なかよし村第32回八八大会のご案内

 
 なかよし村にて第32回八八大会が開催されます。

 なかよし村はAnalog Game Studiesの顧問である草場純さんが運営されているアナログゲームの会で1982年4月に創立されました。以来毎週土曜日の19:00~21:30に、高田馬場ブリッジセンターで開催されています。
 週毎にプレイするゲームを決め、参加者全員でそのゲームに参加するのが原則です。

 今回のゲームは花札を使った遊びの1つ、八八(はちはち)です。

 八八は花札で最も面白いとされている遊び方です。
 手役を覚えるのに多少の手間がかかりますが、それだけの甲斐があります。

 八八という遊びがあるのは知っているけど、実際はどんなものかは知らない。興味はあるけどルールを知らないから不安だという方もご安心を。
 会が始まる前の18:00から来て頂ければ詳しいルールの説明が受けられます。

 遊び方も覚えられてすぐにゲームを楽しめるなかよし村。次回は12月28日(土)開催です!
 ぜひお越し下さい!

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■開催日:2013年12月28日(土)
■19:00~22:00 八八のルール講習を望まれる方は18:00~
■会場:東京都新宿区高田馬場2-16-11高田馬場216ビル3F高田馬場ブリッジセンターhttp://www.jcbl.or.jp/home/store_club/takadanobaba/tabid/90/Default.aspx
■主催:なかよし村
■定員:60名
■参加費:400円
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【教育×ゲーム】教育向けRPG『ラビットホール・ドロップス』体験会参加報告


【教育×ゲーム】教育向けRPG『ラビットホール・ドロップス』体験会参加報告

 小春香子 (協力:野崎卓馬、伏見健二、岡和田晃)


 2012年8月4日に所沢市男女共同参画推進センターにて行われた、会話型RPG(TRPG)『ラビットホール・ドロップス』の体験会に参加してまいりました。ゲームは印象が悪く捉えられがちですが、教育の世界でラビットホール・ドロップスを一例にRPGなどのゲームを活用する道を探る、という目的で開催された体験会です。主催者の方は野崎卓馬さんという、学習塾でマーケティングをしていらっしゃる方で、マーケティング分野でゲーミフィケーションやシリアスゲームが着目されている今が良い機会だとこの体験会を開いたそうです。
ラビットホール・ドロップス / グランペール
ラビットホール・ドロップス / グランペール
 参加者は8名、いずれもRPGの経験者ばかりがあつまりましたが、普段RPGを中心に遊んでいてあまり教育の分野にはかかわりがなかったゲーマーの方から、普段塾や学校の教員として働いている方、イイトコサガシさんからのつながりで福祉分野のNPOを運営されている方、日頃からラビットホール・ドロップスを楽しまれているRPGファンの方などさまざまな方が参加していらっしゃいました。

 会場に入ると、まずルールブックと筆記用具、飲み物とダイスが各自の席に用意してありました。主催者の方の細やかな配慮を強く感じます。会がはじまると、最初に主催者の方からゲーミフィケーションやシリアスゲーム、RPGのプレゼンが軽くあり、ゲームデザイナーの伏見健二さんからラビットホール・ドロップスの紹介がありました。
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 その後、二卓に分かれて実際にラビットホール・ドロップスの冒険に出てみました。GMによるルールやキャラクターの説明が分かりやすく、どちらの卓も比較的スムーズに冒険が進んだようです。終了後に冒険をつき合わせてみると、どちらの卓でも少し扱いが難しい「カエル」役の人気が高かったことが分かりました。片方の卓ではクレバーなカエル君が重要なNPCに引っかけをしかけたりなどの大健闘、もう片方の卓ではパーティのマスコットとして大笑いを引き出していたカエル君だったことなどが明かされ、「参加者によって同じ役でも展開が違う」というRPGの特性が印象付けるものとなりました。
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 こうした報告の後は、「このラビットホール・ドロップスをいかに教育で活用するか」のディスカッションがありました。愛知県の市立小学校でRPGを特別活動(クラブ活動)として取り入れている例や、さまざまな立場の方からの意見交換は大変有意義だったと思います。私の卓では、教育効果を狙って子供たち全員を対象とする学校教育(総合的な学習や「授業」としての実践)よりは、多年齢の希望者が集まるフリースクールや塾、などの社会教育、または現在実践されているように学校教育でも特別活動として取り入れていく方が効果的ではないかといった議論が交わされていたのが印象的です。

 野崎さんは終了後、この体験会について、「今回はRPG未経験の教育関係者にあまり告知できていなかったようで残念でした。ただ、RPGを普段遊んでいる人たちに、こういう活動ができるということを知ってほしかったので、そういった点では活発な議論や冒険となり満足しています。普通にゲームをするだけではない土台ができていき、ゆくゆくはゲームの持っている力についてもっと皆に知ってほしいと思っています」とおっしゃっており、またラビットホール・ドロップスをデザインした伏見さんからは、「教育関係者のお話を聞くことができ、問題意識を共有できて有意義な会でした。人を助けたり、感謝されたり、時に対立したり……ゲームのなかでたくさんの経験を提供できればいいと考えています。また、頼もしく仲間を守る役割だったり、おどけてリラックスさせる役割だったりと、集団のなかでの役割を交代することで子供たちが学べることは多いことと思います。それが教育の場を円滑にする効果はとても大きい、というお話になりました」というコメントをいただきました。

 全体として、非常に熱く盛況な体験会であったと思います。(小春香子)

 ※写真は主催者様から提供いただいた写真を使用させていただいております。


●会話型RPG『ラビットホール・ドロップス』のサプリメント(追加資料集)『ラビットホール・ドロップス シナリオブック』が発売されました。
 ラビットホール・ドロップス シナリオブック / グランペール
ラビットホール・ドロップス シナリオブック / グランペール

「ラビットホール・ドロップス」は、地図や物語を示した絵、「シナリオアート」をみんなで見ながら、童話の登場人物のような役割で冒険を体験する、新たなスタイルの「ロールプレイングゲーム」です。

 ルールはとてもシンプルで、1セッションは1時間ほどで終えることができます。
 親子で遊ぶ、初心者と遊ぶ、障害当事者との交流で遊ぶ、教育効果を高めるために遊ぶ、童話研究として遊ぶ、創作や表現の模索で遊ぶ……などなど。
 新たな方向を模索し、ロールプレイングゲームの効果を探る、さまざまな試みに用いられています。
 この冊子はそんなラビットホール・ドロップスのサポートブックです。
 小学生GMによる、実際の親子ゲームの様子を収録したリプレイ。剣士、怪盗、予言者、猫と、それぞれ新たな能力をもった4種類のドロップス(職業/役割)、そして最初のシナリオからつながる2つのキャンペーンシナリオ。6編の独立した小シナリオ。
 どれも、すぐにあなたのセッションに役に立つ、とびきりのサプリメントとなるでしょう。
 物語を作る喜び、語り合う嬉しさ、笑いあう楽しさ。
 どうぞ、ラビットホール・ドロップスで、価値ある体験を広げていってください。(裏表紙より)

 収録シナリオは「カラスと動く樹」、「ゆうれい城の王さま」、「笑わない姫」、「悲劇のあとに」、「盗まれた鎧」、「カエルのために笛を鳴らせ」、「ナイト・バイオレット」、「ジャッカル城の要塞」の8本。相沢美良氏の美麗なイラストがふんだんに盛り込まれ、4コマ漫画もあり。
 AGS代表岡和田のお薦めは「笑わない姫」。コミックのコマ割りの技法がシナリオアートに活かされており、まったく新しいシーンの切り取り方の妙味が体感できます。
 「Role & Roll Staiton」などの専門店でも入手可能です。
 Analog Game Studeisはルールブックに引き続き、「協力」としてクレジットをいただいております。

 なお、ゲームデザイナーの中森しろ氏、俳優の祝原あすか氏ら、『ラビットホール・ドロップス』のファンによる紹介動画『らびほTV』がニコニコ生放送で放映されるようです。詳細は『らびほTV』コミュニティをご覧ください。このような新しい試みを許容するところに、『ラビットホール・ドロップス』の懐の深さがあるように思います。

●「Analog Game Studies(アナログ・ゲーム・スタディーズ)&イイトコサガシ交流ワークショップ第二回「現代によみがえるわらべ遊びの数々」を、2012年8月22日(木)10時より…豊島区心身障害者福祉センター、豊島区心身障害者福祉センター、豊島区心身障害者福祉センターで開催致します! 
 発達障害当事者(アスペルガー、ADHD、高機能広汎性等自閉症スペクトラム)にとって、コミュニケーションを試せる心地のよい「機会」となることを夢見て立ち上げましたイベントです。※ご家族や支援者、一般の方の参加は大歓迎。

 第1回のレポートはこちらをどうぞ。
 申込の詳細はイイトコサガシのウェブサイトをご参照ください(Analog Game Studiesでは申込を承っておりません、ご注意ください)

イイトコサガシさまが、2012年9月2日(日)に「『大人の発達障害』を、香山リカさんとイイトコサガシが語る会 医師の目×当事者の目」が開催されるそうです。
2012年9月2日(日)大人の発達障害を香山リカさんとイイトコサガシが語る会(表).jpg 

当事者が困ることって何だろう? 私たちに出来ることって何だろう?
 医師はどう治療するの? 当事者の目から見た世界ってどう見えるの?
 発達障害をめぐる様々な疑問に、精神科医の香山リカ先生と、発達障害当事者会イイトコサガシが、真面目に、でも和やかに向き合う会です。
(イイトコサガシプレスリリースより)

 ゲストに精神科医にして「SFマガジン」でも連載をもっている香山リカ氏を迎え、イイトコサガシの「本気」が伝わるこのイベント。ゲームと直接の関係はありませんが、よりよいコミュニケーションのあり方に関心のある方は、ご参加を検討されてはいかがでしょう。イイトコサガシの告知用サイトから、申込が可能です(Analog Game Studiesでは申込を承っておりません、ご注意ください)。(岡和田晃)
(※12/08/14 一部情報追加)

『混沌の渦』小説風プレイリポート:”This Bullshit God Made”

 今回Analog Game Studiesが公開するのは、漫画家/イラストレーターの山寧さまによる、『混沌の渦』の小説風プレイリポートとなります。

 本プレイリポートを楽しむために、特別な予備知識は不要ですが、『混沌の渦』については軽く解説をしておきます。
 『混沌の渦』とは、かつて社会思想社から刊行された、中世後期からのヨーロッパ(主に16世紀イギリス、テューダー朝イングランド)を舞台にしたヒストリカル・ロールプレイングゲームのルール・システムのことを指します。
 シンプルなルールに独特の世界観が相まって密かに人気を集めていた作品です。実在の世界を舞台にするのですが、「混沌の渦」と呼ばれる不可思議な力を操作することにより魔法の使用が可能となります。いわゆる「呪文リスト」を用いるのではなく、あくまでユーザーの創意工夫によって発生する効果を考えるルールが印象的でした。

 日本でも英語圏でも長らく絶版が続いていたタイトルでしたが、近年Arion Gamesから復刊されました。かつては基本ルールブックのみで完結した作品でしたが、現在は順調にシナリオやサプリメントが刊行されています(いずれも未訳)。筆者は「乞食」を扱ったサプリメント『Beggar’s Companion』がイチオシです。

 この小説風プレイリポートでは、『混沌の渦』のルールを用いながらも、舞台を19世紀に移し、また基本ルールにはないオリジナルの職業「墓守」をプレイヤーの一人が選択しています。佐脇洋平さまによる日本語版の後書きにもあるとおり、『混沌の渦』は、ユーザーによる積極的なカスタマイズが推奨されたタイトルだったのです。ただ『混沌の渦』らしさは残されており、「混沌の渦」を操作することは現実を操作することにも繋がるという世界観の根幹が、今回のシナリオには活かされています。

 なお、山寧さまはAnalog Game Studies上の掲載にあたり、オリジナル・イラストを描き下ろしてくださいました。

 さあ、暗黒のロンドンでの惨めな話を、しばしご堪能あれ。

(岡和田晃)

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『混沌の渦』小説風プレイリポート:”This Bullshit God Made”

■ゲームマスター&レポート執筆
 山寧

■プレイヤー・キャラクター
 クロード・ブルックス——–自由労働者
 ダニエル・ポプキンス——墓守
 ヴィダ・バーミン ———見習い司祭

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≪STORY≫

 産業革命以後、仇敵フランスをも統治下に置き、欧州最大の、すなわち世界最強の国家となった大英帝国。その首都である大ロンドンは1850年現在すでに人口五百万人を抱え、まさに文字通りの混沌の大渦巻といった様相を呈していた。その中でも、貧民窟と工場とが無秩序に入り乱れたスラム地域には人口の実に80%以上が集中し、人々は様々な都市問題と社会病理を日常としながら、流入していた当時抱いていた『可能性溢れる未来』への希望を唯一の拠所としつつ、脱出する勇気すら持てぬままに、労働貧民としての明日なき日々を這い進んでいた。

 そんな無間地獄的な環境の中、三人のPCはそれぞれに各人の方法で生存していた。そう、クロードは富める者どもの明るい暮らしを支える工場労働者として、ダニエルは虫けらどもに幻想の救いを与え賜う教会の見習いとして、そしてヴィダは、人々に平等に降り注ぐ死の恩寵から糧を得る墓堀人として。

 -I- 

 クロードの同僚が苛酷な労働のため命を落とした。仕事のために出席できなかった労働者達は、自分達の流儀で仲間を弔うことにし、夜、酒を持って墓地に集まった。6フィート下に眠る友を思いながら、彼らは粗悪な酒を酌み交わす。そこでクロードは、独り輪の外にいたベンジャミンという労働者と語らう。ともに妻を亡くし、同じ位の年の息子を持つ彼らにとっては、自身の人生は子供達のもの。それを確認しあう二人であった。

 そんな労働者達の様子を尻目に、この墓地で働くヴィダは、同僚のグレン・ベントンと自分達の稼業について語らっていた。彼ら墓堀人と教会はウマの合う仕事仲間。今日もダニエルの勤める教会と組んで、貧民の死体一ケで美味しい商売をした、という具合。クズどもが倒れ、彼らは酒を呑む。至って順調な日々である。

 だが、同じく葬儀で一日を終えたダニエルには、そのような感慨はなかった。それより頭を悩ますのは、ここのところ毎晩のように師であるオグデン・グラズナー神父が外出すること。神父に引き取られて教会で暮らしているダニエルには、彼の行動が気になって仕方ない。

