・オブ・ユートピア』と題して早川書房より刊行)。樺山さんがSFという枠組みのなかで「ユートピアSF」を書いている、その問題意識には、スーヴィンと相通ずるところがあると思います。『ユートピア』が体現している、現実とは別の社会システムを思考実験として導出すること。それが「SF」というジャンルの枠組みを決定づけているのではないかと私は考えています。

作家・批評家のブライアン・オールディスによれば、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』から始まるとされるSF史の流れも、こうした、「近代文学」の一面としての「SF」の流れと密接に関わってきます。「SF」が文学ジャンルとして大成したのは、産業革命と出版産業の興隆、特に一般大衆への出版文化の浸透という経緯を経た後、すなわち、アメリカのパルプ・フィクションの勃興を経ているのですが、優れた「SF」は『ユートピア』が体現していたような、文明批評、社会批評的な側面を強く保持しているのではないかと思います。

架空のモデルを設計することで、テクノロジーや社会システムの工学化を問題にすること。事実、『ユートピア』で槍玉に挙げられた「囲い込み」も、明らかに近代社会における工業化の産物ですが、それと人間性の変化を主題とした思考実験。ここに、SFの特性は根ざしているのではないでしょうか。

 

●テクノロジーとフェティシズム

ただ、20世紀の「SF」には独自の特徴があります。ひとことで言えば、今までに類を見ない、テクノロジーの高度化による社会のドラスティックな変化です。例えばアポロ11号が月面に着陸したのは1969年、今からちょうど40年前のことで、それまで人間が月の上を歩くことはできませんでした。

「SF」の黄金時代は、1940年から50年頃だという意見があります。アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインライン、レイ・ブラッドベリ、フィリップ・K・ディックら、「SF」というジャンルを大成させた巨匠たちが、本格的に活躍を始めたのはこの頃のことです。彼らは自分たちが小説で考察したヴィジョンというものが現実として具体化する様子を、目の当たりにしてきました。ただ、「SF」というジャンルが成熟していく過程で、工学的なヴィジョンだけではなく、テクノロジーと社会の変化の内部で人間性がどう変容するのか、という問題も真摯に問われはじめました。

「SF」内で、そうした問題について考察した最初の作家は、先日亡くなったJ・G・バラードです。バラードの作品は「SF」の枠を内側から食い破るようなもので、時代の病理を赤裸々に暴き、私たちの世界認識を更新させてくれます。現代社会を理解するにあたって、バラードの小説は、必須の教養としても過言ではないでしょう。

20世紀に入り、ロケットの到着によって宇宙が開発され、気象衛星や衛星放送などのテクノロジーが具体化するわけですが、20世紀的な科学技術の発展は、ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾による大量死といったような悲劇をも生んでしまいました。ロケットや原子爆弾といったテクノロジーが、どこか手の届かないところにある遠いものではなくなったときに、現代人の心性としては、日常生活の延長線上にあるものとして、テクノロジーは一種のオブセッション、フェティシズムの対象となるようです。

バラードの小説でテクノロジーへの執着を端的に表しているのが、1964年に書かれた「終着の浜辺」という短編です。B-29で日本を爆撃した元飛行士がエニウェトニク環礁の水爆実験場を訪れ、日本人医師の死体と、哲学的とも言える内的な対話を交わすという作品ですが、内的な対話と言っても、内面描写は、全然ありません。そもそも、会話がほとんどない(笑)。ただ見ているだけ、歩き回っているだけ。もちろん、ストーリーらしいストーリーもありません。ただただ、水爆実験場の荒涼とした、しかしながら蠱惑的な風景を執拗に描き出すバラードの筆は、なまなかなメッセージ以上に、私たちのテクノロジーへの執着を明るみに出してくれます。

「終着の浜辺」では語り手が、テクノロジーの内容(例えば原爆のメカニズムだとか)について詳細に説明するのではなく、原爆と人間の関係についての関係性そのものを、あくまでも「語り」によって表現しています。これは、珍しいことです。私は「SF」について書かれた評論へできるだけ目を通しているつもりですが、なぜか「語り」の性質が問われる機会が少ないように思えてなりません。

黄金期の「SF」が、宇宙旅行のような古典的な「SF」のテーマを主題にしていたとしたら、バラードのような作家は「内宇宙」、すなわち人間の内的世界を主題としました。それが、60年代のSFを特徴づける要素と言ってかまわないでしょう。きわめて大雑把なまとめになりますが、続く70年代には「フェミニズム」が重要なテーマとなり、80年代にはコンピュータ・ネットワークを中心にした「サイバーパンク」がブームとなる。以後は「ナノテクノロジー」や「シンギュラリティ」が着目されるといったように、主題となるテクノロジーそのものに目を向けられる機会は比較的多いような気がしますが、一方で、テクノロジーや主題、作品に籠められた思想や、肝心の「SF」という物語ジャンルの「語り」については、批評的に問い直される機会が存外少なく、それが「SF」をかえって畸形化させているようにも思えます。

 

●ナラティヴの定義は難しい

それもそのはず。「語り」について考えることは、なかなか困難な仕事なのです。そこで私が補助線として用いるのが、「ナラトロジー」という考え方です。ナラトロジーとは、英語のnarrativeについての学問ということで、いわゆる「お話」についての理論です。思い切って大胆にパラフレーズしながら、その本質を考えたいと思います。

大学や教育機関において、物語論や言語哲学について学んだ人は、エクリチュールやパロール、シニフィアンやシニフィエといった術語を耳にしたことがあるかもしれません。これらの術語を駆使して内実に踏み込むことも可能ですが、今回はそのような方向の議論はせず、あえて「ナラトロジー」を、“開かれた”理論として考えてみます。「ナラトロジー」は自由な理論で、誤解を承知で言えば、みんながみんな、好き勝手なことを言っていると思っていい、というのは放言が過ぎるでしょうか(笑)。

どういうことかと申しますと、「物語る」行為は、神話的とも呼べるほどの、人間の本能の一つだと私は考えておりまして、客観的に定義付けても、そこから逸脱するところがあるのではと考えているのです。つまり理屈としては筋が通っているように見えても、どこかそれをはみ出す余剰がある。上手、下手は問わず、「物語る」ことはできるのだとしたら、「物語る」ことは本質的に開かれた、普遍的な営為でなければいけないのです。

 

●昔話や物語の原像が示すもの

「近代」に入って、文学やあるいは人間の形が問い直された際に、物語の原型として、昔話であるとか、伝承の収集が盛んに行われました。誰でも物語ることは可能であるならば、その紀源を探れば、近代に穢されていない、理想的な人間の原型像のようなものが手に入るのではないか。そのような思惑が、どこかにあったのかもしれません。

ドイツで言えばグリム兄弟が、「赤ずきんちゃん」など、ドイツの民話を集めました。フィンランドでは神話的な民族叙事詩の『カレワラ』が、エリアス・リョンロートによって集められました。アイルランドでは、『オシアン』のマックファーソンや、詩人のイェイツが、ケルトの民話を聞き書きで集めました(『ケルトの薄明』)。日本では、柳田国男の『遠野物語』などが、特に有名ですね。

さて、ロシアのウラジミール・プロップという批評家がいまして、その人はこうした民話を読んで、あることに気がついてしまった。こうした物語は、みんな同じような構造をしている、と。ストーリーはいくつかのパターンに分けられる。日本の「浦島太郎」と、ドイツの民話を起原とする「リップ・ヴァン・ウィンクル」は、登場人物こそ違うが、同じ構造だ。こうして、有名な、物語のパターンをカードにして分類するという作業が生まれたと言います。ただ、いささか誤解されているのですが、プロップはその先にこう付け加えています。「確かに同じ話だ、なのに面白い」と(会場笑)。

