SF乱学講座 沢田大樹「(批評のための)捏造ドイツボードゲーム現代史」聴講記

草場純 (協力:沢田大樹、井上彰人、岡和田晃)

去る2013年6月2日(日)、東京・杉並の高井戸区民センターのSF乱学講座にて、沢田大樹氏の講演「批評のためのドイツゲーム現代史」が行なわれた。少々大げさかも知れないが、私は歴史に残る講演と評価したい。

SF乱学講座とは、毎月第一日曜の午後6時15分から同所で、SFにかこつけて何でも講演してしまおうという会である。前身の「SFファン科学勉強会」が、柴野拓美氏、大宮信光氏、石原藤夫氏、大田原治男氏らによって始められたのが45年も前という、こうした会としては老舗中の老舗である。
Analog Game Studiesでも、蔵原大氏のウォーゲームの歴史についての講演の聴講記や、門倉直人・小泉雅也氏のポストヒューマンについての講演の聴講記が掲載されているので、興味のある向きは参照されたい。

この講義はドイツのボードゲームを語る言葉がない、という問題意識のもとに準備されている。この問題意識に私は大いに共鳴するし、Analog Game Studiesの問題意識とも強くリンクするものだ。
沢田氏は冒頭「歴史を捏造する」と語った。これはもちろん韜晦ではあるが、今まで「歴史」のなかった(意識されなかった)ボードゲームの世界を、歴史の眼差しで読み解く営為は、確かに捏造としか言い得ない作業であるかも知れない。ただ、それは沢田氏が言うように、個々人の「A History」を、「The History」へと変えていくために必要な作業でもあろう。こうした実験的な論考を展開するには、ある意味でSF乱学講座はふさわしい舞台であったとも言えよう。
SF乱学講座はいつも大体10数名の参加であるが、この時はどこで評判を聞きつけたのか30名を越す聴講者で席が埋まり、急遽会場を二倍に広げる事態になった。主催者側としては嬉しい悲鳴であったろうが、そのため最終的に時間が不足気味だったのは、仕方がないとは言え、少々もったいなかった。

講演者の沢田大樹氏、および講演の撮影を行なっていた井上彰人氏から許諾を得たので、講演の動画を紹介させていただく。まずはこちらをご覧いただきたい。

さて内容については、とても簡単には語りきれない。そもそも今述べたように、ボードゲームに歴史の眼差しを当てるという営為そのものが、前例のないことであり、その評価は簡単ではない。沢田氏は二冊の洋書を参考文献として挙げられたが、海外でもその程度の先行する試みがある程度だと察せられる。逆に言えば、今回の公演が日本発の論考の嚆矢と言ってよいかも知れない。
そこで、私も不定期に何回かの論評を加える心づもりであり、以下に展開するのは、試論や序論以前の覚書の一つである。

私が、この講演で印象深かったことは多くあるが、その一つが「伝統ゲーム由来の近現代ゲーム」というカテゴリーである。
沢田氏によれば、ドイツゲーム・ユーロゲームの成立前夜、「伝統ゲーム由来の近現代ゲーム」が数多くつくられているというのである。時期としては19世紀から20世紀の前半に当たる。例としては、インドの伝統ゲームパチシ由来のルードやコピットゲームのほか、ハルマ由来のダイヤモンドゲーム(チャイニーズチェッカー)、などが挙げられた。
これに私が実例を補足するなら、アフリカのマンカラ由来のワリやオワール、インドネシアのスラカルタ由来のラウンドアバウト、マダガスカルのファノロナ由来のワルツなどと、大きくは広まらなかったものを含めて、多数見出せるのである。
さらにオセロの名で日本では広く知られているリバーシも、1888年にロンドンで特許が取られている。これも、典拠は不明だが田中潤司氏によれば、ハンガリーの民族ゲームが更にその元であるという。

私は、その昔アヴァロンヒルがオワリを作っているのを知って意外な感に打たれたが、こうした文脈で考えるなら、すんなりと理解できる。
確かに、著しい魅力を放つドイツゲーム・ユーロゲームであっても、それが全くの虚空から生み出されたものでないのは当然と言えば、当然であろう。とは言え、チェスやチェッカー(ドラフツ)、ドミノやトランプと、モノポリー、アクワイア間の溝は小さくない。そのような溝を埋める役割の一端(特に前半の)を担ったものが、こうした「伝統ゲーム由来の近現代ゲーム」ととらえるならば、時間的にも論理的にも納得しやすい。
そこには歴史の必然とまでは言わないまでも、明確な時代の流れがあったと認めることができるのである。

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【関連資料】

■講座に使用されているスライド(PDFファイル)
https://docs.google.com/file/d/0B2fXntLkQD05TFZ4bEVmX1BpcVU/edit

■沢田大樹氏のウェブログ「実録:食卓遊戯密着大本営発表廿四時」より、今回の講義の原型になった記事。

・重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part1)
http://toccobushi.exblog.jp/13792804/

・重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part2)
http://toccobushi.exblog.jp/13804985/

・重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part3)
http://toccobushi.exblog.jp/13868416/

・重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part4)
http://toccobushi.exblog.jp/13994149/

・重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part5)
http://toccobushi.exblog.jp/14041350/

■今回の講義のモデルとなった岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』(中公新書)
西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書) [新書] / 岡田 暁生 (著); 中央公論新社 (刊)

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第15回)

草場純 (協力:岡和田晃、高橋志行、八重樫尚史)

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◆第14回はこちらで読めます◆

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伝統ゲームを考える上で欠かせないのはその受容の問題である。これは何も伝統ゲームに限らないが、最近の新しいゲームと違って、広く一般化した伝統ゲームは、けた違いに多くの人々と層に深く受け入れられているということが、しばしば見られる。そのようなゲームは、独特の「相」を形成していると見ることができる。

そうしたゲームには、囲碁、将棋、麻雀のように、現在もまたおそらく将来も、多くの担い手(プレーヤー)のいる(であろう)ゲームもあれば、連珠のようにそれほどはたくさんのプレーヤーが(現在は)いないのではないかと思われるゲームもあり、盤双六や地方札のように現在はプレーヤーのいないゲームまで、さまざまな様相を見て取ることができる。だがそうしたこととあまり関係なく、このような伝統ゲームに共通する特色もある。

現在、日本にはしっかりしたシャンチー協会があるが、かつてはそうではなかった。40年~50年前には、日本で象棋(シャンチー)の指せる人は、留学生や「華僑」の人々を除けば珍しい存在であった。だが、ゲームを研究する人々はその時代でも少数ながらいて、中国語の本を読み解いて覚えた人もいた。私のゲームの師の一人である、故・丸尾学氏もそうした一人であり、私は丸尾氏と中将棋やら大将棋、大々将棋、広将棋、シャンチー、チャンギ、マックルックなどを指したものであった。その丸尾氏から聞いた逸話であるので、伝聞であるが、興味深い話があるので紹介したい。

丸尾氏の更に先輩に当たるような人々が、内輪の「シャンチークラブ」のようなものを作り、仲間内で対局していたそうだ。丸尾氏も囲碁のプロになるか、将棋のプロになるか迷ったというほどの人で、そのクラブの人たちもそれを上回るような人たちだったので、みなそれなりに上達し、仲間内の名人戦なども開催し、「名人」を選んだりしていたという。周囲への普及も試みたらしいが一向に広まらず、また自分たちの実力もいかほどであるか、定めがたい。そこでこれは一つ本場に行って、腕試しをしようということになり、「名人」はじめ何人かが、あまり「つて」も求められぬまま、訪中したそうである。当時の旅行事情がどうだったか私にはよくわからないが、上海かどこか(場所は定かではありません)に行って、そこのホテルに泊まったそうである。ところがたまたまそのホテルのボーイが、「象棋? 指せますよ。」てな話でさっそく「名人」と対戦したそうである。すると「名人」は、手もなく捻られたそうなのだ。

話はここまでで、その後どうしたかまでは聞き漏らしたが、考えてみればありそうなことである。

例えば、遠い外国で、日本の将棋を紹介記事かなんかで覚えた人たちが、これは面白いとクラブを作り、仲間内で指し合って名人を定めたとして、その人が日本に来て、ホテルに泊まり…… と考えてみると考え易い。

これはある程度確立した伝統ゲームには共通した特色で、そうした伝統ゲームのプレーヤーは、幅広い層まで高い技量を保持していることが多いのである。

逆に言うと、ゲームはルールを理解できる能力さえあれば、だれでも試みることはできるが、それだけではかなか高い技量は得られないということであり、伝統ゲームではそれが露わになるのである。

例えばチェスは国際大会が非常にたくさん開かれるゲームではあるが、日本の成績は振るわない。日本にはグランドマスターはもちろん、まだ一人のインターナショナルマスターもいない。 『ヒカルの碁』をもじって「ヒカルのチェス」と呼ばれた中村光氏も国籍については私はよく知らないか、少なくとも文化的には私の身の回りのいわゆる日本人と全く同様とは言えないように思う。

だがこれは奇妙なことである。前回にも述べたように、中国人の頭脳がシャンチー向きにできているとか、ロシア人の頭がチェス向きだとか、日本人は将棋に適性があってチェスには向かない、などということはあり得ない。それは前述の中村氏に照らしても明らかだろう。

であるなら、上記のよう現象はなぜ起こるのだろうか。「民族音楽」というジャンルがあるが、「民族ゲーム」という概念は果たして成立するのだろうか。それが無理だとしても、多少誇張した不正確な印象論にはなるが、「中華民族は象棋が強い」と見えるような、前述した類の現象があると感じられるのは、一体なぜなのだろうか。

現在、人種や民族の問題は極めてデリケートで扱いに慎重を要する話題である。確かに生物学的には人類は一属一種であり、その故郷がアフリカ中南部であることは学界の定説である。その意味で人類は一つであり、「人種」が観念の産物であることは明らかである。ましてや「民族」は、極めて政治的で相対的な概念でしかない。さはありながら、かたやいわゆる民族紛争やら、領土問題、はては「民族浄化」に至るまで、「民族」概念が猛威をふるっているように見えるのも、また現実である。すなわち「民族」が虚構であるのは確かだが、それは決して絵空事ではなく、現にリアルな力を持ち得る虚構である。では、それはなぜなのだろうか。

これに対して、前回までに縷々述べたように、ゲームも構造を持つある種の虚構そのものである。ここで私が試みたいのは、「民族ゲーム」というような概念を持つことによって、二つの虚構の関係性から逆に、両者それぞれの構造が見て取るのではないか、という仮説なのである。社会とゲームの通時的・共時的な関係性を「ゲームの相」と呼ぶならば、社会的虚構である「民族」からは、ゲームの相はどう見えるのだろうか。
なお、「民族」という概念のうちには、例えば「人種」や「エスニシティ(出自を軸にした文化的規範)」といった要素が分かちがたく結びついている。ただ、本稿では、敢えて日常的かつプレーンな文脈を第一に想定して「民族」の用語を用いることにしたが、「人種」にまつわる差別の容認や助長を意図したものではまったくない。本稿が目指すのは、ゲームとの関係性から逆説的に「民族」という観念に迫っていくことで、ゲームを通じた「エスニシティ」の特性を素描するとはどのようなことかを考える、一種の文化論である。

ここで問いを繰り返すならば、「民族」と言語や音楽が結びつくように、ゲームもまた「民族」と結びつく(ように見える)のは一体なぜなのだろうか、ということである。

そしてそれに対し、答えを先に言うならば、そこが「受容の問題」なのである。

「民族」と言語や音楽が結びつくように、「民族」とゲームも結びつくと仮定したとしても、前回述べたようにそれらの結びつき方は同じとは言えない。それは、言語・音楽・ゲームの内実が同等でないので、それぞれと「民族」との結びつきが同等ではないのは当然ではある。ではそれらはどう違うのだろうか。

私は日本語を母語にするが、当然だが先天的に日本語をしゃべるわけではない。私が日本語環境の中で育ったから、日本語を操るのであって、それ以外の理由ではない。同様に私は納豆が好きなのだが、それは納豆環境に育ったからというのが、最大の原因の一つであろう。こうした環境の総体が「民族」なのかも知れない。一つ一つは個人的な受容であるが、それがある共同体内に繰り返されることによって、一見したところ世代を超えて存在し続けるように見えてしまうのだから。
しかし、特に注記しておきたいのは、これは単にパトリオティズムの説明でしかないという一点である。このようにして、確かに民俗あるいは「民族」の一部は形成されるものかも知れないが、それと国民国家としての民族ナショナリズムとの間には、似ているように見えて大きな飛躍がある。言語や音楽に関しては、より両者の親和性が高く、より両者が混交して考えられやすい。その点、ゲームはその後天性(後述)によって、この結びつきから比較的自由であり、新しい視座を与え得るのではないかと、私は考えるのである。

食文化は幼少期の体験が大きいので、その意味では言語と似ているかも知れない。一方音楽はどうだろうか。私は雅楽は嫌いではないが、民謡や浪花節などのいわゆる邦楽(の一部)はあまり好きではない。この例はもちろん、文化のあくまでも個人的な受容の話である。当然、邦楽の大好きな人々もたくさんいるだろう。だが当たり前だが、日本語を話す日本人に比べれば、邦楽好きの日本人は圧倒的に少ないように思える(ここで言う「邦楽」に流行歌やJ-POPなどを含めれば、また様相は異なるかも知れないが)。すなわちここには、個人的な受容を超えた、社会的歴史的な受容の問題がかかわっていると、私には思えるのである。そこに、前回の漢詩かるたと百人一首の交代劇で述べたような、文化の歴史的軋轢を感じるのだが、いかがだろうか。