 数日後、クロードの工場で一騒動起こる。クロードが肩を並べて労働する同僚であり、年上の親友であるエドワード・ベイリーが、工場監督コールマンと大乱闘をやらかしたのだ。墓地での弔いの宴で、正義感溢れるベイリーは、死んだ仲間は工場に殺されたのだと語っていた。そのことに対する蓄積された怒りが、監督の無遠慮な言葉で爆発したらしい。監督の商売道具である棍棒で血まみれにされた栄養不良の労働者は、食堂の隅に放り出される。だが、昼休みにクロードが様子を見に行くと、すでにその姿はいずこかへと消えていた。落ち込むクロードに、ベンジャミンは自分の夢、息子のアダムを学校に入れ、この環境から脱出させるという夢が実現しそうだとポツポツと語り、気を紛らせる。

 同日。ダニエルは神父から小遣いをもらい、何処かへ遊びに行くように言われていた。不慣れな盛り場でウロウロしているうちに墓堀人達と会い、酒場へと連れて行かれる。途中、引ったくりにやられて泣いていた子供に金を与えたりしつつ、墓掘り行きつけの店へ。すると、なにやら店内は緊張感に包まれていた。聞けば、ふらりと現れた血まみれの労働者が客にサイコロ勝負を挑み、勝ち続けているとか。早速ヴィダ達が挑戦するも、あえなく敗退。ダニエルも戦い、その結果彼は要求されるままに賭けた大金--神父にもらった全てを失った。続いて彼は金の十字架--教会から授かった聖なる物品--を賭けることを申し出たが、男はその輝きをめにするや落涙、呻きながら十字架を奪って酒場を飛び出して行く。追いかけると、彼はテムズ河に架かる橋の上に立ち、水面を呆けたように見詰めている。ダニエルは気を取り直すよう諭した。否、そうしようとしたのだが、大して熱心でもない聖職者見習いの言葉には何の説得力もない。一声叫びを上げると、工場労働者エドワード・ベイリーは河に身を投げた。

 目の前で人が死を選んだためなのか、大事な十字架を失ったためなのか、ともかくダニエルはいささかショックを受けた。墓掘りと別れて街を彷徨っているうちに、彼はフランス系の男、ポールに『エジプトのファラオのダンス』と題された怪しげなショーに誘われる。金を払って芝居小屋に入ると、舞台では半裸の踊り子達が色鮮やかな香の煙の中で身をくねらせていた。その光景に魅了されたダニエルに、ポン引きポールは「次のステップ」を提案する。彼は踊り子の一人、外国人のマリアを指名し、ポール・クライスト氏に料金を支払った。

 暫の後、ダニエルは再び通りに出た。脱力感に襲われ、ボンヤリしながら歩く彼は、三人組の少年達に財布をひったくられる。それは先に墓掘り達が金を与えていた子供達。ダニエルは悪童の一人を追いかける。だが、遂に追いついたという瞬間、少年は馬車にはねられた。叩きつけられ、ボロクズのようになって即死。泥にまみれた汚らしい死。居合わせた人々はそれを呆然と見詰め、御者はショックに硬直。だが、馬車の中の客はカーテンの向こうから顔を出しもせず、馬車を出すように命じる。怒ったダニエルが馬車の扉を引き開けると、そこにはグラズナー神父、そして娼婦マリアがいた。二人はダニエルを認識し、ダニエルは師の外出の目的を知る。死体は忘れられ、見苦しい言い争いが始まった。そのうちに警官達が飛び出した浮浪児に全責任があると宣言し、手早く死体を処理すると、人々はすっかり興味を失った。
 翌朝ダニエルが起床すると、すでに新しい神父、ロバート・プラモンドンが来ており、ダニエルをこき使う。結局グラズナーは罪の意識に耐えかねてロンドンを離れたのだという。

 死んだのはベンジャミンの子、アダムだった。息子が盗人だったこと、そしてゴミのように始末されたこと。その二つの事実がベンジャミンの精神を破壊した。仕事中、放心状態に陥っていた彼はクロードの眼前で紡績機械に腕を巻き込まれてしまう。血しぶきが飛び散り、オゾンの臭気が立ち込める修羅場で、仲間達は必死に救出作業を行った。意識を失ったベンジャミンの傍らでは、彼の一部分が手順通り見事に紡がれていた。

 その数日後、病室に彼を見舞った帰り、クロードは街角の古道具屋で素晴らしい義手を見掛ける。それは、片腕を失ったベンジャミンのために何かしてやれることはないかと考えていた労働者仲間達にとっては、丁度良い贈り物だった。工場での相談で、その義手を皆で購入し、ベンジャミンに贈るという話がまとまる。
 翌日、店に入ったクロードは、ナサニエルと名乗る若い店主と対面する。彼の言った義手の価格は、仲間達で金を出し合えば何とか手の届く金額だった。ナサニエルが言うには、このクラスの義手は持ち主に合わせて製作されているので、古道具としてはあまり価値がないのだという。「何しろ、ぴったり合わないと役に立ちませんので。ですから、もし貴方の御友人にお試しになって駄目なようでしたら、返品してくださって結構ですよ--」

 -II-

 一日の仕事を終えると墓掘りヴィダは近所の酒場へ向かった。得意先の神父が交代してからそろそろ一ヶ月になろうとしているが、これまでのところ特に問題は起こっていない。本人の弁によれば新しい神父は前任者より遥かに良識派であるそうだが、実際のところはどうだろうか。何しろオグデン・グラズナーは、見たところは穏やかで常識的な--そう、新任の神父よりもずっと常識的に見える--良い神父だったのだから……。

 酒場に労働者の一団が入ってくる。彼らは仲間の一人の全快祝いに久々の酒宴を催そうとしていた。早速主賓である見事な義手をした男を中心に、楽しげな輪ができ上がる。だが、当の主賓はどうも妙な感じだった。皆が祝ってくれているというのに、いささか冷笑的な雰囲気を漂わせているのだ。そのうちにある程度場が落ち着くと、男は労働者仲間達を相手に語り始める。彼の語る内容は、どうやら彼らの職場の環境に対する攻撃のようだった。

 酒場に教会の見習いが入ってくる。彼はバーテンに用件を告げる。ブランデーとワインを何本か、教会に買っていくのだという。と、それを聞いて、先ほどから演説をぶっていた男が笑い声を上げる。「蝿教会の蛆虫神父様は少々きこしめしていらっしゃるって訳か! ハハ!」

 それを機に男は教会攻撃を展開し始める。曰く、現在の英国国教会の堕落ぶりには目に余るものがあり、元々があの欺瞞に満ちた薄汚い紙束を脆弱な柱として成り立っているものに、さらに二千年にも渡って積み重ねられてきた嘘と悪徳の数々は、もはやあの悪臭ふんぷんたる豚小屋を崩壊寸前にまで追い込んでいるのだとか何とか。教会とのコンビで商売をしている墓掘り人としては、少々ちょっかいを出したくなる内容であった。ヴィダはその労働者、ベンジャミンと舌戦を展開する。と、そこに話の発端となった男が登場する。

 酒場に蛆虫神父が入ってくる。教会のワインのストックを空にし、手に最後の一本を持って戸口に現われたその男は、酒場にいる誰よりも酒臭い息を吐きながらダニエルに文句を言う。ダニエルがベンジャミンの教会攻撃のただ中にあって酒場を出るに出られないでいる間に、プラモンドンはしびれを切らしたという訳だ。彼は手に持った瓶を空にし、そのまま床に仰向けに倒れると、白豚よろしく嵐のようないびきをかき始めた。

 彼の攻撃を補強する絶好の材料を前にして、ベンジャミンの舌はますます滑らかに、言葉はより痛烈に、語りはよりエネルギッシュになる。工場、教会、搾取する者達、そして英国政府を標的として、彼は饒舌に攻撃的演説を続ける。そんな、以前とは明らかに変わってしまったベンジャミンの語り口調に驚きながらも、そのカリズマティックなムードに労働者仲間達は徐々に魅きつけられていく。だがその中で唯一、クロードだけは何処か納得のいかないものを感じていたのだった。

 酒場から神父を引きずって帰ったダニエルは、彼の巨体を何とか寝台に横たえる。そのうちにホプキンスは寝言を言い始めた。そしてこの破廉恥漢は、マリアの名を唱えながらニヤニヤと卑しく笑う。それが聖母ではなく、あの娼婦の名であることは明らかであった。だが、かつて彼が取り仕切ったベンジャミンの子アダムの葬儀の際に、すでに信仰を失っていたサタニストのダニエルにとっては、それは大して意外なことではなかった。

 続くわずかな期間に、事態は急激に展開した。ベンジャミンが奇蹟を成したという噂が流れ、工場労働者達の一部には次第に彼への崇拝の感情が発生する。暴力的な待遇改善要求行動を求める動きが進行し、クロードはベンジャミンらに度々グループに加わるように言われるが、彼は納得しない。しかし、ベンジャミンは何故かそんな彼を無理には誘おうとしなかった。

 食堂で食事をしているクロードの所に、ベンジャミンに心酔している粗野で無知な労働者ルーカス・スタフォードがやってくる。彼は熱心にベンジャミンのグループに加わるように勧めるが、彼自身もそうしなければならない理由を理解してはいないようだった。どうしても納得しないクロードにルーカスはいらいらし始めるが、そのうちに近くで騒ぎが起こる。食堂ではさかんにベンジャミンと彼に関する幾つかの噂が話題にされていたのだが、彼を認めるか否かを原因として激しい喧嘩が起こったのだ。その内にベンジャミンを否定していた男が徹底的に打ちのめされ、重症を負う。食堂内に不穏当な空気が漂う中、静かに食事をしていたベンジャミンがゆっくりと立ち上がり、怪我人に手を、義手を差し伸べる。すると彼の義手が光を放ち、男の傷は癒されていった。

 ホール内が静寂に包まれる中、ベンジャミンは最後の演説を行う。その言葉は労働者達を一つにまとめ、暴動へと促す引き金となった。彼らは津波のように工場内へと突入し、工場長や現場監督を呑み込む。吊し上げ、打ち壊し、蹂躙しながら、彼らは外の世界に溢れ出す。周辺の工場労働者を巻き込みながら、群集は貧民街をねり歩いた。

 教会に向かって地響きのような群衆の足音が近付いてくる。今日も宿酔いのプラモンドン神父はその音に怯え、ダニエルに様子を見てくるように命じた。ダニエルが外に出ると、教会は怒りに燃える暴徒の群れに取り囲まれていた。暴徒達は口々に教会の罪を叫び、手に手に武器や松明を振り上げてダニエルに迫る。彼は教会内に逃げ込もうとしたが、扉には内側から閂がかけられていた。プラモンドンが閉め切ったのだ。中から暴徒達を説得しろと命じる神父の声に絶望し、ダニエルはサタンの名を唱えて助けを求める。その言葉を聞くと暴徒は鎮まった…。だが、彼らはすぐに「蛆虫教会より始末の悪い」サタニストを高く吊るすことを決定した。

 クロードは離れた位置からその様子を見ていた。そこにベンジャミンが現われる。彼はもはや人々を率いてはいない。彼はきっかけを作っただけ。人々が心の底に蓄えていた憎悪と不満に火を放っただけなのだ。そう話すベンジャミンは、クロードにも心を解放することを促す。だが、この冴えない労働者はその点について決して譲ろうとはしなかった。そうこうする内、教会からは惨殺されたプラモンドンの首とともに、十字架に架けられたイエスの像が運び出される。二人の見る前で人々はそれを粉々に打ち砕いた。「おやおや、彼らはもはや信仰までも失ったようだな……。だが、なぜだろう……俺は……少し、疲れたみたいだ……」

 そういうベンジャミンの義手を、クロードは突然もぎ取った。教会に放火した群集は、新たな目標を求め、彼等の方へと押し寄せつつあった。

 その後、クロードはヴィダと出会い、ともに事態を打開するべく動くことになる。クロードが義手を外した時、ベンジャミンの口調は確かに元に戻り、親友クロードに逃げるよう言った。彼自身は群集に飲み込まれてしまったのだが、ともかく鍵はあの奇妙な義手にある。今やそれはベンジャミンの元を離れ、クロードの手中にあった。二人は、古道具商ナサニエルの店へと向かった。

 街中ではすでに暴動の噂が広まり、人々は屋内に立て籠もっていた。通りには人影はほとんどなく、何処か遠く離れた所からは、暴動によると思われる騒音や、暴徒達の歓声がかすかに聞こえてくる。この死んだような大ロンドンの街を二人は彷徨い、遂にナサニエルの店に、否、かつてそれがあった場所へと辿り着いた。あの店は、すでに引き払われていたのである。近所の者の話では、ナサニエルは一月と少し前にここに店を構え、ほんの僅かな期間で店を閉めてしまったのだという。

 その後、二人はテムズ河方面へ。見ると、群集がロンドン橋で警官隊と交戦しているところだった。その内に群集は行く手を塞ぐ者どもを打ち破り、何処かへと消えていく。二人は戦闘の場となった橋に赴く。そこには少数の警官達の死体と、おびただしい数の労働者の死体が転がっていた。そしてその中には、サーベルで幾度も刺し貫かれたベンジャミンの死体もあった。彼の顔は苦痛に歪んではいない。そこにはただ、困惑したような表情が浮かんでいた。

 彼の死体の見守る前で、クロードは義手をテムズ河へと投げ込む。悪臭を放つどす黒い流れの中で、小さな工芸品はすぐにその姿を消した。

 -III-

 浜辺では、波に打ち寄せられた死者達が彼方までの海岸線を黒く縁取っていた。あの後、暴徒達は船を奪い、新天地を求めて船出したものの、領海から出ることもできずに撃沈されたのである。彼らから冥界への路銀をもむしり取ろうとする盗人や、好奇心を刺激された大勢の弥次馬達が、ここには集まっていた。そんな愛すべき人々に混じって、父と子は手を取り合い、とぼとぼと砂丘に足跡を刻んでいた。彼らは夢に現われたベンジャミンの導きに従って、この海岸にやって来たのである。夢の中でベンジャミンはクロードにこう言った。「奴らに一発お見舞いしてやってくれ」と。

 クロードは見覚えのある男に会った。男は何か棒のようなものを、布にくるんで大事そうに抱えていた。男は言う。「なかなか楽しめたのではないですか?」

 クロードは男に理由を問う。すべての理由を。男は話し始めた。

「まあ、言ってみれば簡単な実験のようなものです。詳しくお話するつもりはありませんがね。我々が用意したのは最初のほんのきっかけだけで、後はすべて貴方達の意思でなされたことですが、まったくもって予想された通りの展開でしたよ。人間とその行動に関する我々のある仮説が実証されたのです。完全なる成功、と言えるでしょうね。結局のところ、すべては事前に分かっていたのです。一度『操作』がなされれば、もはやそこに貴方達の言う所謂自由意志の介入する余地はないのです。可能性も未来も、すべては幻想ですよ」