なぜ面白いのでしょう。それは、各々のお話に、物語を収集してきた土地独自の、土地柄だとか、匂いだとか、そういうものが現われるからです。むしろ、語りは、そうした実体化しづらいものを表現させなければならないのではないか。

なので「SF」に引きつけますと……。「ナラティヴ」の仕組みに着目すれば、テクノロジーの種類だけでは見えなかった、テクノロジーと人間性についての新たな着眼点が得られるのではないでしょうか。このような問いが、立てられます。つまり、学問的に正確な「ナラトロジー」、つまり「ナラトロジー」の定義とは何かをこねくり返すのも大事ですが、また一方で、特定の作品を語る際に、作品を構成する「語り」の仕組み、ひいては作品の表現そのものを、より現場的な視点で考えるのも重要です。

繰り返しましょう。「ナラトロジー」とは何かを一面的に定義することは困難です。
今まで、長々と「SF」とは「文学」とは、ということを語ってきたのも、結局は「ナラトロジー」の「語り得ないもの」について輪郭を描く、苦肉の策というわけです。

『ギルガメッシュ叙事詩』から考えれば、人間が記録に残る形で物語を記録し始めてから、およそ5000年は経過しています。そのなかには、幾多もの歴史があります。この歴史を無視して、ナラティヴは成立しえない。「ナラティヴ」を考えることは、個人のナラティヴの背景に根ざした、無数の先人たちの「ナラティヴ」に耳を傾けることでもあるのです。

(続く)

―――――――――――――――――――――――――

※11月6日に、岡和田晃による、初の批評の単著が発売されます。
11月4日(月・祝)の第17回文学フリマでも、特別価格で先行販売されます(オ-25「幻視社」)。

この講演の問題意識を引き継いだ内容となっていますので、お読みいただければ幸いです。

岡和田晃『「世界内戦」とわずかな希望 伊藤計劃・SF・現代文学』(アトリエサード/書苑新社)

※同じく11月4日に開催される「ゲームマーケット2013秋」で、RPG『ラビットホール・ドロップスi』が頒布されます。Analog Game Studies(AGS)の齋藤路恵氏がメイン・デザイナーをつとめ、成人発達障害当事者団体イイトコサガシと、ゲーム創作者集団エテルシア・ワークショップ、およびAGSのコラボレート作業で完成に至った新作です。

★ご注意ください!

この冊子は成人発達障害当事者会「イイトコサガシ」のワークショップにおいて用いられる会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)のルールと、そのガイダンスです。一般的なゲーム商品とはその性質が異なりますので、ご理解の上、お読みください。ラビホアイ”で、お話づくりを通してコミュニケーションを楽しく試そう!

やさしいRPG「ラビットホール・ドロップス」から生まれた、完全に未経験者向きのRPGワークショップ「ラビットホール・ドロップスi」のすべてを解説。7つのステップと「リドラー」システムで、みんなが即興のお話作りを体験する2時間半のプログラム。
ハプニングに笑い、みんなのいいところを見つけて、とても心が解放されるような、素敵なひとときを過ごしませんか?(裏表紙より)

ゲームマーケットブース情報 11月4日(月・祝)332番 エテルシアWS

ラビットホール・ドロップスi 001

『ファンタズム・アドベンチャー』を語ろう(第2回) わたしと『ファンタズム・アドベンチャー』

仲知喜 (協力:岡和田晃、田島淳、齋藤路恵、高橋志行)

学生時代、ぼくは会話型RPGに夢中でした。放課後セッションにとどまらず、登校前に友人宅でダンジョン探索。ぼくと同世代の方々――現在30代後半から40代――共通の思い出だと思います。その頃遊んでいたゲームは、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(クラシック)、『ストームブリンガー』(第2版)、『クトゥルフの呼び声』(第2版)、『指輪物語ロールプレイング』(MERP)、『トンネルズ&トロールズ』(第5版)……。懐かしい名作・傑作ばかりです。そんなゲームの中でひときわ記憶に残る作品があります。それが『ファンタズム・アドベンチャー』です。
61rJBSbMgZL


『ファンタズム・アドベンチャー』は、1988年、大日本絵画から出版されたファンタジーRPGです。 このゲームのメイン・デザイナーは、トロイ・クリステンセンさん。当時、大日本絵画は、「ゲームグラフィックス」というアナログゲーム雑誌を出版しており、『ファンタズム・アドベンチャー』は「ゲームグラフィックス」の看板ゲームでした。
ルールブックの裏表紙には次のようなうたい文句が書かれています。

 地球から遠く時と時空を隔てた惑星モノカン。そこには様々な形態から進化した知的生物と、彼らをはるかに上回る種類の生物が棲んでいます。惑星上の小さな大陸アニス。そこがロールプレイの出発点になります。あなたは、存在する多くの知的生物の中から、好きな種族をキャラクターとして選んで下さい。そして、そのキャラクターを第2の自分として、血に飢えたキャラクターや死の罠の数々が待ち受けている果てしない冒険へ挑んでゆくのです。ファンタズム・アドベンチャーは、大いなる危険と終わることのないスリルに満ちたファンタジー・アドベンチャーです。

『ファンタズム・アドベンチャー』はどいうゲームか、一言で言い表すのは難しい。
プレイヤー・キャラクターとして選択可能な種族はエルフ、ジャイアント、ピクシー、セントール、オーク、ガーゴイル、トレント(!)、マンティコア(!!)、スリッジ(アメーバ……)など基本ルールブックだけで79種類。キャラクターは「氏族」という中世のギルドのような同業者組合に所属することで、いわゆる『クラス』のような特徴を持ちます。同時に、キャラクターのレベルアップは「氏族」内の地位の上昇として表わされます(地位が上がるにつれ、使用可能な武器やサービスなどさまざまな恩恵が解除される仕組み)。すべてのスキルには決定的成功と致命的失敗表が設けられ、戦闘には鎧や武器の消耗、ダメージによるショック、特定部位への攻撃、大きさの違いによるダメージの変化や命中修正など細かいルールがあります。魔法使いは独自の魔力獲得パターンや行使のスタイル(ジェスチャー、詠唱、踊り、歌唱など)を自由に選択できます。いくつもの「神話」が共存するエキゾチックな宗教設定。そして、ファンタジーゲームの世界設定といえばトールキンに代表されるハイ・ファンタジーが多い中、大勢の異種族と社会体制、魔法と異形の科学が共存する惑星モノカンは、ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』 や M.ジョン・ハリスンの『パステル都市』のようなサイエンス・ファンタジー色の濃い世界設定でした。

Pastel
「異色」。『ファンタズム・アドベンチャー』にふさわしい言葉です。

わたしのゲーム経験でもファンタズム・アドベンチャーは特異な位置を占めています。そもそも、異種族(デミヒューマン)といえばエルフ、ドワーフ、ハーフリングぐらいしか遊んだことがなかったのに、いきなりスリッジやマンティコアが選択可能になるのですからね。身長3メートルのジャイアントがどれだけひっそり行動するのに不向きなのか身を持って体験したり、トレントの盗賊が鍵明けに挑戦するさまを想像してみんなで大笑いしたり、このゲームは強烈な印象を与えてくれました(笑)。