私は長年小学校の教員をやり、低学年では音楽を教えたこともあるので、よく知っているが、「学校唱歌、校門を出ず。」という言葉がある。現在では邦楽も見直されているとはいえ、学校教育の音楽科の基本は、井沢修二以来の洋楽である。音楽室の壁の語るところによれば、音楽は長いこと鬘をつけたバッハ・ヘンデルから始まることになっていた。思えば、学校(と軍隊)は、近代の「装置」である。漢詩かるたを捨てて百人一首を受け入れたのは、いわば民衆だが、音楽は制度として装置に組み入れられたのである。学制が敷かれたとき、三味線や琴は捨てられ、足踏みオルガンがこれに替わったのである。

明治五年末に春節を捨てたとき、日本の暦は脱亜を果たした。だが同時に、日本は東アジアの時制から引き裂かれてしまった。同様に、日本の音楽は、校門の内と外に引き裂かれてしまったと言えよう。もちろん、その善悪をここで問うものではない。そうした歴史性を踏まえて、考えを進めようと言うのにすぎない。

興味深いのは、この同じ井沢修二が、方言撲滅に血道を上げたということである。近代国民国家は、国境を欲し、国旗を欲し、国歌を欲し、国語を欲し、以て国民を創ろうとする。日本の小中学校で教えられるのは、いまだに日本語ではなく、国語である。だが、面白いことに、「国ゲーム」は作ろうとはしない。 全ての言語は本質的に方言であるから、「標準語」に意味はないが、均質な国民を夢想する近代国家は、均質な国語を強制する。学校が装置たる所以である。

ではゲームにおける方言とはなんだろうか。それはローカルルールであり、地方札であり、伝統ゲームが比定されるかも知れない。だがありがたいことに、これらは制度的に標準化を強制されることはない。なにしろ「国ゲーム」はないのだから。

前回まで述べた、日本各地の伝統ゲームのいくつかは、地理的に隔離されたところで発達している。例えば掛合トランプが遊ばれている土地は、今はよい道路がたくさんできているが、昔は訪ねていくのにそれなりに苦労したであろう内陸である。白久保のお茶講は、文字通り山ふところだし、ウンスンカルタは人吉盆地の中で保存されていた。グールドの進化論ではないが、一定程度交流の制限されたところで、独自性のある豊饒な文化が育つのである。方言も伝統ゲーム(の一部)も同様である。

このことは、地域共同体のゲーム受容という観点で、先へ行ってもう一度振り返ろう。

さて、文化には様々な領域があるが、言語、音楽、ゲームと並べてみると、共通するところと、先に少し触れたようにそれぞれ違うところがあるのに気づく。これにさらに衣・食・住などを加えて考察しても面白いかも知れないが、あまりに回り道になるので、ここは先を急ごう。

これまた繰り返しになるが、言語は後天的に得るものであるが、個人的には先天的に得たものとの区別はつきにくい。私は気が付いたらこの顔だったが、同様に気が付いたら日本語話者であった。これを今、仮に「後天性が弱い」と表現してみよう。後天的に得られるものであるが、あんまりそんな感じはしない、という意味である(後天的に得たのだと強く思えるものが、後天性が強い、というわけだ)。

音楽は後天性が言語よりは強い。食文化も言語より強いと思うが、発酵食品などは後天性が弱いのかも知れない(笑)。ゲームは、「ゲーム」の意味を囲碁・将棋・麻雀・トランプなどのような具体的なアナログゲームに限るなら、これらに比べて後天性がずっと強い。前回述べたように、将棋を指さなくても日本で生きていけるが、日本語を話さずに日本で生きていくのは相当に困難だろう。しかし、ゲームの後天性は非常に強いわけではない。そうでなければ、冒頭で述べたような逸話は起こらない。ゲームの後天性が極めて強ければ、日本人のチェスのグランドマスターが輩出されていてもおかしくないし、インド人の将棋の名人がいても変ではない。スポーツでは相当程度そのようなことが起こっているが、それはスポーツの後天性が強いからである。だがそれでも、例えば大相撲の横綱を輩出している背景に、モンゴル相撲の「伝統」があることは疑えないだろう。後天性が最強と言うわけではないのだ。

ブラジルがサッカーが強いとか、キューバが野球が強いとかが、いみじくも「伝統」と呼ばれたりする。それは実は受容の構造を指しているのである。

では、後天性のほどほど強いゲームは、そのほどほどの強さからどういう性質がもたらされるのだろうか。

これも結論から先に述べるのなら、受容の偶然性、一回性、歴史性がもたらされるのである。

次回から、世界の様々なゲームの、「民族」的受容の相を、具体的に見ていくことにしよう。

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伝統ゲームを現代にプレイする意義(第14回)

草場純

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繰り返し述べているが、伝統ゲームはその性格上、滅びたゲームと重なることが多い。今回取り上げる漢詩かるた(詩かるた)もそういう意味では代表的なものである。
カルタは教材として有用であるうえに、(日本人なら)だれもが思いつき、ルールも難しくはなく、少々の努力で製作できるので、現在でも様々なものが作られている。漢詩かるたも、ほかのカルタらに比べれば多い方ではないが、作られている。だがもちろんここで扱うのは、そうした新作ではなく、伝統的なものである。
今回は、伝統ゲームとしての漢詩かるたの盛衰を眺めゆくことで、「ゲームの受容」という問題を考察してみたい。特に焦点を当てるのは、政治(情勢)とゲームの受容の問題である。

伝統的な漢詩かるたは、江戸時代には武家の間でそれなりに遊ばれたらしい。なにせ滅びたゲームであるので、詳しい史料が少なく、詳細は分からないが、例えば白河藩などではかなり盛んに遊ばれたと伝えられる。だが、現在この伝統的な漢詩かるたが残っているのは、桑名の鎮国守国神社だけである。私の調べた限りでは、他には伝統的な漢詩かるたは全く残っていない。桑名には少々申し訳ないが、私が「滅びた」ゲームと言う所以である。
では、どうして漢詩かるたはこうも衰退したのだろうか。もちろん背景には明治維新以来の「漢文的教養」の時代から「英文的教養」の時代への変遷があり、それは現在も進行中であるとも言えよう。だが、それでは「百人一首かるた」の隆盛はどうだろうか。「百人一首かるた」は教養ではあろうが、とても「英文的教養」とは言えず、むしろその反対物だとは言えないだろうか。
「百人一首かるた」は、江戸時代の初期に、貝覆いから発展して成立したと言われる。貝覆いは平安時代以来の「合わせ」遊びであり、滅びた伝統的ゲームの筆頭とも言えそうだが、「百人一首かるた」にそのまま受け継がれて、今も生きていると言うこともできるかも知れない。「百人一首かるた」は、江戸時代にも広く遊ばれたと言われるが、一層広がり誰でも遊ぶようになったのは、むしろ明治に入ってからである。
明治期に衰退を始めた漢詩かるたと、明治期にむしろ隆盛してきた百人一首かるた、こうした受容の変遷の背後に、一体何が見えるであろうか。

ここで、先を急ぐ前に、では桑名の漢詩かるたが一体どようなもので、何が魅力なのか、それを見てみたい。

鎮国守国神社では、現在でも毎年正月に「漢詩かるた」大会を開催していて、だれでも見たり参加したりできる。私も二回ほど参加させていただいた。
取り札は和紙を膠で何枚も張り合わせたもので、そこに毛筆で漢詩が書いてある。対句の後連である。つまり対句の前連が読み上げられている時点で、経験者は後連を探すことができる。この点は百人一首かるたで、経験者が上の句が読み上げられているときに下の句を探すことができるのと、システム的に相同である。つまり、研究や勉強でゲームに上達する、そうした類のゲームなのである。と、同時にそのことが「教養」として評価される。すなわち、かるたはこうした社会的受容を背後に持つゲームなのである。我々の回りからも、百人一首をスラスラとそらんじる人を見つけ出すのは、そう難しくはない。短詩とはいえ、自国の詩、それも千年も前の古典を、百も容易に暗唱できる国民が世界にどれくらい居るのだろうか。これは国際的に統計をとったら面白いかも知れない。ともあれ、短歌に関してはなかなかの「教養」を保持した国民と言っても大外れではあるまい。
このことは、逆にこのゲームの敷居を高くしている。犬棒かるたなら、仮名を読める子ならだれでもできるが、百人一首かるたは、ある程度素養がないと勝負にならない。これはゲームの技術的な奥深さを保証してもいて、本当か嘘か知らないが、競技かるたの名人は、読む直前の読み手の吸った息の音だけで、かるたを取れることがあると聞く。まあ、そこまでいかなくても、技量の差が大きいことは容易に見て取れよう。「百人一首かるた」にはこうしたハザードが設けられていて、技量の奥行きを保証しているのである。
北海道で盛んな板かるたは、上の句を読まない。下の句を読んで下の句を取る「対松」という形式である。だが板かるたには板かるたの独自のハザードがある。いちどやってみればすぐわかるが、板かるたの文字は、何流と言うのか知らないが、変体仮名を用いた達筆である。その独特の筆遣いは、初めての人には簡単には読めない。板かるたは、暗記ではなく識字というレベルでハザードを設け、ゲームの奥深さを担保しているのである。
では漢詩かるたはどうだろうか。実は、これもよくできている。そもそも漢文は見ただけでは読み下せないのが普通である。漢文は本来中国語であり、日本語とは文法が違う。古来、日本ではこれを意訳せず、原文に記号(返り点)を打って、直訳的に読み下す。漢詩かるたの読み手は、読み下し文を読むが、もちろん取り札には返り点を打ってあったりはしない。こうして漢詩かるたは、百人一首かるた同様、経験者が圧倒的に強い(はずである)。伝統ゲームを分析して面白いのは、こうしたゲーム論的に有意の仕組みを、みな形を変えて備えているという発見にある。
もう一つ、漢詩かるたをやって驚くのは、これが「喧嘩かるた」であるという点である。これはかるたをいち早く取った人がいても、それを奪っていいという、なかなかすごいルールなのである。取った札を自分の座布団の下に入れて初めて確定するのであって、それまでは壮絶な争奪戦になる。そこで感心するのが、和紙や墨の強さである。取り合ったら破れてしまいそうなものであるが、和紙を何枚も張り合わせて作った取り札は極めて丈夫なのである。表面はかなりよれよれではあるが、墨の字は読むに堪える。よく「和本は保管さえよければ千年以上保つ」と言われるが、ここからも納得できる。
住職にこのルールの意義を尋ねると「武家の遊びだから」ということであった。「武張った」遊びなのである。現在ではもちろん女の子もやるし、参加者はむしろ女性の方が多いくらいであるが、かつては男だけの遊びであったそうである。

私が訪ねたときは、二回とも二十人余りの参加であった。半数以上が近在の子供たちであり、その親や、祖父母などが加わる。住職の話を聞くと、十年余り前は四十人ぐらいの参加者があり、もっとずっと昔は百人単位の参加者があったそうである。
伝統ゲームの命運ににとどめを刺すのは、「少子化」であるのかも知れない。住職の話からもそれは裏付けられる。それで私はいろいろ調べてみたが、今のところ決め手となるような文献に行き当たってはいない。流行とは言え、遊びごとの社会的状況を文献的に裏付けるのは、否定的であれ肯定的であれ相当に難しい。
ところで、王子にある『紙の博物館』で「かるたと双六展」を開催しているというので、出かけてみた。展示は多くなかったが、漢詩かるたも展示されていた。古いものだが活字印刷なので、明治のものらしいが、桑名のものと同じ漢詩が同様に取り上げられていたところをみれば、その系統であろう。そこで案内の人(学芸員?)に
「これは、いつの時代に遊ばれていたのですか?」
と、尋ねてみた。すると、
「江戸時代には盛んだったようですよ。」
とのことである。そこで
「どういう人たちが遊んでいたのですか?」
と尋ねると、
「たとえば寺子屋で、漢詩を覚えさせるための教材として使っていました。」
とのことであった。しかし一般的にどこでも使っていたというようなものではなく、そもそも寺子屋の教育内容はその師匠の裁量でかなり自由に決定されるので、漢詩かるたを使う先生もそれなりにいた、というような話であった。女の子には仮名を覚えさせるために百人一首を、男の子には漢字を覚えさせるために漢詩かるたを遊ばせて教材とした、というようなことであった。

これは流行の傍証とはなろう。ともあれ今とは違って、江戸時代には漢詩かるたはかなり受容されていたようである。
鎮国守国神社にある立て看板の説明によれば、寛政の改革で有名な松平定信は、改革の一環としてこの漢詩かるたを大量に作らせ、各藩に配って奨励したという。儒学を理論的な主柱に、倹約と尚武の精神を鼓舞した定信ならではである。このことからも、少なくとも武家社会ではそれなりに遊ばれていたことは疑えないであろう。住職の話からしても、間違いはなさそうだった。
では、どうしてそれが明治以降ぱったりと遊ばれなくなったのだろうか。少なくとも、今から私が調べてもその流行の裏付けが取りにくいほどの、忘れられたゲームになってしまうのだが、それは一体どうしてだろうか。
漢文的教養の時代から英文的教養の時代に変化したことが、最も大きなその理由というのは見えやすいが、繰り返しになるがそれでは百人一首の流行が説明できない。