 そう言う男に対して、クロードは自分の夢を語る。彼の夢、すなわち彼の描く未来とは、この薄汚れた大ロンドンを離れ、自然の中で息子とともに牧場をやっていくことであった。その未来は彼と息子のものであり、ほかの誰のものでもない。そして、その未来を自らの手で作り出すことは彼らが自由であることの証なのである。

 それを聞くと男は親子に背を向け、砂丘の向こうへと歩み去っていく。振り返りもせず。男は冷笑的な口調で語る。「残念なことですがね、その牧場は失敗するんですよ。火事が起こるんです。2年目に、そう、落雷でね。……その後のことを語るのはよしましょう。まあ、慈悲というものですか。ともかく、楽しみにすることですな。これから何が起こるかを……」

 父は子の肩を抱きながら、無言で消えていく男の後ろ姿を見送る。そして日が暮れ、辺りに人影もまばらになると、彼らもまたこの地を去っていった。

 -EPILOGUE-

 彼は振り返らなかった。もしそうすれば、彼の顔に浮かんだ表情をあの男に見られてしまうからだ。実験に生じた小さな傷。ただ一つの、そして必要充分の反証。それがあの男だった。彼は卑しい人間に嘘をついた。それは彼にとっては、まったく耐えがたい屈辱であった。

F I N

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≪GAME MASTER≫

 今回は、なんだろう。まあ、好きなんです。こういう話が。

 今回のシナリオはまず題名が決定し、そこから惨めな世界の惨めな人間を描く話、という線で膨らませていったのだが、システム選びは難航した。結局『混沌の渦』になり、内容にも『渦』の要素を加えたのだが、最終的には割とまとまったと思う。まあ多分この路線で何回かやるのではないかと。

 マスタリングについては、第一部にあまりに時間を取り過ぎたおかげで、第二部の展開を相当削る羽目になったのがいささか心残りではある(全編やろうとしたら後4時間くらいはかかったかも)のだが、第一部の超スローペースでドゥーミィな感じで全編通したら流石にイヤになるからな。まあ、緩急がついたというコトで。ちなみに第一部で先の見えないイラだちを感じさせたのは意図的な演出です。ちょっとやり過ぎてマスター側もマイってしまいましたが…。で、結局全編が終了したのは9時を大きく回った頃だったのだけれども、何か僕は最近長時間のセッションで燃え尽きる感じが好きなのかもしれないです。ハイ。

 ロールプレイについてだが、全編一人称の語りってのは、まあ、好きではあるんだけれども、とにかくもう疲労が激し過ぎる。他の部分をキチンとやる余裕が無くなってしまうのが、どうにもキビシイ感じだ。やはり三人称との使い分けをしっかりしよう。

 しかし今回は本当にゲームらしくないゲームであった。何しろルール的な判定をする場面はほとんど(2回くらいだけか?)なかったのだから、もうほとんどシステムレスである。どうも極端になってしまうんだよな。僕がもっとゲームっぽくやろうとすると、それはもう大昔のD&Dの王道的な、ちまちました感じになってしまうのだ。なんだろう。

 今回の元ネタは、『Kill the Christian (DECIDE)』、『Grim Luxuria (CATHEDRAL)』、『Enter the Worms (CATHEDRAL)』以上3曲の歌詞(特に最後のはセッション中も祈祷の文句として活用)、サルトルの幾つかの作品、英国産業革命時代の見世物や大衆風俗についての本(タイトル忘れた)、『反キリスト者』、『ヒーザーン』、『ディファレンス・エンジン』、あとは聖書関係の色々と、もちろん『鐘鳴』も。(山寧)

[セッション日:1995/10/08]

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山寧(やまね)
 1974年生まれ。元ゲーマー。エロ絵描き。介護業界人。
「エロ絵描き」にも元が付きつつある現状を憂いている。
 宇野常寛さん主催の評論誌『PLANETS』で細々と仕事中。
PLANETS SPECIAL 2011 夏休みの終わりに [単行本(ソフトカバー)] / 宇野常寛, 小熊英二, 小林よしのり, 中沢新一, 中森明夫, 濱野智史, 速水健朗, 宮台真司 (著); 宇野常寛 (編集); 第二次惑星開発委員会 (刊)PLANETS vol.7 [単行本(ソフトカバー)] / 宇野 常寛, 荻上 チキ, 濱野 智史, 福嶋 亮大, 中沢 新一 (著); 宇野 常寛 (編集); 第二次惑星開発委員会 (刊)
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【レビュー】『Warhammer 40,000 RolePlay Death Watch』プレイビュー

田島淳

『Warhammer 40,000 RolePlay Death Watch』をプレイする機会に恵まれた。

先頃発売されたプレイステーション3、XBOX360用ゲームソフト『ウォーハンマー40,000:スペースマリーン』【CEROレーティング「Z」】をご存知だろうか。

知らない方はこちらをご覧いただきたい。

ウォーハンマー40,000:スペースマリーン 【CEROレーティング「Z」】 / サイバーフロントウォーハンマー40,000:スペースマリーン 【CEROレーティング「Z」】 / サイバーフロント

http://www.cyberfront.co.jp/title/spacemarine/

いかがだろうか?

遠い未来を感じさせるSF世界。

お馴染みのパワードアーマーらしきものに身を包んでいるのにも関わらず、何故か頭部むき出しの厳つい大男がチェーンソーの刀身を持つ剣で緑色の肌をした亜人間の胴体を真っ二つに切り裂いている。

彼らこそがスペースマリーンだ。

観る者に強烈な印象を残すこの最新アクションゲームはその由来をミニチュアバトルゲームに持っている。

「暗黒の遠未来に唯一残ったもの、それは戦争」

日本でも展開されているミニチュアバトルゲーム『ウォーハンマー40,000』は人類が滅亡の危機に瀕する第41千年紀という遠未来が舞台である。

〈暗黒の千年紀(ダークミレニアム)〉と呼ばれるこの世界の様相は、およそ1万年経った今も人々の記憶に強く焼き付けらている忌わしき出来事に端を発してる。

1万年前、神々の御意志によって人類の長たるべく選ばれた不死なる皇帝は、その強大無尽蔵ともいえる軍事力を率いて銀河全域を平定するべく〈大征戦〉を展開していた。スペースマリーンはその主力である。彼ら〈戦闘者〉は遺伝子操作を施された身の丈3mを超える巨人であり、肉体の頑健さ、および強靭さは常人に倍する文字通りの超人だ。また出身戦団によって様々な異能、超能力を有する。

スペースマリーンの最前線における獅子奮迅の活躍によって聖なるテラ(地球)を中心とした人類の〈帝国(インペリウム)〉による銀河統一は時間の問題かと思われた。しかし総主教の中でも、ひときわ皇帝の信頼厚き大元帥ホルスが混沌の〈禍つ神々〉に魂を売り渡す事をためらわず、ましてや皇帝その人に反旗を翻そうとは誰が想像し得ただろうか。

〈ホルスの大逆〉と呼ばれるこの卑劣な裏切り行為により〈帝国〉は真っ二つに引き裂かれ、また皇帝自身もホルスを討ち取る際に瀕死の重傷を負った。 〈大征戦〉は頓挫し、人類は衰退を余儀なくされたのである。オルク、エルダー、ネクロン、ティラニッド、タウ・エンパイア、そしてケイオスの軍勢。人類に敵対する勢力はその力を取り戻し、また新たなる脅威も現れ、銀河は有史以来最も血生臭い時代に突入している。

数々の外敵に〈帝国〉もただ手をこまねいている訳ではない。超人的な力を有するスペースマリーンを中心として敢然とこれらの勢力に立ち向かっている。だが皇帝の威光は翳りつつあり、肥大化し、手の行き届かない〈帝国〉の諸惑星は次々と敵の手に落ちている。人類の劣勢は否定し難く、永遠の闇はそこまで迫っているのだ。

さてミニチュアバトルゲームではこの諸勢力の軍勢を構築しプレイをする。

戦場を再現したディオラマに、同じ特色を持ったミニチュアが多数並べられアーミーを形成し、また違う特色を持つアーミーとぶつかり合う様は壮大で興奮する。正に多数のキャラクターを一度に扱うミニチュアゲームでしか味わえない楽しさがある。

だが、このミニチュアのキャラクター1人1人に目を向けて見ることはできないのだろうか。

この丁寧に塗り分けられた精緻なつくりのスペースマリーンは、どこで生まれ、どんな経歴を持ち、この過酷な世界で何を考えて生きているのだろう。そもそもなんていう名前なのだ?

これらの疑問を解き明かし、今までに経験した事のない楽しさを提供してくれるゲームがある。

それが『Warhammer 40,000 RolePlay』だ。

『Warhammer 40,000 RolePlay』(以下『WH40KRPG』)はミニチュアバトルゲーム『ウォーハンマー40,000』と背景世界を同じくする会話型RPGである。

現在、プレイスタイルと密接な関係にあるキャリアごとに4つのコアルールが発売されている。

異端を葬る為なら惑星ごと焼き払う「究極浄化」も躊躇わない異端審問庁の異端審問官『Dark Heresy』
Dark Heresy Core Rulebook (Warhammer 40,000 Roleplay) [ハードカバー] / Owen Barnes, Kate Flack, Mike Mason (著); Fantasy Flight Pub Inc (刊)

危険な銀河を所狭しと飛び回る宇宙商人『Rouge Trader』
Rogue Trader Core Rulebook (Warhammer 40,000 Roleplay) [ハードカバー] / Fantasy Flight Games (Corporate Author); Fantasy Flight Pub Inc (刊)

大逆人ホルスの如く混沌に魂を売った「裏切り者」ケイオススペースマリーン『Black Crusade』
Black Crusade: Roleplaying in the Grim Darkness of the 41st Millenium (Warhammer 40,000 Roleplay) [ハードカバー] / Sam Stewart (著); Jay Little, Mack Martin, Ross Watson (寄稿); Fantasy Flight Pub Inc (刊)

これらは背景世界と元になるゲームシステムを共通とするが、単体でプレイ可能で各々にサプリメントが発売されるなど、それぞれが独自の展開を見せており、別のゲームと言っても良いほどである。

そして『Death Watch』はその第3弾に当たる。取り上げられているのはそう、スペースマリーンだ。
Deathwatch: Core Rulebook (Warhammer 40,000) [ハードカバー] / Owen Barnes, Alan Bligh, John French, Andrea Gausman (著); Ross Watson (イラスト); Fantasy Flight Pub Inc (刊)

タイトルであるデスウォッチとはスペースマリーンの各戦団から選抜された数百万人に1人のエリートである。スペースマリーンの中でもひときわ能力の高い者だけがデスウォッチに選ばれる。

彼らはダークエンジェルやスペースウルフなどのそれぞれの出身戦団によって守らなければならない流儀と有する異能が特徴づけられている。例えばダークエンジェルなら過去の汚点から部外者を信用せず、それが習性となるまで定期的に戦団への従順さを試される。その代わり戦闘では踏み止まって戦い続ける並外れた体力を手に入れる。全てが凍てつく惑星フェンリスで生き延びてきたスペースウルフなら獲物を逃さない知覚力は誰もが有するが、名誉を必要以上に重んじる態度はしばしば厄介事を引き起こす。

それらの特別な力はただただ聖なるテラの〈黄金の玉座〉にましまし続ける皇帝とその聖領である〈帝国〉のためだけに費やされる。

彼らは皆、皇帝への篤い信仰を胸に抱く信徒であり、お互いを同胞(ブラザー)と呼び合う。

また驚くべきことにデスウォッチは他のキャリアと違い戦場を選べる。

巨大な官僚機構の頂点に位置する至高卿による最高評議会が皇帝の御名において下した決定は絶対であり、各宙域の司令官、次に星域長、そして星区長、さらに惑星総督にまで伝達されて皇帝の御意志、各キャリアへの任務はようやく実行される。しかしデスウォッチはある程度の自由を持って人類の守護という聖務を果たす。

人類と外敵との戦いは正に最終局面を迎えようとしており戦場には事欠かない。そして戦場は例外なく厳しく、人類は敗北寸前の局面だ。その絶望的な状況を覆すためにデスウォッチ数名から編成されるキルチームは投入される。

危機に瀕した惑星へその能力を高める為に両目を潰した超能力者サイカーの案内だけを頼りに宇宙船で急行し、外を伺うことできない降下用ポッドでここぞと当たりをつけた地表の一箇所へ射出される。

ポッドから何事もなく出てくるキルチームはまさしく一般人を凌駕した〈戦闘者〉であり、人類の命運を双肩に掛けた救世主である。

〈皇帝〉から下賜されたパワーアーマーやチェインソードなどの聖具で身を固めたマリーンの姿を見て、帝国市民は頭を垂れ、膝を折り「我が君」と熱のこもった囁きを漏らすのだ。

そしてデスウォッチは圧倒的多数のエイリアンの群れに信仰心を武器にして戦いを挑み、勝利を皇帝に捧げるのである。

引き延ばされた数百年の寿命の中でデスウォッチはその強固な信仰のもとにこの様な戦いを繰り返している。

ここでゲームシステムに目を向けてみよう。

『WH40KRPG』は『ウォーハンマーRPG』(以下『WHFRP』)2版の正統な後継と言える。能力値や技能、異能などキャラクターを表す要素はほぼ変わらない。

ここで軽く『WHFRP』について触れておこう。

『WHFRP』は現在3版までが発表されており、日本でもかつて初版が社会思想社から発売され、2版もホビージャパンから展開されている三十年戦争時代のドイツをモチーフとしたファンタジーRPGである。

数あるファンタジーRPGの中でも『ウォーハンマーRPG』はプレイヤーキャラクターが開始時点において一般人と何も変わりなく、むしろそれが特色の1つと言っていいゲームだが、そのスペックは当然ながら一般人のそれだ。そのため鎖帷子を着込み剣と盾を構えた兵士でも、農具を構えた死にもの狂いで襲いかかる3人の農夫に屈服させられてしまう事が起こりえる。

『WH40KRPG』においてもシリーズ第1弾である『Dark Heresy』では事情はあまり変わらず、作りたてのプレイヤーキャラクターである異端審問官見習いの能力は『WHFRP』でせいぜい数回の冒険を経て成長させたキャラクターに等しい。