でも、失礼を承知のうえで言わせてもらうと、『ファンタズム・アドベンチャー』は謎の多いゲームでした。その頃、遊んでいたゲームの中では飛び抜けて個性的なゲームでありますが、振り返って考えると自分がその魅力を理解していたとは言い難いのです。

このたびのトロイさんへの質問には、そういった疑問をぶつけてみたいという気持ちがありました。「ファンタズム・アドベンチャーとは一体なんだったのか?」

トロイさんの回答は、残念ながら、ぼくが予期していたものでありませんでした。例えば、「ファンタズム・アドベンチャーの種族の多いところはラリー・ニーヴンの『リングワールド』に影響を受けたんだ」そういうデザインコンセプトの答えを予想していたのです。ですから、しばし、悩んだんですよ。なんだろうこれは、と。この人はなにを隠してるんだ(笑)。

もやもやした気分のまま数日が過ぎ、気が付きました。古いRPG雑誌に載ったキャンペーン設定の作成に関する記事を思い出したのです。そこで紹介されていたのは、「世界設定を自作するにあたり、いきなり膨大な設定を決めたりせず、最初はプレイヤーの暮らす村や町など(いわゆるホームタウン)周辺のみの設定にとどめ、その後、キャラクターの行動範囲が広がるのに合わせて(GMのシナリオの展開にあわせて)どんどん設定を拡張していく」という手法です。

そこでパッと閃いた。つまりトロイさんは最初から、今ある形の『ファンタズム・アドベンチャー』を想定してデザインを行なったというよりも、プロトタイプでのプレイを重ねながら、少しずつ手を加え、『ファンタズム・アドベンチャー』を仕上げていったのではなかろうか。実プレイの積み重ねによって生まれた記録の集合体が『ファンタズム・アドベンチャー』なのかも知れない。

そういえばわたしにも似たような経験があります。むしろ、手元にあるのは一冊のルールブックだけ、世界設定も追加ルールも英語版で入手するのも読むのも夢のまた夢なんて状況では、ゲームのプレイはそうせざるを得なかったんですよね。名前も考えてなかった小さな村がホームタウンになり、ふとした拍子に登場したNPC(ノンプレイヤー・キャラクター、GMが演じるキャラクターのこと)がその後重要な役割を持つようになり、全滅寸前のパーティへの救済策として都合主義もはなはだしいオリジナルのマジックアイテムを登場させて後付で隠された伝説をひねり出したり、あるシナリオで救出した伯爵の娘とキャラクターの一人が婚約したり……。

あの当時の記録を集大成したら、ちょっとしたD&Dの自家製ルール集兼キャンペーンガイドできるかもしれません。あの当時は多くのゲームマスターがそうだったように記憶しています。何層にもなる手書きダンジョンマップ、部屋ごとの細かい描写、NPCのリスト、人間関係図、王国とその近隣国の設定など、ノートにまとめていませんでした?
というか、あのグレイホークやフォーゴトンレルム、グローランサだって、そういう過程を経て創られていったんですよね!

トロイさんの発言から『ファンタズム・アドベンチャー』の成り立ちについて想像を膨らませるうちに、だんだん『ファンタズム・アドベンチャー』に不思議な親近感がわいてきました。同時に、昔懐かしいゲームをもう一度じっくり遊んでみたいという気持ちが高まりました。

しかし、この年齢になると、学生時代のようにはゲームに時間を割けません。それに、人生には「ゲームどころではない」という事態が人生には思いのほか多いです。

昔のようには遊べないかもしれません。でも、ある時期、ある世代、RPGを遊んだ人たち、自作の世界設定を作り、壮大なキャンペーンを行なっていた人たちがいた。そんなゲームの「達人」――彼らのような人をこう呼ばせてください――が、腕を錆びさせてしまうのはあまりにももったいないんじゃないか。

最後に、唐突になりますが、わたしの体験談をお話しさせてください。わたしのゲーム関係の知人に東北地方太平洋沖地震で被災した方がいます。彼の家は、地震の被害は最小限だったそうです。それでも、断水や停電が1週間以上続いたそうです。彼とオンラインで連絡が取れたのが震災発生から2か月以上後のことでした。心配する私に彼が笑ってこう言っていました。「なんとかやってる。いやー、ゲームどころじゃないよ」。そのあとでいつものようにゲームの話題になりました。わたしから見た彼はいつもの会話ができて心底ほっとしているようでいて、どこか、なんといえばいいのか、壮絶でした。それ以来、ぼくの中にある考えが浮かぶようになりました。

「ゲームのある日常とは何か」

実のところ、まだ、答えは出ていません。
「ゲームどころではない」という事態が人生には思いのほか多い。という事実は40年も生きていれば身をもってわかっているつもりでした。でも、その時初めて、我々がゲームを楽しんでいる日常っておそろしくあっさり崩壊するもんなんだと、痛感したのです。

そこで、こう自問する。

「だからこそ平凡な日常で、ゲームにしかできないことはないだろうか?」

難しいです。
だが、やってみないことにはならないと思うようになりました。少なくともその価値はある。なにより、ゲームの素晴らしさは自分が一番よく知っているからです。

「ここらでいっちょう時間も手間のかかるゲームにしっかり取り組んでみよう」

そう考えながら、数年ぶりに押入れから出してきた『ファンタズム・アドベンチャー』を手近な本棚に 戻したのでした。

「忙しい」を口実に楽な方に逃れてはいないかと自戒の念も込めつつ。

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第15回)

草場純 (協力:岡和田晃、高橋志行、八重樫尚史)

――――――――――――――――――――――――――――――――

◆第14回はこちらで読めます◆

――――――――――――――――――――――――――――――――

伝統ゲームを考える上で欠かせないのはその受容の問題である。これは何も伝統ゲームに限らないが、最近の新しいゲームと違って、広く一般化した伝統ゲームは、けた違いに多くの人々と層に深く受け入れられているということが、しばしば見られる。そのようなゲームは、独特の「相」を形成していると見ることができる。

そうしたゲームには、囲碁、将棋、麻雀のように、現在もまたおそらく将来も、多くの担い手(プレーヤー)のいる(であろう)ゲームもあれば、連珠のようにそれほどはたくさんのプレーヤーが(現在は)いないのではないかと思われるゲームもあり、盤双六や地方札のように現在はプレーヤーのいないゲームまで、さまざまな様相を見て取ることができる。だがそうしたこととあまり関係なく、このような伝統ゲームに共通する特色もある。

現在、日本にはしっかりしたシャンチー協会があるが、かつてはそうではなかった。40年~50年前には、日本で象棋(シャンチー)の指せる人は、留学生や「華僑」の人々を除けば珍しい存在であった。だが、ゲームを研究する人々はその時代でも少数ながらいて、中国語の本を読み解いて覚えた人もいた。私のゲームの師の一人である、故・丸尾学氏もそうした一人であり、私は丸尾氏と中将棋やら大将棋、大々将棋、広将棋、シャンチー、チャンギ、マックルックなどを指したものであった。その丸尾氏から聞いた逸話であるので、伝聞であるが、興味深い話があるので紹介したい。

丸尾氏の更に先輩に当たるような人々が、内輪の「シャンチークラブ」のようなものを作り、仲間内で対局していたそうだ。丸尾氏も囲碁のプロになるか、将棋のプロになるか迷ったというほどの人で、そのクラブの人たちもそれを上回るような人たちだったので、みなそれなりに上達し、仲間内の名人戦なども開催し、「名人」を選んだりしていたという。周囲への普及も試みたらしいが一向に広まらず、また自分たちの実力もいかほどであるか、定めがたい。そこでこれは一つ本場に行って、腕試しをしようということになり、「名人」はじめ何人かが、あまり「つて」も求められぬまま、訪中したそうである。当時の旅行事情がどうだったか私にはよくわからないが、上海かどこか(場所は定かではありません)に行って、そこのホテルに泊まったそうである。ところがたまたまそのホテルのボーイが、「象棋? 指せますよ。」てな話でさっそく「名人」と対戦したそうである。すると「名人」は、手もなく捻られたそうなのだ。