ところで、鎮国守国神社は、桑名城址にある。城址と言っても地割のほかに城を物語るようなものは何もない。聞けば戊辰戦争の時に、城は徹底的に破壊されたのだそうである。そういえば、桑名藩は会津藩と並んで佐幕派の最右翼であった。見せしめのためであろうか、投降・開城したのちに、城郭は全て焼き払われたという。
時代は転換したのである。
これを受けて想像をたくましくすれば、佐幕ゲーム「漢詩かるた」は、勤皇ゲーム「百人一首」に、そのニッチを奪われたのではないのだろうか。

ゲームの受容は政治からはとりあえず独立である。この点は「塗り替えられる国旗」や、「倒される銅像」「壊される城」「禁断される国歌」などとは大きく違う。ゲームは遊びごとなのである。とは言え、直接的な干渉がなかったとしてとも、文化がその時代の政治からまったく自由であることはありえず、ゲームもまた――かなり見えにくいとは言うものの――その例外になりようはずはない。
江戸時代に大きく受容されていたゲーム「漢詩かるた」は、政策的に推奨されていた。その背景は「武張った」「尚武」の「男手(漢字)」の時代精神であった。だが幕藩体制を倒してやったきた新政府は、近代と復古の混合体であった。和魂洋才とはよく言ったもので、近代的手法の精神的背景は「公家文化」であったといえよう。その背景は「雅びた」「典雅」な「女手(仮名)」の時代精神へと取り替わっていった。
「百人一首」は政策的に推奨されたことはないが、こうした時代精神の変化にうまく適合していったのではないだろうか。黒岩涙香は、明治37年(1904年)に競技かるたのルールを制定した。これは「雅びた」「教養」ゲームを、近代的合理性(ルール)に基づいて遊ぼう、という改革である。このようにして変換はなされたのである。

繰り返すが、ゲームの「受容」が直接的な政治の影響を受けることは少ない。しかし、ゲームも文化の一つである限り政治からまったく自由ではありえず、我々は伝統ゲームの受容を通して、その時代の精神を垣間見ることができるのである。

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第13回)

草場純

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これまでゲームの内実(主にルールの構造)という面から、伝統ゲームを現代にプレイする意義について考察してきたが、今度はそれがどのように受け入れられてきたかという側面から眺めてみたい。ゲームの受容の問題である。「受容」は、現代的なゲームでももちろん問題にはなるが、伝統的なゲームは一層重要であり、より本質的な問題となる。
例えば(日本)将棋とチャンギを比較してみよう。ショーギは日本の伝統的バトルゲームであり、チャンギは韓国・朝鮮の伝統的バトルゲームである。現在の遊戯史では両者は同系統とされ、その淵源はインドのチャトランガにあるというのが定説である。このことは、ゲームが単にいろいろな変化をしたということにはとどまらず、チャトランガ(の子孫)が日本に受容されてショーギとなり、韓国・朝鮮に受容されてチャンギになったと捉えることもできる。では、それはなぜなのだろうか。どうして日本ではショーギになり、韓国・朝鮮ではチャンギになったのだろうか。
これは、どうして日本人は日本語をしゃべるのかという問いを思わせる、ある意味答えようのない疑問であるように見える。もちろん実証的、確定的に答えるのは資料的にも極めて難しいと言わざるを得ない。歴史の真実は原理的に解明不能なのかもしれない。だが、ゲームには前回まで縷々述べてきたような様々な内実がある。ゲームは常にそれを育んできた社会と切り離しては考ええないが、独自で自律的なシステムを内包している。したがって、それを定点として歴史や社会を逆照射する可能性を含んでいる、と私は考えたい。伝統ゲームは、常にその時代、その社会と相互作用をし、全体として一つの「相」と言うべきものを形成してきたというのが、私の仮説である。生物学者が現生生物のDNAの中に生物の歴史を読み取るように、我々は伝統ゲームの中に人類社会、人類文化の歴史を読み取れるのではないか、という企みなのである。ゲームは、果たして人類にどのように受け取られてきたのだろうか。

ゲーム人口の減少が嘆かれて久しいが、ショーギを指せる日本人は決して少なくあるまい。お隣でも事情は似ていて、チャンギを指すのは年寄りばかりだ、などと言われながらも決して少なくない競技人口を擁している。ところが果たしてチャンギを指せる日本人がどれほどいるだろうか。ショーギを指せる韓国・朝鮮人はどれほどいるだろうか。
これは考えてみれば不思議とも言える事実である。生来、日本人の頭が将棋のルールに向いているなんてことはあり得ない。それは例えばソウルで生まれ育った日本人を想定してもすぐわかる。将棋が本質的に日本人向きだとか、シャンチーが本質的に中国人向きだということはない。単に生育した環境の問題である。
このことは、ゲームと言語の共通点として夙に指摘がある(*)。私は日本で育ったから日本語を母語とし、将棋を指すわけだ。すなわち、私の問題ではなく、社会の問題である。だが、本当にそうだろうか。

人は母語を選べない。人は誰も親を選ぶことはできないが、それと同様に母語を選ぶこともできない。親が子に先行するように、母語は自己に先行しているとも言える。だがゲームはそうだろうか。
日本に生まれた子が将棋を指せるようになるのは、ある意味自然なことではあるが、決して必然ではない。実際、前述したようにまったく指せない日本人も少なくない。どのような社会にあっても、言語を習得せずに人間として生きていくのはかなり困難なことではあるが、ゲームはそうではない。将棋も花札も知らなくても、日本人として生きていくのに格別の支障もない。これは言語の相(個人と社会との相互作用)と、ゲームの相との大きな違いである。だがそれは、ゲームが取るに足りない文化であるということを意味するわけではない。すなわち、我々は大なり小なり(伝統)ゲームを、選び取ったのである。ここに言語とゲームの相の差異が起源する。
言語は、個人と社会の相互作用の中で、生成流転していく。それは青年文法学派のような19世紀の言語学が「勘違い」したように、自然現象を思わせるものがある。それは、言語がそもそも所与のものとしてあるのだから、幾分かは無理ない誤解と言える。言語を作っているのは人間のはずなのに、言語は個人の思いのままには必ずしもならない。言語の変遷は人間を超えた法則に支配されているように、見えないこともない。だがゲームは違う。要はゲームの受容は、人が主体的に選び取ることによって起こるということである。
今まで見てきたように、伝統ゲームには衰亡がある。またゲームの伝播は、細部は解明されないものの歴史的事実と見てよい。そこに「受容」の問題を設定することは、今述べたような観点から、極めて重要だと考える。人々は、広い意味の「楽しみ」を求めてゲームをするのである。そうした内的動機が、ゲームの歴史に他の文化史と異なる独特の相を与えている。

ある社会が新しいゲームを受容するとき、既成文化の価値観とこの内的動機とがせめぎ合う。以下に個々の事例に触れつつ、その時代の相に迫ってみたい。

(*)「SFマガジン」207号(1976年2月号)40ページ

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伝統ゲームを現代にプレイする意義(第12回)

草場純

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前回はちょっと寄り道して「創作伝統ゲーム」に触れた。創作/伝統は形容矛盾だが、ある意味小説の本質といえるかも知れない。「事実」を創造するのが小説だからである。裏返せば、歴史を考えるヒントにはなるものの当然、史料とはなりえない。
そこでここで、再び現存する日本の伝統ゲームに立ち返ってみよう。伝統ゲームの中に、生きた史料を見出せるからである。

「掛合トランプ」は、今も島根県雲南市掛合町字掛合に伝わるトランプゲームである。日本にトランプが伝わったのは16世紀後半にポルトガルの船員が伝えたとされる第一期と、19世紀後半の幕末・開国・文明開化の時代にいわゆる欧米から伝わった第二期があるとされてきた。しかし掛合トランプはその間を縫うように、18世紀初頭にオランダから伝わったトランプゲームである。
伝承によれば地元で「絵取り」と呼ぶこのゲームは、掛合の清水何某が長崎の出島に医学を学びに行き、オランダ人から教わって持ち帰ったとされている。残念ながら物的証拠は見出せないもののこの伝承は、日本におけるゲームの受容の過程を辿ることが可能な、貴重な生きた史料となっている。

ポルトガルのトランプは48枚で、これが近世の日本に与えた影響は大きい。現在でも花札は48枚で、これはその直接的影響であると考えられる。また、伝わったカードは貝覆いと習合して「百人一首かるた」を生み出した。更に第10回で述べたように、うんすんかるたへと発展していった。株札・黒札・大二などの、現在「地方札」と呼ばれる多くのバリエーションも、このポルトガルのトランプの放散の結果であると考えられている。現在でも花札の1月の「松」のシルエットに、ほのかにポルトガルの竜を読み取ることができる。(ポルトガルのトランプはエースにドラゴンを描いた。) 松はドラゴンの尾骶骨と言うべきかも知れない。

では掛合トランプ(絵取り)はどのようなゲームなのであろうか。その内実を探ってみよう。
掛合トランプは、カード獲得型のトリックテイキングゲームである。以前にも述べたように、トリックテイキングゲームには、特定のカードにあるポイントテイキング型と、純粋に取ったトリックの数だけを問題にする、トリック数テイキング型とがある。あえて言うなら、後者は前者の進化形と言えるかも知れない。
具体的にポイントテイキングゲームの一例を挙げるなら、それはドイツのスカートである。スカートに於いては、Aは11点、10は10点、Kは4点、Qは3点、Jは2点、その他は0点という固有の点を持ち、トリックテイクの方法でそれを半分以上獲得するのがプレイの目標になる。一方掛合トランプでは、AKQJの獲得枚数のみが問題になる。とは言え、これは広い意味のポイントテイキングの一種とも言える。A=K=Q=1点と捉えることができるからである。それがポイントテイクの進化した形か退化した形か、言い換えればルールの変化に価値判断を加えることで歴史の見方が変化する。つまり掛合トランプ=絵取りは古い形を残しているとも、日本に伝わって変化したとも考えられるからである。
その、ゲームとしての評価は別としても、絵取りが日本のゲームに与えた影響は深いものがある。
もう一点、掛合トランブのゲームの内実(ルール)として興味深いのは、このゲームは4人ペア戦であるということである。これは現在のコントラクトブリッジと同じであり、少なくとも18世紀初頭に遡れるホイストの特徴でもある。
更に面白い事実としては、掛合トランプやゴニンカンや花札は反時計回りにプレイが進行するが、ホイストやブリッジは時計回りに進行するという点である。因みに、17世紀のトランプゲーム「オンブル」は、三人のトリック数テイキングゲームでありつつ、プレイは反時計回りである。

青森にゴニンカンという「絵取り」がある。これは掛合トランプ同様にAKQJの合計16枚を、トリックテイキングのルールで取り合うものである。獲得すべき対象は掛合トランプと全く同じであり、ルールもよく似ている。違うのはゴニンカンはパートナーを指定して二対三で戦うという点であり、この点はあとで述べる(日本式)ナポレオンと同様となっている。もっとも、青森の(ゴニン)カンには、ヨニンカンというバリエイションがあり、それでは二対二になる。
ゴニンカンは、マストフォローのルールはかなり厳格に守るが、完全ではない。それはジョーカーという例外があるからで、こちらはタロットのフール(愚者のカード)の伝統を負っているのかもしれない。その点、掛合トランプは例外がなく、完全なマストフォローである。(ただしスペードA(これを「れんしょ」と呼ぶ)は最も強いカードである、というランク上の例外がある。)

この点で面白いのはナポレオンというゲームである。この日本独特のゲームは、絵取りではあるが、AKQJ10の20枚を取り合うところが、上記二者とは違う。点数の違いを無視すれば、スカートと同じである。またジョーカーやスペードAが特別強いカードであるのも、上記二者の混交のような雰囲気がある。
私はこれらのゲームをプレイするごとに、いわゆる文明開花期に伝わったゲームの受容に、その前に伝わっていたゲームの下地を感じないではいられない。日本に於ける太陽暦の採用は明治五年であるが、その直前の天保暦等に、既に太陽暦の影響があったこと(定気の採用など)を連想してしまう。

ゴニンカンや掛合トランプをプレイすることは、日本におけるトランプゲームの歴史を身を以って味わうことであり、これもまた「伝統ゲームを現代にプレイする意義」だと私は考える。

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伝統ゲームを現代にプレイする意義(第11回)

草場純

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今回は少し趣向を替え、最近発表された「マケドニア将棋」を考察してみる。
「マケドニア将棋」とは、漫画家・岩明均がヘレニズム時代を扱ったコミック『ヒストリエ』で登場させたボード・ゲームである。『ヒストリエ』7巻の限定版には、このマケドニア将棋のルールブックと駒・盤が付属し、実際にゲームをプレイすることができるようになっていた。

ヒストリエ 7 (アフタヌーンKC) [コミック] / 岩明 均 (著); 講談社 (刊)