だが『Death Watch』は違う。

その違いは格闘技やスポーツにおける階級に近い。『WHFRP』や『Dark Heresy』などのプレイヤーキャラクターが軽量級なら『Death Watch』は超重量級だ。横たわる肉体の格差。経験では越えられない壁。それが『Death Watch』の特徴である。

数値を『WHFRP』と比べてみると『Death Watch』のキャラクターは肉体の筋力と頑健さを表す能力値による効果がドーピングにより2倍強あり、また彼らにしか扱えない武器も同様に倍の威力がある。

デスウォッチの右腕にはめた1mにも及ぶ巨大な拳、聖具パワーフィストが『WHFRP』のキャラクターに当たると、彼は2d10に10前後の筋力ボーナスを加えたダメージを被るのだ。

デスウォッチの肉体の強靱さが倍なのは比喩でも何でもなく文字通りの意味なのである。

もちろん敵もその分強力になり、今までのシリーズ作品からはお目にかかることができない数字が戦闘では飛び交う。

先行作品のプレイ経験がある者はまず唖然とし、次にこの新しい光景がもたらす快楽に自然と笑みを漏らすだろう。

さらにデスウォッチの超人性を際立たせるルールとして「群れ(Horde)」が設定されている。

これは群衆などの大勢を1体のキャラクターとして見做すルールで、例えば100体のミュータントの群れを1つのデータで管理する。そうする事によりその100体のミュータントをデスウォッチ1人で相手どる事がゲームで描写できる。彼は重火器の連射でそいつらを蹴散らすのだ。一定のダメージを与える毎に群れは士気が保てるか試され、その判定に失敗すると敢えなく崩壊して敗走する。

『WHFRP』では兵士が農夫に屈服させられてしまう事があると述べたが、『Death Watch』では圧政に耐え切れず悲壮な決意で蜂起した民衆の意志を1人の掃射で挫くことも容易だ。

以上のことから『Death Watch』は他の『WH40KRPG』と元のシステムを同じにするにも関わらず、扱う数値を上方にシフトするというシンプルなアイデアに超人であり一般人からみたら半神にも等しいデスウォッチという設定を乗せて既存作品との差別化を図っている。それにより全く別のゲームをプレイしている印象を与えることに成功している。システムと設定の見事な融合と言えるだろう。

ここまでゲームの面から『ウォーハンマー40,000』を眺めて来たが、重厚な背景世界を味わい尽くす為に忘れてはならないものがある。実力派作家のスピンオフ小説だ。

残念ながら1冊も翻訳は出ていないが、『禅銃』のバリントン・J・ベイリーによる長編『Eye of Terror』、『黒き流れ』三部作や『エンベディング』のイアン・ワトスンによるその名も『Warhammer 40,000 Space Marine』、『WHFRP』2版の巻頭小説『人生は、死を越えてなお』を手掛けたダン・アブネットによる『Gaunt’s Ghosts』シリーズなど数々の小説が発表されている。英語に堪能な方はこちらに触れてみるのもいいかもしれない。
Eye of Terror (A Warhammer 40, 000 novel) [ペーパーバック] / Barrington J. Bayley (著); The Black Library (刊)
また、まずは手軽にゲームを初めてみたいという方には簡易ルールとシナリオがセットになった体験版がこちらからダウンロードできる。
http://www.fantasyflightgames.com/edge_minisite_sec.asp?eidm=108&esem=4

『WH40KRPG』の世界は勢いを増して、留まることを知らない。思い切ってこの流れに飛び込んでみてはいかがだろうか。

皇帝陛下の御慈悲。そは許しにあらず、忘却にあらず。ただ受け入れることにあり、だ。

SF乱学講座聴講記 門倉直人、小泉雅也「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」

 2012年11月末に、Analog Game Studiesは創立2周年を迎えます。
 皆さまには常日頃より、あたたかいご理解とご支援をいただき、本当にありがとうございました。
 若干、勇み足ではありますが、AGSの2周年記念企画といたしまして、昨年Analog Game Studiesが協力させていただいた講座の模様を、詳細にレポートさせていただきます。(岡和田晃)


SF乱学講座聴講記 門倉直人、小泉雅也「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」

 田島淳 (協力:岡和田晃、齋藤路恵、門倉直人、小泉雅也)


 2011(平成23)年10月2日、高井戸地域区民センターにてSF乱学講座「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」が開かれた。

 以前Analog Game Studiesの会員である蔵原大氏も講師をし、その聴講記もこちらで公開しているが、改めてSF乱学講座は何かと説明すると、科学やその他の知識を学ぶための誰でも参加できる公開講座である。自然科学以外にも内容は多岐にわたり、Analog Game Studiesに寄稿頂いたミステリ作家の千澤のり子氏なども講師を務められている。発端となった評論家・科学ライターの大宮信光氏や作家の石原藤夫氏らによる「SFファン科学勉強会」から数えると40年以上の歴史がある。興味をもたれた方は下記のリンクをご覧になられたい。また毎月発売される「SFマガジン」(早川書房)に、案内が掲載されている。

・SF乱学講座
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5302/

 さて以下の文章は講演を聴講した筆者が、その内容と感想をまとめたものである。当日配布された資料・順番・補足に基づき、内容を筆者なりに再構成している。門倉氏、小泉氏が実際に話した内容・順番・補足とは必ずしも一致していない事をお断りしておく。

■門倉直人氏経歴
 慶応義塾大学文学部社会学科人間科学卒業。
 学生時代より、魔法使いディノンシリーズ(早川書房)など種々の創作活動に励む。
 卒業後、出版社で編集者として勤務した後、コンピュータネット時代到来を想定した実験的プロジェクト、大規模ネットワークゲームを展開する「遊演体」を組織。
 “ナップルテール”(セガ)などコンピュータソフトのデザインも手がけ、現在は遊戯創作と執筆に専念。

■小泉雅也氏経歴
 門倉直人氏らと「有限会社 遊演体」(のちに株式会社)を設立。同社最後の代表取締役として2004年に同社の活動を休止する。現在、北里大学看護学部に助手として勤務。日本看護学教育学会、日本医療情報学会に所属。

◯ポストヒューマン社会は可能か?

 まず、初めに本講座の内容と目的、そして何故このたびの講演を行うに至ったかという問題意識が門倉氏から述べられた。
 発端は門倉氏が、Analog Game Studiesのファンジンを通じ、会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)『エクリプス・フェイズ』を知ったことにある。
 『エクリプス・フェイズ』では未来において人類が「トランスヒューマン」という一種のポストヒューマンとして描かれている。
 『エクリプス・フェイズ』は、英米のSF小説、とりわけ「ニュー・スペースオペラ」、「ポスト・シンギュラリティ」、「ポスト・サイバーパンク」と呼ばれる小説群を、世界観の重要な下敷きにしている。
 日本では翻訳家の山岸真氏が、そうした作品を寄りすぐり、『ポストヒューマンSF傑作選 スティーヴ・フィーヴァー』にまとめているくらいだ。スティーヴ・フィーヴァー ポストヒューマンSF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー) [文庫] / グレッグ・イーガン, ジェフリー・A・ランディス, メアリ・スーン・リー, ロバート・J・ソウヤー, キャスリン・アン・グーナン, デイヴィッド・マルセク, デイヴィッド・ブリン, ブライアン・W・オールディス, ロバート・チャールズ・ウィルスン, マイクル・G・コーニイ, イアン・マクドナルド, チャールズ・ストロス (著); 山岸真 (編集); 山岸真 (翻訳); 小阪淳 (イラスト); 金子浩, 古沢嘉通, 佐田千織, 内田昌之, 小野田和子, 中原尚哉 (翻訳); 早川書房 (刊)スティーヴ・フィーヴァー ポストヒューマンSF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジ…
 ここでのポストヒューマン概念は、そうしたSF小説やSFゲームで頻繁に言及されるポストヒューマン概念を、ある種の共通項を持つものとして、総称的に取り出したものである(よって特定の作品等についてあらゆる誹謗中傷を目的とするものではない。あらかじめご了承されたい)。

 ポストヒューマンについて簡単に説明しておこう。
 仮説上の存在。多くはテクノロジーの進歩によってもたらされる進化により、その定義が更新された人類。現在の人類よりはるかに優れもはや人類として認知されない存在である。SFでは古くから取り入れられた馴染み深いテーマである。また『現代思想の教科書』では「ポストヒューマン状況」について「生物や動物に固有なものとして考えられていた生命現象も情報として解読されるようになる。情報テクノロジーによって人間が代替され補助され人工的に合成されるいうことが起きてくる」とある。

 さて、ポストヒューマンSFではしばしば、魂、心、あるいは精神といったものが量子コンピュータにより電子のデータとしてバックアップされ、それを転送することによって人々は肉体という檻から逃れ自由にその身体を脱ぎ変える。
 故に病や老いは無く、死さえも克服した人類は量子的な側面からいえば時間の制約を超えた存在となる。
 門倉氏の実感はこうだ。ありえない。

 何故か?
 自意識の連続性は肉体を離れると消滅する。
 例えどんなに用意周到に準備を重ね、違う肉体に精神を移し替えてもそれが本人であるか科学的には証明できないのである。

 このとおり魂を実在論で考えるとどうしても無理な状況が浮かび上がるのである。
 ではポストヒューマンSFで描かれるような社会は、ありえないものなのであろうか。

◯成立しうるポストヒューマン社会とは

 データで精神を転送することが可能だとしても自意識の連続性は肉体を離れると消滅する。自我は元々宿っていた肉体を不可欠な寄る辺として成立しているのである。
 先程門倉氏が挙げた問題点であるが、ここで視点を変えてみよう。

 門倉氏は社会性に着目する。
 仮に自意識が途切れ、実質死んだとしても精神を転送した先とされる肉体で「本人」が昔からの自分だと主張し、周囲の人々がそれを認めればそれで問題はない。社会から見たときに個人の連続性が担保されていれば、それで構わないのというのだ。

 強固な自我を出発点とする西洋的観点からすれば、なんとも曖昧な印象を受けるかもしれない。
 だが我々日本人にとってこれは本来とても馴染み深いものなのだ。

◯昔々あるところでポストヒューマンが……

 この講座に先駆けて門倉氏は単著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか~言葉の魔法』を上梓している。
 この先に語られたのは氏が執筆中に感じた不思議、本の中では書ききれなかったことである。

 世界各地における神話の成立過程では、人の理解の及ばない不思議なものは最初、神の仕業とされた。森羅万象を人間が理解しようとした際、擬人化、擬生物化を施し、自分にとって想像しやすいイメージに置き換えるのは、世界に共通して伺える傾向である。
 たとえば雷。農耕にとって重要な自然現象である雨の先触れであり、同時に災害、また甚だしい音や光による脅威でもある。
 雷を司る神としてはギリシャ神話のゼウスなどが有名であるが、日本でもタケミカヅチという神がいる。

 この擬人化された神はしばしば冒険の旅に出て、人との間に子をもうける。その神の子である半神は伝説の中で英雄行為を成し遂げ、神の末席に身を連ねる。その英雄の子供はさらに神の血が薄まり、そうしてより人間に近い者が数々の逸話を残し、人口に膾炙され最後には民話となる。この様に次第に神話から伝説、そして民話と、より人間に近づいてくるのが神話の常であるのだが、日本においてはそれだけに限らない独特の過程があると門倉氏は述べる。

 神から人間の側に近づくのとは逆に、人間自体が自身の輪郭をまるで水彩画の様にぼやかすことによって、精霊に近づき神に寄り添い半同化するのだという。
 しかもそれは特定の個人ではなく、どこの誰とも知れない者たち、すなわち人間全体をぼやかす。

 西洋とは違い個人に対する考え方が希薄なのである。個が集まって集団になるのではなく、人間の集まりという漠然としたものがあってその中からその時々に応じて人が浮かび上がり現れては個人として振舞っている。

 そして来るであろうポストヒューマン社会では個人という連続性、考え方はわりと曖昧になるのではないか。そしてそのイメージは日本が先取りしているのではないか。そう門倉氏は主張するのである。

◯歌集、芸能から仄見える曖昧な日本人の精神

 万葉集、古今和歌集、新古今和歌集あるいは勅撰和歌集などの流れを見ると日本の精神史が分かってくる。

 万葉集は形式化が進む前の歌集で集められた収められた歌の内容も混沌としている。
 これが古今和歌集では形式化している。自然な流れである。そしてその後通常であればこのまま形式化が推し進むのだが、次の新古今和歌集の撰者である藤原定家はこの形式を一度解体してしまうのだ。

 定家の歌は当時全く理解されなかった。
 例えば普通は心情を歌うものだが、定家の歌は最初に人の匂いを漂わせることすれ、後半でそれを消し去ってしまう。また上の句は朝でも、下の句になると急に夜となるといったことがある。それもいつの夜か分からない。ここに時空的な断裂が起き、その狭間に聞き手が想像を巡らす余地を作った。“空”が発生したのである。

 こうして歌い手と聞き手の間に双方向性の状況が生まれたのは、西洋では見られない画期的なことである。

 定家以前にもその兆しはある。
 柿本人麻呂は万葉集に旅の歌を多く残している。
 当然万葉仮名で書かれたものだが、彼は助詞、助動詞等、意味を補完する仮名を省いた「略体歌」という形式を展開する。
 これは本来「わかる人が読めばわかる」という内向きな秘匿性、あるいは怖れ畏むという謙譲的な婉曲表現だったのかもしれない。
 しかし、この抜け落ちた結果できた「間隙」「空漠」が、解釈、曖昧に想像をくゆらせる余地を与えるツール、テクニックとして、幽玄美を提唱した藤原定家など、後世の歌人のヒントとなった可能性がある。

 別の例では夢幻能がある。
 夢幻能には設定はあるものの、定められた台本は存在しない。
 旅人がいてこれをワキと呼ばれる演者が舞うのだが、彼は旅の途中で人ならざる者と会合する。その様を観てどのような物語を感じるのは観ている者に委ねられている。

 また旅は人の心を揺るがせやすい。旅に出ると誰もが普段とは違う心持ちになる。そうすると意識していなかったものが心に入り込んでくる。意識のなかに無意識が忍びこんでくる。

 こういった固定していた意識が浮ついてきている状態を“中有”(ルビ:ちゅうう)という。
 中有は仏教用語だが、人が一旦死んでから死に切るまでの魂が宙に浮いたような、例えば四十九日といった時間であり生まれ変わるまでの中間世界である。

 さてこの状態では自分の中に他者が混じる。
 万葉集などでは旅立つ人の中に妹(いも)、愛しい人の魂が少し混じる。自分が自分だけでなくなる。それは同時にあなたであり、あるいは何ものかが混ざる。

 顕著な例は『おくのほそ道』の松尾芭蕉だろう。
 彼は不帰の覚悟を持って奥州を目指すが、旅の中で“かるみ”の精神状態に達する。

五月雨をあつめてはやし最上川

 有名な芭蕉の句だが、元句は以下のとおりだった。

五月雨をあつめてすずし最上川

 “すずし”と“はやし”が両句の違いであるが、これは何を表しているのか?
 “すずし”は体感であり詠み手の存在が感じられる。しかし“はやし”となるともはや人の気配は消えて茫漠とした諦観だけを浮かび上がらせる。
 旅によって“かるみ”の心境に達し、様々なものが入り込んで自分が自分だけでなくなった芭蕉の姿が垣間見える。

 芭蕉は江戸時代の人物であるがこの時代の文化はそれまで日本が積み重ねてきた様々な模倣のもとに花開いた。
 雛型がありそれを各々が感じたままに表現を繰り返したのである。

 フランスの思想家ボードリヤールは「未来社会はオリジナルの無いコピー社会になるだろう」と語ったが、これに触発されたのが映画『ブレードランナー』(原作P・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』)である。
 レプリカント(模造)と呼ばれる人間そっくりのコピー、人造人間が産み出されたこの世界はある種のポストヒューマン社会といえるが、その模造する精神は江戸時代に通じるものがあると言ったら過言だろうか?

