会話型RPGにおけるメタ化

会話型RPGにおけるメタ化  齋藤路恵
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本稿は会話型RPGにおけるメタ化について考察したものである。
会話型RPGにおけるメタ化は程度の差こそあれ、必ず起きるものであり、それが会話型RPGにおける重要な魅力の一つとなっている。メタ化により、会話型RPGは現実に対する一種の思考実験の場として役に立つ可能性もあるが、反面意識せずに他者の痛みを取りこぼしたり、現実社会の偏見の再生産をしたりする可能性もある。

【パロディの楽しみ】
私はパロディが好きである。
10代の頃からパロディに親しみ、とり・みきや唐沢なをきをといったマンガ家を愛読していた。とり・みきが手塚治虫から受け継いだという、マンガの文法そのもので遊んでしまうような手法を愛している。
マンガの文法で遊ぶというのは、例えば、後ろから迫りくる敵に対して逃げ場を失った主人公がコマ割りの枠線にしがみついて難を逃れる、というようなそういった手法である。
物語の主人公が物語の外のものを利用するのである。

唐沢なをきはこの文法遊びをメインに据えた作品でシリーズを書いているほどである。
カスミ伝S (ビームコミックス文庫) [文庫] / 唐沢 なをき (著); エンターブレイン (刊)
別の例をあげよう。

手塚治虫の作品だと思ったが、出典が定かでない。おそらく『火の鳥』の一シーンであったと思う。
キャラクターが食料にするため、ウサギを射止める。射られたウサギの姿は草むらに隠れて見えず、背中の矢だけが見えている。キャラクターが射止めた矢を拾うと矢の先のウサギは既に丸焼きになっている。
キャラクターは顔をこちらに向け、読者に対してこっそりとささやく。「いくらマンガとはいえ、ひどい省略だよな」
手元にないので、不確かな記憶だが、大きく外してはいないと思う。
これは言ってみれば、マンガのキャラクターによる自己相対化であり、メタ化である。
目の前の状況をあたかも他人のものであるかのように一段外側から見ているのである。

【本稿中の言葉の定義】
今何気なく「自己相対化」「メタ化」と言う言葉を使ったが、本題の会話型RPGについて触れる前にこの文章での用語の定義をしておこう。
最初は読み流しておいて、後でこれらの言葉が出てきたときにここに戻ってくるとわかりやすいかも知れない。
メタ化とは、一つ外側の視点から物事を見ること、とする。外側の視点から物事を見ることで少なくとも一つはこれまでと違った視点が導入されることになる。
例えば、「自分のメタ化」とは自分を一つ外側の視点から見ることである。

次に「相対化」という言葉について。
相対化とは、他の対象との比較により、視点や判断基準の複数化を行うこと、とする。
自己相対化は、自分の立ち位置や思考の位置、属性等を他と比較すること。他の人や他の視点からみた自分を想像すること、とする。
他者との比較そのものは、必ずしも自己を否定するものではない。
しかし、視点が増え、判断基準が増えるほど全てにおいて高評価を得ることが難しくなり、結果として自己の総合評価の低下が起こりやすい。  自己の中に否定的なものを探すことを目的に行われる相対化は反省となる。

メタ化と相対化の違いについても書いておく。
メタ化は相対化の一種である。
もう一度言うとメタ化は一つ外側の視点から物事を見ることである。
例えば「文章を書いている私についての文章を書く」などということである。
このメタ化は理論上無限反復できる。「『文章を書いている私、についての文章を書いている私』に対する文章を書く」と言った具合である。
同様に、相対化は比較により視点や判断基準の複数化をもたらすことである。
外側から見ることは必ずしも必要でない。
例えば「文章を書いている私」に対して「何を書いているのか」「いつ書いているのか」「何のために書いているのか」「過去に文章を書いた時と何か違うのか」等と複数の視点を持ってみることが相対化である。
ここに「文章を書いている私を文章化するとはどういうことか」という視線を持ってくることも可能であり、したがってメタ化は相対化の一種である。
最後に後半出てくる「ネタ化」「他者化」という言葉にも触れておく。
ネタ化は目的に対して有益な効果を得られないようなメタ化を指す言葉、とする。これは一般的な用法というよりは、私の独自の定義である。
他者化は、ある視点に注意が向くことで他の視点が忘れ去られること、自分に利害関係のない他の視点が切り捨てられること、とする。