マケドニア将棋は、岩明均が『ヒストリエ』という作品の中で、主人公の創案として登場させた(あくまでも)創作ゲームであり、歴史的な伝統ゲームではない。
マケドニア将棋は、作中の小道具として作られたのであって、将棋の新案として作られたととるべきではない。これはほかならぬ作者自身がそう言明している。
従って「もっと面白いものが作れる」という見解は、尤もではあっても批判にはならない。

あまり知られていないことではあるが、一般に「自明でない将棋系ゲームは成立する」という命題があり、証明されている訳ではないが、まず正しいと言ってよい。
この命題をおおざっぱに言い換えれば、「将棋やチェスや象棋のようなゲームを作れば、大概そこそこのゲームになる。」という身も蓋もない意味となる。

二者完全情報零和有限確定ゲームは、囲碁や、連珠や、リバーシ(オセロ)や、ドラフツ(チェッカー)のようなゲームのことで、将棋系ゲームはその一つである。(軍人将棋やガイスターのようなゲームは、不完全情報ゲームであるからこの範疇には入らない。)
アブストラクトゲームとも呼ばれるこの手のゲームは、意外に微妙なバランスの上に成立し、実は相当作るのが難しい。えてして簡単に必勝法の見つかるパズルになってしまうか、避敗法があっていつまでも勝負のつかない膠着ゲームになってしまうか、しがちなのである。これは、具象的な紛れのない、アブスラクトボードゲームの宿命と言ってよい。だからアブストラクトボードゲームの現状は、時代の試練を経た「よく知られたゲーム」が少数あるだけなのである。
かつて日本棋院と任天堂が組んで、賞金付きで碁石と碁盤でできるアブストラクトボードゲームの新作を募集したことがあった。しかし残念ながら、受賞作ですら面白くないゲームだったという体たらくであった。繰り返すが、この手のゲームは、ゲームでなくパズルになってしまいがちだからである。
ところが興味深いことに、将棋類はこの宿命を逃れているジャンルなのである。もっとも、将棋がアブストラクト(抽象的)ゲームかどうかは、若干議論のあるところだが。

将棋類は殆どのものが、敵味方が同じ勢力であり、互いに一手ずつ指していくのが普通である。こうなると、初手で王が詰んでしまう(これを「自明」と言う)ような極端なものでさえなければ、完全情報だけに互いの先読みが無限の後退を続けていき、程なくそれは通常の読みの範囲を超えてパズルではなくなり、替わって形勢が成立してゲームとしての面白みが出てくる。
つまりぶっちゃけて言えば、将棋みたいなゲームを作れば、自明でさえなければ、案外適当に作ってもゲームになってしまうのである。これが冒頭の「自明でない将棋系ゲームは成立する」という命題の意味である。
裏を返せば、将棋みたいなゲームはいくらでも作れるということだ。

このことは、現在の将棋類を眺めなおしても理解できるだろう。
将棋の駒はなぜあの8種類40枚なのか? あの初期配置に必然性はあるのか?
――もちろん現在の初期配置で面白いことは認めるが、現在の配置が本当に最高かと言えば、誰にもそれは明言できないだろう。
例えば、敵味方を一路近づけて9×8の盤で将棋を指すことを提案した人もいる。(熊谷2010)
私はたちどころに勝負がつくような気がしたが、やってみると少なくとも自明な手はない。するともう案外面白いゲームになってしまうのである。
初期配置にしても、例えば金と銀の位置が逆だって、あまり問題があるようには思えない。日本将棋の飛車角は敵味方点対象の位置にあるが、あれをチェスのキングとクイーンのように敵味方線対称に置いたとしたら、相当戦法は変わっても(自明でさえなければ)、将棋に劣らぬ面白いゲームになりそうではある。
結局、将棋の駒や盤や初期配置に必然性はあまりない。それは数々のミニ将棋や、中将棋、大将棋、そして世界の様々な将棋の存在が、それを証明していると言ってもよいだろう。

だが、新たに創ったものが本当に面白いかどうかは、その先の問題になる。白石と黒石しか使わない抽象度の高いアブストラクトゲームほどは馬脚が出ない、と言うにすぎない。将棋類は簡単には成立するが、それだけに存在意義のあるゲームを作るのは、逆に難しいとも言える。

ではマケドニア将棋は、(小道具としてではなく)将棋類としてはどうなのだろうか。
結論から言えば、それなりに遊べるが、終局は冗長である。
だが、冒頭に述べた繰り返しになるが、これは作者の製作意図である。冗長なゲームは悪いゲームではあるが、冗長に作ったゲームを冗長だと言っても批判にはならない。
一方それなりに遊べる理由は、駒の再使用(取った駒を張って使える)にある。
マケドニア将棋を(恐らく作中で)見ただけで(一度も指さないで)「こんなのは駄目だ!」と、頭ごなしに決め付けた人もいたが、指してみればそんなことはない。そこそこ楽しめる。

終盤を冗長にしている原因は、第一に取った駒を敵地には張れないというルールにある。これは自陣の最奥に突然敵兵が降って湧くのは現実性がない、という尤もではあるがゲームの論理を越えたゲーム外の理由による。だが残念ながら、これでは詰めに決め手を欠く。プレーヤーは、敵陣外に張った駒をエッチラオッチラ敵陣に運ばなければならない。実戦から作ったという物語上の要請には確かに従ってはいるが、ゲームとしては何とも退屈となってしまう。
第二の理由は、大駒の少ないことである。いわゆる「走り駒」と言えるのは、矢だけである。これはクイーン(飛車+角行)の動きなので、当初は強い駒と思われがちだか、弓兵と一体でないと使えないのが、文字通り使えない。クイーンとは言え、一発きりで回収しないと続かないのも弱い。矢を弓兵の上に張ったり、矢の受け渡しなど面白いルールもあるのだが、あまり使えない。するとルークもビショップもないマケドニア将棋では、ピンをしたり、紐をつけて尖兵を派遣するなどの手が使えず、詰めあぐむことになりがちなのである。
第三の理由は作者自慢の「譲位」にある。これは結局敵の王(位)を二度、あるいは三度詰めなければ勝てないということであり、一局に二局分の時間がかかるということである。すなわち、ストーリーの上では(多分)重要なルールなのであろうが、ゲームの上ではあらずもがなのルールである。
また、これは終盤だけではないが、横に利く駒が少ないのもじれったい。

とは言え、終盤を少々我慢すれば結構楽しめる。
弓矢は、シャンチーの砲やチャンギーの砲ほどは面白い駒でも使える駒でもないが、それなりに楽しめる駒である。弓矢を持ち駒にしたりすると結構楽しい。
重歩兵は初めはたいしたことはないと思ったが、二枚重ねると後ろの駒の利きの範囲で前の駒が進め、追って後ろの駒を進めるなどといった、他の将棋類にあまり見られない展開があったりするのが楽しめる。
譲位ルールも、終局の欠点ではあるが、中将棋の太子よりはずっと使える。作者には悪いが、譲位はそれほど独創的なルールというわけではなく、昔の中将棋以上の大きな将棋では、王将が取られても太子があるうちは負けではない。とは言え、実際問題として太子を作るのは相当に大変なので、その意味では譲位ルールは使える。可笑しいのは、たとえ王将を詰めてはみても、王子に譲位されたら途端に王将が詰まらない(笑)駒になっていまうという点だ。その王将を取ることは再度の譲位を防ぐことになるので悪いとまでは言わないが、例えば将軍との交換は将軍側の損かも知れない。なぜなら将軍は持ち駒になるが、王将は(張れないので)持ち駒にはならず、「使えない」駒になってしまうからである。この価値観の転換は、確かに他の将棋類では味わえない。

昔、E.R.バロウズの『火星シリーズ』にジェッタン(火星将棋)というのが出てきた。私の印象では、ルールも(当時の訳では)分かりにくく、何とかやってみてもそう面白いものではなかった。それに比べればマケドニア将棋は、作中創作物としてはなかなかいい線を行っているように、私には思える。

私の提案としては、「持ち駒はどこにでも打てる」、あるいはせめて「二十手以降は持ち駒はどこにでも打てる」(二十手までは敵陣には打てない)、程度にすることである。これで終盤の冗長性はかなり軽減される。
実戦でも、王の寝室に突然敵の刺客が現れる事だってあるではありませんか。

ヒストリエ 7 (アフタヌーンKC) [コミック] / 岩明 均 (著); 講談社 (刊)

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伝統ゲームを現代にプレイする意義(第10回)

草場純

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ウンスンカルタは、日本のマイナーな伝統ゲームの中では最も有名なものの一つかも知れない。「有名なマイナーゲーム」というパラドクシカルな表現は決して文飾ではなく、このゲームの「相」を簡潔に表現していると考える。

現在も九州の人吉にだけ残るこの極めて特徴的なカードゲームは、そのポルトガルからのプロトタイプの伝播、日本での発展と普及、伝承と衰退、復興と現況の、どれをとっても「ゲームの受容」という本稿の後段のメインテーマにとって、重要なケーススタディーである。

ここではやや煩雑になるが、その前提となるこのゲームの内実(ルールと魅力)を述べて伝統ゲームを現在にプレイする意義を訴え、併せて後段に備えたい。

《参考:日本中で人吉市だけに残る遊びウンスンカルタとは?(出展:くまもとサプライズ)》

ウンスンカルタはトリックテイキングゲームである。

トリックテイキングゲームとは、コントラクトブリッジ、ナポレオン、ハーツ(ブラックレディ)、ゴニンカン、スカート、ブロット、ヤス、絵取り、オーヘル、…、のようなゲームである。

具体的には、スート(のような種別)と、ランク(強さ)の定まったカードをプレイヤー全員に同じ枚数ずつ配り、ルールによって定められた一人(リード)から順に1枚ずつカードを出していく。全員が1枚ずつ出したら、その中で最も強い(ランクの高い)カードを出したプレーヤーが、出されたカードを全て取得し(手札には入れない)、次のリードをする。これを手札の枚数回繰り返して、取得したカードの多寡で勝敗を争うゲームである。

ここで、強調して述べなければならないのは、「リードされたスートと同じスートの手札があれば、必ずそれを出さなければならない。」というルールで、このルールを「マストフォロー(ふぉろーの義務)」と言う。この場合、リードされたスートと同じスートの手札がもしなければ、他のスートのカードを出すことになるが、ランクに関わらずこのカードは勝つことができない(出されたカードを取れない=自分にとっては「捨て札」となる)。ただしこれは、ゲームによっては「切り札」という例外スートを決めることがあるのだが。

今までこの連載で触れた「黒冠」や「ごいた」、そして「クク」に、トリックテイキングゲームは よく似ている。

しかし「黒冠」や「ごいた」にはカードの強弱がなく、勝負が1巡ごとに区切られていないので、トリックテイキングとは言わないのが普通である。

また「クク」は、勝負が1巡で区切られカードに強弱もあるが、スートがなく、マストフォローでもないので、これも狭義にはトリックテイキングとは言わない。

このトリックテイキングゲームは、伝統的カードゲームのメインストリームで、そのニッチは、オンブル→ホイスト→オークションブリッジ→コントラクトブリッジと続き、現在でもカードゲームの本流と言ってよいと思う。中には、「トランプは、トリックテイキングゲームのために作られた。」と主張するプレーヤーもいるくらいだ。

しかもこのストリームには、無数の傍流がある。なぜならば、「マストフォロー」のルールは、厳しくこれを守らせるゲームと、ルーズなルールのゲームで様相が大きく変わるので、ヴァリエイションには事欠かないからである。(後述するが、ウンスンカルタはかなりルーズな部類に属する。)

さて、以上はトリックテイキングゲームをご存知の方には余計な説明だったとは思うが、ご存知でない方にはこれでトリックテイキングの意味を理解してもらうことは出来ないだろう。ゲームは全てそうだが、ルールを読んだだけではその意味するところは理解できない。やってみて初めてその意味するところが掴めるのである。

実はこれは大変困ったことで、「分かる人には分かる」では説明にはなっていないが、分かる人にしか分からないのである。言い換えれば、知っている人には説明の必要は全くなく、一方知らない人には説明しても分からないのだ。すなわち、ここでは「説明」はどちらにしろ無意味になってしまうのである。

だから知らない人には、ブラックレディでも何でもトリックテイキングゲームをしばらくやっていただくのが、最善であるが、しかし「しばらくプレイしてみてそれからこの文章を読んでね」と、読者に頼むわけにもいくまい。実際にやっていただければ最善ではあるが、ここではあえてトリックテイキングの持つ意味合いを贅言を費やして語ってみよう。もとよりあまり意味のないことは覚悟のうえだが、案外トリックテイキングゲームの本質に迫る考察になりえるかも知れない。そうなっていると読んでいただければ、幸甚である。

さて、トリックテイキングプレーの肝は「マストフォロー」である。これはリードされたスート(例えばスペード)が手札にあれは、必ずそれ(この場合はスペード)を出さなければならない(義務)というルールである。これがなかなか(日本人には)理解してもらえない。なぜなら、その場合に例えばハートをプレーしたら反則(リボーク)なのだが、ハートをプレーしてもそれが反則とはその時点では分からないからである。(尤もその場合はハートは、それがどんなに強いカードであっても勝つことはできない。フォローの義務に従っていない(捨て札になる)からである。)