話はここまでで、その後どうしたかまでは聞き漏らしたが、考えてみればありそうなことである。

例えば、遠い外国で、日本の将棋を紹介記事かなんかで覚えた人たちが、これは面白いとクラブを作り、仲間内で指し合って名人を定めたとして、その人が日本に来て、ホテルに泊まり…… と考えてみると考え易い。

これはある程度確立した伝統ゲームには共通した特色で、そうした伝統ゲームのプレーヤーは、幅広い層まで高い技量を保持していることが多いのである。

逆に言うと、ゲームはルールを理解できる能力さえあれば、だれでも試みることはできるが、それだけではかなか高い技量は得られないということであり、伝統ゲームではそれが露わになるのである。

例えばチェスは国際大会が非常にたくさん開かれるゲームではあるが、日本の成績は振るわない。日本にはグランドマスターはもちろん、まだ一人のインターナショナルマスターもいない。 『ヒカルの碁』をもじって「ヒカルのチェス」と呼ばれた中村光氏も国籍については私はよく知らないか、少なくとも文化的には私の身の回りのいわゆる日本人と全く同様とは言えないように思う。

だがこれは奇妙なことである。前回にも述べたように、中国人の頭脳がシャンチー向きにできているとか、ロシア人の頭がチェス向きだとか、日本人は将棋に適性があってチェスには向かない、などということはあり得ない。それは前述の中村氏に照らしても明らかだろう。

であるなら、上記のよう現象はなぜ起こるのだろうか。「民族音楽」というジャンルがあるが、「民族ゲーム」という概念は果たして成立するのだろうか。それが無理だとしても、多少誇張した不正確な印象論にはなるが、「中華民族は象棋が強い」と見えるような、前述した類の現象があると感じられるのは、一体なぜなのだろうか。

現在、人種や民族の問題は極めてデリケートで扱いに慎重を要する話題である。確かに生物学的には人類は一属一種であり、その故郷がアフリカ中南部であることは学界の定説である。その意味で人類は一つであり、「人種」が観念の産物であることは明らかである。ましてや「民族」は、極めて政治的で相対的な概念でしかない。さはありながら、かたやいわゆる民族紛争やら、領土問題、はては「民族浄化」に至るまで、「民族」概念が猛威をふるっているように見えるのも、また現実である。すなわち「民族」が虚構であるのは確かだが、それは決して絵空事ではなく、現にリアルな力を持ち得る虚構である。では、それはなぜなのだろうか。

これに対して、前回までに縷々述べたように、ゲームも構造を持つある種の虚構そのものである。ここで私が試みたいのは、「民族ゲーム」というような概念を持つことによって、二つの虚構の関係性から逆に、両者それぞれの構造が見て取るのではないか、という仮説なのである。社会とゲームの通時的・共時的な関係性を「ゲームの相」と呼ぶならば、社会的虚構である「民族」からは、ゲームの相はどう見えるのだろうか。
なお、「民族」という概念のうちには、例えば「人種」や「エスニシティ(出自を軸にした文化的規範)」といった要素が分かちがたく結びついている。ただ、本稿では、敢えて日常的かつプレーンな文脈を第一に想定して「民族」の用語を用いることにしたが、「人種」にまつわる差別の容認や助長を意図したものではまったくない。本稿が目指すのは、ゲームとの関係性から逆説的に「民族」という観念に迫っていくことで、ゲームを通じた「エスニシティ」の特性を素描するとはどのようなことかを考える、一種の文化論である。

ここで問いを繰り返すならば、「民族」と言語や音楽が結びつくように、ゲームもまた「民族」と結びつく(ように見える)のは一体なぜなのだろうか、ということである。

そしてそれに対し、答えを先に言うならば、そこが「受容の問題」なのである。

「民族」と言語や音楽が結びつくように、「民族」とゲームも結びつくと仮定したとしても、前回述べたようにそれらの結びつき方は同じとは言えない。それは、言語・音楽・ゲームの内実が同等でないので、それぞれと「民族」との結びつきが同等ではないのは当然ではある。ではそれらはどう違うのだろうか。

私は日本語を母語にするが、当然だが先天的に日本語をしゃべるわけではない。私が日本語環境の中で育ったから、日本語を操るのであって、それ以外の理由ではない。同様に私は納豆が好きなのだが、それは納豆環境に育ったからというのが、最大の原因の一つであろう。こうした環境の総体が「民族」なのかも知れない。一つ一つは個人的な受容であるが、それがある共同体内に繰り返されることによって、一見したところ世代を超えて存在し続けるように見えてしまうのだから。
しかし、特に注記しておきたいのは、これは単にパトリオティズムの説明でしかないという一点である。このようにして、確かに民俗あるいは「民族」の一部は形成されるものかも知れないが、それと国民国家としての民族ナショナリズムとの間には、似ているように見えて大きな飛躍がある。言語や音楽に関しては、より両者の親和性が高く、より両者が混交して考えられやすい。その点、ゲームはその後天性(後述)によって、この結びつきから比較的自由であり、新しい視座を与え得るのではないかと、私は考えるのである。

食文化は幼少期の体験が大きいので、その意味では言語と似ているかも知れない。一方音楽はどうだろうか。私は雅楽は嫌いではないが、民謡や浪花節などのいわゆる邦楽(の一部)はあまり好きではない。この例はもちろん、文化のあくまでも個人的な受容の話である。当然、邦楽の大好きな人々もたくさんいるだろう。だが当たり前だが、日本語を話す日本人に比べれば、邦楽好きの日本人は圧倒的に少ないように思える(ここで言う「邦楽」に流行歌やJ-POPなどを含めれば、また様相は異なるかも知れないが)。すなわちここには、個人的な受容を超えた、社会的歴史的な受容の問題がかかわっていると、私には思えるのである。そこに、前回の漢詩かるたと百人一首の交代劇で述べたような、文化の歴史的軋轢を感じるのだが、いかがだろうか。

私は長年小学校の教員をやり、低学年では音楽を教えたこともあるので、よく知っているが、「学校唱歌、校門を出ず。」という言葉がある。現在では邦楽も見直されているとはいえ、学校教育の音楽科の基本は、井沢修二以来の洋楽である。音楽室の壁の語るところによれば、音楽は長いこと鬘をつけたバッハ・ヘンデルから始まることになっていた。思えば、学校(と軍隊)は、近代の「装置」である。漢詩かるたを捨てて百人一首を受け入れたのは、いわば民衆だが、音楽は制度として装置に組み入れられたのである。学制が敷かれたとき、三味線や琴は捨てられ、足踏みオルガンがこれに替わったのである。

明治五年末に春節を捨てたとき、日本の暦は脱亜を果たした。だが同時に、日本は東アジアの時制から引き裂かれてしまった。同様に、日本の音楽は、校門の内と外に引き裂かれてしまったと言えよう。もちろん、その善悪をここで問うものではない。そうした歴史性を踏まえて、考えを進めようと言うのにすぎない。