【視点の往還】
さて、会話型RPGの大きな特徴にプレイヤーキャラクター視点とプレイヤー視点を常に往還しながら遊ぶという点がある。
これは自分が演じるプレイヤーキャラクターを外側(プレイヤー視点)から見ると言うことであり、メタ化であると言える。
会話型RPGでは、通常一人のプレイヤーが一人のプレイヤーキャラクターを用いて遊ぶ。
プレイヤーキャラクターは、会話によって紡がれる物語(シナリオ)の登場人物である。
プレイヤーは自分の担当するプレイヤーキャラクターをうまく物語の中で動かして物語の形成と、参加者全員が楽しむことを目指す。
(以下プレイヤーキャラクターをPCと、プレイヤーをPLと略すことにする。)
このPCとPLの間に齟齬が出ることがままある。

これは『クトゥルフ神話TRPG』を遊んだことのあることのある人にとってはよくわかる感覚であろう(*1)。
クトゥルフ神話TRPG (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [単行本] / サンディ ピーターセン, リン ウィリス (著); 中山 てい子, 坂本 雅之 (翻訳); エンターブレイン (刊)

『クトゥルフ神話TRPG』は、以下のような世界観に基づいている。
私たちが知らないだけで、宇宙は強大な力を持つ邪神に支配されている。その強大な力は気配を感じただけで精神に異常を来たす程である。強大な力の真実に近づけば近づくほどその人物は狂気に陥っていくのである。
物語外にいるPLは物語の世界が邪神に支配されたものであるということをもちろん知っている。
だが、物語内のPCは世界が邪神に支配されているなどと言うことは知らない。
(邪神の支配について詳しく知るほど発狂に近づく。発狂したPCは病院に入院する/させられるなどして、ゲームから除外される。)
私たちが「世界は邪神に支配されている」などと言ってもまともにとりあってもらえないのと同じように、PCたちも邪神の話はまともにとりあげてもらえないと思っている。
そればかりか、PC自身が邪神の存在を否定しようとすることもある。
例えば、人里離れた屋敷に一人で住んでいた老人が変死を遂げた。PC A は老人が読んでいた奇妙な書物が何かその死に関係しているようだ、老人の屋敷に本を探しに行こう、と主張している。しかし、医者である PC B は「老人の死はただの持病からの心臓発作にすぎず、そのような調査は必要ない」と思っている。
しかし、PC B のプレイヤー PL B は、「この物語はおそらく老人の死と書物が関係するシナリオであろう」、と推測している。
この場合、PL B は、 PC B が納得して老人の屋敷の調査に行くような理由を考えなくてはならない……(*2)。

さて、このプレイスタイルを見てどのように感じただろうか。
もしかしたら
「今はあんまりこういうスタイルにしたくないな。もっと世界やキャラクター視線に入り込んで遊びたい。もっと深くPCを演じたい」
という人や、
「今はもうちょっと現実的でないキャラが遊びたいなぁ。想像力を活かしてもっと自由に破天荒な世界やキャラで遊びたい気分」
という人もいるかもしれない。

【世界への埋め込み】
ここでPCとPLの関係、物語世界への埋め込みの関係について考えてみよう。

 

物語世界中心・PC高埋込

中間領域・PC中埋込

PC中心・PC低埋込

 