これは、その人の手札の中にもしスペードがあれば反則、なければ反則ではなく、そして手札にスペードがあるかどうかはカードゲームの本質上、当人にしか分からないのである。そこで反則をしてもその時点では分からず、後から彼がスペードをプレーしたときになって、「なんだスペードを持っていたじゃないか。」と遡って反則が指摘されることになる。するとそこまでのプレーが無効になるばかりか、手札の内容が分かってしまうので、ゲームそのものが破綻してしまう。で、このようなやりにくいルールは、日本人には好まれないようなのである。それは公正さが図りにくいからであり、プレーの自由度が奪われるからであろう。ある意味これは自然なことである(と日本人である私には感じられる)。

これが「大貧民」と呼ばれる日本人好みのゲームでは、そのような心配がない。(中国や韓国でも同系統のゲームは非常に好まれている。) 大貧民では、手札に出すことができるカードがなければパスをするが、出せるカードがあってパスしても反則ではない。むしろしばしば必要な戦術ですらある。そして、このゲームではより大きなカードを出す義務があるが、例えば5の後に4を出せば、その瞬間に反則が指摘できて公正である。そこで出しなおせば、反則者は不利になるが、ゲームそのものが壊れることはない。日本人、アジア人ならずとも、これが好まれて不思議はないだろう。

一方日本では、「なぜマストフォローが要求されるのか」の理由が理解されない。もちろんそれがルールだから当然なのだが、ルールとしての存在意義がピンと来ないと思われるのである。

煩雑にはなるが、ここでマストフォローの効用について述べる必要が生じるだろう。

マストフォローの効果は、エスタブリッシュという現象によって遺憾なく発揮される。エスタブリッシュとは、あるスートを自分だけが持っている場合、それがどんな弱いカードでもそれをリードさえすれば、誰もフォローをできないのだから(みんな捨て札をする)そのカードが勝つ、という現象である。そして同一スートを繰り返しリードすることによって(ここでもマストフォローのルールが効いて)他のプレーヤーからそのスートをなくさせ、そのスートをエスタブリッシュさせることが選び取れる。つまりカードの強さにだけ頼らずに、カードプレーのテクニックがふるえる可能性があるということである。

だがこれは、ルールを聞いただけでは直感的に非常に分かりにくい。したがって、新しくゲームを覚えるプレーヤーは、マストフォローのような分かりにくいルールを受け容れにくいのである。

筆者の考えでは、こうしたマストフォローのルールは、14世紀から15世紀の南ヨーロッパで成立したと思われる。それは、ゲーム界における新しいニッチの登場であった。

さて、では上記を踏まえてウンスンカルタの内実に迫ってみよう。

ウンスンカルタは、16世紀にポルトガルの船乗り達によって伝えられたカードゲーム(南蛮カルタ)が原型である。伝来の経緯については史料が乏しく、不明な点が多い。そこで現在のルールから遡って、逆にどんなゲームが伝えられたかを推定することになる。あたかも、生物進化の経緯が直接的に調べがたいので、現生の生物の構造や生態から逆に推理しているのに似ている。

「伝統ゲームを現代にプレイする意義」を、ゲームの範疇を越えて広く捉えることが許されるなら、伝統ゲームをプレイすることは、歴史の解明につながる面があることが、意義の一つとして挙げられると思う。あえて大げさに言うなら、我々は古代のゲームをプレイすることによって、古代人の心になれるのである。

では具体的にウンスンカルタの内実、即ちルールの構造を見ていこう。今述べたようにこれは、「ルールから歴史を見る」ことにつながる。

現在、人吉に残っているウンスンカルタの技法は「八人メリ」である。これは八人が2チームに分かれて闘うトリックテイキングゲームで、世界的にも非常に珍しい。現在でも、ブーレやルーのように多人数でやるトリックテイキングゲームは沢山あるが、多くは個人戦である。その点でウンスンカルタはかなり特異ではあるが、健部伸明らの研究によって、かつては6人でプレーする六人メリ(トリオ戦)、4人でプレイする四人メリ(ペア戦)もかなり遊ばれていたことが考えられるようになった。特に、ウンスンカルタと南蛮カルタの過渡期の天正カルタでは、四人メリに近い技法で遊ばれていたと考えられている。したがって、人数の点にはあまり拘泥せずに考察することにしよう。

ウンスンカルタはトリックテイキングゲームである。しかしトリックテイキングゲームの重要な要素であるマストフォローという点から考えると、かなりルーズなルールであることが指摘できる。すなわち、マストフォローではない。では完全にマストフォローのルールが忘れられているかと言えば、そうでもない。切り札(ヤク)を出すのでなければ、フォローしないと勝てないところにそれは察せられる。

またモンチという語源不明のルールがあり、これはある状況においてマストフォローになるというルールである。

さて、ここでまた遠回りになるが、ウンスンカルタ(八人メリ)のルールをごく簡単に紹介しておこう。

ウンスンカルタは、75枚のカードからなり、主として「八人メリ」というゲームを遊ぶ道具である。しかし、他にも「天下取り」、「個取り」、「六人メリ」などの遊びがあり、この事実は極めて重要である。重要ではあるが、説明のために以下には現在専ら遊ばれている八人メリのルールを中心に、概説することにする。

まずカードの構成だが、スートは、パオ・イス・オリ・コツ・グルの五つ、ランクはスン・ウン・レイ・カバ・ソウタ・ロバイの絵札に9~1の数札が続く15種である。すると15×5で、75枚と相成るわけだ。この枚数が78枚のタロットに近いので、松田道弘氏は両者の相関(タロットが伝わってウンスンカルタになった)を強く示唆した(1979『トランプものがたり』p.84)。しかし松田氏自身も認めているように、トリックテイクのルールで獲得トリック数を争う(ブリッジのような)八人メリと、トリックで獲得したカードの点数を争う(ナポレオンやスカートのような)タロットでは、同じトリックテイキングゲームでも別物と言えそうである。しかし、もっとはっきり両者の直接の伝播関係を否定しているのは、カードの構成そのものである。

棍棒・刀剣・貨幣・聖杯という四つのスートに王・女王・騎士・兵士・10~1の数札が続いて全てで14種のランクがある(14×4の)56枚の小アルカナに、22枚の大アルカナが加わった78枚と、前述の75枚でははっきり構成が違う。両者のルーツはともかく、直接どちらかがどちらかのオリジナルである可能性は少ないと考えるべきだろう。
15×5≠14×4+22

しかし松田氏の気持ちも、全く分からないではない。

なぜなら、ウンスンカルタの数札は、パオ・イスの「細長い形をしたスート」は9が強く順に弱くなっていって1が最も弱い。そしてオリ・コツ・グルの「丸い形をしたスート」は逆に、1が強く順に弱くなっていって9が最も弱い。で、この甚だしい特徴が、タロットにも共通するからである。タロットでは、刀剣と棍棒という二つのスートでは、数札は10が強く順に弱くなっていって1が最も弱い。一方、貨幣と聖杯という二つのスートでは、1が強く順に弱くなっていって10が最も弱い。これは偶然の符合ではあり得まい。英語に堪能な(だから)松田氏が、タロットの伝来と考えたくなったのは、従って分からないではない。

しかし、古いトランプゲームのオンブルでは、黒いスート(クラブスペード)の数札は数値が大きいほど強く、赤いスート(ダイヤハート)の数札は数値が小さいほど強い。このことは、タロットがやってきてウンスンカルタになったと考えるよりは、両者に共通の祖先があったと考えるほうが自然であることを物語っているのである。

面白いのは、この奇妙な特徴「スートによるランクの逆転」が、プレーの上では全く意味を持たない、いやゲームを煩雑で間違えやすくするだけの悪いルールであるにも関わらず、インドのカードゲームのガンジハから、スラウェシのカードゲームのウジャンオミ、中国宋代のカードゲーム闘虎までに共通する、まさしく地理と時代を越えた共通ルールだということである。即ち、詳細は詳らかではないものの、そこにはカードゲームの伝播と盛衰の世界史的流れが窺えるのである。私は正にここに、伝統ゲームを現代にプレイする積極的意義を感じる。

すなわちそれは、尻尾のない人類の尾てい骨、あるいはDNAにあって全く機能しない偽遺伝子のような意味合いを持つと、思えるからである。尾骨は現生人類には役に立たないものではあるかも知れないが、それを調べることによって人類の由来、霊長類の進化の過程が辿れる。同様に、こうした古いルールをプレイすることによって、カードゲームの歴史の一端、今まで省みられることの少なかった人類の文化史の一断面が、みごとに垣間見られるわけである。

このことは、ウンスンカルタのカードそのものを見ても感じ取っていただけるだろう。それは東洋とも西洋とも言いがたい、そして東洋でも西洋でもあるような、不思議でキッチュなデザインである。「南蛮風」とでも言えば少しは言いえるのかも知れない。こうした図柄そのものが、ウンスンカルタの背負った歴史性を、視覚的に我々に教えてくれている。

さて、八人メリは文字通り8人でプレイする。これは4人対4人のチーム戦であり、プレーヤーは敵味方が交互になるように座る。詳しい手続きの解説はここでは割愛するが、要するにこの8人に一人9枚の手札を配る。75-9×8=3 であるから3枚残り、これで切り札を決める。

ここでトリックテイキングゲームの運びを思い出してもらえれば、このゲームが9トリックで終わることが分かるだろう。初めはルールで決められた人が手札から1枚をリードし、全員が順に1枚ずつ出す。重要なことはこれがマストフォローではない、ということだ。例えばグルのカードをリードされても、必ずしもグルを出さなくてもいい。この意味では確かに「日本化」されていると言えるのかも知れない。とは言え、完全にトリックテイキングを脱していないのは、フォローしないと勝つことができないことから分かる。こうしたルールを研究家は「メイフォロー」のゲームと呼ぶ。こうしてあるトリックに勝ったプレーヤーが次のトリックのリードをするわけである。

これを9回繰り返せば1ディールが終る。9は奇数なので、必ずどちらかのチームが勝つことになるが、それは5対4(1点)から9対0(9点)までいろいろで、この点数を積算していき、9ディールのトータル点で1ゲームの勝敗を決めるのである。

ゲームの大まかな流れはこうだが、八人メリというゲームを特徴付けているのは切り札の扱いである。

切り札は最初に残した3枚のうち1枚を表にして定める。(もしそれがコツの札ならコツの15枚(+1枚)が切り札となる。)さて、メイフォローであるから、何をリードされても切り札で勝つことができる。このことは、実はトリックテイキング本来のエスタブリッシュの機能を破壊している(もともとメイフォローは、エスタブリッシュしにくいのだが)。そして切り札を出すときは伏せて出し、複数の切り札がぶつかったら、同時に表にして勝負を決めるのである。ここが八人メリの肝であり、ここにヤクなどの斬新なルールが絡まって、他のゲームにはあまり見られない、独特の面白さを醸すのである。

こうした換骨奪胎が「日本化」であることは、このようなゲームは日本の創作ゲームにしばしば見られることからも、感じ取れる。最近ではパニックハイスクールというゲームが(だいぶ趣は違うが)こうした同時公開のシステムなので、私は内心驚いたものである。

要するに、ウンスンカルタはトリックテイキングの王道ではないのである。とは言え、その残滓が全くないといえばそうでもない。この辺りが、ゲームの受容のケーススタディーとして実に興味深い。例えば自ら切り札をリードする(このときは表にして出す)と、全員切り札を出さなければならなくなる。これをメリ(名詞)、あるいはメル(動詞)と言い、「八人メリ」の名の元になっているくらいだから、重要なルールと認識されているわけだ。そしてメラれた後はモンチ状態になる。モンチの語源は不明だが、ルールとしては何とマストフォローである。つまりメリきった後は、エスタブリッシュが効くのである。尤もモンチでも、リードされたスートが手札にあっても、切り札だけは伏せて出して切ることができるので、甚だ不徹底なマストフォローではあるが。

結論として、八人メリではエスタブリッシュの手法は、十分に威力を発揮することはない。トリックテイキングのニッチは、十全な形では日本の風土に展開できなかったと結論すべきだろう。とはいえ、そのことが逆に、独自の面白さとシステムを開拓した貴重な文化財を生み出したとも言えるのである。

ウンスンカルタは江戸時代から伝わる日本の伝統文化であるだけでなく、ゲームとしても大変特色があり面白いものである。だがそれを現代にプレイする意義は、そうした文化財の保護というレベルを超え、ゲームの伝播と歴史を知り、ひいては日本の精神文化に対する深い理解をもたらしてくれる、極めて意義深いものだと私は考えるものである。

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伝統ゲームを現代にプレイする意義(第9回)

草場純 (協力:公成文)

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失われた日本の伝統ゲームとして、次に連歌を挙げよう。

連歌はあまりに廃れすぎて、むしろ最近では復興の兆しさえあるが、極めてストリクトなルールに則るゲームでありながら、ゲームとして意識されることの少ない文芸である。馴染みのない方も多いと思うので、冒頭にその成立と沿革に簡単に触れ、ルールの概説をしよう。