興味深いのは、この同じ井沢修二が、方言撲滅に血道を上げたということである。近代国民国家は、国境を欲し、国旗を欲し、国歌を欲し、国語を欲し、以て国民を創ろうとする。日本の小中学校で教えられるのは、いまだに日本語ではなく、国語である。だが、面白いことに、「国ゲーム」は作ろうとはしない。 全ての言語は本質的に方言であるから、「標準語」に意味はないが、均質な国民を夢想する近代国家は、均質な国語を強制する。学校が装置たる所以である。

ではゲームにおける方言とはなんだろうか。それはローカルルールであり、地方札であり、伝統ゲームが比定されるかも知れない。だがありがたいことに、これらは制度的に標準化を強制されることはない。なにしろ「国ゲーム」はないのだから。

前回まで述べた、日本各地の伝統ゲームのいくつかは、地理的に隔離されたところで発達している。例えば掛合トランプが遊ばれている土地は、今はよい道路がたくさんできているが、昔は訪ねていくのにそれなりに苦労したであろう内陸である。白久保のお茶講は、文字通り山ふところだし、ウンスンカルタは人吉盆地の中で保存されていた。グールドの進化論ではないが、一定程度交流の制限されたところで、独自性のある豊饒な文化が育つのである。方言も伝統ゲーム(の一部)も同様である。

このことは、地域共同体のゲーム受容という観点で、先へ行ってもう一度振り返ろう。

さて、文化には様々な領域があるが、言語、音楽、ゲームと並べてみると、共通するところと、先に少し触れたようにそれぞれ違うところがあるのに気づく。これにさらに衣・食・住などを加えて考察しても面白いかも知れないが、あまりに回り道になるので、ここは先を急ごう。

これまた繰り返しになるが、言語は後天的に得るものであるが、個人的には先天的に得たものとの区別はつきにくい。私は気が付いたらこの顔だったが、同様に気が付いたら日本語話者であった。これを今、仮に「後天性が弱い」と表現してみよう。後天的に得られるものであるが、あんまりそんな感じはしない、という意味である(後天的に得たのだと強く思えるものが、後天性が強い、というわけだ)。

音楽は後天性が言語よりは強い。食文化も言語より強いと思うが、発酵食品などは後天性が弱いのかも知れない(笑)。ゲームは、「ゲーム」の意味を囲碁・将棋・麻雀・トランプなどのような具体的なアナログゲームに限るなら、これらに比べて後天性がずっと強い。前回述べたように、将棋を指さなくても日本で生きていけるが、日本語を話さずに日本で生きていくのは相当に困難だろう。しかし、ゲームの後天性は非常に強いわけではない。そうでなければ、冒頭で述べたような逸話は起こらない。ゲームの後天性が極めて強ければ、日本人のチェスのグランドマスターが輩出されていてもおかしくないし、インド人の将棋の名人がいても変ではない。スポーツでは相当程度そのようなことが起こっているが、それはスポーツの後天性が強いからである。だがそれでも、例えば大相撲の横綱を輩出している背景に、モンゴル相撲の「伝統」があることは疑えないだろう。後天性が最強と言うわけではないのだ。

ブラジルがサッカーが強いとか、キューバが野球が強いとかが、いみじくも「伝統」と呼ばれたりする。それは実は受容の構造を指しているのである。

では、後天性のほどほど強いゲームは、そのほどほどの強さからどういう性質がもたらされるのだろうか。

これも結論から先に述べるのなら、受容の偶然性、一回性、歴史性がもたらされるのである。

次回から、世界の様々なゲームの、「民族」的受容の相を、具体的に見ていくことにしよう。

――――――――――――――――――――――――――――――――

◆第16回はこちらで読めます◆

――――――――――――――――――――――――――――――――

『ファンタズム・アドベンチャー』を語ろう(第1回) トロイ・クリステンセンさんへの質問

仲知喜 (協力:岡和田晃、蔵原大、高橋志行)

先日、たまたま会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)『ファンタズム・アドベンチャー』(1988年、大日本絵画)のメイン・デザイナーであるトロイ・クリステンセンさんとオンライン上で言葉を交わす機会がありました。舞い上がってしまったわたしは、さっそくトロイさんに、『ファンタズム・アドベンチャー』についての質問を、拙い英語で投げかけ、簡単なインタビューを試みてみました。その記録を再構成し、ご本人の許可をいただき、Analog Game Studiesで公開させていただきます。

61rJBSbMgZL


トロイ・クリステンセンさんは、『ファンタズム・アドベンチャー』シリーズとして『ノーザンエリア』(ワールドガイド)、『亡霊の砦/洞窟の死神』(ゲームマスター・スクリーン&シナリオ集)、『水竜湖の暗黒城』(シナリオ集)、『霧雨の島』(キャンペーンシナリオ集)、『アドバンスド・ファンタズム・アドベンチャー』(新版ルールブック)に関わり、またSF-RPG『マルチバース』のメイン・デザイナーとしても知られています(すべて大日本絵画から刊行)。
『ファンタズム・アドベンチャー』は、現在も新しい版のデザインが進められております。最新情報は、トロイ・クリステンセンさんのウェブサイト“Emerald Tablet”をご覧ください(英語)。
その他、英語圏では、『アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下AD&D)第2版のサプリメント(追加設定資料集)“Castle Guide”(共著、未訳)や、オリジナルRPG“Bloodbath”(未訳)といった作品も発表なさっています。

worldguide1.jpggmscreen1.jpgmistyislands1.jpg

————–

仲:ミスター・トロイ・クリステンセン、あなたがデザインしたロールプレイングゲーム『ファンタズム・アドベンチャー』についてお聞きしたいと思います。刊行当時、ぼくは中学生でしたが、本当に大好きなゲームでした。ファンタジーRPGと言えば『ダンジョンズ&ドラゴンズ』しか知らなかったので、『ファンタズム・アドベンチャー』には驚かされました。
『ファンタズム・アドベンチャー』をデザインし、出版するまでの経緯についてお聞かせください。

トロイ:わたしは東京の三鷹にある国際基督教大学の学生でした。当時わたしは22歳で、その年に、このうえなく素晴らしい経験をしました――日本は素晴らしい国です。日本の文化も、人々も、みな本当に最高でした。
『ファンタズム・アドベンチャー』は、初期のロールプレイングゲームに強い影響を受けています。『ダンジョンズ&ドラゴンズ』、『メレー』(*1)、『ルーンクエスト』、『ヴィランズ&ヴィジランテス』(*2)、その他、数多くのクラシカルなRPGあっての作品でした。思い返せば、わたしがこのゲームのルールを初めて書いたのは1980年ごろ、まだ高校生のときでした。最初の版か次の版、このゲームは単にタイプで打ち(ええ、その頃はこれしか手段がなかったんです)、それをコピーしただけのものでした。
1986年、わたしは来日し、交換留学生として三鷹の国際基督教大学に入学しました。地元に置き去りにしてきたゲームや、一緒にゲームをプレイしていた仲間が懐かしくなって、新宿に出た際に『ゲームグラフィックス』誌を買ってみたのです。雑誌の最後に、編集部の住所が英語で書かれていたので、昔ながらの方法で手紙を出しました(当時、Eメールはありませんでした)。驚いたことに、また嬉しいことに、それを読んだ編集部の人たちは、編集部に遊びに来るようにと言ってくれたんです。
それからのことについては、ご承知のとおり。わたしたちはすぐに打ち解け、彼らは日本のゲーム・ファンへ向けて、『ファンタズム・アドベンチャー』をデザインするように依頼してきたのです。

仲:『ファンタズム・アドベンチャー』には沢山の種族が出てきますよね。

トロイ:ええ。わたしは、種族はいっぱい必要だろうと思ったんです。日本のゲーム・ファンに向けて出すにあたって、編集部のアドバイスに従い、より日本文化に馴染むような種族を付け加えました。だいぶ時間が経ってしまったので、どれが編集部の依頼で加えたものか詳しくは憶えていませんが、ラビットマンと、その他いくつかの種族だったと思います。
私はこのゲームのごく初期の頃から、身長6インチのフェアリーが、身長12フィートのジャイアントと一緒に(ともにプレイヤー・キャラクターとして)冒険できたらどんなにワクワクするだろう、という思いがありました。このルールはなかなかうまく機能し、種族ごとの特徴が出せました。ピクシーがジャイアント並みの腕力を有していたり、ジャイアントなのにピクシー並の腕力しかなかったり、なんてことは、『ファンタズム・アドベンチャー』では決して起こりません。

仲:キャラクターを特徴づける「氏族」という要素が斬新ですね。なぜ『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のようなクラス・システムを採用しなかったのですか?