◯親族呼称から垣間見える死生観

 もう1つの日本人が個を曖昧にする例がある。
 神道における祖霊信仰で親族呼称に、それが見られる。

 世界的に祖先と子孫の呼称は平等だ。しかし日本では子孫は8代先まで呼称があるのに対して、祖先には4代前までの呼称しかない。これは供養が終われば祖先はひとつのもの、ひとつの大いなるものに還っていくと考えられているからだと見做せる。

 そもそも古くより日本では死体を臨機応変に野山に埋めておきながら、墓碑は別のところに建てていた。そうしておいて墓に向かって死者を悼むときにだけ個人をたちのぼらせ、思い出す。個人とは常に意識され、それぞれが隔絶された存在としてあるのではなく、意識されたときにだけ現れるのだ。

 以上の様な旧来の日本における事例は、個人の連続性がなくとも社会は十分に成り立つこと示しているのではないかと門倉氏は主張するのである。

◯人生をバックアップする?

 さて門倉氏によって、仮に精神が肉体を離れ自意識の連続性が途絶えたとしても成り立つであろう社会の道しるべは提示された。

 講座の後半ではこの門倉氏の主張を受け、では科学的な面から見ると何がポストヒューマン社会実現の障害と考えられ、そしてそれをどのように解決するのか小泉氏が詳述された。
 まず小泉氏が投げかけた疑問は以下の通りだ。

 未発見の非デジタルな超絶大容量記憶技術が将来現れる可能性はあるものの、ポストヒューマンSFにあるように、魂が量子コンピュータにおいてデータでバックアップされるのならそれはデジタルで記述されなくてはならず、その計算量はあまりに膨大であるということだ。
 人生全ての情報量はあまりに莫大ではないか。
 それも1人ではなく我々人間にとって代わる大勢のポストヒューマン全ての人生だ。

◯モノとコト

 だが人の人生全てをバックアップする必要がそもそもあるのだろうか?
 量子コンピュータで魂をバックアップするのなら、魂はものとしてバックアップされると考えられる。魂をものとして考えるのは実在論の立場といえる。ポストヒューマンSFのギミックを考えるには、このあたりを手掛かりにしていけるのではないか。

 アインシュタイン自身は実在論者として認識されているものの、相対性理論の登場により実在論的な捉え方しかできなかった状況から宇宙は実証論的に捉えるべき時代に移行しつつある。このことを主題としたのが本講座の課題図書として指定されていた『世界が変わる現代物理学』(竹内薫)である。

世界が変わる現代物理学 (ちくま新書) [新書] / 竹内 薫 (著); 筑摩書房 (刊)世界が変わる現代物理学 (ちくま新書) [新書] / 竹内 薫 (著); 筑摩書房 (刊)

 この著作のなかで竹内氏は「モノ」と「コト」という言葉を用い、実在論と実証論を独自の方法で解説している。ここでは小泉氏が用いた例でこの考えを説明しよう。

 2つのサイコロAとBがある。この2個のサイコロは別の「モノ」だ。そのように実在している。こちらが実在論の立場である。
 さてこのサイコロを振って両方同じ3の目が出たとする。この結果をもってどのサイコロを降ろうとも同じ「コト」が起きたとするのが実証論の立場である。

 この考え方を通じてポストヒューマンの可能性を探って行こう。

 従来の考え方では人間、ヒューマンは実在論=モノの立場で表せられる。
 そこでは空間的位置や時間的順序が関係において重要となる。モノとモノの関係、モノとして観察されることが重要視される。
 転じてポストヒューマンの可能性は記号と記号の関係、事象がコトとして観察され、時空間に束縛されないルールによる関係に見出されることになる。
 データ=情報がモノをコトと化し、モノとしてのヒューマンからコトとしてのポストヒューマンへ進化する。
 これならポストヒューマンもあり得るのではないか。

 では実在論から実証論へ移行は可能性なのだろうか。

◯実在論から実証論へ

 実在論的なものの見方としてニュートン力学がある。地球と月の間に働いている重力と落ちるリンゴに働いている重力(モノ)は一緒なわけだが、これは幾何学であり重力の正体に対しては何も記述してない。ただモノとモノの関係を幾何学的にしめしたのみである。
 ではこれを実証論の側から見れば重力とは力が働いているコトとなる。その業績は偉大であるもののニュートンは実証論的なところまでは踏み込めていなかった。

 現実には19世紀末から物理学は実証論の方へシフトしていることが明らかである。
 ルードヴィッヒ・ボルツマンが端緒を開いた統計力学がその証拠となる。
 ボルツマン自身は実在論より古い原子論の立場をとる。
 彼はまたエントロピー(「乱雑さ」「わからなさ」の度合い)の増大を証明した功績を持つが、実証主義の立場をとるエルンスト・マッハと対立して失意のうちに自殺した。
ボルツマンは何に直面したのか?

 統計力学が扱うのは元々温度である。しかし温度というモノは存在するのだろうか? 同じくエントロピーは? そんなモノはないが物理学的にそういったものを扱えるようにしたのが統計力学であり、ここで物理学は実証論に踏み込みつつある。即ち彼自身の成果が原子論を否定しつつあったのだ。

 温度・圧力・エントロピーなどはミクロのモノとしては不確定でも、マクロにはコトとして確定できる。統計力学にはそのような働きがある。

◯統計力学と情報理論

 クロード・シャノンは『通信の数学的理論』で情報量を定義した。
 実はこの情報量は単位が違うだけでエントロピーと同じである。

 情報量と言った際には、情報がたくさんあることと情報に価値があることは違う。
 例えばサイコロを1つ振るとき、出る目が奇数であるという連絡を受ける。出目が奇数かどうかは分からないからこれは情報として価値がある。
 これが振ったサイコロの出目は奇数でしたという事になるとすでに決定していることなので、シャノンの情報量理論ではこの情報量は0として扱う。
 先に挙げた振るまえに出目が奇数だという情報には、その情報が届くことにより2つのうち1つに決定できるので、情報量が1ある。2つある可能性を減らすことができるからだ。
 この様にシャノンの情報量は確率的に定義される。

 さてもともとの可能性が多ければ多いほど情報量は多いこととなる。
 6面体のサイコロより8面体、8面体のサイコロより10面体のサイコロの方が出目に関して可能性は多く、よって情報量は多い。
 そして次の出目が1であるという同じ情報でも、面数が多いサイコロの方がより可能性を減らせるので6面体よりも10面体で出目が1と決まる方がより情報量がある。

 情報量は多くなるにつれ、まだ決定していないものが増える。それは「わからなさ」と言い換えることができる。つまり統計力学におけるエントロピーが多いということだ。統計力学と情報理論は物理的モデルで同じなのだ。

◯量子の「わからなさ」

 実在論の立場としては他に量子力学が挙げられる。量子コンピュータを扱うなら触れておかねばならない。

 この究極的な世界像は、それ以上に小さなモノがない領域を描く。
 それ以上に小さなモノがない、これは素粒子、例えば電子やニュートリノのことだがあらゆる同種の素粒子は区別することができない。
 素粒子はそれより小さなモノが存在しないゆえに記入欄を作れず、名前をそれ自体に記すこと、ラベリングが不可能だからだ。 
 区別できないことはわからないということで先に述べたエントロピーと同様に「わからなさ」として確率的に評価するしか方法がなくなる。
 その振る舞いは確率的になる。
 それはどういうことか。以下はその例である。

 箱を中心で仕切って2つの玉を入れて振る。仕切りには玉が行き来できる隙間があるとする。すると片側に2つの玉が入っている可能性がそれぞれ1/4、バラバラに入っている可能性が1/2。これは2つの玉が区別できるからだ。
 これが電子の場合だと各1/3の確率となる。電子には名前も印も付けられない区別がつかないからだ。現象として本当に区別が付けられず、まさしく確率的に評価するしかない。

 このように量子力学の世界では粒子が区別できないというのは本質的で、それ以上小さくできないというのは避け難くどうしてもそうなってしまう性質を持っている。

 空気中には気体の分子が無数にあちこちへ飛び回り物凄く速い速度状態で運動している。無数の分子はどこにあるかそしてその軌道は複雑過ぎて分からない。これも物理的モデルでは統計力学の「わからなさ」と同じ意味合いである。粒子がたくさんあることでわからなくなってしまう「わからなさ」は統計力学の「わからなさ」なのである。

◯量子コンピュータとしての宇宙

 量子コンピュータを扱ったものではずばりそのものといえる書物がある。
 セス・ロイド(マサチューセッツ工科大学機械工学教授。量子機械工学者)は著書『宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』(早川書房2007)で宇宙は巨大な量子コンピュータとして理解できると主張した。またすべての物質、相互作用の伝搬は量子が担っているとし、量子間関係は計算的に記述できるという。

宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか? [単行本] / セス・ロイド (著); 水谷 淳 (翻訳); 早川書房 (刊)宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか? [単行本] / …

 彼によれば量子コンピュータは宇宙と同等である。そこでは時空間に〈状態〉が量子的に記述される。ただしその〈状態〉は一意ではない。複数の状態を確率的に取り得る。これは今まで述べてきたように量子が確率的な振舞いを見せるからだ。

 以上をふまえた上でいよいよ事は核心に迫る。

◯魂は実在か?魂は実証可能か?

 それでは魂は実証可能なのだろうか? バックアップ可能なのだろうか?

 「実証可能である」ならば「数学的もしくは理論的に記述可能である」
 とすればその対偶は、
 「記述可能でない」ならば「実証可能でない」
 すなわち「記述可能である」ものがすべて実証論的なコトであるわけではない。

 「魂に記述できない面がある」がそのまま「魂は記述可能ではない」
 であるなら、
 「魂は実証可能でない」ことになる。

 この帰結の前提「魂に記述できない面がある」は「自然の奥深くに隠された記述できない実在がある」という実在論の主張と矛盾しない。

 デジタルコンピュータ的に「バックアップ可能である」
 ならば
 「数学的もしくは理論的に記述可能である」
 よってその対偶は
 「記述可能でない」ならば「バックアップ可能でない」

 したがって実在論の主張と矛盾しない立場では「魂は記述可能でない」ので、デジタルコンピュータ的に「バックアップ可能でない」

◯計算量問題

 また小泉氏が最初に投げかけた疑問も立ちはだかる。

 計算理論において計算量は、その計算に要する時間の問題と記憶量の問題に帰結し、トレードオフの関係にある。
 この計算量問題があるため「記述可能である」事柄が全て「バックアップ可能である」わけではない。また現実的に「記述可能である」にしても計算量が膨大であれば「バックアップ可能」にならない。人生を全てバックアップしなければならないのなら、当然その計算量は膨大であるはずだ。

 ではここでもう一度述べよう。
 そもそも人生の全てをバックアップする必要があるのだろうか。

◯記憶のホログラム性

 バックアップされるものはその人生の記憶である。では記憶の「すべて」とはなんだろうか?

 そもそも我々は記憶のすべてを意識し続けて生きてはいない。既に忘れ去ったものもある。
 また憶えている事柄について記憶が薄れても、それはゼロにはならない。

 鮮明さは落ちるかも知れないがホログラフィー画像は記憶媒体が欠損しても全体像を再生可能である。

 記憶はホログラム的で、ならば「すべて」をバックアップする必要はないのではないか。

◯おとなのゴリラが笑う

 ここで小泉氏が紹介したとあるTV番組の内容を記してポストヒューマンの可能性について示したい。
それは『爆笑問題のニッポンの教養』FILE037、038「私が愛したゴリラ(前後編)」(NHK、2008年5月13、20日放送)である。

 ゴリラは子供の頃は笑うのだが、大人になると笑わなくなるという。それは何故かというと遊ばなくなるからだ。

 番組において山極壽一氏(京都大学大学院理学研究科教授、専門は霊長類社会生態学)は、親が殺されてしまった子供のゴリラをかつて保護し、育ててから野生に無事帰した。
 そのゴリラに山極氏は20年振りに会いにいく。野生に帰された彼は堂々たるシルバーバックとなり立派に群を率いている。

 シルバーバックは子供を連れてやってくる。彼は山極氏を憶えているものの人と交わって暮らしていたのは以前のことだ、近づいて来ようとはしない。また山極氏も観察者の立場を踏み越えようとはしない。
 やがてシルバーバックは子供たちと遊び出す。すると山極氏が観ているからこそなのか、本来子供と遊ぶ際にも大人になれば笑わないはずのゴリラが笑うのだ。

◯森羅万象に還る

 最後は小泉氏自身の言葉でこのレポートを締めくくりたい。

 人間はそのフィクションを語り得るという特異な言語を持つ事でとても多くの事を失ってしまった。
それは違う。ゴリラたちを見れば言語を得て何か失ったかのように人は感じるかもしれない。ことばによらないコミュニケーションをうまく言語化できないから。人間は言語で伝えられないから失ったと感じている。でもそれを感じられた時点で何も失われていない。

 ポストヒューマンが私たちヒューマンにはない特異な能力を備えたヒト科の新たな存在だとしたら、私たちヒューマンとポストヒューマンの関係はゴリラと私たちと同じと言える。ポストヒューマンから見たら私たちは失った何かを持つ存在に見える。そういうわけではない。

 記述可能なデータだけを記録することで計算量問題から削れてしまったものが出てくる。魂が失われてしまう。そういうわけではない。

 本当は大事なものは残り続けている。

 デジタル記録によりバックアップされたポストヒューマンの魂は、その全てがバックアップされていなくとも、ポストヒューマン同士が、そしてその前段階である私たちであれコミュニケーションをとるときにモノではなく、コトとして再生されているのかもしれない。計算量問題で全てをバックアップできなくてもそこで魂を経験できる。

 いまだってあなたの全てを知らなくてもコミュニケーションできる。何か変わったのだろうか?