伝説によれば連歌は日本武尊が開祖で、筑波とか筑波嶺の道とか呼ばれたそうであるが、現実には短歌の返歌や付歌として発祥したのであろう。長歌や旋頭歌の下地がそこにあったことも疑えない。つまり五七五七七と詠まれて五七五七七と返す、五七五と詠まれて七七と返すなどがその原型であったと想像される。もしそうなら、既にここに「問いと答え」というクイズ的、ゲーム的なものの萌芽を感じる。

筑波山は現在では全く面影もないが、歌垣で有名な場所である。歌垣というのは、まあ現代で言うなら合コン(合同コンパ)みたいなもので、若い男女が集まって歌を詠みあい、その後色々と楽しんだということだ。現代ならさしずめカラオケパーティーでもあろうか。ここには後の時代の、若衆小屋や連中や連衆、数寄や講などという集団遊芸につながる伝統が見て取れる。現代のゲーム会ではないか。

連歌が遊芸として(私に言わせればゲームとして)完成したのは鎌倉時代と言われる。同時にやんごとなき方々の楽しむ堂上連歌から、庶民まで楽しむ地下連歌へとの広がりも見せる。このことはゲームと階級性、あるいは階層性ということで、重要な論点なのであるが、今は深入りしない。

南北朝時代、関白の二条良基は、連歌式目を制定した。この「式目」というのは、要するにルールのことである。ゲームが「ルールと闘争性のある遊び」(草場1976 *註)であるなら、これはゲームとしての確立の要件である。これ以降の連歌は「新式」と呼ばれるのだが、仮にルールの成文化を以ってゲームの成立と考えるのなら、新式連歌はゲームと呼べるのではないだろうか。

そこで新式連歌のルール(式目)を見ていくことにしたい。もっともこの連歌式目も、その後もいろいろなものが出され、変化していく。

さて、連歌は一人でもできないことはない(独吟)が、普通は三人以上で行う。なぜなら二人(両吟)だと、一方が常に五七五を、もう一方が常に七七を担当することになるので、三人以上の奇数が望ましいとされるわけだ。(ゲームになぞらえるなら「多人数ゲーム」が一般的ということ。)

よくあるタイプは主人(ホスト)が、正客(ゲスト)と宗匠(先生)を招いて開く連歌会である。もちろん正客(主客)以外にたくさんの客(参加者)が居ていいのだが、ここでは説明のため、三吟としてみよう。

まず正客が「五七五」と一句詠む。これを発句と言い、後の世の俳句はこの発句が独立したものである。すると主人がそれを受けて「七七」とつける。これを脇句と言い、ここまでで二韻と数える。すると更にそれを受けて宗匠が「五七五」と続ける。これを第三と呼ぶ。実は後で述べるようにこの三韻目がなかなか難しく、だからこそ宗匠が担当することが多い。するとまたそれを受けて正客が「七七」とつけ、主人が「五七五」… と続けていくわけである。

一般的にはこれで最後に正客が百韻目の「七七」を詠んで終る。この百句目を「挙句」とか「結句」と呼ぶ。俗に「あげくの果てに…」などと言われる「あげく」はここから来ている。これが正式の百韻連歌である。

百韻とは短歌にして50首分であり、それではあまり長いので、五十韻、世吉(44韻)、歌仙(36韻)、半歌仙(18韻)なども行われた。半歌仙は3人で3首(6韻)ずつ詠めばいいので私も仲間と試してみたが、和歌の素養がないとなかなか難しい。

しかしそのぐらいで驚いてはいけない。十百韻といって千句、十千韻といって万句の連歌も催されたという。時代は下って江戸時代の記録だが、宗匠何某の屋敷に数十人の庶民が集まり、夜は灯篭に燈を点し、昼夜を別たず万句を越える連歌会を催したなどという話も出てくる。現代で言えば、視聴者参加型マラソンテレビ番組みたいな雰囲気であろうか。現代における連歌の零落ぶりと、江戸時代の庶民の教養の高さに、二重に驚かされる。

もっと公式の連歌会を連衆(れんじゅ)と言うが、これには普通「点者(てんじゃ)」と呼ばれる採点者(宗匠がなる)と「執筆(しゅひつ)」と呼ばれる公式記録者がつく。彼らは連歌には加わらない(加わることもある)。点者の仕事は採点であり、後に述べる式目の監督である。執筆の仕事は文字通り記録であって、和紙を半分に折り(半紙大)、百韻ならこれを4枚用意する。一枚目を「初折」と呼び、表に8句(8韻)裏に14句を記録する。二枚目を「二の折」、三枚目を「三の折」と呼び、それぞれ表裏に14句ずつ記録する。最後の四枚目を「なごり」と呼んで表に14句裏に8句記録し、合計百韻となるわけだ。これに主人(主催者)、宗匠が署名して公式記録とする。この記録を「折り紙」と呼ぶ。現代でも「彼の能力は折り紙つきだ。」などという、「折り紙」の語源である。

折り紙は現代にも多数当時の実物が遺っていて、中世・近世ゲームのリプレイ記録として貴重なものとなっている。

さて連歌が現代人に馴染みがないと予想されるので、その概要にやや詳しく触れたが、いよいよ式目の説明に入っていこう。

ここまでの説明で分かったと思うが、連歌は集団詩作である。リレー作詩であり、言語ゲームである。しかしゲームと言っても文学なので、採点は難しい。これは現代でも新体操やフィギアスケートの採点が物議をかもすのに近い。かつては「懸け物」と言って、点者によって高点をつけられた者に賞品が出されたりしたが、評価が主観によることは避けられず、評価を巡ったトラブルも少なからずあったようである。そういう意味で、ゲームとしての厳密さに欠ける嫌いがあるのは否めない。しかし現代でも、ロールプレイングゲームなどにはそうした曖昧さは付きまとっているだろう。むしろごく最近では、協力ゲームの隆盛に見られるように、ゲームの範囲の方が広がってきているようにも思われる。ならば、連歌が現代にゲームとして復活する日もあるのかも知れない。

そうした文学的な曖昧さ以上に、ゲームとしての難点は、それが芸術的創作の上に成り立っているというところにある。『ディクシット』や『ヒットマンガ』、『キャット&チョコレート』など、ごく最近のゲームに通ずると言ったらよいかもしれないが、もっと高度で、『ワンスアポンナタイム』を思わせるものがそこにはある。いやプレイヤーに要求される能力はもっと厳しいと言ってよさそうだ。

まず大前提として連歌に要求されるのは、当たり前のようではあるが、それが和歌であるということである。和歌とは日本の伝統的韻文定型詩である。それ自身約束事が多数あり、それを創るためには、詩作の能力と韻文定型詩に対する素養が必要であり、現代の文化状況では両者ともなかなか難しい。サラダ記念日がもっと大発展しないと、難しいのかも知れない。後段の「ゲームの受容」の議論を先取りするなら、プレイヤー集団に共有される文化的基盤が必要である、ということだ。

しかしここでとどまっていたのでは、話が進まないので、そこはクリアしたとして、いよいよ連歌の式目の詳細を述べよう。

連歌式目で前提として言われるのは、「付合(つけあい)」と「行き様(いきよう)」の相反する二つの指針である。

付合とは、マッチングである。当然だが、ある句は前の句とつながらなければならない。これは分かりやすいだろう。

行き様とは、変化である。付合だけを気にしていると、明らかにマンネリとなる。いつも狭い世界に終始し、発展せず、最悪の場合は堂々巡りとなる。

すなわち、連歌とはつながりつつ変化しなければならないわけである。あたかも弁証法のように、矛盾する二つの概念をかかえつつ発展し、全体として詩的世界を構築していく集団芸術なのである。

式目では付合には、平付け(順接)、対揚げ(逆説)、四つ手(ガッチリ付ける)、言葉付け(言葉の多義性を利用して付ける)、心づけ(言葉を離れ意味で付ける)、景気(状況でつなぐ)、引き違え(転換)、本歌(引用やパロディ)、本説(歌以外の引用)、名所(歌枕)、狂句(破調)、異物(あえてテーマを外す)などの手法があると解説されている。前述したように、第三(三韻目)が難しいと言われる理由はここにある。発句にはその連歌全体のテーマが求められるが、事前にゆっくり考えられる。脇句はとりあえずつければ上記のどれかにはなろう。それに対して第三は、その連歌の方向を決める役割が求められるわけだ。

関係性も複雑になる。ある「五七五」と、次の七七を飛ばしたその次の「五七五」との関係、あるいは同様に「七七」と一つ離れた「七七」との関係を、「打越(うちこし)」と言うが、打越どうしの、同じ雰囲気を持ちつつ離れた関係、あるいは同じ題材なのに微妙に雰囲気を変えた関係というような、受けつつ変え、変えつつ受けて進行する、螺旋のような構成がもとめられるのである。すなわち、いかに関係を保ちつつ変化させるかという技量が問われるわけである。

常に、付合と行き様を考えつつ、打越に注意を払い、全体のテーマを意識しつつ詩作するのだから、なかなかもって大変である。連歌を、高度なゲームと言う所以である。

けれども式目の真の眼目はここではない。眼目は、「去り嫌い(さりきらい)」に見られるような詳細かつ厳密な制限ルールにあるのである。

式目は時代が下るほど微に入り細を穿つようになり、ついには巨大になりすぎた恐竜が滅んだように、連歌そのものを廃れさせてしまったと考えられる。我々が連歌から学ぶべき一端は、そうしたルールの適正性であるのかも知れない。それを理解するためにもさらに式目を見ていこう。

式目にはまず賦物(ふもの)がある。賦物とは包括テーマである。例えば「源氏」とか「国名」とか「いろは」とかであるが、何かを寿ぐための連歌会だったりすれば、そのこと自体がある種の賦物として意識される。

賦物は発句にそのまま出たり、露骨には出なくても発句には賦物が強く意識される。
更に後代には、発句は月(moonではなくmonth)を詠み込むものともされ、これが俳句の季語に影響を与える。

そして去り嫌いであるが、これはある特定の語句の使用を制限するというルールである。これには二種類あり、それは「一座何句物」と「何句可隔物」である。

一座何句物は更に、一座一句物、一座二句物…とある。

一座一句とは一回の連歌で一回しか使ってはいけない語句で、例を挙げれば、梅・藤・杜若・鶯・郭公・鹿と、まるで花札のようである。しかし他にも、蛍・猿・若菜・蝉などがあり、更に、むかし・いにしえ・ゆうぐれ・しぐれ・夕立・木枯らしなどがある。なるほどこれらは確かに詩情に溢れた単語なので、何度も使うのは避けた方がよさそうではある。とは言え回数を制限するとは!

一座二句物は、二回まで使っていい言葉で、柳・桜・秋風・ふるさとなど。

一座三句物には、花・しぐれ・有明など。

一座四句物には、雪・世などがある。

要するに、参加者は「有明は既に三度出てきたからもう使えないな」などと意識しつつ詩作しなければならないということなのだ。

一方、何句可隔物は、ある単語は何度も使ってよいが、続けて使ってはいけない。何句か隔てて使えというものである。特に打越には厳しい制限がある。

とまあ、大まかに述べただけでも、点者がいて監督したり、執筆がいて記録を克明にとったりする必要性も納得されよう。

あまり煩雑なのでこの辺りまでとするが、更に後代になると「座」などというものまででてくる。

簡単にだけ触れると、例えば初折表七句目や、裏十句目は「月の座」とされた。つまりそこでは必ず月(moon)を詠まねばならないのである。ここまで来ると創作と言えるのかどうか疑問にすら思えてくる。

更に詳述は避けるが、折端や折立といったルール(テーマを一巡させる)などもあり、とにかく煩瑣を極める。私にはある種のシミュレーションーゲームのように複雑に思えるが、これは偏見だろうか。

けれども、こうしたルールの体系から学ぶこともまた多いように私には思える。例えば私のように詩心のない者には、ここまでガンジガラメにルールを定めてもらった方が却って作りやすいかもしれない。自由に詩作するとなればそれこそ才能が要求されようが、定型がかっちり決まっているのなら、凡人でも穴埋め式にそれをこなして楽しむことができるのかも知れない。ルールが煩瑣であるということは、反面では綿密であるということであり、連歌ゲームの復活は、ある意味可能であると私は思う。

また、ここまで微に入り細に渡ってルールを作り上げるスピリットにうたれる。我々には煩瑣に見えるだけではあるが、言葉の美と楽しみを芯まで汲み尽そうという、真摯で徹底した営みをそこに感じるのである。

さて、現代でもごく簡略化したルールで連歌を楽しんでいる人もいる。ネットとの相性もいいので、そのような試みもあるという。主として明治以降であるが、連句と称して、式目を大幅に軽減してやる手法も一時盛んになったし、現代でも連句の会はそれほど数は多くないものの、催されている。文芸としてはそれでも十分楽しめるだろうし、価値もあるだろうが、ゲームとしては逆に評価できないかもしれない。(形式的には、長句(五七五)と短句(七七)を繰り返す連句は、連歌と同じものになる。実際、江戸時代には連歌のことを連句とも呼んだ。)