トロイ:「クラス」のアイデアは、わたしがこのゲームをデザインした当時、あまりにもとらえどころがないものと思えたのです。さらに何らかの技倆に特化した組織という雰囲気を出したいと思っていました。たとえば「陸軍」、「海軍」、「空軍」、「海兵隊」という用語から感じるようなね。
この考え方のおかげで同時に「氏族」はゲーム世界の物語や伝承とうまく結びつくようになりました。今でこそ先鋭的な考えではありませんが、当時は革新的なルールだと見なされていたのです。将来、エクスパンション・ブックで、特定のギルド内における政治的階層の詳細を説明し、プレイヤーが数多の氏族の指導者となって、ゲーム世界の晴れ舞台で覇権を握れるようにできればと思っていました。

仲:宗教と魔法のルールもユニークですね。

トロイ:神々は「信仰度」に則ってデザインされています。一人のキャラクターは、複数の神々を信仰することができ、それぞれの神に対して様々な態度を取ることができます。そのキャラクターの信仰の度合いが深くなれば、神格はより多くの恩恵を与えてくれるようになりますが、その代わりに、彼の人生にはさらなる制約が課せられることになります。うまくロールプレイを組み入れることを斟酌すれば、なかなかバランスがよく、運用して面白いルールシステムだと思います。
魔法についてはもう少し複雑ですが、このゲームのシステムでもっとも特徴的なものの一つであると自負しています。それぞれの術者が、2つの領域と系統を選択します。領域はそれぞれ能力の一部に結びついています。20の領域と、4段階の魔法の力が設定されているため、どの術者にも、それぞれ固有の特徴が生まれます。「肉体」(体の動き)と「物品」(特定の物品を持つ)の両方を取得した術者が2人いたとします。1レベルの「肉体」と4レベルの「物品」を取得している1人目のキャラクターは、呪文を用いるには、指をちょっと動かせばよいのですが、聖遺物については、重たい、ほぼ運搬不可能なほどに大掛かりなものが必要となります。4レベルの「肉体」と1レベルの「物品」を取得していた2人目のキャラクターは、大仰な身振りが必要となりますが、指輪かアミュレットが1つあれば物品としては十分なのです。このルールがあるおかげで、魔法を使う光景が、具体的に思い浮かべられるようになっていると思います。
『ファンタズム・アドベンチャー』のシステムには、クールなルールがたくさん含まれています。いま日本であまりプレイされていないのは、本当に残念ですね。
(筆者注:魔法のルールの説明は、Phantasm Adventures, 3rd Edition [English]に準拠していると思われます。基本は『アドバンスド・ファンタズム・アドベンチャー』のルールと同じです。http://emeraldtablet.wordpress.com/phantasm-adventures/

仲:ああっ、大切なことをお聞きしそびれるところでした。タフィボーゼ(*3)とスリッジ(*4)です。あれはなんなんですか?(笑)

トロイ:いい質問です。ああいう一風変わったクリーチャーのアイデアが、どこから来たのかは自分でもわかりません。このゲームがデザインされてから25年が経ちますが、タフィボーゼやスリッジをロールプレイしたことのあるプレイヤーは一人しか知りません。
『ファンタズム・アドベンチャー』をプレイした人たちは、特定の種族のキャラクターをプレイすることを心から愉しみ、何年も同じキャラクターで続けてゲームをプレイしたりもします。ただ、同じ種族のキャラクターを繰り返してプレイするという例は寡聞にして知りません。わたしは、防御役になる種族――たとえば、ジャイアント・イーグル、ユニコーン、トレントのように、面白いのに、あまり日の目をみない種族――が、もっと注目されてしかるべきだと考えています。

仲:背景世界のモノカンはどういう発想で生まれたのでしょうか?

トロイ:何年もゲームを重ね、また幻想にあふれた世界を夢見ることで形作られました。

仲:丁寧なコメントをありがとうございました。大好きなゲームのデザイナーにインタビューすることができて、とても光栄でした。本当に感謝いたします。

トロイ:こちらこそ、素晴らしいご質問の数々に感謝します。あなたがインタビューしてくれたおかげで、若い世代のプレイヤーが『ファンタズム・アドベンチャー』に触れるための新しい機会が生まれたと思います。

(*1)『メレー』:1977年。メタゲーミングコンセプト社。デザイナーは『ガープス』のスティーブ・ジャクソン。個人戦闘を扱う。「タクテクス」40号に和訳あり。『幻のユニコーンクエスト』(1988年、ホビージャパン)の基本ルールでもある。
(*2)『ヴィランズ&ヴィジランテス』:1979年。ファンタジー・ゲームズ・アンリミテッド社。スーパーヒーローRPG。デザイナーはJack Herman と Jeff Dee。ちなみにJeff DeeはAD&Dのアートを多数手掛けたイラストレーターでもる。
(*3)タフィボーゼ:三足歩行をする、頭が足の下にある種族。かつて、惑星モノカンを侵略しようと襲来をかけてきた種族であるが、現在は祖先に関する科学技術のすべてを失っている。
(*4)スリッジ:アメーバに似た奇怪な種族。高度な知能を有しているが、視覚を持たない。酸の唾を吐くことができる。亜種のエアリアル・スリッジは、攻撃の命中を受けるたびに爆発する確率があり、プレイヤーを恐怖に陥れた。

————————–

インタビュー記事はここまでです。
わたしの突撃インタビューにたいへん丁寧にご回答して頂いたトロイ・クリステンセンさんにこの場をかりてお礼申し上げます。

※2013/4/9 一部修正。

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第14回)

草場純

―――――――――――――――――――――――――

◆第13回はこちらで読めます◆

―――――――――――――――――――――――――

繰り返し述べているが、伝統ゲームはその性格上、滅びたゲームと重なることが多い。今回取り上げる漢詩かるた(詩かるた)もそういう意味では代表的なものである。
カルタは教材として有用であるうえに、(日本人なら)だれもが思いつき、ルールも難しくはなく、少々の努力で製作できるので、現在でも様々なものが作られている。漢詩かるたも、ほかのカルタらに比べれば多い方ではないが、作られている。だがもちろんここで扱うのは、そうした新作ではなく、伝統的なものである。
今回は、伝統ゲームとしての漢詩かるたの盛衰を眺めゆくことで、「ゲームの受容」という問題を考察してみたい。特に焦点を当てるのは、政治(情勢)とゲームの受容の問題である。