 わたしたちは〈わたし〉のすべてを知っているだろうか。

 わたしは〈あなた〉のすべてを知ることができるだろうか。

 知りうることが〈すべて〉であって、全てを知ることはできない。

 森羅万象、全てはコト。

 魂もまたコトであり森羅万象に還る。

 全てはコトに還る。

 何故なら宇宙の始まりはコトであってモノではなかったのだから。


【参考図書】
門倉直人著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか』新紀元社
松尾芭蕉、萩原恭雄著『芭蕉 おくのほそ道 付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄』岩波文庫
フィリップ・K・ディック著『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ハヤカワ文庫SF
竹内薫著『世界が変わる現代物理学』ちくま新書
クロード・E.シャノン、ワレン・ウィーバー著『通信の数学的理論』ちくま学芸文庫
セス・ロイド著『宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』早川書房


 なお、SF乱学講座の当日、AGS代表の岡和田晃は講座の模様をTwitterにて実況中継しておりました。

・「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」実況中継まとめ
http://togetter.com/li/199659

 おかげさまで好評をいただいておりましたが、速報性を重視していたため、いくつか誤りがございます。
 この場をお借りし、お詫びして訂正させていただきます。(岡和田晃)

誤)仮に精神が肉体から切り離されても自意識の連続性は途切れないのでは
正)仮に精神が肉体から切り離されたら自意識の連続性は途切れてしまう

誤)孫にあたる歌人にも、「祖父は乱詩病」という具合に言われてしまった。
正)孫にあたる歌人にも、「祖父は乱思病」という具合に言われてしまった。

誤)柿本人麻呂の特徴として、「やくたいか」という方法を駆使した
正)柿本人麻呂の特徴として「略体歌」という方法を駆使した
※↑この他の「やくたいか」も、全て「略体歌」へ一括修正をお願いいたします……一応フォローのツィートはあります。

誤) 門倉直人:そうかもしれない。ただ、今回は必ずしも実証主義的な話しではなく、私がそのように妄想を繋げて、「かもしれない」を広げて書いていること。
正) 門倉直人:そうかもしれない。ただ、今回は必ずしも実証主義的な話しではなく、私がそのように妄想を繋げて、「かもしれない」を広げて書いていること(つまり〝結果として〟略体歌という存在が、定家のような後世の人へ「空漠」というツールを意識させたのかもしれないということ)

『マーダーゲーム』デザイナーズ・ノート

 『マーダーゲーム』という本格ミステリ小説(講談社ノベルズ、2009年)をご存知でしょうか?

 これはカードゲーム『汝は人狼なりや?』をモデルにしたゲームを基体とした本格ミステリ小説です。
ゲームを作品内に取り込む際の手つきのこの上ない繊細さ、そしてゲームのルールシステムと小学校という舞台の因果律をみごとに融合させている点がとりわけ素晴らしく、Analog Game Studiesの読者の方々には、気に入っていただけることまちがいなしの作品です。
その『マーダーゲーム』をお書きになったミステリ作家の千澤のり子さまが、『マーダーゲーム』デザイナーズ・ノートとして、『マーダーゲーム』が生まれるまでの話を寄稿して下さいました。
 本格ミステリ要素、小説、そしてゲームの三者は、いったいどのような交わりを見せるのでしょうか?(岡和田晃)


 『マーダーゲーム』デザイナーズ・ノート

 千澤のり子


マーダーゲーム (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)

「小説」の楽しみ方は人それぞれだが、「本格ミステリ」作品には、何かを「当てる」というゲーム的趣向が含まれている。一問即答のクイズ的な要素ではない。謎があり、謎を解く手がかりがあり、手がかりを探りながら正解に向かって推理をしていくというプロセスのことを指す。ユーザーは、奇怪な謎を解くために、伏線という名前のアイテムを集めながら、正解への道筋を組み立て、最終的に犯人役であるラスボスにたどり着く。「本格ミステリ」は、強度な武器や防具をそろえなくても、主人公が自力で結末までたどり着くことのできるRPGと捉えることもできるだろう。

 しかし、「本格ミステリ」+「小説」の場合は、「本格ミステリ」固有のゲーム性を強めていくと、何故か問題が生じてきた。いわゆる「人間が描けていない」という批判のことである。例えば、嵐の山荘で殺人事件が起きたら、パニック状態になったり警察を呼んだり、自分の身を守ろうとしたり、と必死になるのに、犯人は誰かと推理していくのはおかしいという意見がある。あるいは、普通の高校生がこんなに行く先々で殺人事件に遭遇するのはありえないという場合もある。それに対し、謎に対し推理をして解くことに主題を置いているのだから、人物は謎のために用意されたコマでもかまわないのではないか? と私は疑問に思っていた。けれど時を重ねるにつれ、「小説」には「小説」なりの見えないルールがあるのだろうと結論をつけている。「本格ミステリ」には「本格ミステリ」にしかないルールがあるのと同じように。

「小説」の意味は、辞書によると「作者の構想のもとに、作中の人物・事件などを通して、現代の、または理想の人間や社会の姿などを、興味ある虚構の物語として散文体で表現した作品(大辞泉)」と記されている。この定義に沿うと、「本格ミステリ」+「小説」とは、謎を解くことによって人間や社会の姿までもを表現した「小説」ということなのだろう。現実的に不可能な犯罪を、現実に起こりうることとして落としていく。主眼はそこにあるのだろうが、読み手も一緒にわくわくしたりはらはらしたりできるようなゲームとしての楽しみとは、遠いもののように感じられる。

 ならば、ゲーム的要素と「小説」的要素を融合させた作品は描けないだろうかと、いつしか私は試みるようになっていた。もちろん、作中内で、トランプ、チェス、マージャンなど、ゲームの登場する作品は過去にも存在している。あるいは、謎を解くことによって人物の本質を深く浮かび上がらせる作品もある。けれど、もっと、作中人物と読者の気持ちが一緒になれるようなゲームを用いることはできるだろうか、と私は探すようになっていた。「小説」でしか描けなく、かつゲームプレイヤーの楽しみを兼ね備えた作品。自分が過去に読んだ作品とは、なるべくかぶらないようにしようと記憶を呼び覚ましたが、浮かんでくるアイデアはどれも、過去の作品の模倣になってしまうような気がした。結局、実際にゲームをしている人たちの心理を描き、さらに読者も登場人物たちと同じようにゲームを味わえるような形を作ろうと構想を練っていった。この実験思考から、『マーダーゲーム』という一本の長編小説は生まれたのである。

 最初に考えたのは、プレイヤーの設定だった。大人がランダムに集められ、ゲームをする機会は、実際にはあまりなくて非現実的になってしまう。「こんなの状況ありえない」という反論が起きたら、「小説」のルールに適用できなくなってしまう気がした。賞金目当てと目的を明確にすればゲームプレイヤーは集まりそうだが、『ライアーゲーム』や『インシテミル』と同じような設定になりそうなので避けたい。もっと違和感を失くす方法はないのだろうかと試行錯誤を重ねていった。

 そして、「子供たちがゲームのプレイヤーになればいいのだ」という結論にいたった。子供なら、イレギュラーなプレイやゲームマスターへの反発をせずに、「ルールを忠実に守る」という倫理観を持たせやすい。さらに、たまたま近所に住む同じ年齢の子たちが集められた公立の小学校を舞台にしたら、バラエティ豊富に人物たちを作ることもできる。一石二鳥ならぬ一石数鳥のような気がした。「中学生か高校生を主人公にしてほしい」という要望があっても、小学校六年生以上に年齢を上げることはできなかった。

 肝心のゲームの内容は、舞台、人物と決めた後に考えた。ゲームが現実になっていく恐怖を植えつけるために、殺戮を主体とするゲームを探していたが、しっくりしたのが見つからず、完全にオリジナルのものを作った。

『マーダーゲーム』の中の「マーダーゲーム」の流れは、以下のようになっている。

1.プレイヤーたちは自分のスケープゴートとなるアイテムを学校のどこかに隠す。
2.アイテムと隠し場所をカードに記載する(他のプレイヤーには記載内容をわからないようにする)。
3.進行役はカードをまとめて封筒に入れ、ある場所に設置。
4.トランプでジョーカーを引いた人が犯人となる(誰が犯人かはわからないようにする)。
5.犯人役はプレイヤーたちにわからぬように、カードを入れた封筒を回収する。
6.一日に一回、犯人役は最初に決められた場所(『マーダーゲーム』では飼育小屋の裏)にスケープゴートを置く。
7.スケープゴートが置かれているのを発見された時点で、その持ち主の人は死亡扱いとなり、ゲームオーバー。
8.生存中の残りのプレイヤーは、死亡扱いとなった人のスケープゴートや隠し場所から犯人役を推理しあう。

 さらに9番目として、全員一致で犯人役を名指しできたら、犯人は自白しゲームセットというルールを用意していたが、『マーダーゲーム』内の発案者・杉田勇人は、「最後まで生存者たちが推理しあう楽しさ」を優先させたかったので、途中でゲームを終わらせることまで頭が回っていなかった(さらにもっと細かい規定があるが、本論では省略する)。

 この推理部分が人狼(編注『汝は人狼なりや?』)に似ていると感じたので、人狼をモチーフに持ってきた。人狼を主体にしていると見せかけて、実は、人狼の方が後付けだったのである。
タブラの狼(2009年版) / Lupus in Tabula - 4th Edition / ダヴィンチゲームズ究極の人狼 完全日本版 / アークライト

 本来ならば、もっと推理合戦の要素を取り入れたかったのだが、スケープゴートが現実化してしまい、登場人物たちは推理どころではなくなってしまう。これは、作者が「小説」としてのルールを意識しすぎた失点ともいえる。だが、ゲームの楽しさを奪われたのは登場人物たちだけであって、読者には推理をする=「何か」を当てる楽しさの「本格ミステリ」要素は残している(と、作者である私は思っている)。さらに、ゲームを現実化させるといったルールを破る者を登場させることによって、ルール違反者はいかにゲームを興ざめさせるかということも描いたつもりである。

 書き上げてみてわかったのは、「本格ミステリ」のゲーム性と「小説」のルールを融合させるのは非常に難しいということだった。「小説」のルールも、まだ感覚的にしかつかみとっていない。なので、そのルールが何なのか明確になるまで、しばらく「本格ミステリ」の「小説」に取り掛かってい
く予定である。

 次作は『シンフォニック・ロスト』というタイトルで今年の2月に刊行された。主人公たちは中学生だ。『マーダーゲーム』からひとりだけ、ゲストも登場する。『マーダーゲーム』ではゲームによって深まる団結力もテーマとしていたが、次は死体がいくつも出てきても崩れない団結心を、「本格ミステリ」のゲーム的要素と重ねて描いた。小説の味も含みつつ、作者と読者の文字による対局ゲームとして読んでいただけたら幸いである。
マーダーゲーム (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)シンフォニック・ロスト (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)

 マーダーゲーム (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)シンフォニック・ロスト (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)


千澤のり子(ちざわ・のりこ)
作家。1973年東京都生まれ。専修大学文学部人文学科卒業。2007年、宗形キメラ名義で二階堂黎人氏との共作である『ルームシェア 私立探偵・桐山真紀子』を発表。09年『マーダーゲーム』でソロデビューを果たす。著書に『レクイエム』(二階堂黎人氏との共作)、『シンフォニック・ロスト』がある。別名義で評論活動も手がけている。11年5月にはSF乱学講座にて映像における叙述トリックをテーマにした講演も行なった。


 先月、二階堂黎人氏と千澤のり子氏の共作『ルームシェア 私立探偵・桐山真紀子』がめでたくも文庫化されました(講談社文庫)。千澤のり子氏とのソロ作品とはまた違った味わいのある本作が、より手軽にアクセスできるようになりました。併せてお楽しみください。(岡和田晃)
ルームシェア 私立探偵・桐山真紀子 (講談社文庫) [文庫] / 二階堂 黎人, 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)
警視庁を辞めて私立探偵になった桐山真紀子は、埼玉県初の女性知事に警護を依頼されて銃弾を受けた。そのリハビリ中に、姪の早麻理(さおり)からネットで見つけたルームメイトがいなくなったので探してほしいと頼まれる。彼女の部屋に入ると、ポスターに隠された壁一面に罵倒や呪詛の言葉が書き殴られていた――。(裏表紙より)

【レビュー】徳岡正肇『ソーシャルゲーム業界最新事情』(ソフトバンククリエイティブ、2011)


【レビュー】徳岡正肇『ソーシャルゲーム業界最新事情』(ソフトバンククリエイティブ、2011)

 井上雄太


ソーシャルゲーム業界最新事情 [単行本] / 徳岡 正肇 (著)  ソーシャルゲーム業界最新事情

  著者: 徳岡正肇
 ・出版社/メーカー: ソフトバンク クリエイティブ
 ・発売日: 2011年4月1日
 ・メディア: ソフトカバー

 ソーシャルゲームというジャンルが世を賑わしている。そんなもの聞いたことがないけれど、という方もテレビCMでこのところ頻繁に現れる『怪盗ロワイヤル』、『釣りスタ』といったゲームタイトルを耳にしたことはあるだろう。これらがまさにソーシャルゲームの代表作である。驚くべきことにこのソーシャルゲームの市場規模は今や1200億円(*1)を越え、すでに家庭用ゲーム市場(*2)の4分の1にまで拡大しているのだ。

 突然現れたこの新しいゲームはどこからやってきて誰が支えているのか。歴史が短く、いまだ全貌もはっきりしないこの業界にいち早く切り込んだのが『ソーシャルゲーム業界最新事情』だ。著者の徳岡正肇氏はゲーム情報サイト「4Gamer.net」等でゲームのレビュー記事を執筆する一方、『ワールド・オブ・ダークネス』等海外の会話型RPG(TRPG)の翻訳も手がけた、ゲームレビュアーにして翻訳家である。本書はソーシャルゲームの成り立ちと可能性、その業界の現状を具体的な事例やインタビューから伝えている。