世界観を重視しながら、PCとPLを限りなく近づけて遊ぶやり方がある。
この場合、PCを深く演じるため、安定した世界観が求められる。
ころころ設定が変わっているのでは、PCを安定して演じることができない。
逆にPCをあくまで架空世界のキャラクターと割り切って遊ぶやり方もある。
キャラクターを別の世界にコンバートしたりする。  ファンタジーで遊んでいたキャラクターに学園物をやらせたりする。
『クトゥルフ神話TRPG』のプレイ時はこの中間形態の遊び方をとることが多い。
PCは原則的に物語世界の規則や設定に従うが、行動によっては多少の設定の変更も参加メンバー間の裁量で許される。
とはいえ、『クトゥルフ神話TRPG』で物語世界重視のプレイが不可能なわけではない。
設定を現実のPL設定に近づけて、場所やストーリーの運びもで実際にありそうなものにし、リアルなホラーものを目指す事も出来る。
キャラクターの設定を活かしたプレイも可能である。
拳法の達人の高校生や、霊能力をもった拝み屋女子高生が、大挙したゾンビたちをバッタバッタとなぎ倒すような現実離れしたストーリーも可能である。

ルールブックやサプリメント(追加資料)で示されている世界観で、そのシステムのだいたいのプレイスタイルの見当がつくこともあるが、それはあくまで目安に過ぎない。
同じ人がいつも同じプレイスタイルとも限らない。
今回はゾンビシナリオをやっていた人が、次回はリアルホラーをやる、というのは良くある話だ。
なので、それと知らずに、物語中心プレイをとてもやりたい人とキャラクター中心プレイをとてもやりたい人が同席した時は悲劇が起こる。
物語世界中心プレイヤーからみれば 「キャラクターのために世界を変えてもいいというご都合主義。みんなで遊ぶべき世界を理解しようとせずに自分のキャラを目立たせることばっかり主張している。みんなで楽しもうという気に欠けている」
となってしまうし、
逆にキャラクター中心プレイヤーからみれば 「公式設定にこだわる権威主義の設定厨(厨…中学生並みに幼稚ということを表すスラング)。「それは世界観的に無理でしょう」「物理的に無理でしょう」って言ってばっかり。もっと気楽に楽しめばいいのに。みんなで楽しもうという気に欠けている」
となってしまう。

【細部の限界】
ここまで読んで、普段会話型RPGをやらない人は
「PCに深く没入したいプレイヤーは現実世界や史実に近いリアリティ重視の世界を好み、PCに距離を置い遊びたいプレイヤーは物語的な破天荒さのある世界を好むのだな」と思うかもしれない。
が、実際に会話型RPGをやる人の実感とはそれとは違っている。
「物語に入り込むために破天荒な公式設定を忠実に守る」というやり方をとる人も割合いるのである。

これは、現実や史実の世界に近づけようとするほど物語に穴を作らないのが難しくなったり、活劇の要素が薄くなったりするからだと思われる。
例えば、中世ヨーロッパ風の世界で遊ぶことを考えよう。
「あなたは貧しいが自作農のはしくれのキャラクターです。朝起きるとあなたの家で大事に飼っていた豚がいなくなっています。柵が壊れた様子はありませんが、どうにかして逃げ出したのかもしれません。あるいは誰かが盗んだ……。
農繁期で他の家は忙しくしており、気軽に手伝いを頼みにくい状況です。
あなたも本当は自分の畑の世話をしなくてはなりません……。
家には、他のPCである妻と12歳の長男と10歳の長女と乳飲み子がいます。
豚が迷子になったのなら、早く見つけないと野生の生き物に襲われたり、崖から落ちたりするかも知れません。
豚が通りそうな道はどこでしょうか。
誰か協力をしてくれそうな人はいるでしょうか。
家族総出で探した方がいいでしょうか。少しは畑に人を置いた方がいいでしょうか……。」
私はこういう設定は非常に好きだが、荒々しい戦士や知力にたけた魔法使いをやりたい人はなんだか違うと感じてしまうかもしれない。
シナリオの作成者も「豚の足の速さはどれくらいか? 」「畑はどのような状況か? 農繁期というがやらなくてはいけないことは何か? 畑に水をいれることか? 雑草取りか? 害虫駆除か? それによって人のさき方が違う」などと聞かれてしまうかもしれない。
豚の足の速さなんてどうやって調べればいいのだろう?
そもそも中世における豚が現在の豚と同じような品種だったとも思えない……。
手慣れた作成者であれば、聞かれた時にその場で、「大人の全速力と同じくらいのスピードが出るよ。ただし、あまり長距離は走れない」「水入れと雑草取りと害虫駆除の全部だよ」などと答えられるかもしれない。実際確認のしようがないので、そこは適当に割り切ってそれっぽい仮定をするしかないのだ。