では、式目を綿密に再現し連歌ゲームを再興したとして、それは果たして「連歌」だろうか。

例えば連句では、歌仙が巻かれたりする。つまり36韻の連歌と同様のものができるわけだ。けれどもそれは既に連句であって連歌ではない。ではどう違うのか。

縷々述べたことの繰り返しになりそうだが、連歌を連歌として支えているのは万葉から始まり、古今、源氏、新古今、その他諸々の日本の文学的背景そのものなのである。すなわち式目のような明文化された「お約束の体系」の背後にある、明文化されていない「お約束の体系」である。そこでは単語一つをとっても、その含意するところはお約束の網の目のなかにあり、そうした「素養」のないものには、「連歌ゲーム」は可能でも「連歌」はできないということになる。

これを私はこの連載の初期に「相」という概念として提出している。それを使って言い換えるなら、連歌は中世・近世の文化的相の中にある、ということになる。

近代に入って、子規などが試みたのはいわば相転移であった。その中にあって、かつての「暗黙のお約束の体系」は棄却されていき、連歌はいわば連句へとそのニッチを明け渡したことになる。あるいはお約束をやめて、写生を志すことによって、ニッチそのものが喪失したと言えるのかも知れない。

では我々は中世に生まれ変わらない限り連歌は詠めないのだろうか。しかり。大変な努力をして中世の文学的素養を身につけない限り、連歌は詠めないと言わざるを得まい。連歌が言語ゲームでありながら、そう意識されない理由の一端もここにある。

ならば連歌ゲームを現代にプレイする意義は、何もないのだろうか。

私はそのままの形では生きてこないと思う。だが千年に渡って磨いてきた言語ゲームのスピリットは、別の意味で現代に生かせると考えている。若干飛躍はあるが、現代の連歌ゲームとでも言うべき遊びを紹介して、その意義を示唆したい。

『詠み人知らず』(みなひともじ)というゲームがある。かんぽの会というゲーム会を主催する宮崎さんの考案になり、個人の創作ゲームなのでここでは詳細なルールは述べないが、文字による連歌といった趣の傑作ゲームである。とにかく面白く、採点もゲームとして工夫された名作である。

作者本人に確かめたわけではないが、恐らくこのゲームは連歌の伝統を直接的に受けたものではないだろう。しかし日本人が日本語と付き合って二千年。日本語を芯まで楽しむという意味で、「連歌」と『詠み人知らず』は通底していると、私は強く感じる。「連歌」を真に支えるのが、万葉・源氏等々の教養と言語センスなら、「詠み人知らず」を支えるのは、現代のテレビ、ネット、週刊誌等々で共有されるギャグとユーモアの言語センスなのである。

本当は『詠み人知らず』が連歌の影響を直接受けて成立しているのなら、「伝統ゲームを現代にプレイする意義」が、説得的に語れて好都合なのだが、そうだとは断言できないところが、少々残念なところではある。だが構造こそ違え、連歌が中世・近世的な相として存在するように、『詠み人知らず』は現代の相として存在するという意味で、共通していると思えるのである。

そしてここまで縷々述べたように、連歌はここまで詳細なルールを定めたゲームとして、多くのプレーヤーを擁しつつ千年の命脈を保ったのである。これを見直し、捉え返し、遊びなおして意味を汲み取ることができるのなら、それはきっと現代のゲームシーンにも意義のあることだろうと考えるものである。

*註 「SFマガジン」207号(1976年2月号)78ページ 「ゲームについて」

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第8回)

草場純

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「闘茶」は、長い伝統のあるゲームである。ルールが確立されてからだけでもその歴史は五百年を下らない。しかも現在でも細々とではあるが、その命脈を保っている伝統的なゲームでもある。

「利き茶」なら現在でも茶の品評会などで行われることがあるが、これはゲーム性はあるもののゲームではない。なぜならそれは、プレーヤーの勝敗を決めるようなものではないからであり、きちんとしたルールが成立しているものでもないからだ。ただし、闘茶の歴史を紐解けば、その初めは飲んで産地を当てる「利き茶」(本非茶)であったことが知られる。時間の経過を経、多くの人の工夫があって、ゲームとして成立していったのである。

ではその闘茶のルールはどのようなものであるだろうか。

闘茶にも多くの種類があるが、その代表的なゲーム「十種茶」を例にとってそのルールの構造を見ていこう。

まずプレーヤーは車座に座る。そこに茶碗に入った茶が、三服回ってくる。即ち、一、二、三、であり、これを「試し茶」と呼ぶ。プレーヤーは、初めに少しずつ試し茶を飲んでその味を覚えるのである。次に十服の茶が回ってくる。それは試し茶として飲んだ三種の茶が三服ずつと、試し茶になかった「客茶」が一服であるが、この十種がランダムに回ってくるわけだ。プレーヤーは飲んで判断し、用紙に、一、二、三、またはウと記入する。「ウ」というのは、ウ冠(うかんむり)のことであり、「客」の字、即ち試し茶になかった第四のお茶を意味する。

全ての記入が終れば採点である。採点は簡単で、当たっただけが点になる。全てが当たれば十点、全て外れれば零点である。

追体験してみたい人のために、出題側から上記を書き直せば以下のようになる。

伝統的な構成とは異なるが、濃茶風の回し飲みを嫌がる人もいるだろうから、ちょっと現代風にアレンジしてみよう。

まず大量の紙コップ(人数×11個が必要)を準備する。次に、四種類のお茶(A,B,C,D)を用意する。産地の違いでもメーカーの違いでもよいのだが、淹れた時に明確に色が異なるようなのはよくない。

茶碗に、一、二、三と記した紙コップを人数分ずつ用意し、それぞれ一にはA、二にはB、三にはCというように等量を入れ、順番に出して飲んで味を覚えてもらっては回収する。次に一人宛、Aを三つ、Bを三つ、Cを三つ、Dを一つ入れて、ランダムに混ぜて(ただし順番は記録しておく)出しては回収する。この場合全員に同じ順番で出すことが重要である。プレイヤーには予め記録用紙を与え、それに渡されて飲んだ順に、試し茶と心の中で比較してもらい、例えば「二三二一二一三ウ一三」のように記入してもらって回収する。十服出して回収した後、みんなの用紙の回答を記録と比べて採点すれば、十分遊べるゲームとなる。

細かい作法は省略したが、ルールとしてはよく出来ている。これなら立派にゲームとして現代でも通用しよう。

実際これは、「伝統ゲームを現代にプレイする意義」を感じるためのサンプルゲースの一例であり、本当に追試したところ参加者からは大変好評であった。

私は、『ザップゼラップ』とか、『イグルーポップ』、『アロザ殺人事件』のように、音を聞いて(聴覚を用いて)プレイするゲームや、『プシケー』(編注:異名の可能性あり。現在調査中)のように香をかいで(嗅覚を用いて)プレイするゲーム、『イースター島』のように手で重さを量って(触覚を用いて)プレイするゲーム、などを纏めて仮に「感覚ゲーム」(フィーリングゲーム)と呼んでいるが、闘茶は味覚を用いた感覚ゲームなのである。

(参考:アロザ殺人事件)

そして闘茶は、ありがたいことに室町時代や江戸時代の対戦記録が残っている。それを見ると全問的中はかなり難しいようで、5問以下の正解が多い。これは確かに追試してみた私の実感でもある。

さて次に問題になるのは、このように完成されたルールが一体どのように成立したのか、どこからやってきたのか、である。意外なことにこれも簡単に解明できる。その元は聞香である。十種茶は、聞香(組香)の十炷香からきているのである。即ち、利き茶は聞き茶であったわけである。

聞香は、現在でも行われている伝統的な「遊び」である。現在では殆ど遊ばれることのなくなってしまった十種茶と違って十炷香や間垣香、源氏香などは現在でも遊ばれ、道具も売られている。しかしゲームというにはあまりにもその格式は高く、ゲーム用具というにはあまりにも香道具は高価である。聞香は、ゲームとして意識されないまま、別の意味で瀕死であるとすら言える。しかしその本質は歴としたゲームであり、現代に伝わる伝統ゲームの粋という言い方もできるかも知れない。貴方にお金がたくさん有ったら、ぜひ試してみて欲しい。

しかここで私の注目したいことは、聞香の現在ではない。室町時代末に、十炷香で用いられたシステムが、そのまま十種茶で応用されたという点である。逆に言えば、十種茶は十炷香に学んだわけである。時間的には飛躍するが、ここに私は現代に伝統ゲームをプレイする意義を見出すのである。

即ち、以前にも述べたように伝統ゲームは一面では過去のシステムのタイムカプセルであって、異なった環境(社会)にもたらされれば、また異なった蓮の花を咲かせてくれる可能性を秘めている、と考えることができるのである。

ここは入れ子のようになっているので、くどくなるのを厭わず繰り返せば、「室町末期に、聞香のルールが闘茶のルールに応用されたように」過去のゲーム文化を現代に応用することが可能で、我々は伝統ゲームを遊ぶことで、現代のゲーム文化にそれを生かすことができるに違いない、と言いたいのである。

昨年私は『大奥』という時代劇SF映画を見たが、そこに三炷香という遊びが出てくる。これは間垣香を源氏香方式の記号で記録するという、歴史的に実在したとは考えがたいゲームだが、きちんと「感覚ゲーム」にはなっていた。これはスクリーンの中のこととは言え、十炷香などの伝統ゲームに学んだ生きた実例と言えそうである。

さて、聞香は滅びたゲームではないが、あまりにもお高くなりすぎてしまって、その意味で瀕死と言えるかも知れないと述べた。一方、闘茶の方は瀕死ではあるものの、冒頭にも述べたように現代まで細々と命脈を保ってもいる。それには二つの流れがある。

第一は七事式の中の茶かぶきであり、もう一つは白久保のお茶講である。

七事式というのは茶道の定式化された手前の七つのシリーズで、茶かぶきはそのうちの一つである。具体的な茶かぶきの作法は、上記の十種茶を簡略化したような手順になる。茶かぶきでは、プレイヤーの回答は聞香で用いられるような回答札を、折末(おりすえ)と呼ばれるコンパクトな袋に入れて示すなどというように、用具の進化が見られる。しかし残念ながらゲームとしての迫力は、大きくそがれている。それはなぜだろうか。

私はその原因を、茶聖 千利休にみている。再び、話を「戦国末期から近世初頭」の頃に戻そう。

これは再びゲームの受容にわたることであるが、ギャンブルとして猖獗を極める闘茶に対し、いかに侘び茶を確立するかというのが利休の課題であった。現代では忘れられていることであるが、利休は侘び茶を、闘茶に対して提示したのである。

そういう意味では、利休はゲームの敵であったと私は考えている。利休は茶の湯の持つ精神性に注目し、ギャンブルのような「下賎な」娯楽性を排し、新しい文化として世に訴えようとした。

侘び茶そのものの淵源は茶祖 村田珠光に発し、武野紹鴎の醸成を通じて千利休に伝わる。一方、栄西以来の台子の茶の禅宗的精神性は、もう一人の師 北向道陳から利休にもたらされ、利休はそれを援用、両者を統合して侘び茶の完成を成した。そして利休は、侘び茶の精神性を過度に強調し、政治力を駆使して闘茶の駆逐を図ったのだと、私は考えている。そうして、この意図は利休の死を超えて成就していった。それは武力支配を補完する文化的支配の道具として、為政者側に取り入れられたからである。闘茶の伝統は排され、干からびた干物のようになって茶かぶきの中に僅かに痕跡をとどめるに過ぎなくなってしまった。

こうして近世以降、少なくとも上層階級の闘茶の伝統は衰退していき、地方に少しずつ残っていた伝承も、近代に至ってすっかり絶えてしまった。ただ一箇所を除いては。

その、現代日本にただ一箇所残る闘茶の末裔が、白久保のお茶講である。

「お茶講」は、群馬県中之条町白久保で、年に一度、二月二十四日の夜に行われる闘茶である。もちろんギャンブルではなく、神事であり村の催しである。

これはあたかも、熊本県人吉にうんすんかるた、島根県掛合に絵とり、石川県宇出津にごいた、愛媛県田ノ浜にくじゅろく、が残ったように、かつてはもっと広い地域で遊ばれていたものが、歴史の偶然と土地の人の努力でそこだけに残った貴重な伝統ゲームである。

だがここではそうした歴史的背景は措いて、ルールの構造のみを見ていこう。

簡単に言えば、白久保のお茶講は七種茶である。十種茶が3+3+3+1=10という構造を持つのに対し、お茶講は2+2+2+1=7となるわけだ。茶の種類も銘茶などではなく、煎茶、甘茶、珍皮などを別の割合で配合した、子供にも飲みやすいものとなっている。すなわち、十種茶の簡略化だが、こうした群馬の山間の村で、村人が子供も含めて(厳密に言えば12歳以上の女性は参加できなかった)こぞって参加し、ギャンブル性を脱した村の催しとして楽しむには、よい改良だと思われる。

また、各人が書き込む用紙や、配合した茶を包む包み紙を順に畳に立てた竹の棒に突き刺していく方式などは、ゲームとしてとても工夫されている。成績を、全部当たれば「花担ぎ」、全部外れると「逆さっ花」、その他「ひょうすべ」「鉄砲」など、絵で表現するのも楽しい。ギャンブル性はないと言っても、当たったら飴を配るなどの遊びの味付けがあり、「花担ぎ」も「逆さっ花」もともに縁起がいい(豊作を予告する)というのも「田遊び」に通ずる神事(予祝)と遊びの融合を感じて感心する。