伝統的な漢詩かるたは、江戸時代には武家の間でそれなりに遊ばれたらしい。なにせ滅びたゲームであるので、詳しい史料が少なく、詳細は分からないが、例えば白河藩などではかなり盛んに遊ばれたと伝えられる。だが、現在この伝統的な漢詩かるたが残っているのは、桑名の鎮国守国神社だけである。私の調べた限りでは、他には伝統的な漢詩かるたは全く残っていない。桑名には少々申し訳ないが、私が「滅びた」ゲームと言う所以である。
では、どうして漢詩かるたはこうも衰退したのだろうか。もちろん背景には明治維新以来の「漢文的教養」の時代から「英文的教養」の時代への変遷があり、それは現在も進行中であるとも言えよう。だが、それでは「百人一首かるた」の隆盛はどうだろうか。「百人一首かるた」は教養ではあろうが、とても「英文的教養」とは言えず、むしろその反対物だとは言えないだろうか。
「百人一首かるた」は、江戸時代の初期に、貝覆いから発展して成立したと言われる。貝覆いは平安時代以来の「合わせ」遊びであり、滅びた伝統的ゲームの筆頭とも言えそうだが、「百人一首かるた」にそのまま受け継がれて、今も生きていると言うこともできるかも知れない。「百人一首かるた」は、江戸時代にも広く遊ばれたと言われるが、一層広がり誰でも遊ぶようになったのは、むしろ明治に入ってからである。
明治期に衰退を始めた漢詩かるたと、明治期にむしろ隆盛してきた百人一首かるた、こうした受容の変遷の背後に、一体何が見えるであろうか。

ここで、先を急ぐ前に、では桑名の漢詩かるたが一体どようなもので、何が魅力なのか、それを見てみたい。

鎮国守国神社では、現在でも毎年正月に「漢詩かるた」大会を開催していて、だれでも見たり参加したりできる。私も二回ほど参加させていただいた。
取り札は和紙を膠で何枚も張り合わせたもので、そこに毛筆で漢詩が書いてある。対句の後連である。つまり対句の前連が読み上げられている時点で、経験者は後連を探すことができる。この点は百人一首かるたで、経験者が上の句が読み上げられているときに下の句を探すことができるのと、システム的に相同である。つまり、研究や勉強でゲームに上達する、そうした類のゲームなのである。と、同時にそのことが「教養」として評価される。すなわち、かるたはこうした社会的受容を背後に持つゲームなのである。我々の回りからも、百人一首をスラスラとそらんじる人を見つけ出すのは、そう難しくはない。短詩とはいえ、自国の詩、それも千年も前の古典を、百も容易に暗唱できる国民が世界にどれくらい居るのだろうか。これは国際的に統計をとったら面白いかも知れない。ともあれ、短歌に関してはなかなかの「教養」を保持した国民と言っても大外れではあるまい。
このことは、逆にこのゲームの敷居を高くしている。犬棒かるたなら、仮名を読める子ならだれでもできるが、百人一首かるたは、ある程度素養がないと勝負にならない。これはゲームの技術的な奥深さを保証してもいて、本当か嘘か知らないが、競技かるたの名人は、読む直前の読み手の吸った息の音だけで、かるたを取れることがあると聞く。まあ、そこまでいかなくても、技量の差が大きいことは容易に見て取れよう。「百人一首かるた」にはこうしたハザードが設けられていて、技量の奥行きを保証しているのである。
北海道で盛んな板かるたは、上の句を読まない。下の句を読んで下の句を取る「対松」という形式である。だが板かるたには板かるたの独自のハザードがある。いちどやってみればすぐわかるが、板かるたの文字は、何流と言うのか知らないが、変体仮名を用いた達筆である。その独特の筆遣いは、初めての人には簡単には読めない。板かるたは、暗記ではなく識字というレベルでハザードを設け、ゲームの奥深さを担保しているのである。
では漢詩かるたはどうだろうか。実は、これもよくできている。そもそも漢文は見ただけでは読み下せないのが普通である。漢文は本来中国語であり、日本語とは文法が違う。古来、日本ではこれを意訳せず、原文に記号(返り点)を打って、直訳的に読み下す。漢詩かるたの読み手は、読み下し文を読むが、もちろん取り札には返り点を打ってあったりはしない。こうして漢詩かるたは、百人一首かるた同様、経験者が圧倒的に強い(はずである)。伝統ゲームを分析して面白いのは、こうしたゲーム論的に有意の仕組みを、みな形を変えて備えているという発見にある。
もう一つ、漢詩かるたをやって驚くのは、これが「喧嘩かるた」であるという点である。これはかるたをいち早く取った人がいても、それを奪っていいという、なかなかすごいルールなのである。取った札を自分の座布団の下に入れて初めて確定するのであって、それまでは壮絶な争奪戦になる。そこで感心するのが、和紙や墨の強さである。取り合ったら破れてしまいそうなものであるが、和紙を何枚も張り合わせて作った取り札は極めて丈夫なのである。表面はかなりよれよれではあるが、墨の字は読むに堪える。よく「和本は保管さえよければ千年以上保つ」と言われるが、ここからも納得できる。
住職にこのルールの意義を尋ねると「武家の遊びだから」ということであった。「武張った」遊びなのである。現在ではもちろん女の子もやるし、参加者はむしろ女性の方が多いくらいであるが、かつては男だけの遊びであったそうである。

私が訪ねたときは、二回とも二十人余りの参加であった。半数以上が近在の子供たちであり、その親や、祖父母などが加わる。住職の話を聞くと、十年余り前は四十人ぐらいの参加者があり、もっとずっと昔は百人単位の参加者があったそうである。
伝統ゲームの命運ににとどめを刺すのは、「少子化」であるのかも知れない。住職の話からもそれは裏付けられる。それで私はいろいろ調べてみたが、今のところ決め手となるような文献に行き当たってはいない。流行とは言え、遊びごとの社会的状況を文献的に裏付けるのは、否定的であれ肯定的であれ相当に難しい。
ところで、王子にある『紙の博物館』で「かるたと双六展」を開催しているというので、出かけてみた。展示は多くなかったが、漢詩かるたも展示されていた。古いものだが活字印刷なので、明治のものらしいが、桑名のものと同じ漢詩が同様に取り上げられていたところをみれば、その系統であろう。そこで案内の人(学芸員?)に
「これは、いつの時代に遊ばれていたのですか?」
と、尋ねてみた。すると、
「江戸時代には盛んだったようですよ。」
とのことである。そこで
「どういう人たちが遊んでいたのですか?」
と尋ねると、
「たとえば寺子屋で、漢詩を覚えさせるための教材として使っていました。」
とのことであった。しかし一般的にどこでも使っていたというようなものではなく、そもそも寺子屋の教育内容はその師匠の裁量でかなり自由に決定されるので、漢詩かるたを使う先生もそれなりにいた、というような話であった。女の子には仮名を覚えさせるために百人一首を、男の子には漢字を覚えさせるために漢詩かるたを遊ばせて教材とした、というようなことであった。

これは流行の傍証とはなろう。ともあれ今とは違って、江戸時代には漢詩かるたはかなり受容されていたようである。
鎮国守国神社にある立て看板の説明によれば、寛政の改革で有名な松平定信は、改革の一環としてこの漢詩かるたを大量に作らせ、各藩に配って奨励したという。儒学を理論的な主柱に、倹約と尚武の精神を鼓舞した定信ならではである。このことからも、少なくとも武家社会ではそれなりに遊ばれていたことは疑えないであろう。住職の話からしても、間違いはなさそうだった。
では、どうしてそれが明治以降ぱったりと遊ばれなくなったのだろうか。少なくとも、今から私が調べてもその流行の裏付けが取りにくいほどの、忘れられたゲームになってしまうのだが、それは一体どうしてだろうか。
漢文的教養の時代から英文的教養の時代に変化したことが、最も大きなその理由というのは見えやすいが、繰り返しになるがそれでは百人一首の流行が説明できない。