現在が舞台であれば話はよりややこしくなるかもしれない。
シナリオ作成者:「地下鉄内は電波が届かないよ」
PL  A:「最近は地下鉄構内の電波状況を改善しているから、この路線で、この電話会社なら、音質は悪くても通信できるんじゃない? 」 などとなるかもしれない。
会話型RPGが細部を演じて行くものである以上、こうした細部はある程度虚構で設定せざるを得ないのだ。
したがって世界に埋め込まれたPCに入り込むと言っても限度がある。
活劇を楽しむなら、むしろ破天荒な設定を忠実になぞる方が納得しやすい……。

【没入する楽しみ/相対化の楽しみ】
さて、では破天荒で細部を気にしなくてすむような世界なら、PCに深く入り切ることは可能であろうか。
これはおそらく、人による。
深い没入を阻害するものとして、物理的要因と内的要因が考えられる。

物理的な要因は単純だ。
クライマックスでPLの1人が「すみません、ちょっとトイレいいですか? 」
自宅でやっているなら、クライマックスで家族がドアをノック。「○○、ちょっといい? 夕飯なんだけど……」
しかし、これらの要因は実はさしたる問題ではない。
自分がテレビに夢中になっているときに、トイレに立った記憶を思い出せばいい。
繰り返し邪魔が入るのでなければ、さして問題もなく物語世界に戻って来れたはずだ。

むしろ、深い没入を阻害するものは多くの人にとっては内的な要因だ。
要するに「成りきって陶酔しちゃっているところを人に見られるのは恥ずかしい」ということだ。
映画を見た後、自分の部屋で成りきって主人公のモノマネをしていたら、家族に見られていて赤っ恥……。
似たような体験は多くの人がしていると思う。
インターネットの動画サイトではときどきこの手の動画が流出して同情の声があがったりする。
しかし、ロールプレイをもっと演劇的な役作りとして捉えており「役に入り込んでいるときの私」を割り切って観察することができるタイプの人もいる。
あるいはPCへの没入が極めて深いところまで達したため、PL視点の恥ずかしいという感情が抹消されている状態というのもある。
このようなPL視点の抹消は、よく起こる人もいれば、滅多に起こらない人もいる。
だが、没入できる人が没入できない人より深く楽しんでいるかというとそういうわけではない。
没入しないタイプの人はパロディのようなメタ化の楽しみを持つことができるのだ。
強い感情移入をしつつも、同時にその自分を外から眺める、というのはそれ自体で楽しい。
少なくとも私は間違いなくそうである。
実際の日常生活でもそうだろう。
われを忘れて夢中になることが楽しいときもあれば、自分なりに分析したり自説を考えたりするのが楽しい時もある。

【メタ化のメリットとデメリット】
ここで少し現実の世界に目を向けてみよう。
現実の世界ではしばしばメタ化が悪い方向に働くときがある。
テーマは何でもいい。

例えば私が 「会話型RPGの面白さを理論的に分析してみよう!」
と言ったとする。
「自分語り乙(自分語りお疲れ様)」
「分析する前に自分のRPGライフ充実させろよwオレオレRPG論はつまらないんだよねww」
と言った反応がでるかもしれない。