・本書の構成

 本書はソーシャルゲームの全体像について俯瞰的に語る「第1部 ソーシャルゲーム概説」と、インタビューによりソーシャルゲーム業界の現在を伝える「第2部 ソーシャルゲーム業界の最前線」とで構成されている。第1部では、まずソーシャルゲームの定義自体が見直される。その上で、日米における発展の経緯、「非同期性」に代表される従来の多人数ゲームとの大きな違い、そして「ソーシャル化」という現象がこれからゲームにどのような意味を持つのかについてまで語っている。もちろん、時折新聞やニュースをにぎわす「基本無料」問題にも触れている。

 第二部では、合計12社ものゲーム会社へのインタビューで構成される。この12社は大手ゲーム企業の事業部から、アプリ専業ベンチャー、動画サイトの運営会社など様々である。この多様さがそのまま業界の勢いと全体像の把握のし辛さを示していると言ってもよいだろう。ここでは、運営中のタイトルに対する各社自身による分析、スマートフォン化や、美しいグラフィック・BGMの利用によるコンテンツのリッチ化などといった将来への展望、それに企業側の求める人材が語られ、多様なソーシャルゲーム像を見ることができる。

 以上の構成を持つ本書は基本的にはソーシャルゲーム業界の動向に興味がある人、あるいは業界への就職を考えている人に業界の現状を伝ようと書かれたものと言ってよいだろう。そのため第2部で扱われるインタビューの内容も、単なるユーザーへのPRとは異なるものとなっている。とはいえ、第1部で扱われるゲームの「同期性・非同期性」という視点や、徳岡のゲームの「ソーシャル化」に対する展望等には、将来のゲーム像を考える上で大きな手がかりとなる情報がぎっしり詰まっている。

・ソーシャルゲームとはなにか

 さて、本書で扱われるソーシャルゲームとはそもそも一体どのようなゲームをさししめすのであろうか。

 単にソーシャルを「社会的なつながり」という意味で取るのならば、MMORPG(オンラインで多人数が遊ぶRPG)や多人数で遊ばれるアナログゲームなども充分にソーシャルゲームと呼ばれて然るべきなのではないか、という当然の疑問を検討することから徳岡は出発する。

 その上で徳岡はソーシャルゲームに対する現在一般的な定義「SNS(Facebookやmixiのようなソーシャルネットワークサービス)を利用し、SNSの参加者がプレイ可能なゲーム(本書 2頁)」を検討していく。ソーシャルメディアとゲームとの連結のみに視点をおけば、MMORPGなどの境界的な事例が多発することは現状必至である。この問題への対応として、徳岡はソーシャルゲームを「ゲームのいちジャンルと理解するよりも、インターネット上で影響力を拡大しているソーシャルメディアにゲームが連結された「状態」あるいは「運動」であると理解したほうが、より適切なのかもしれません。(本書 2-3頁)」という視点を打ち出す。

 この視点によりSNSと連結を持たない従来のブラウザゲームやMMORPG、アナログゲームはソーシャルゲームから、一旦切り離される。もちろん、これらのゲームにもいつかSNSと連結をもつ可能性自体は残されていると言うことはできるだろう。

・ソーシャルゲーム市場の歴史

 このようなソーシャルゲームとその市場の展開はどのように分析されるのであろうか。徳岡はその展開を、その独自性の発展と共に追っていく。

 ソーシャルゲームの隆盛のきっかけとして、徳岡が指摘するのはFacebookやMySpaceといったSNSでのアプリケーション開発のオープン化である。実際2007年にFacebookでの開発が可能となると、半年で14,000本ものアプリケーションが開発されたという。とはいえこの時点でのソーシャルゲームはこれまでにあった有名なアナログゲームやデジタルのカジュアルゲームをSNS上でプレイできるようにしたという色合いが強く、ソーシャルゲームならではの特徴といったものはまだ存在していなかった。また元となったゲームの権利元との問題の発生も指摘されている。この時点の日本ではGREEの『釣り☆スタ』がソーシャルゲームとして最初のあゆみを進めるが、開発のオープン化はまだ先のこととなる。

 2008年頃になると『Mob Wars(2008)』『Famtown(2008)』等SNSの性質を生かしたゲームが現れ出す。ソーシャルゲームは開発期間・開発コストの安さと、母体となるSNSのユーザー数増加により収益率が高かったことから、多くのディベロッパーがソーシャルゲーム市場に算入することとなった。

 日本でも2009年mixiアプリが公開され「サンシャイン牧場」が1ヶ月で130万ユーザーを獲得し一挙に普及する。これを受け2010年にはGREE、モバゲーにおいてもオープン化が行われ、国内市場でも競争が本格化していくこととなった。

 現在はスマートフォン市場への参入競争、日本企業の海外展開 が進み、海外企業による買収も行われ、勢力図の混沌としたまま先に述べたように市場は急激に拡大し続けている。もちろん急激な市場拡大には、様々な問題が付いて回る。過当競争によるリッチコンテンツ化と広告コストの増大により、すでに参入すれば儲かる時代は終りを告げている。他方で子どもによる高額課金の問題、SNSによるディベロッパーの囲い込みは、ときおり新聞やニュースを賑わしている。ゲームデザインの類似により訴訟問題も生じている。このようなソーシャルゲームが現在向き合っている課題についても一つ一つ丁寧に解説が行われている。

・ソーシャルゲームと「同期性・非同期性」

 ソーシャルゲームの大きな特徴として、遊ぶ時間を共有しない複数のユーザー同士が手軽に「一緒に」遊ぶことが出来るというものがある。この一見矛盾したかに見える状態を解き明かす鍵がユーザーとゲームの関わる時間の「同期性・非同期性」という概念である。

 「同期性・非同期性」とは「ゲームに限らず、多人数が利用するサービスにおいて、そのユーザーの利用時間は共有されているか、いないかということを示す(本書 27 頁)」とされる。人と人が直接あって話すことや電話は当事者同士の時間が共有されているため、「同期的」なコミュニケーションであると言え、それに対し、書籍やメールは書き手と読み手、さらには読み手同士の間にも同じ時間は共有される必要のない「非同期的」なコミュニケーションであるというのである。もちろんこれはどちらが優れているというわけでも、特定のコミュニケーションやサービスについてこれらのどちらか片方しか存在しないという性質のものでもない。

 徳岡の本書ではこのような同期性・非同期性の観点に基づき、将棋や麻雀といった古典ゲームからソーシャルゲームに至るまでのゲーム全般が分析されている。別して、アナログゲームやCGIゲーム(CGIを利用したwebブラウザのみでプレイ可能なゲーム)、MMORPG等の複数人数で遊ぶゲームは、プレイヤーの時間とゲーム内の時間が共有される同期的な面が強く現れる。つまり、複数人で遊ぶためには特定の時間をゲームのために共有する必要がある。さらに、MMORPGにおいては、ゲーム内時間の同期性は顕著なものとなる。プレイヤーがログインしない間もゲームには常に別のプレイヤーが遊んでいるという状況が発生し、ゲームを再開する際には自分を取り巻く状況が変わりうるというのである。そのため、MMORPGはゲームに大量の時間を必要とし、疲れ果ててしまうプレイヤーも現れるという問題点も生じたことが指摘される。

 他方で、コンピュータゲーム以降に大幅に広まったひとりで遊ぶゲームではプレイヤーはいつでもゲームを中断する事ができ、その時点での状況がそのまま保存されるため、ゲーム内の状況とプレイヤーは非同期的であった。もちろん、他のプレイヤーは存在しないため、そもそもプレイヤー間の同期を考える必要はなく、いつでも始められいつでも止めることができる。

 以上のような、一人:非同期、複数人:同期というこれまでのゲームの枠を変えたのが非同期的なソーシャルゲームであると徳岡は分析する。つまり、複数の人間が時間を共有せずに、一緒に遊ぶ事が出来るようになったというのだ。

 一体どうして多人数の非同期ゲームが可能になったのか。その答えとして、徳岡はゲームを中断した際の最低保証と、プレイヤー間の「インタラクション」(やりとり)の待受時間の長さが取り上げる。前者は、プレイヤーがゲームを中断している(と同時に他のプレイヤーがゲームを進めている)間に、ゲーム状況を中断前と同じかある程度進んでいるが大きな変化のない状態にすることにより、あたかも個人用のコンピュータゲームのデータをロードしたときのように、ゲーム内での状況がプレイヤー個人にとっては「止まっていた」と認識させることである。他方後者は、インタラクションの待受時間が長くとることにより、いまゲームをプレイしていないプレイヤーを含む任意の人物にアクションを行えることを保証している。この二つが非同期の多人数ゲームを可能にするというのだ。

 もちろんこの解決方法には問題点があることも指摘されている。最低保証はゲームからリスクやスリル、さらにそれを乗り越えることによって得られるカタルシスといった従来のゲームが提供して来た魅力を取り上げ、またリスクの少なさは新しいコンテンツの必要性を加速させてしまうというのである。そもそもゲームの非同期化そのものにより、「特別なイベントが常態化してしまう(本書 36頁)」というようにゲーム運営の起伏が小さくなり、イベントなどを仕掛ける効果も薄れてしまう問題もある。

 本書で用いられたゲームの同期性・非同期性という概念は、デジタルゲームの分析に固有というわけではない。徳岡は、ゲームにおける同期・非同期の関係性を、古典ゲームだけでなく、ボードゲームの『ディプロマシー(*4)』やTRPG等のアナログゲームにも広げて見せる。例えば『ディプロマシー』における手順自体の非同期性と「交渉」の同期性との関係が挙げられている。この同期性・非同期性の視点から「課金システム」(ゲームのプレイにお金がかかるシステム)とゲームシステムの関係を分析することもかなり刺激的なものとなりそうである。(課金システムとゲームシステムの関係は本書では第2部のインタビューの中で述べられるに留まっている。課金システムとゲームシステムの関係自体においてもある種のゲーム的な状況が成り立っていると言える。あるゲームシステムにおいて運営者がどのようにプレイヤーの課金への意欲を引き立てるか、そのように課金を意図して作られたシステムをプレイヤーがいかに利用するか/しないか、というやりとりはある種ゲーム的である。)

 同期性と非同期性、両者がひとつのゲームのシステムの内外でどのように影響しあうのかという問題は、アナログ・デジタルを問わないゲーム分析の際だけでなく、恐らくはゲームを制作する際においても非常に重要な視点となるのではなかろうか。

ソーシャルゲーム業界最新事情 [単行本] / 徳岡 正肇 (著)  ソーシャルゲーム業界最新事情

  著者: 徳岡正肇
 ・出版社/メーカー: ソフトバンク クリエイティブ
 ・発売日: 2011年4月1日
 ・メディア: ソフトカバー


[関連書籍・リンク]

 徳岡氏の書かれたものでソーシャルゲームに関わるものを下記したので参照されたい。

・『ウォーゲーマーハンドブック2010』掲載のコラム「野獣(のけもの)げぇまぁ」
http://a-gameshop.com/SHOP/WGH001.html
・『デジタルゲームの教科書』の「第10章 ソーシャルゲーム」
http://www.amazon.co.jp/dp/4797358823
・4Gamer.ner「コアゲーマーが満足できるソーシャルゲームはコレだ! 年末年始の休暇どころか,その先もどっぷりハマれるお勧めタイトルを紹介」
http://www.4gamer.net/games/109/G010913/20101225001/
・4Gamer.ner「[CEDEC 2010]「モバゲー、mixiモバイル、GREE等、モバイルソーシャルゲームの最新動向とゲームデベロッパーへの事業機会」の聴講レポートを掲載」
http://www.4gamer.net/games/105/G010549/20100901070/
・4Gamer.ner「徳岡正肇のこれをやるしかない! / 第11回:「Mafia Wars」に見る,「自分のペースでプレイできる」ゲームとは?」
http://www.4gamer.net/games/085/G008544/20100205058/


【脚注】

*1:シード・プランニング「ソーシャルゲームの市場動向調査結果がまとまりました。」http://www.seedplanning.co.jp/press/2010/2010122102.html
*2:モーニングスター「2011年上半期の国内ゲーム市場規模は15.9%減」
http://www.morningstar.co.jp/portal/RncNewsDetailAction.do?rncNo=500519
*3:本書出版以降の最新の事例としては、「モバゲー」を運営するDeNAは6月13日韓国に現地法人を設立が上げられる。
 J-CASTモノウォッチ「ディー・エヌ・エー、韓国に現地法人「DeNA Seoul」設立」http://www.j-cast.com/mono/2011/06/27099575.html
*4:『ディプロマシー』とはアバロンヒル(Avalon Hill)社のボードゲーム(1959年)。ゲームでは、第一次世界大戦前のヨーロッパを舞台として(最大)7人のプレイヤーが当時の列強各国を担当し、ヨーロッパの覇権を目指して競いあう。

ある初心者の『エクリプス・フェイズ』体験記

 7月30日に開催予定の『エクリプス・フェイズ』体験会、たくさんのご応募をありがとうございました。体験会に向けて開催したテストプレイの模様を、渡邊利道さまが初心者プレイヤー視点でレポートしてくださいました。
 当日このシナリオを使用するかどうかはまだ秘密ですが、SFをはじめ無類の読書家でありながらゲームについては初心者という渡邊さまの視点から、『エクリプス・フェイズ』のさらなる可能性が垣間見えるように思います。(岡和田晃)


ある初心者の『エクリプス・フェイズ』(Eclipse Phase)体験記

 渡邊利道

当ブログAnalog Game Studies(AGS)は『エクリプス・フェイズ』(または『イクリプス・フェイズ』)公式サイト(Homepage | Eclipse Phase)で承認されているファンサイト(Fan Websites)の一つです( http://eclipsephase.com/resources )。

 というわけで、岡和田晃さんに誘われて、海外RPGゲームの『エクリプス・フェイズ』(Eclipse Phase、以下EP)の、体験会に先駆けたテストプレイに参加した。メンバーは、岡和田さんと私と、Analog Game Studies(アナログ・ゲーム・スタディーズ)でEPの紹介に携わっている蔵原大さん、ゲーマーの畠山さんと中野さんの五人。私以外はみなさんRPG連戦の猛者で、初心者なのでけっこうビビっていたのだがとても親切にいろいろと教えてくれたので、少々調子に乗っちゃったかなあ、というくらい楽しめた。