すなわち、土地の条件に合った洗練を施されているのであり、繰り返し述べるが、これが時代というテストプレイを繰り返した、伝統ゲームの深い魅力なのである。

伝統ゲームを現代に遊ぶことの意義は、こうした忘れられた過去の知の集積を現代に生かすことであり、また単にそれにとどまらず、例えば侘び茶に奪われた遊びのエネルギーを庶民のもとに取り戻すというような、今日的課題であるとも思われる。

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伝統ゲームを現代にプレイする意義(第7回)

 草場純

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 初めに前回、第6回の補足を少し。

 前回、藤八拳の動画がついていたが、あの画像は番付披露会の余興であって本当の勝負ではない。本当の勝負には鉦や三味線はつかないし、もう少しテンポも速い。それにあの画像は余興なので、故意に勝負をつけないように演じている(ある意味それも技量ではある)。それでも知らない方には藤八拳の雰囲気は千言を費やすよりよく伝わるだろう。動画はありがたい。合いの手の、ハッ、ホッ、ハッ……というのも手と同時に発声するのではなく、手の合間に出す(裏打ちと言うのかな?)のも見て取れる。

【再掲載:東八拳(藤八拳 tohachiken)--平成21年 番付披露会】

 なお、現在主流の睦会は東京が中心なのにも因んでいるのか、「藤」の字を「東」に変えて「東八拳」と名乗っていることも付記しておく。

 さて今回はもう一つの江戸の花、投扇興を見てみよう。

 幸いなことに投扇興は、かなり復興してきた伝統ゲームと言えそうである。ここでたびたび引く『日本伝統ゲーム大観』にも、9ページに渡って詳説されている。この復興の過程や現状は、繰り返し述べて恐縮だが、後半の柱「ゲームと社会との関わり」、即ち受容の問題に格好のケーススタデイを提供してくれる。ここではそこに目配りをくれながらも、内実、すなわちルールの問題をまず考察していこう。

 ありがたいことに、投扇興については、その初期からそれなりの文献が残されている。「投壷」という前史についてすら、ある程度の史料がある。

 投扇興に関する最も初期であり重要である文献は、安永二年(1773年)に出版されている。しかしそこに記されているルールは、その後多くの変遷を経ている。また逆に遡れば、洛中洛外図などに見られる「投げ扇」は、立って投げるものであり、室町末期から江戸時代前半にかけても、変遷のあることが知れる。だがそうした議論は多く後半に譲り、ここでは現代に盛行している「其扇流」に即してその構造、すなわちルールの性質を見ていこう。

 其扇流の成立は、これを主唱する東都浅草投扇興保存振興会が活動を始めた1982年頃と見てよいだろう。それから現在に至るまで、いや現在でも完成を目指して発展を続けているルール、と考えてよいと私は思う。

 ここで私的な体験を述べる愚を冒させてもらいたい。その方が「ルール」というものの姿が見えるだろうからである。

 私が投扇興を覚えたくて、浅草寺の裏にある見番(三業会館)を初めて訪れたのは、1983年の冬のことだったと記憶する。産業ではなく、三業である。知っている人は知っているだろうが、この意味がお分かりだろうか。三業とは、芸者・置屋・飲食店の「三」業のことなのである。そして見番とは、その芸者の事務方であり、稽古場なのである。そうした空間そのものが、当時の私にとってカルチャーショックであった。

 私は東京の北区の生まれであり、隅田川の最も上流、岩淵水門で荒川と隅田川が分かれる辺りに幼時を過ごした。そこはいわゆる「下町」よりももっと下方であったが、子ども心にも下町の雰囲気の片鱗は嗅いでいたということになろう。だから見番には不思議な懐かしさを感じ、気持ちが和む思いであった。見番の二階はいわば和風体育館という雰囲気で、畳敷きの大広間と、同じ高さの板敷きの舞台とが、引き幕で区切られる構造であった。天井近くに扁額が掛けられ、壁には大小の三味線が下がっていて、床には緋毛氈が敷か
れ、しきりには屏風が使われ、大学の寮だのマンションだのに住んでいた私には「別世界」であった。そこで和服姿のお姐さんが、優雅に扇を投げているのである。

 さてゲームが始まってみると更に驚いた。まず中央に「枕」と呼ばれる桐箱を置き、その上に「字」と呼ばれる碇を逆さにしたような飾り物を置く。その枕を挟んで1メートル半ほども離れあった座布団に正座して、ゲームが始まるのである。が、その辺りは私も国会図書館で投扇式(上記江戸時代の文献)を読んでいたので、さほどのことはなかったが、枕の脇に座布団を敷いて座した主審「行司」が、閉じた扇を前に置いて口上を述べるのには少なからず驚いた。

「ただ今より、○○殿と××殿の対戦を行います。一堂、礼。」

 それからサイコロを振らせて先手後手を定め、

「両者、礼。始めませい。」

 で交互に扇を五投ずつ投げあい、途中で投席を交換し、更に五投するのである。すると行司が、

「これにて一席満投。」

 記録取り役がそれを受けて、

「○○殿△点、××殿▲点。」

 と記録を読み上げ、再び行司が、

「○○殿とあい勝ち候、一堂、礼。」

 と述べて礼をして終るのである。

【参考:投扇興の試合】

 さて貴方はどう感じただろうか。

 大仰と言えば大仰、面白いと言えば面白い。しかし、これはルールなのだろうか。

 かつて私は「牌の音」に雀鬼会の麻雀を学びに何度か通ったことがある。そのとき雀鬼様のありがたいお話の後、精神統一とかいうことで黙祷のようなことをした。それはまあいいとして、兼ねて聞き及んでいたように一巡目に字牌は切ってはいけないと言う。

 そこで私は「はい、質問です。」と手を挙げ、

「一巡目に字牌を切ってはいけないというのは、ルールなんですか、マナーなんですか?」

 と質問してみた。それに対する雀鬼の答えは、

「限りなくルールと思って欲しい。」

 というものであった。それで私は「ははあ、ルールと断言しないがルールなのだな。」と理解した。

 一般に、事前にプレーヤーの了解が取れていて一貫していれば、どんなルールでも(ローカル)ルールとしての正当性を持つと、私は考える。だから雀鬼流における「一巡目に字牌を切らない」のはルールなのである。ではこれと其扇流とは同じなのだろうか。そうではない、と私は思うのである。

 告白するが、初めて見番で投扇興を体験した私は深く感動した。

 一つには伝統ゲームを体験できた喜びであった。もう一つはそれがルールとして完備しているということに対してであった。主審としての行司、副審としての字扇取り役、記録をとる記録取り役、といった役回りの完備だけでなく、記録用紙の用意や、毛氈、座布団、文机、記録印といった小道具、そうして何よりゲームを成立させている銘定、手順などのルールは、一面非常に合理的であり、うまくできていた。ここまでは、よい競技のルールの必要条件である。だが、私が感銘を受けた真の原因はそこだけではなかったのだ。

 そもそも私は、「投扇興は日本のダーツだ」と思っていた。ダーツはゲームとして完成している。ここへ来て、投扇興もゲームとして完成しているように見えた。だから「投扇興は日本のダーツ」というのは正解だったと言えそうである。だがしかし、投扇興はダーツでは、ない。

 そのことがとてもよく分かるのが「銘定」である。「銘定」というのは、扇が字に当たって落としたときのフォルム(字と扇の位置関係等)で決まる配点である。ゲームやスポーツの原理から行けば、当然難しいフォルム、高度な技が高得点になるべきである。ダーツは概ねそうなっている。ダブルブルや、20のトリプルは的が小さく、確かに難しい。だが投扇興はどうだろうか。

 投扇興でもめったにできないようなフォルムは高得点である。しかしそれは偶然の要素が強く、その割りに極端に点が大きい。私もかつて伝法院で開かれた大会で、技量に差がありすぎて全く敵わない相手に対し、最後の一投で篝火(枕に乗った扇に字の鈴が引っかかってぶら下がるという大技)を出して大逆転したことがあった。

 しかしそのときは、嬉しいというよりあっけに取られてしまった。

 篝火などという技は、とても狙って出せるようなものではないからである。

 銘定のもう一つの問題点は、曖昧さである。ダーツは的に針金がはめてあって、中間の点数には刺さらないようなメカニズムがしつらえてある。即ち曖昧さはなく、割り切れていて合理的である。一方銘定は、どちらともいえない曖昧な状況をメカニズムで防ぐようなことはしていない。むしろ紙と竹と糸と布は、あえて曖昧さを呼び寄せているようですらある。いわば割り切れず、不合理である。

 更に加えて、銘定が全ての可能性を覆っているようには見えなかった。銘定にない事態が出来したら、一体どうするのだろう。

 そのことを質問すると、回答はある意味明快であった。

「それは行司が判定します。」

 では行司の恣意性はどのようにして防ぐのだろうか? 私には疑問であった。

 更によく見てみると、投扇興の配点は非常にアンバランスに見えた。

 始めた初期の頃、主催者にその疑問をぶつけてみたこともある。

 その回答も印象的なものであった。

「投扇興はスポーツやゲームではありません。見立ての遊びです。雅の遊び、雅遊なのです。」

 当時の私はそれを理解できず、「スポーツ投扇」という実力を強く反映するルールを考案してみたりした。だが現在ではそうは考えていない。

 誤解を恐れずに断言してしまうなら、投扇興の魅力は様式美であり、情感なのである。

 近頃大変評判の悪い相撲に、また話は及ぶ。

 相撲は近代の産物としてのスポーツではないと前回述べた。これは否定的に言っているのではない。前回述べたことを繰り返せば、相撲はスポーツ以上の何かなのである。言い換えれば、スポーツは、人類に普遍的にある運動文化のある一形態に過ぎず、それは18世紀、19世紀のイギリスに端を発した、近代文化の一つにすぎない。すなわち、そもそも相撲は近代にあって、近代を超えねばならぬ矛盾を孕んでいるのだ。

 相撲には仕切りという儀式がある。土俵入りがある。弓取り式があったり、あまり知られていないが場所前には、土俵に盛り土をして神事をする。こうしたものの価値を説明するのは難しい。特に私は無神論者だから、神様を引き合いに出すわけにもいかない。だからスポーツにないサムシングがそこにあるとしか言いようがなく、これを様式美と説明すればできるが、妙に薄っぺらになってしまって非常に説明しづらい。だが、そこには確かに合理的な(例えば八百長のない(笑))ゲームの勝敗に帰着できない何ものかがあり、
それはスポーツでは捨てられてしまっている何かである。

 投扇興における「見立て」も同様に説明が難しい。

 例えば、落とした字の上に扇がかぶさり、扇の骨の間から字についた鈴が見えるような状態(フォルム)を「鈴虫」と言う。骨を草、字を虫と見立てているのである。

 扇が字を落として枕の上に乗れば「澪標(みをつくし)」である。

 澪とは中世・近世の水路標識であり、確かに棒の上に扇が乗っている形をしている。さらに「みをつくし」には、「身を尽くして」字の身代わりになるという含意もある。

 先ほどの鈴虫の逆に、扇の骨の上に字が倒れて載れば「朝顔」である。今度は字を朝顔、骨を朝顔の絡まる垣根と見立てるのである。鈴の紐が骨に絡まったりすれば絶品だ(しかし点は変わらない)。

 骨ではなく、扇の紙の上に乗れば夕顔である。ここには朝顔―夕顔という対比がある。逆に紙の下に字が隠されれば夕霧となる。霧で字が見えないのである。すなわち、見えれば顔、紙なら夕、というなぞりがあるわけだ。

 字に当たらず、扇がただ落ちれば「手習い」。なるほど練習なみか。

 字を落としただけで、扇と字が散り散りになれば「花散里」。

 源氏物語の中で、あまり美人に描かれなかった花散里の、なぞりなのだろうか。

 いちいち全てを説明しきれないし、全てが見立てられているわけでもない。そもそも見立ては感覚的であり、恣意的であるからそう思えばそう、そう思わなければそうでない。だがこうしたフォルム(銘定)のそれぞれが源氏物語の五十四帖の題名になぞらえられ、全体で一つの体系を形作ることには感銘を受ける。すなわち見立ての背後には教養が必要なのである。だから行司は実は審判ではない。かと言って恣意でもない。その真の役割は、形を見立て、それに銘を与える宗匠なのである。

 また幼時の思い出に走って恐縮だが、幼稚園に通っていたころ、帰り道に近所のお爺さんが箱庭を作っているのに遭遇し、そこに世界のミニチュアを見て、非常に感心したことがある。全く異質な石だの苔だので、巧に家屋やら草地やらを表現する「見立て」に我を忘れさせられた。これは盆栽などもそうだろう。それはまさしくミクロコスモスであり、それを成立させるのは見立てのセンスであり情感であり、広い意味での教養なのである。

 見立ては、世界の投影であり、心の投影である。投扇興の伝統は、しかし相撲のように江戸時代から続くようなものではなく(尤も相撲の「伝統」も案外近代に創られたものが少なくないが)、確かにここ30年のものであるかも知れない。だが私が見番で感動したのは、そのような様式美がゲームの面白さをむしろ支えるという事実であり、そこにこそ伝統ゲームを現代にプレイする意義があると言えるのである。

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◆第8回はこちらで読めます◆

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