これは会話型RPGの面白さを分析することに否定的な反応である。
しかし、なぜ会話型RPGの面白さを分析することが良くないのかに対する理由にはなっていない。
自分語りであることはなぜいけないのだろうか?
どのような仮説も提案も最初に個人から表出される以上、「自分語り」にならざるをえない。
「自分語り乙」というのもある種の自分語りに他ならない、ということである。
「オレオレRPG論はつまらないんだよねww」というのも、これまでのRPG論がつまらなかったというだけで、これから生まれるRPG論がつまらないという証左にはならない。
RPG論はすべてつまらない、あるいは、そのほとんどがつまらない、というならなぜそのようになるのかを説明しなくてはならない。
これをやらない以上、全く同じ刀で返されてしまう。
「オレオレRPG論否定はつまらないんだよねww」
お互いに「そういう態度こそがつまらないんだよww」とやりあうのは不毛である。
このメタメタゲームのような悪いメタ化を「ネタ化」と呼ぶことにしよう。

ネタ化の手法はそれこそいろいろあると思うが、よく見られる手法の一つは、「目的や手段を属性へと横滑りさせる」というやりかたである。
今の例でいえば、1つ目の反応はテーマを「自分語り」という個人の属性に横滑りさせている。2つ目の反応は「RPG論=つまらないもの」という属性を勝手に作り出し、レッテルを貼るという形で横滑りさせている。
もし、実際読んでつまらなかったとしても、まずなぜその論が面白くないのかを論じるのが先であろう。
もし、その論とこれまで読んで来た他の論に共通するつまらなさがあればそのことも述べれば良い。

「つまらなさは述べるまでもない」と思っていたなら、今度はなぜ書き手が見えるところで反応したのか、ということになる。
書き手は自分の書いたものである以上、さらに反応を返してくる可能性も高いからである。
単に「時間を無駄にしてしまった」とだけ愚痴りたいなら、少なくとも本人が直接目にしない可能性が高い場所でやった方が無駄な争いでさらに時間を浪費するのを避けられる。
真面目に何かを話したいならこの種の横滑りに関わる必要はないだろう。
こう書くと「オレのも横滑りですか? 」と嫌味を書かれたり「お前のが横滑りだ」と言われたりするかもしれない。
建設的な話をする気のない横滑りのための悪意なのか、真面目に話そうとしているが話し方が噛みあわないだけなのかは注意を要するだろう。
横滑りを排除した上で、目標に対してどのようなやり方が最適かを検討することになる。
そしてやり方を検討するには過去にどのようなやり方があったかを検討するのが効率的だ。

この過去の読み直し作業の一部に、会話型RPGは役に立つときがあるのではないだろうか。
会話型RPGは、もちろんどれほどがんばっても現実の再現ではない。細部をどうしても欠いてしまうのは先ほど見た通りだ。
しかし、大枠の思考実験をしてみるときはその call and responce が1人では得られなかった新しい知見を提出する可能性もある。
また、会話型RPGはなぜかメタメタゲームが起こりにくい気がする。
物語内世界の登場人物はすでにデータとしてある程度属性化されている。すでに属性化されているものを別の形で再属性化するのは手間がかかるということだろうか?
しかし、細かく考えれば、思考実験はデータ化されていない部分で起こることも多いだろうから、物語内世界ではメタメタゲームが起こらない/起こりにくいという理論的な証明にはならない。
限られた時間でミッションを解決するのが目的である以上、参加者の総意がメタメタゲームを排除する方向に働くのかもしれない。
メタメタゲームが起こらないというのは、メタの混入物に惑わされずに考えを進める手助けになるかもしれない。
しかし、会話型RPGにおけるネタ化(悪い効果のメタ化)はメタメタゲーム以外の形で現れることがある。

例えば、被差別者のロールプレイだ。
ファンタジーTRPGにはしばしば種族差別が取り入れられている。
PLはその種族差別を楽しむことも多い。
差別側だけでなく、被差別側であっても種族差別を楽しむことは多い。
ハーフリングが卑しいチビと馬鹿にされたり、エルフが高慢ちきの耳長と馬鹿にされたりする。
だが、もちろん現実の差別が楽しいものであるはずがない。
それが、楽しめてしまうのはなぜか?