 EPというゲームについては、

「さぁ黄昏の未来世界にようこそ!」

http://analoggamestudies.seesaa.net/article/183475700.html

 という紹介記事に詳しいのだが、大雑把には人間が精神と身体に分割され、精神はデータとして複製再生可能、身体は人工改造その他データの容れ物としていくらでも改変可能、というテクノロジーが発達したポストサイバーパンク的な未来社会、いわゆるマザーコンピュータの反乱的な人工知性による大戦争を経由して、中央政府を失い複数の権力と企業体のせめぎあいによる多重化した世界が、物理的に太陽系外宇宙への入口まで発展しているが、どうやらそこには謎の異星人が存在しているらしく(彼らは地球人類に関心がない模様)、また、分散した権力をめぐる闘争が激化している現在はいまだ人々の関心は「外」へは向っていない、という背景設定のもと、さまざまな設定のキャラクターを参加人数分用意し、ゲームマスターの誘導に応じてミッションを実行する、というもの。べつにどういうミッションにしなければならない、という決まりはないらしいのだが、まあ基本的にはエスピオナージュのスタイルがもっとも似つかわしいのではないか、ということだった。

 これはテストプレイだったせいなのか、ともかく最初のEPの世界設定の説明や、それに関する参加者のディスカッションが多岐にわたって流動的で非常に面白かった。設定が設定なので、現代社会の政治状況や経済、技術などの話題に触れることも多く、物語的にもたとえばイスラームが大きく要素としてとりこまれているので、自然そういう話にもなり、なかなかきわきわな話題でもあるので、そこらへんの常識のラインのとりかたのかけひきなども、ゲームの前哨戦のようでちょっと面白かった。

 本来はキャラクターも参加者自身で作るものらしいのだが、まあ、初心者用にサンプルキャラクターというのが用意されていて、蔵原さんはお手製のキャラがすでにいらっしゃるということでロシアのスナイパーというけっこう頭が悪そうな素敵なキャラ(編注:『Eclipse Phase Introduction Book for 2011 Japanese』に登場したアルアラミル)に、私はマッドサイエンティスト、中野さんは性転換自由自在のジゴロ、畠山さんは探検家というキャラをそれぞれ選んで、ゲーム開始。

 金星を舞台に、行方不明になった貴婦人チャタレイを探す、というゲームで、ゲームマスターの提示する状況に合わせて口頭で可能なこと不可能なことを探り、では私はこういう行動を起こします、とメンバーに宣言して骰子を振る、ときにはメンバー間で「こちらはこういう方向で、そちらはそういう方向で」というように協力体制を作ってミッションを進行させていく、といった塩梅で、成程、これは発想力とそれを言語化する能力、そして人間関係をうまく物語にはめ込んでいく微妙な気配を察知する能力が問われるゲームなのだなあと感心した。とくにそれらの行動をまとめて新たな状況を作り出し全体の展望を与えるゲームマスターの仕事はなかなか凄いものがある。物語は最終的にはギャンブル場で、まあ、私がちょっと調子に乗って続けてギャンブルし続けて負けてロシアのスナイパーがいかさまだ!なんだとてめえらやっちまえ!手榴弾でぼーん!というありえないハチャメチャな展開となり、しかも悪の親玉と手打ちで終り、というダークな結末に、私はけっこう満足だった。あれだ、ちょっとアダルト/サイバーパンクなダーティペア的世界。

 その後、EPをめぐる期待の大きさがもいろいろ熱く語られて、それを聞いているだけでワクワクさせられるものがあった。もっとも、こういうゲームにハマる人がいるのはよくわかるし、たぶんものすごくうまくいくセッションなどもあって、それは素晴らしい体験になるんだろうなあ、という気もしたが、その分、参加者の気心とか、場の空気とか、そういうことを考えるとやはり初心者にはちょっと敷居が高いのはいかんともしがたいかもしれない。私は、これからも機会があったらちょっと参加してみたいとも思った。あとEPのシェアワールドで創作してみたいという気もする。

 ともかく、今回の体験でもっとも驚いたのは、RPGゲームというのは、ともかく「言葉」がすべてだ、という点で、しかもその言葉というのは、あらゆる意味においてすべて「表現」なのである。岡和田さんがゲームに対して抱いている情熱の所以というのが少しだけ理解できるような気がした。

 大変面白い体験でした。誘っていただいた岡和田さん、一緒に遊んでいただいた皆さん、本当にありがとうございました。

2012/01/04追記(岡和田晃):渡邊利道さまはその後、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」にて、第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞されました。おめでとうございます!


渡邊利道(わたなべ・としみち)
 1969年愛知県生まれ。Eclipse PhaseがRPG初体験のゲーム完全初心者。
 1999年頃から本を読む専業主夫としてwebで読書感想文ほかモロモロ公開中。恥をかくのが人生です。
 「なんて退屈。」(http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/

ファイアウォールへようこそ:エクリプス・フェイズ紹介(その7)


ファイアウォールへようこそ:エクリプス・フェイズ紹介(その7)

 朱鷺田祐介

当ブログAnalog Game Studies(AGS)は『エクリプス・フェイズ』(または『イクリプス・フェイズ』)公式サイト(Homepage | Eclipse Phase)で承認されているファンサイト(Fan Websites)の一つです( http://eclipsephase.com/resources )。


第6回はこちらで読めます。


 「エクリプス・フェイズ」の紹介その7は、ミューズの話。

 この連載は、7/30の「Eclipse Phase体験会@R&Rステーション」でGMするための、復習的なものです。未訳RPGの紹介ということで、手探りでやっている部分が多々ありますので、訳語の揺れはご容赦ください(編注:本稿は朱鷺田祐介氏のウェブログ「黒い森の祠」からの転載であるため、初出時の時事的内容については、再掲の際にずれが生じる場合があります。あらかじめご了承ください)。

●特異点で変わる世界

 「エクリプス・フェイズ」の舞台とする未来は、かなり現代と違う部分があります。これは、現代のSFでよく言われるシンギュラリティ(特異点)を意識したものです。シンギュラリティとは、ある技術発達上のブレイクスルー、あるいは、世界的なイベントで、世界観が大きく変わることを意味します。「エクリプス・フェイズ」の未来世界も、いくつかのブレイクスルーにより、我々の世界と極端に違っています。

 いわゆる、「魂(Ego)」と「身体(Morph)」の分離は、「エクリプス・フェイズ」の特徴のひとつですが、他にも色々な違いがあります。

 例えば、貨幣を基本とする資本主義経済である「旧経済」と、常時オンライン化し、行動のすべてを記録するような全世界オンライン状態で発生した贈与経済/人物評価(Rep)をベースにした「新経済」の概念は、ゲーム的にも面白いものです。(両方が入り交じった移行中の複合経済構造の地域もあり)

●ミューズ

 今回取り上げるミューズはほとんどすべてのキャラクターが保有する「人生のパートナー」である支援AIとして、数十年前から普及しているメディア・エージェントAIです。

 〈大破壊〉以前から、人類は広大な情報ネットワーク、メッシュを作り上げ、極端なアナクロ主義者をのぞけば、すべての人類が常時、メッシュと接続し、その支援を受けています。AR、VRなどのネットによる情報補助、通信だけでなく、必要に応じて、検索し、調査し、あるいは、ネット上に広報し、つぶやき、はりつけ、あるいは介入します。

 多彩なメッシュ活動および自分の情報活動を支援するのが、ミューズと呼ばれる個人専用の支援AIです。ミューズは人間の幼い頃から、個人の情報(ライフログ)を記録し、体調をモニターし、メッシュとの関係を補助し、設定に応じて情報を検索し、必要に応じて個人の秘書役を努めます。ミューズにキャラクター付けをする人もいますが、それは、ミューズが長い間のやりとりから個人の癖や体質を読み、必要な対応を取ってくれる最適な補助プログラムとして成長していくからです。ミューズを失うのは、現代人で言えば、便利な携帯と愛するペットを同時に失うような喪失感を発生させるでしょう。

 ミューズの存在はなぜ、特異点なのか?

・ミューズは通信、生活習慣など秘書役として管理してくれます。

 目覚ましや予定管理から、友人リストの検索、ニュース検索の取捨選択まで、生活の各方面で支援してくれます。新経済、旧経済のいずれでも財産は電子化されていますので、ミューズに問えば、いつでも、現在の収支や口座の残高、Repの蓄積具合を知ることができます。

・ミューズに指示すれば、必要な情報を瞬時に検索するようにできます。

 おかげで、キーワードを投げておけば、その情報がメッシュに上がるたびに知ることができますし、誰かとの会話中に分からない単語が出てきたら、それをミューズに検索させて調べつつ、会話できます。

 脳内Googleですね。

 問題はこのおかげで、むやみに、会話に、マニアックな引用を多用するおバカさんが現れたりもしますが、それも、ミューズで検索合戦をすれば、対応できないではありません。

・ミューズは、ライフログを取りますので、近々の生活に関する記録を簡単に残せます。

 ミューズに頼らずとも、記憶は大脳皮質記憶装置のチップに記録されますが、常に、自分の行動を見ている存在がおり、必要に応じて、検索したり、質問したりできるのはまた別の世界です。

 ミューズは、あなたの人生におけるプライヴァシーをすべて共有するものなのです。

 このような存在がいる社会はどういうものなのか?
 それはある意味、恐怖と希望の入り交じった世界かもしれません。


朱鷺田祐介(ときた・ゆうすけ)
 TRPGデザイナー、ライター。スザク・ゲームズ代表。『シャドウラン4th Edition』の翻訳をシャドウランナーズとともに務める。代表作は『ブルーローズ・ネクサス』、『深淵 第二版』(ともにエンターブレイン)、『真・女神転生TRPG 魔都東京200X』(ジャイブ)など。TRPG以外の著作に『クトゥルフ神話ガイドブック』、『超古代文明』など(すべて新紀元社)。
 (『シャドウラン4th Editionリプレイ 旅する天使たち』新紀元社、2010より)


※12/04/13編者付記:
 朱鷺田祐介さまによる『エクリプス・フェイズ』紹介はまだまだ続きますが、Analog Game Studiesに転載させていただく内容については、本記事で一段落とさせていただきます。続きは、朱鷺田祐介さまのブログ「黒い森の祠」の関連エントリをご覧ください。
http://suzakugames.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/eclipse-phasebl.html

ファイアウォールへようこそ:エクリプス・フェイズ紹介(その5)


ファイアウォールへようこそ:エクリプス・フェイズ紹介(その5)

 朱鷺田祐介

当ブログAnalog Game Studies(AGS)は『エクリプス・フェイズ』(または『イクリプス・フェイズ』)公式サイト(Homepage | Eclipse Phase)で承認されているファンサイト(Fan Websites)の一つです( http://eclipsephase.com/resources )。


第4回はこちらで読めます。


 「エクリプス・フェイズ」の紹介その5は、Repの話。

 この連載は、7/30の「Eclipse Phase体験会@R&Rステーション」でGMするための、復習的なものです。7/16-18の北海道遠征@多彩の渦コンベンションにも持ち込む予定なので、夜の部あたりで遊べればと思っております。という訳で出かける前に更新(編注:本稿は朱鷺田祐介氏のウェブログ「黒い森の祠」からの転載であるため、初出時の時事的内容については、再掲の際にずれが生じる場合があります。あらかじめご了承ください)。

●Rep経済

 「エクリプス・フェイズ」は、未来を舞台にしたSF-RPGなので、太陽系開拓時代にあるだろう、さまざまな政治形態、経済構造、社会構造なども、テーマになっており、場所によってさまざまな体制があります。

 例えば、お金の話。
 「エクリプス・フェイズ」の太陽系では、貨幣(クレジットという貨幣単位があります)および貨幣的な信用をベースにした旧経済、相互補助の精神と行動評価を経済レベルまで高めた新経済、双方の過渡期である過渡期経済が用いられています。

 新経済では、Rep(レプ=評判)という、なかばボランタリーな社会貢献を、数値化し、これを使って他人から有形無形の好意を得ることができます。普段から、色々な貢献を社会に対して行っている人は、他の人々から助けてもらえるというもので、人徳や業績の評判数値化というべきものです。Repはいくつかの系統に分かれていますが、基本的に、太陽系全土のメッシュ(いわゆるネット)で共有されており、ゲーム中、PCは、このRepを使って、さまざまな支援を調達できます。

 例えば、ハビタット内での情報がほしい時、Repを使って道案内情報を得たり、一夜の宿を借りたりもできます。高いRepの人は、初めていった場所ですら、かなり危険な部分での手伝いが得られるかもしれません。

 Repは以下の系統に分かれます。

【REP】
ジ・@リスト (@-rep:アナーキスト、バルスーム、外惑星、スカム、タイタン):
市民ネット (c-rep:木星共和国、月=ラグランジュ連盟、モーニングスター・コンステレーション、惑星連合、ハイパーコープ):
エコ・ウェ-ブ (e-rep:ナノエコロジスト、保存主義者、地球奪還派):
フェイム (f-rep:名士、芸術家、豪遊家、メディア):
グアンジー (g-rep:三合会他、無数の犯罪組織):
ジ・アイ (i-rep:ファイアウォール):
RNA (r-rep:アルゴノーツ、工学者、科学者、研究者):

 これは、新たな経済体制に関する思考実験ですが、すでに皆さんも、2011年現在、ネット上の評判、あるいは、Twitterのフォロワー数(別名、戦闘力)などで「Rep」の形成過程を目撃されているはずです。

 >>>先日、これに対して、米軍がネット上のペルソナを大量に偽造するソフトウェアを開発しているというニュースもありましたね。>>>

 Repはゲーム的にも便利なものです。
 なぜなら、「評判」がそのまま経済力になりますから、PCの情報収集能力や資材調達能力をRepで表現でき、さらに、この新経済環境下では、初めていった場所でも、Repを使って、物資や支援の調達ができるのです。

 ヒーロー物などで、突然、手助けしてくれる人がいますが、そういう面をこれで表現できる訳です。

 そして、Repは評判ですから、それまでの行動が反映されます。キャラクター表現にも通じますし、キャンペーンでは、背景の勢力との関係をRepの変化で表現できます。


朱鷺田祐介(ときた・ゆうすけ)
 TRPGデザイナー、ライター。スザク・ゲームズ代表。『シャドウラン4th Edition』の翻訳をシャドウランナーズとともに務める。代表作は『ブルーローズ・ネクサス』、『深淵 第二版』(ともにエンターブレイン)、『真・女神転生TRPG 魔都東京200X』(ジャイブ)など。TRPG以外の著作に『クトゥルフ神話ガイドブック』、『超古代文明』など(すべて新紀元社)。
 (『シャドウラン4th Editionリプレイ 旅する天使たち』新紀元社、2010より)