ところで、鎮国守国神社は、桑名城址にある。城址と言っても地割のほかに城を物語るようなものは何もない。聞けば戊辰戦争の時に、城は徹底的に破壊されたのだそうである。そういえば、桑名藩は会津藩と並んで佐幕派の最右翼であった。見せしめのためであろうか、投降・開城したのちに、城郭は全て焼き払われたという。
時代は転換したのである。
これを受けて想像をたくましくすれば、佐幕ゲーム「漢詩かるた」は、勤皇ゲーム「百人一首」に、そのニッチを奪われたのではないのだろうか。

ゲームの受容は政治からはとりあえず独立である。この点は「塗り替えられる国旗」や、「倒される銅像」「壊される城」「禁断される国歌」などとは大きく違う。ゲームは遊びごとなのである。とは言え、直接的な干渉がなかったとしてとも、文化がその時代の政治からまったく自由であることはありえず、ゲームもまた――かなり見えにくいとは言うものの――その例外になりようはずはない。
江戸時代に大きく受容されていたゲーム「漢詩かるた」は、政策的に推奨されていた。その背景は「武張った」「尚武」の「男手(漢字)」の時代精神であった。だが幕藩体制を倒してやったきた新政府は、近代と復古の混合体であった。和魂洋才とはよく言ったもので、近代的手法の精神的背景は「公家文化」であったといえよう。その背景は「雅びた」「典雅」な「女手(仮名)」の時代精神へと取り替わっていった。
「百人一首」は政策的に推奨されたことはないが、こうした時代精神の変化にうまく適合していったのではないだろうか。黒岩涙香は、明治37年(1904年)に競技かるたのルールを制定した。これは「雅びた」「教養」ゲームを、近代的合理性(ルール)に基づいて遊ぼう、という改革である。このようにして変換はなされたのである。

繰り返すが、ゲームの「受容」が直接的な政治の影響を受けることは少ない。しかし、ゲームも文化の一つである限り政治からまったく自由ではありえず、我々は伝統ゲームの受容を通して、その時代の精神を垣間見ることができるのである。

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第13回)

草場純

―――――――――――――――――――――――――

◆第12回はこちらで読めます◆

―――――――――――――――――――――――――

これまでゲームの内実(主にルールの構造)という面から、伝統ゲームを現代にプレイする意義について考察してきたが、今度はそれがどのように受け入れられてきたかという側面から眺めてみたい。ゲームの受容の問題である。「受容」は、現代的なゲームでももちろん問題にはなるが、伝統的なゲームは一層重要であり、より本質的な問題となる。
例えば(日本)将棋とチャンギを比較してみよう。ショーギは日本の伝統的バトルゲームであり、チャンギは韓国・朝鮮の伝統的バトルゲームである。現在の遊戯史では両者は同系統とされ、その淵源はインドのチャトランガにあるというのが定説である。このことは、ゲームが単にいろいろな変化をしたということにはとどまらず、チャトランガ(の子孫)が日本に受容されてショーギとなり、韓国・朝鮮に受容されてチャンギになったと捉えることもできる。では、それはなぜなのだろうか。どうして日本ではショーギになり、韓国・朝鮮ではチャンギになったのだろうか。
これは、どうして日本人は日本語をしゃべるのかという問いを思わせる、ある意味答えようのない疑問であるように見える。もちろん実証的、確定的に答えるのは資料的にも極めて難しいと言わざるを得ない。歴史の真実は原理的に解明不能なのかもしれない。だが、ゲームには前回まで縷々述べてきたような様々な内実がある。ゲームは常にそれを育んできた社会と切り離しては考ええないが、独自で自律的なシステムを内包している。したがって、それを定点として歴史や社会を逆照射する可能性を含んでいる、と私は考えたい。伝統ゲームは、常にその時代、その社会と相互作用をし、全体として一つの「相」と言うべきものを形成してきたというのが、私の仮説である。生物学者が現生生物のDNAの中に生物の歴史を読み取るように、我々は伝統ゲームの中に人類社会、人類文化の歴史を読み取れるのではないか、という企みなのである。ゲームは、果たして人類にどのように受け取られてきたのだろうか。

ゲーム人口の減少が嘆かれて久しいが、ショーギを指せる日本人は決して少なくあるまい。お隣でも事情は似ていて、チャンギを指すのは年寄りばかりだ、などと言われながらも決して少なくない競技人口を擁している。ところが果たしてチャンギを指せる日本人がどれほどいるだろうか。ショーギを指せる韓国・朝鮮人はどれほどいるだろうか。
これは考えてみれば不思議とも言える事実である。生来、日本人の頭が将棋のルールに向いているなんてことはあり得ない。それは例えばソウルで生まれ育った日本人を想定してもすぐわかる。将棋が本質的に日本人向きだとか、シャンチーが本質的に中国人向きだということはない。単に生育した環境の問題である。
このことは、ゲームと言語の共通点として夙に指摘がある(*)。私は日本で育ったから日本語を母語とし、将棋を指すわけだ。すなわち、私の問題ではなく、社会の問題である。だが、本当にそうだろうか。

人は母語を選べない。人は誰も親を選ぶことはできないが、それと同様に母語を選ぶこともできない。親が子に先行するように、母語は自己に先行しているとも言える。だがゲームはそうだろうか。
日本に生まれた子が将棋を指せるようになるのは、ある意味自然なことではあるが、決して必然ではない。実際、前述したようにまったく指せない日本人も少なくない。どのような社会にあっても、言語を習得せずに人間として生きていくのはかなり困難なことではあるが、ゲームはそうではない。将棋も花札も知らなくても、日本人として生きていくのに格別の支障もない。これは言語の相(個人と社会との相互作用)と、ゲームの相との大きな違いである。だがそれは、ゲームが取るに足りない文化であるということを意味するわけではない。すなわち、我々は大なり小なり(伝統)ゲームを、選び取ったのである。ここに言語とゲームの相の差異が起源する。
言語は、個人と社会の相互作用の中で、生成流転していく。それは青年文法学派のような19世紀の言語学が「勘違い」したように、自然現象を思わせるものがある。それは、言語がそもそも所与のものとしてあるのだから、幾分かは無理ない誤解と言える。言語を作っているのは人間のはずなのに、言語は個人の思いのままには必ずしもならない。言語の変遷は人間を超えた法則に支配されているように、見えないこともない。だがゲームは違う。要はゲームの受容は、人が主体的に選び取ることによって起こるということである。
今まで見てきたように、伝統ゲームには衰亡がある。またゲームの伝播は、細部は解明されないものの歴史的事実と見てよい。そこに「受容」の問題を設定することは、今述べたような観点から、極めて重要だと考える。人々は、広い意味の「楽しみ」を求めてゲームをするのである。そうした内的動機が、ゲームの歴史に他の文化史と異なる独特の相を与えている。

ある社会が新しいゲームを受容するとき、既成文化の価値観とこの内的動機とがせめぎ合う。以下に個々の事例に触れつつ、その時代の相に迫ってみたい。

(*)「SFマガジン」207号(1976年2月号)40ページ

―――――――――――――――――――――――――

◆第14回はこちらで読めます◆

―――――――――――――――――――――――――