これらが楽しめるのはPLが結局のところ「自分は本当は(ゲーム外では)、ハーフリングでもエルフでもない」と思っている限りにおいてではないだろうか。
例えばPLと同じ属性によって、PCが差別を受けた時、PLは腹が立たないだろうか。
求職中でアルバイトでようやく日々の暮らしをつないでいるPLが、冒険者PCを「その日暮らしの日雇いのくせに」と馬鹿にされた時、全く何も思わないだろうか。  「ゲーム内のことだから」と楽しめるだろうか。
私は楽しむ自信はない。

被差別者のロール楽しんでいる人は、演じると言う形でPC(被差別者)の状況とPLの状況を相対化しているはずだ。しかし、PLはPC達の痛みの感覚には感情移入していない。相対化のもたらした別の視点(PL視点)に注意が向かっているために、PC側の視点の一部が取りこぼされてしまっている。無意識のうちにPCは自分とは関係のない者として「他者化」されているのだ。
ハーフリングやエルフの場合は、現実に存在しない生き物のため、ネタ化が行われても胸を痛める人は少ないかもしれない。
だが、私たちがPLから離れたさまざまなPCを演じる以上、現実に存在するような偏見を無意識に再生産するような可能性がある。
例えば女性の表象はどうだろう。
さらわれるのは常に若く美しい乙女だ。
老婆は怪しかったり、男好きだったり、やりて婆だったり。
女戦士は「男勝り」だったりする。

男性キャラはどうだろう。
まず、さらわれない。特に美しくもない。
老人は怪しかったり、女好きだったり、やりてだったりもするが、
村の長老クラスになるとそんな極端なキャラクターは少数だ。

「女勝り」のキャラクターもお目にかからない。
これらの表象に胸を痛める人はいないのだろうか。
正直なところ、私は嫌である。
出てくる女性はみんな美人のシナリオも嫌だし、類型的な老婆も嫌である。
「お約束で現実はそうじゃないってわかってる」
という理屈は、他の視点の一部を抹消していないだろうか。抹消した視点が他者の痛みとつながっている可能性はないだろうか。新しい視点を手にしたつもりで、無意識に悪いメタ化を行っている、つまりネタ化している可能性はないだろうか。
会話型RPGにおけるメタ化は重要な楽しみの一つであり、自己に適応されれば現実社会への関心のきっかけとなりうる。しかし、安易な他者化に用いられれば、人を傷つけることになるだろう。

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(*1)

『クトゥルフ神話TRPG』は、クトゥルフ神話の世界を遊ぶ会話型ホラーRPGである。TRPG はTable tale Role Playing Game の略である。Tabel talk は「雑談」くらいの意味で、TRPG は会話型RPGと同じものを指すと考えてよい。  クトゥルフ神話とはハワード・フィリップス・ラヴクラフトの描いた小説をベースに、続く多くの作家たちが神々や禁書の名称を貸し借り・共有することで作られた一連の神話体系である。  クトゥルフ神話の世界を遊ぶための(成功した)最初のRPGは、1981年にケイオアシム社(米国)から『Call of Cthulhu 』というタイトルで発売された。  日本での翻訳版は、まずホビージャパン社から1986年に『クトゥルフの呼び声』として第2版が翻訳・発売された。現在はエンターブレイン社から第6版の翻訳である『クトゥルフ神話TRPG』が発売されている。  いずれも世界観に大きな差はない。  ここでは現行の『クトゥルフ神話TRPG』を取り上げて話しているが、『Call of Cthulhu 』や『クトゥルフの呼び声』と読み替えてもらっても文意に影響はない。
(*2)キャラクターを相対する別の例として、また、意志決定の実際として以下が参考になる。 「TRPGにおける<プレイング>の認知的プロセス―高橋によるエックハルトの<意志決定>事例(改訂版)」。  http://d.hatena.ne.jp/gginc/20100822/1282520395